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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

悪人正機と台風2号

今日は、訳あって、浄土真宗の開祖「親鸞」の思想に触れてみたいと思います。(^。^)

親鸞の残した著作で有名なのは、「教行信証」と「歎異抄」でしょうか。(^-^)

以下、ネットより引用。

教行信証は、阿弥陀仏の絶対他力を論じ、まず浄土に往生する往相も、浄土よりこの土に帰って世の人に救いを与える還相も、ともに仏の本願力の回向によると断じた。真実の信心による浄土往来の正因を説き、悟りの果としての真実の仏とその浄土に真と化があるとし、化身土にも仏の救いがあることを示した。浄土真宗においては立教開宗の書とされる。

歎異抄の作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものである。

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さて、親鸞の思想の中で、誤解を含めて広く知られているのが、「悪人正機説」です。(^_^)

「悪人正機」の思想を表す「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」というフレーズを聞いたことがある人もいるのではないでしょうか?

この言葉は「親鸞」の弟子の唯円が書いた『歎異抄』の言葉ですが、一見しただけでは真の意味がとらえにくい言葉です。

悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象なのだと説く「悪人正機」は、阿弥陀仏の本願の真の意図を理解しないと理解が難しく、一般的な道徳基準の上では誤解されることの多い思想です。

親鸞の主著である『教行信証』や『歎異抄』には、「悪人」への言及が繰り返し出てきます。
そこで説かれる悪人は、一般的な概念であるところの、倫理・道徳を逸脱した行為を行う人ではなく、「すべての人間の本質」を表しています。

つまり、「善人でさえ浄土へ生まれることができる、ましてや悪人はなおさらである」の真の意味とは、「他力をたのむ心が欠けている作善の人でさえ浄土へ生まれることができるのだから、自力では救われないことを悟った穢悪汚染の人間が、他力をたのめば往生できるのは当然である」ということになります。

この思想の根底には親鸞の「他力本願」の教えがあります。他力本願とは、「南無阿弥陀仏」という念仏によってしか人は救われないとする、親鸞が一生をかけて広め続けた阿弥陀如来にすべてを任せきるという生き方の思想です。

親鸞は、煩悩にまみれた人間や無常の世界はすべてそらごとで、そこに真実はなく、ただ念仏のみが真実であるといい、また、傲慢な思いに気づかずに善を励む人を阿弥陀の本願ではないといい、人々の常識を覆しました。

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冒頭に、「訳あって」と示したのは、連続する「凶悪な犯罪」に「日本社会の変貌ぶり」を案じたことからです。m(__)m

長野県の猟銃殺人事件、町田駅での発砲殺人事件、銀座の白昼強盗事件など、このところの犯罪は、完全に常軌を逸した、一方的な動機によるものばかりだと感じ入ります。( ; _ ; )/~~~

当然ですが、奴らは、親鸞の説く「悪人」であるはずもなく、いわゆる「鬼畜」「極道」「悪党」に貶めるべき存在です。阿弥陀仏も見捨てるべき輩たちですよね。(T . T)

折から、台風2号が沖縄地方に近づいています。季節外れの大型台風で、列島各地は大荒れの予報。皆さん、充分に気をつけましょう。( ^_^)/~~~

「悪党や野分の如き殺人鬼」 祖谷馬関

(注)野分は秋の季語。野の草を吹き分けて通る秋の強い風のこと。主に台風のもたらす風をさす。地方によっては「やまじ」「おしあな」などと呼ぶところもある。『枕草子』(百八十八段)では「野分のまたの日こそ、いみじうあはれにをかしけれ」とあり、野分の翌日はしみじみとした趣があるとする。
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