探訪・日本の心と精神世界

日本文化とそのルーツ、精神世界を探る旅
深層心理学・精神世界・政治経済分野の書評
クイズで学ぶ歴史、英語の名言‥‥‥

脳内現象:批判的考察④

2015-04-07 18:22:06 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★認識論モデル
《まとめ》意識の中で感じられる世界は、〈私〉に中心化されている。物質の質量は、視点を特定することなくその存在を論じることができる絶対的な存在だが、クオリアは、それを感じる〈私〉という視点に相対的にしか成立しない。すなわちマッハの原理からクオリアに満ちた意識が生み出されるモデルは、存在論的というよりは認識論的でなければならない。

オリジナルのマッハの原理では、各粒子の関係性からそれぞれの質量が決定される際、ある特定の視点を仮定する必要はなかつた。どんな立場から見ても質量は質量であるような、「公共性」を帯びたものであった。

一方、クオリアに満ちた意識が生み出される過程には、このような公共性がない。〈私〉が感じる赤のクオリアは、あくまでも〈私〉という主観にとって赤のクオリアなのであり、第三者にとってはそうではない。〈私〉の脳内の神経細胞の活動は、〈私〉だけに様々なクオリアをもたらすのであつて、脳の外からそれを客観的に観察している第三者にとっては、そこにクオリアは存在しない。あくまでも、〈私〉という脳の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」に特化した私秘的なもの、すなわち、存在論的ではなく、認識論的なものとして成り立っているのである。

★ホムンクルスの必然性
《まとめ》 問題の本質が認識論的だとことは、神経細胞の相互関係性からクオリアが生み出されるにしても、その関係性を見渡すのは誰かという問題が生じるというこということである。神経細胞の活動の関係性が把握され、獲得されるプロセスは何か? という問題が生じるということである。ここに、マッハの原理から意識の起源を説明する筋道において、ホムンクルスの成立を議論しなければならない論理的必然が生じる。

何かがある形で存在しているという「存在論」と、何かが認識されるという「認識論」の関係をどのように考えるかは、掛け値なしに難しい問題である。
(187から188)

★存在論と認識論
もし、「存在論的」と「認識論的」という用語を使うなら、「存在論」で「認識論」を説明し尽くすことの原理的な難しさがここで問題にされていることになる。物理・化学的な過程をいくら分析しても「主観性」を前提とした認識問題について何も語ったことにはならないだろうし、何も解決はしないだろう。従来の科学の方法で物質過程を分析することで、主観性そのもの、ホムンクルスそのものを説明することは原理的に不可能なのだ。

「存在論」と、「認識論」の関係をどのように考えるかは、難しい問題であるだけなく、すでに科学の領域を踏み出し、哲学の領域に踏み込んでいる。従来の物質主義的な世界観に留まるかぎり、この関係を語る道はありえない。科学そのものが、自己理解を新ためて変貌していかないかぎり、科学の側からこの問題を解決することは不可能であろう。茂木の試みは、この不可能を可能にしていると言えるのだろうか。さらに茂木の論議を追いたい。

脳内現象:批判的考察③

2015-04-07 18:07:09 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★学的ゾンビの可能性
《まとめ》私たちの意識体験の実相に即して考えるなら、そこに現れるのは、〈私〉という核に中心化された形で各領域の神経細胞の活動を見渡している「小さな神の視点」であり、その主体としてのホムンクルスだ。このような意識が成立していることは否定できない。

しかし、〈私〉たるホムンクルスが脳内活動を「見渡している」という認識論のメタファーを用いている限り、つまり従来の存在論と認識論の枠組みの中で考えている限り、「それと全く同じ物質過程が、何らかの意識体験もともなわない、単なる哲学的ゾンビとして起こってもよかったのではないか、なぜそうなっていないのか」という問いに答えられない。

意識のなぞを解決するためには、「小さな神の視点」を事実として認めた上で、従来の存在論と認識論の枠組みを超えた議論の方向性を提示する必要がある。(110)

★認識論と存在論
ここで茂木は、認識論と存在論という言葉で語っているが、これは主観性と客観性という区分に対応するだろう。体験の主体としての〈私〉の存在を認めざるを得ないとした上で、「それと全く同じ物質過程が、何らかの意識体験もともなわない、単なる哲学的ゾンビとして起こってもよかったのではないか、なぜそうなっていないのか」という問題に言及する。

つまり、体験の主体、認識の核たる主観という不思議を認めた上で、主観性など必要なく、すべては客観的な物質過程でこと足りたはずだ(哲学的ゾンビ)という科学からの問題提起を受けて立とうと言っているのだ。

科学が科学である以上、すべてを客観的な物質過程で説明し尽くそうとするだろう。繰り返すが、主観性などというやっかいなものを説明する原理を、そもそも科学はもっていない。それを意識的に排除することで科学は成立したからだ。

では、存在論と認識論の枠組みを超えた議論の方向性は、どのように提示されるのだろうか。もし、それが説得力のある形でなされるなら、それは従来の科学のあり方への重大な挑戦となるであろう。

★クオリアの集合としての〈私〉?
《まとめ》1997年刊行の『脳とクオリア』で茂木が考えていたのは、およそ次のようなことだった。意識のなかで「これ」と把握されるものは、すべてクオリアである。すなわち意識のなかで把握されるものの単位がクオリアである。それゆれ、私たちの意識はクオリアのかたまりとして捉えることができる。脳内で1000億の神経細胞が活動し、それぞれがシナプス結合を解して一万の神経細胞と様々な関係を結ぶことによって、マッハの原理(関係性に基づいて属性が生まれるという考え方)に基づきクオリアが生み出され、そのようなクオリアの集合として、〈私〉の意識が成り立つ。つまり〈私〉とは、その時々に生み出されているクオリアの集合である。それを図式化すると次のようになる。

神経細胞の関係→クオリア→(クオリアの集合としての)〈私〉

★クオリアと〈私〉
茂木が、このモデルの欠陥に気づいたのは、「両眼視野闘争」という現象を観察してからだという。今、その説明は省くが、要は「何もないところにまずクオリアが生み出され、そのようなクオリアの集合が〈私〉を定義するのではなく、そもそもクオリアはそれを感じる〈私〉とセットになっているということである」。ある特定のクオリアを生み出すような神経細胞の関係性がたとえ生じたとしても、それが〈私〉に見える形で接続しなければ、〈私〉はそれを感じることはできない、ということである。(180から182)

★私がクオリアを‥‥

「クオリアの集合が〈私〉を定義するのではなく、そもそもクオリアはそれを感じる〈私〉とセットになっているということである」という茂木の認識はまさしくそのとおりだと思う。

『心を生み出す脳のシステム』へのコメントでも書いたが、クオリアとは、結局、主観にどう感じられるかという問題なのだ。主観を前提としないクオリアなどありえない。

だから『心を生み出す脳のシステム』で茂木が、『「私」とは、「私」の心の中に生まれては消えるクオリアの塊のことだとも言える』と表現したが、これは言い方として正確ではない。まさしく、これは『脳内現象』で茂木が乗り越えようとしている図式そのものだ。「私」という主観性がなければ、クオリアはそもそも感じられないのだ。

クオリアの問題の難しさは、脳という物理的・化学的な過程になぜ主観性が出現するのか、という問題の難しさと等価だ。

では、このような認識の上にたって、茂木はどのような解決案を提案するつもりなのだろうか。さらに追ってみよう。

脳内現象:批判的考察②

2015-04-07 17:07:01 | 書評:科学と心と精神世界
◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★脳内の小さな神の視点:『脳内現象』茂木健一郎3
《まとめ》主観的な空間体験は、大脳皮質の視覚野を中心とする神経細胞によってつくり出されている。そのような神経細胞の活動を「見渡す」ことができる形で、〈私〉という脳内現象が立ち上がることこそが驚異なのだ。

〈私〉が、意識の中で様々なクオリアを感じるということは、すなわち、自分の脳内の神経活動を〈私〉が見渡し、観察しているということだ。〈私〉がバラのクオリアを感じるためには、1000億の細胞がそれぞれ一万通りの組み合わせで結びあう、その無限ともいえる数の活動を「何か」が一瞬にして見渡せなければならない。

〈私〉は、神経細胞の活動を自ら見渡す「小さな神の視点」として成立しているのだ。それを一体「誰が」、「どのような主体が」見渡すのか。この「小さな神の視点」がどのように成立するのかは、とつもない難問題であり、もちろん現時点では未解明である。

★乗り越えは可能か
ここに〈私〉という体験主体の不思議さが根源的な形で語られている。神経細胞の活動を自ら見渡す「小さな神の視点」を特定の神経細胞やそれらのネットワークに還元して説明することはできない。茂木は、少なくとも今のところはできていないと考えている。

しかし、「小さな神の視点」と脳の無数の神経細胞の活動との間には、乗り越え不可能な原理的な違い、次元の違いがあるのではないか。その原理的な差異を明確にすることこそが、まず第一に求められることだ。

茂木のように、〈私〉を脳内の神経細胞の活動とその関係によって説明しようとする野心を持ち続けるにしても、茂木のいう「驚異」がどのような差異に基づいてのことなのか、それを明らかにすることは非常に大切なことである。それを明らかにすることで問題の本質が見えてくるからだ。

『脳内現象』では、次の第2章を「ホムンクルスを取り戻せ」とし、〈私〉の視点の大切さをさらに強調している。それを見ながら、私も考えていきたい。

★脳の中の小人、ホムンクルスの復権
《まとめ》〈私〉があるクオリアを感じている時、そこで起こっていることは、〈私〉と仮に名づける何らかのプロセスが、そのクオリアを生み出す神経細胞の活動の関係性を見渡している、ということである。クオリアを感じる主体的体験のありようを素直に脳にあてはめれば、脳の各領域を観察するホムンクルスを想定することは、自然な発想である。実際に私たちは、ホムンクルスがいるかのごとき意識の体験をしていることは否定できない。

もちろん、今日、脳のどこにもホムンクルスが隠れていると信じるものはいない。脳の中に特別な領域があって、そこが他の領域の活動をモニターしているわけではない。では、どのようにして、様々なクオリアを同時並列的に感じている〈私〉という意識が生まれるか。ホムンクルスがいるかのごとき意識体験は、いかに生じるのか。(54・55)

意識を生み出すのは、脳内の神経細胞の関係性意外にありえない。1000億の神経細胞の相互関係から、あたかもホムンクルスが「小さな神の視点」をもって脳内を見渡しているかのような意識が生み出される、そのメカニズムを解き明かすことが、脳のシステム論の究極の目的である。(67)

★差異の認識
以上からも分かるように、茂木はあくまでも神経細胞の相互作用から〈私〉という意識が生み出されるメカニズムを解き明かすという野心を捨てていない。

しかし、神経細胞の関係性は、いくら精緻に関係性のネットワークを解明したにせよ、所詮はニューロン相互の物質的な過程にすぎない。そこから〈私〉の主体的な体験を説明するには、どこかで原理的な飛躍をする必要がある。

モニターのメカニズムをいくら解明したところで、それを見ているホムンクルスの「見る」という体験を説明したことにはならない。モニターのメカニズムと、モニターを「見る」行為との間には、その説明原理に根本的な差異がある。その違いをまずは認識してこそ、その溝を乗り越えるための、あるいは乗り越えないで他の方法をまさぐるための、本当に意味のある努力がはじまるはずだ。

脳内現象:批判的考察①

2015-04-07 16:51:50 | 書評:科学と心と精神世界

◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

《まとめ》物質的過程である脳内の活動から、いかにして主観的・唯我論的な意識が生まれてくるのか。唯我論的発想と従来の科学的発想の限界をふまえ、この難問を解くための新理論を探る。素朴な唯我論にも陥らず、数量化できるものだけで構成された客観的な科学的世界観に安住することもなく、暗黙の前提を徹底的に考え直すことで、物質である脳に意識が宿る不思議さを解き明かしたい。12~15

こうした問題意識をもって進むとすれば、従来の物質科学の枠組みそのものを切り崩していくほかないだろう。「新理論」は、従来の科学の領域のなかのものではなく、その前提を切り崩したとことにしか生まれないだろう。著者は、そこまで突き進む覚悟ができたのだろうか。

《まとめ》心と脳の関係を問うのが難しいのは、問題の本質が、通常の科学が前提にしている「事実それ自体」(説明される必要のない事実)に属するからだ。私たちが、世界を空間として体験するのは当たり前のことだが、その当たり前を問うことによってしか意識のなぞは解明できない。近代科学は、多くのことについて懐疑的な態度をとりながら、〈私〉という不思議を無視してきた。客観的な世界を解明する科学の根本に、〈私〉という主観性がブラックボックスのまま隠されている。意識の科学は、この隠蔽された〈私〉の起源を問うこと、近代科学の出自を問い直すことである。(37・38)

◆科学の前提を問う
晩年のフッサールは、『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』(1936)において、科学的世界の根底にある生きられる世界を探求し、学の真の意味での基礎付けを試みようとした。

この生きられた世界、生活世界こそが、茂木のいうクオリアの世界、〈私〉という主観性が体験するなまなましい世界なのである。科学によって隠蔽された生活世界に立ち返ることことで科学の起源を明らかにすることがフッサールの課題だったとすれば、それは、ここで茂木が提出している問いと何と似ていることだろうか。

もちろん茂木は、科学の出自・起源を問うと同時に、〈私〉の起源を問うているのである。むしろ、そちらがメインであろう。フッサールの用語でいれば「生活世界」は、いかにして成立するかを、科学の側から説明できないかと問うているのである。ここにフッサールとの違いがある。

しかし、茂木も気づいているように、〈私〉は、科学が科学として自立するためにこそ、故意に忘れ去ったものである。だからこそ、それを問うためには、科学そのものの前提を問い直さなければならないのである。

心を生み出す脳のシステム:再考⑥

2015-04-07 16:36:05 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より


《まとめ》本書では、私たちが主観的に体験する心的状態は、全てクオリアだという立場をとる。こうした概念の拡張は、意識という現象を統一的に説明する上で意義がある。

クオリアには、感覚的クオリアと、志向的クオリアがある。

感覚的クオリアとは、たとえば「赤い色の質感」のクオリアであり、視覚で言えば、色、透明感、金属光沢など、外界の性質が鮮明で具体的な形で感じられるときの質感である。「薔薇」をそれと認識する前の、視野の中に拡がる色やテクスチャ(きめ)などであり、言語化される以前の原始的な質感のことだ。

一方、視野の中の「薔薇」を構成する感覚的クオリアを、「ああ、これは薔薇だ」と認識する時に心の中に立ち上がる質感が志向的クオリアである。換言すれば、言語的、社会的文脈の下におかれた質感ということになる。

私たちの心の持つ、「何かに向けられている」という基本的な性質を「志向性」と呼ぶ。「私が○○を感じる」という主観性の構造は、まさに、私たちの心のもつ志向性そのものである。そして、志向的クオリアは、「私」という主観性の本質と密接な関係を持っている。(46~49)

◆根源的な志向性
まずここで問題を感じるのは、意識という現象を統一的に説明するのにクオリアという概念が適切かどうかだ。

一方で、感覚的クオリアと志向的クオリアを分けているが、志向性は、すべての意識現象に当てはまる根源的な性質であり、「言語化される以前の原始的な質感」も、志向的な現象であることに変わりない。だから、こうした区別は誤解を招きやすいということ。

志向性が根源的な性質であるのは、人間を含めた生物が生きるという目的をもって世界に向かっているからである。生物が生きるという目的をもって行動しているからこそ、外的な環境は生物によって価値づけられ一定の意味を付与される。生物が、外的な環境に自らを差し出し、それらを価値付け意味づけることこそが、志向性と呼ばれる生物的な機能である。

われわれは、世界内に存在して生命のもつこの志向性によって世界に向かっていくことを止めない。それによって「われわれは意味への宿命づけられている」(メルロ=ポンティ)。

この根源的な志向性によって、人間が知覚するものは、つねに一定の「意図ないし志向」を帯び、一定の「狙い」をもつ。この時に志向され、意図されているものが「意味」である。

茂木が、感覚的クオリアと、志向的クオリアとに分けたものは、どちらもこの根源的な志向性を基盤として成り立っている。だから「意識という現象を統一的に説明する」ことを意図するなら、クオリアという元来狭い概念を使用するのではなく、志向性や意味の概念を用いた方がよいと思う。

ともあれ、志向性という概念の根本には、生物が自らを生命を維持しようとする目的という観点が含まれているのだ。そして脳の物理・化学的な過程をいくら解明したところで、生物の目的論的な機能は、説明できない。それと同じ理由で、志向性という主観性の根本的な特性を説明することもできない。

しかし以上は、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないことの理由としては、副次的なものにすぎない。より根源的な理由を明確にできるはずなのだが、それは、もう少し茂木の議論を追いながら、考えていきたい。

心と脳の正体に迫る

2015-04-06 10:05:22 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心と脳の正体に迫る 成長・進化する意識、遍在する知性』天外伺朗・瀬名秀明(PHP、2005年)

ロボット・AIBOの開拓責任者であり、『宇宙の根っこにつながる生き方』などの著者がある天外伺朗と『パラサイド・イブ』『BRAIN VALLY』などホラー・SF小説で著名な瀬名秀明との対談。主な章のタイトルを見ると、「意識は進化・成長する」「神秘体験と意識の変容」「意識の成長・進化と瞑想」「臨死体験と精神変容」など、私の関心領域とぴったりと重なる部分も多い。とくに「臨死体験と精神の変容」は、『臨死体験研究読本』のテーマそのものである。

で、読んでの感想は、私自身の関心がこうしたやや理論的な探求よりも求道や修行そのものに移ってしまっているので、以前ほどに興味は湧かない。天外の説で非常に共鳴できる部分もあったが、「臨死体験と精神の変容」の部分などは、どちらかというと脳内現象説派であり、納得できない部分も多い。とくに瀬名は、上記の私の本も読んでおり本人のサイトにコメントも入れているが、なぜ臨死体験者が精神の変容を起こすのかについて、私が上の本で展開した議論に応え得るような議論はしていない。

しかし、全体としては、科学が「心・脳・意識」そして精神世界の問題に接触していくぎりぎりの領域を、広い視野から論じており、興味深い。

天外の考え方で共感できるのは、「あの世」を時間・空間が定義できない世界だとする点である。死んではじめて「あの世」に行くという考え方は間違いで、生きているときにも「あの世」に存在しているという捉え方である。「この世」と「あの世」は同時に存在している。私たちが、「自我」に執着して生きている限り、時間・空間の世界にどっぷりと浸かって生きている。執着がなくなると、たとえ死なずともそこに「あの世」つまり、「永遠の世界」が出現する。それは、時間がずっと続く世界ではなく、時空を超えた世界である。般若心経の中の不生不滅、不増不減とは、そういう世界のことを指す。それは、まさに悟りの世界であろう。

上のような考え方は、最近私にとってほとんど確信に近くなっている。悟ったからではない。相変わらず「自我」には執着しているが、「自我」に関係する一切を失ったとき、そこに何か開けるのかは、分かるような気がする。不生不滅の世界が私たちの存在に背後に開けている、ということが分かるような気がする。

臨死体験者の多くが、体験後に精神的な変容を遂げるのは、「永遠の世界」に触れるからである。光の存在やその他のヴィジョンは、何かしらこの「永遠の世界」に関係する。

にもかかわらず天外は、「結論として臨死体験は幻覚の可能性が高いと思う」と言う。死ぬ時の自己防衛本能である種の「脳内麻薬」が分泌され、LSDと同じような幻覚作用を起こすのだという。結局、天下は、「あの世」を時空を超えた世界と捉えながら、臨死体験における「悟り」と、時空を超えた「あの世」観とを、本質的な意味で結びつけるという発想には至っていないようだ。

しかし、この本を読んで私も再び、臨死体験と精神変容の問題への関心が高まった。臨死体験の本を書いた頃よりは、また少し深い視点から、考えることができしそうな気もする。

心を生みだす脳のシステム:再考⑤

2015-04-06 09:47:37 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より;脳の中のホムンクルス(小人)

《まとめ》「私」という視点が成立するメカニズムの、もっともナイーヴなモデルは、脳の中に小人(ホムンクルス)がいて、脳の中のニューロン活動をモニターしているというものである。現在では、脳の中にホムンクルスがいると信じる脳科学者はいない。

しかし、脳のある特定の領域に「自我」の中枢があり、他の脳の領域の活動がここに伝播されると「私」にそれが感じられるというようなモデルがあるとすれば、それは、暗黙のうちにホムンルクスの存在を仮定するといえよう。

そのような説明で脳全体に宿る主観性の構造を説明したとしても、今度は、脳の特定の領域のニューロン活動によって支えられるであろうホムンクルスの主観性自体がどのようにして生まれたのか、その起源を明らかにするという新たな問題が生じる。つまりホムンクルスに基づくモデルは、無限後退に陥ってしまう。(46)

◆非物質的なホムンクルス?
「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という茂木の率直な告白から、一歩進めて、ニューロンの物理・化学的な過程から主観性を説明することは、原理的に不可能なのだと認めたらどうなるだろうか。

それは非物質的なホムンルクスの存在を認めることになる。「脳のある特定の領域に「自我」の中枢がある」ともせず、したがって、その中枢を特定することもしない。

とすれば、ホムンルクスを、脳の特定の領域のニューロン活動として説明する必要はなくなるから、「無限後退」に陥る必然性はなくなる。

つまり、まったく別の説明原理を導入すると、脳と主観性に関する難問は、違った照明の下で、違った姿で見え始める。クオリア、主観性、心という問題には、物理・化学的な原理では説明し尽くされない次元が含まれるということを勇気をもって認めるということだ。

しかし、そのためには、物理・化学的な過程によって主観性の根本的な特性を説明することができないということを、原理として説明する必要がある。
 
今の私の考えでは、主観性を根本的な特性を説明するためには、目的論的な説明原理を持ち込まなければならないはずで、物理・化学的な説明原理からは、目的論的な説明原理を導き出せないということが、しっかりと論証できればよいのではないか。

基本的に「主観性」とは、世界を、生命維持という「目的」のために、意味的な統一として把握する機能だからである。

ところで、ホムンクルスについては、茂木の他の著書『脳内現象 (NHKブックス)』では若干違った解釈、違った視野のもとで論じられている。これもいずれ触れることになるだろう。

心を生み出す脳のシステム:再考④

2015-04-06 09:43:11 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より

《まとめ》
クオリア問題は、意識や心を問題にするうえで本質的であるが、では意識の問題は、クオリアの問題に尽きるのか。

例えば「自己意識」の問題は? 世界の中に「私」という視点があり、私が私であると感じられ、私が、他の誰でもない、まさにこの「私」であることの不思議さは、クオリアとどのようにかかわるのか。

クオリアは、客観的に存在する物質のように、それ自体としてあるのではなく、必ず「私が○○のクオリアを感じる」という形で表象される。「赤のクオリア」が単独に存在するのではなく、「私が赤のクオリアを感じる」というように、「私」という視点と対になって成立する。

つまり、クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論は、必ず「私が○○を感じる」という自己の成立の構造をも説明する理論でなくてはならない。このように考えることは、脳をシステムとして考察する方向につながる。実際、脳のシステム論とは、脳の中で進行している様々な感覚情報、運動情報の処理のプロセスがいかにして「私」という形で統合されるか、という問題だとも言える。(43~45)

◆痛みと主観性
ここで私は、「自己意識」、「私」意識の問題と、主観性の問題とを区別して論じる必要があると思う。例えば痛みとは主観的なものである。ある主観がそれを感じた限りで「痛み」となる。生理的な痛みにつながるニューロンのどのような活動を解明したからと言って、感じる主観がなければ痛みはない。失恋を失恋と感じる主観がなければ、「失恋の痛み」もないのと同じである。ただし失恋の痛みの場合は、失恋した私という「自己意識」が伴う。

逆に言えば、肉体の「痛み」は、失恋と違い「自己意識」を伴う必要はない。私たちは、犬や猫も「痛み」を感じていることが分かる。しかし「痛み」は、必ず「誰か」(人)や、「何か」(生物)にとっての「痛み」であり、それを感じる主観性がなけれは、そもそも「痛み」は成立しない。痛みも、主観に感じとられるクオリアなのだが、必ずしも「自己意識」を伴う必要はないのである。

だから、「クオリアが、脳の中のニューロン活動からどのようにして生まれるかを説明する理論」は、「自己の成立の構造をも説明する理論」である以前に主観性の成立構造を説明する理論でなければならない。

「痛み」は、いかにしてニューロン相互の物理・化学的過程であることを超えて「主観」に感じ取られる「痛み」になるのか。

そして「痛み」その他いっさいのクオリアを感じる中心としての「主観」は、客観的な過程のなかにそもそも位置づけることが出来るのか。それが問われるべき大前提なのである。

心を生みだす脳のシステム:再考③

2015-04-06 09:37:46 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』より:クオリアと主観 

《まとめ》私たちが知覚する世界の特徴は、それがさまざまな質感(クオリア)に満ちているということだ。目覚めている限り、私たちの心の中にはクオリアが溢れている。「私」とは、「私」の心の中に生まれては消えるクオリアの塊のことだとも言える。

クオリアが、物質である脳の中のニューロンの活動からどのようにしてうまれるのかという問題は「難問」とされ、意識とは何かに答える上で最大の鍵と言われる。

脳の中で起こる物理的・化学的過程は、全て数量化できる。しかし、脳のニューロン活動は、私たちの心を生み出す。主観的体験を生み出す。主観的体験は、さまざまなクオリアに満ちている。このクオリアは、数量化を拒絶する。

私たちの心の中には、ほとんど構造化が不可能に思われるユニークな質感の世界が広がっている。こられ全てのクオリアが、それ自体は物理的現象として数量化可能なニューロン活動によって生み出されている。これは、まさに驚異だ。

物理・化学的にいくら脳を詳細に記述してみても、例えば、私が現に感じている「赤」という色の生々しさ、それがニューロン活動によって引き起こされているということの驚異自体には、全くたどりつけない。(39~42)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ここで問題にしたいのは、「主観的体験は、さまざまなクオリアに満ちている」という捉え方だ。クオリアとは、結局、主観にどう感じられるかという問題なのだ。主観を前提としないクオリアなどありえない。クオリア的な体験こそが主観的体験なのだ。

さらに言えば、『「私」とは、「私」の心の中に生まれては消えるクオリアの塊のことだとも言える』という言い方は正確ではない。「私」という主観性がなければ、クオリアはそもそも感じられないのだから。


だから、「クオリアが、物質である脳の中のニューロンの活動からどのようにしてうまれるのか」という「難問」の根本には、物質である脳の中のニューロンの活動からどのようにして主観性が生まれるのかという問題が横たわっているはずだ。

そして私には、脳の物理・化学的過程をどのようにほじくり回したところで、主観性が生まれてくるメカニズムを解明することなど出来ないと思われる。クオリアに満ちた主観的な体験は、脳の物理・化学的過程とはまったく異質な説明原理の上に成り立っているのだ。それは、失恋した時の、脳の物理・化学的過程をどれほと解明できたにせよ、私にとっての失恋の痛みや悲しみを説明したことにならないし、それが理解されたことにならないのと同じである。臨死体験や至高体験、覚醒も、それが主観にとってのクオリアとして体験される以上、脳の物理・化学的なメカニズムを超え出てしまう次元をつねに含んでいるのである。

付け加えるなら、近代科学のパラダイムそのもの変換が必要なほどに、この問題は根源的なのである。そしてそのような変換を示唆するような主張は随所に現れはじめている。ただそれは、体制的な科学の側からは無視されているに過ぎない。

心を生みだす脳のシステム:再考②

2015-04-06 09:34:16 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』をめぐって

「現代の科学的世界観を前提にすれば、神経活動といえども、やはり一つの物質的現象に過ぎない。なぜ、神経細胞が活動すると、そこに主観的体験が生まれるのか――その必然性を、現時点で「科学的」根拠から説明することはできない。実際、私たちが意識を持つ存在であることは、物理学を一つの典型とする科学的世界観からすればあまりにも奇妙な事実なのである。」

「私たちが意識を持つという事実をいかに説明するかということは、今日の科学にとって最大の課題の一つである。脳科学の進展にもかかわらず、そもそも、神経活動に伴ってなぜ意識がうまれなければならないのか、その第一原理は未だ明らかにされていない。」

これは実は、『心を生みだす脳のシステム』のなかにある文ではなく、『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』の監訳者あとがきでの茂木の文章である(254・255)。しかし、彼の一貫した問題意識が鮮明に出ている。

意識の存在が、典型的な科学的な世界観からすればあまりに奇妙な事実なのだとすれば、科学的な世界観の延長線上でそれを説明しようとするのではなく、その世界観そのものを疑ってみればいいのに、と私は思うのだが。

「現時点では、私たちの意識がニューロンの活動からいかに生み出されるかについて、確実に言えることはとても少ない。ただ、一つだけ確実なのは、私たちの意識が、脳のニューロンのネットワーク全体のシステム論的性質から生み出されているということである。」(『心を生みだす‥‥』26)
 
しかし、ニューロンのネットワークといえども、物質的な現象の集まりであることには変わりない。物質的な現象の集合から、どうして非物質的な意識が立ち現われるのかを脳の科学はまったく説明できない。

科学的な世界観は、方法論上、意識という非物質的な存在を認めないのだから、科学的な世界観そものが変わらない以上、この問題は解けないのではないか。これは、非常に明白なことのような気がするのだが。
 
なぜ意識問題、クオリア問題が従来の科学的世界観では解決不可能なのか、意識というものの根本的な特性にさかのぼって考える必要があるだろう。これは、私自身の課題であるが。

心を生み出す脳のシステム:再考①

2015-04-06 09:30:58 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)』(茂木健一郎)をめぐって

この本の基本的な主張は、「心を生み出す脳のシステムは、単純な機能局在説では理解できない」こと、「生化学的な知見や機能局在は、脳というシステムの、いわば断面図に過ぎない。断面図をいくら集めても、私たちの心を生み出す生きた本質はには迫れない」ということである。

一方では、「心を生み出すのは、脳全体にまたがって、1000億のニューロンが作り上げる、複雑で豊かな関係性である。つまり、心を生み出すのは、脳というシステムなのだ」として、脳が心を生み出すとはっきりと断言する。

前書きで、そう断言しながら、最後には、著者は、実は「ニューロンを一つ一つ集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」と告白するのである。

タイトルやまえがきの勇ましさにくらべると、最後の弱腰の言葉には、明らかなギャップがあって、その落差の大きさにちょっとびっくりする。最近の脳の科学の成果を読むことは刺激に満ちていたけれど、筆者は、およそ困難な課題に取り組んで、最後に弱音を吐いているような気もする。

私たちは、みなそれぞれ主観的な体験をもっている。「朝の空気のすがすがしさ、午後のけだるさ、ビールの最初の一杯の爽快さ‥‥‥これらの主観的体験に満ちた意識は、一体どのようにして生じるのか。この問題は、私たち人類に残された最大の謎と言ってもよいだろう。」(18) 
 注:( )内の数字は本のページを示す。以下同様。

この問題は、「物質に過ぎない脳のニューロン活動から、いかにして薔薇を見ている時の生々しいクオリア」が生じるのかという問題に置き換えることもできる。クオリア=「薔薇を見た時に心の中に浮かぶ赤い色の感じのように、私たちの心に浮かぶ質感」(12)

茂木は、クオリアのめぐるこのような問題は、「従来の意味での科学的記述を脳に関していくら積み上げても、根本的に解決することはできないだろう」ともいう。クオリア問題は、「従来の物理学に象徴される科学的世界観に開いた穴なのである。」(13)

こうして書き出してみると、茂木が、本の出発点において問題の本質をしっかりと表明していることが分かる。にも関わらず、一方では科学的世界観の延長線上でこの問題を解こうと必死になっている。そういう矛盾した姿勢が見て取れる。

「何もないところから、私たちの意識が立ち上がる」過程を明らかにするためには、脳の中で1000億のニューロンがお互いに結ぶ関係性(システム)を第一原理として、それ以外の何ものも仮定せずに議論を進める必要がある」(21)と著者はいう。

まるで、脳における機能局在説から関係説に変えれば、意識の問題はすべて解決するかのごとき言い方だが、一方では「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこに心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」という弱腰なのだ。この二重性はいったい何だろうか。表現にはっきりとした揺れがある。

私には、茂木が提出したような問いに含まれる根本的な問題性をまず明らかにする必要があると思われる。それは、心とは何か、主観性とは何か、意識とは何かという問題だ。

クオリアでいう質感とは、つまり主観に感じられる性質であり、結局は主観性の問題にいきつくのだ。だから問題は、ニューロン相互の関係性を完璧に解明するという方向が、どうして主観性の解明につながるのかという問題になる。

心を生みだす脳のシステム

2015-04-05 22:52:18 | 書評:科学と心と精神世界
◆『心を生みだす脳のシステム―「私」というミステリー (NHKブックス)

その面白さに思わず夢中になった。これほどに刺激的な本だったとは!! 刺激的なのは、脳の科学から出発しながら、クオリア(質感)という概念をひき入れる ことで、心の主観性という問題に迫ろうとしているからだ。心という主観性の問題 をごまかさず正面から理解しつつ、なおかつそれを脳のシステムからどう説明でき るかを問うているのだ。  

著者は、脳の科学に足場を置きながら現象学的な問題に一歩足を踏み入れているように見える。フッサール、ハイデガー、メルロ・ポンティなどが探求した主観性と いう哲学的な問題に脳科学の成果を引っさげて果敢に挑戦しているところにこの本 の面白さがある。  

最新の脳科学や認知科学の動向や、そこで問題にされている点について、著者の強烈な問題意識から解説されていて、私自身、この分野への関心が一気に高まって しまった。   
著者は自信をもっていう、「心を生み出す脳のシステムは、単純な機能局在説で は理解できない」、「生化学的な知見や機能局在は、脳というシステムの、いわば 断面図に過ぎない。断面図をいくら集めても、私たちの心を生み出す生きた本質には迫れない」と。 そして、心を生み出すのは、「脳全体にまたがって、1000億のニューロンが作り 上げる、複雑で豊かな関係性」であり、「脳というシステムなのだ」として、脳が 心を生み出すとはっきりと断言する。  

しかし一方では、「ニューロンを一つ一集め、ある関係性を持たせるとなぜそこ に心が宿るのか、その第一原理さえ皆目検討がつかない」と正直に告白し、それは、心がない状態から心を合成する「錬心術」(錬金術のもじり)だとさえ言う。これ だけ脳のニューロンの働きと意識との関係がはっきりしてきていても、では意識は どのようにして成立するのかとう根本的な問題になると、脳科学はハタと行き詰っ てしまうのだ。  

にもかかわらず、あくまでも心はニューロンのシステムから解き明かせるという立場を崩さない。「錬心術」の状態から抜けだすため、地道に脳のシステムと心の要素の対応関係についての探求を続け、一方で新しい発想による心脳問題の展開を待つほかないと言う。  

私に言わせれば、ニューロンのシステムをいくら解明したところで、そこに心が宿るのは不可能だということを原理的に明らかにする道をたどる方がはるかに生産的である。脳科学がここまで発達し、様々な知見が蓄積されている以上、精神世界 に関心を持つものも、その成果を積極的に学びとって、その成果から何が言えるの か、何が言えないのかをはっきりさせるべきだと思った。脳科学の成果を謙虚に学 び、受止めつつ、なお脳科学のどこに原理的な限界や問題があるのかを、真剣に考 え、明らかにしていかなければ、精神世界の探求もある意味で知的怠慢のそしりを まぬかれない。たぶん茂木健一郎の考え方に充分に反論できなければ、魂や輪廻転生の問題について、少なくとも私自身は、納得のいく論は展開できないと感じる。

日本とは何か―近代日本文明の形成と発展

2015-04-04 09:24:48 | 書評:日本人と日本文化
◆『日本とは何か―近代日本文明の形成と発展 (NHKブックス)

著者・梅棹忠夫は主著『文明の生態史観 (中公文庫)』であまりに有名な文化人類学者であり、その文明学は今もなお強い影響力をもっている。本書は、その二十年を超える比較文明学のエッセンスを、アメリカやフランスなどで講演した内容を中心にまとめたものである。時間に限りのある講演なので彼の主張がコンパクトにまとめられており、梅棹文明学への本人自身による良き入門書にもなっている。

さて、私はこのブログで日本の文化を他地域の文化と比較して、「日本文化のユニークさ8項目」の視点から探ってきた。とくに西洋文化との違いを強調してきた。一方で梅棹は、日本と西洋との、歴史的展開の共通性を打出し、独自の文明論として内外から注目されたのである。私自身、この論が、両地域の歴史展開の深い真実をついていると思う。梅棹が指摘するような共通性が確かにある。しかし、一方で大きな違いもある。その違いのひとつが、遊牧文明や牧畜文明とのかかわりからくる違いである。いずれにせよ梅棹文明学は、ここで取上げるにはきわめて興味深い題材である。

梅棹はまず、日本文明をどのように捉えるかを三つの説に整理する。

ひとつは模倣説である。日本人は模倣の才能に優れ、この1世紀間ひたすら西洋文明を模倣した結果、今日のような一見西洋化した文明を作り上げることができたという説である。もう一つは、転向説とでもいうべきものだ。日本は古来、独自の文化をもって発展した国であるが、19世紀に西洋からの衝撃を受けて、そちらの方向に進路を変更した。トインビーは日本を、伝統的原理をすてて西洋的原理に乗り換えた、文明の「改宗者」と呼んだ。これも一種の、日本「転向者」説である。

模倣説も転向説も、現代の日本文明を西洋文明の一変種としてとらえている点では、視点が同じである。いずれも、日本はいちじるしく西洋化することによって近代化に成功したひとつの例であるとみている。日本文明は、西洋文明という先行者の追随者という関係でとらえている。

梅棹自身は、これらの説をとらず、いわば「平行進化説」というべきものを主張する。日本はもちろん西洋文明の模倣を多かれ少なかれおこなったが、それは全面的なものではなく、一定の方針のしたがっての取捨選択である。その一定の方針こそ、長年の歴史の中で培われた日本文明の基本的デッサンである。ただ、この事実はこれまでも多くの人々が指摘してきたことだ。梅棹の主張が新鮮だったのは、近代日本が、かならずしも明治以来の西洋化の産物ではないことを事実と理論に基づいて明確にしたことである。

ペリーの来航する半世紀も前から、日本には近代社会への胎動が見られた。土地開発がすすみ、手工業的工場が各地に現れ、交通通信ネットワークも完備し、教育は普及した。前近代的な要素をのこしながらも、全体として「近代」の入り口まで来ていた。西洋の衝撃を受ける以前に、そのような事実があったことに注目すべきである。日本の近代化は、西洋文明によってもたらされたのではなく、明治以前から独自の路線による近代化が進行していた。西洋文明の衝撃によって、それがさらに促進されたにすぎないのである。

日本文明は、西洋文明とは独立に、独自に発展してきた別種の文明だ。他にも別種の文明はあるが、西洋文明の衝撃を受けも、多くは挫折か停滞を余儀なくされた。じょうずに近代化に成功したのは日本文明だけだった。それはなぜなのか。

梅棹は、この問いに答えて、西北ヨーロッパと日本の文明には、歴史的にみて様々な共通性があったからではないかという。どちらも古代において、ローマ帝国と秦・漢・唐の帝国という巨大帝国の周辺に位置した。中世においてはこの二地域だけが、軍事封建制という特異な制度を発展させた。その中から絶対王制(梅棹は徳川期を絶対王制の時代とみる)をへて、近代社会が生まれた。つまり、日本の近代化は、模倣説や転向説では充分説明できない。それはいわば、平行進化説によってこそ正しく説明できる。西北ヨーロッパと日本とは、ユーラシア大陸の両極にありながら平行進化をとげてきた。それが西洋の衝撃によっていち早く近代化できた大きな理由である。

ではなぜこのような平行進化が生まれたのか。その基盤にあるのは、西北ヨーロッパと日本との、生態学的な位置の相似性だという。両者は、適度の降雨量と気温にめぐまれた温帯にある。またアフロ・ユーラシア大陸をななめに走る巨大な乾燥地帯から適度な距離で隔てられている。この乾燥地帯が人類にとって果たした役割は大きいが、とくにそこにあらわれた遊牧民の存在が、その後の人類史において繰り返し強力な破壊力をおよぼした点が重要である。西北ヨーロッパと日本との共通性は、その破壊力からまぬがれて比較的平穏に文明を展開できたという点にも見出されるという。

わたしがとくに興味を持つのはこの点である。西北ヨーロッパと日本とは、遊牧民の破壊力からまぬがれたところに共通性があるという。それは事実であろう。しかし、このブログで探っている「日本文化のユニークさ8項目」の中には次のような項目がある。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

(3)ユーラシア大陸の穀物・牧畜文化にたいして、日本は穀物・魚貝型とも言うべき文化を形成し、それが大陸とは違う生命観を生み出した。

ユダヤ・キリスト教は、父性的な宗教であるが、その性格は砂漠や遊牧民との関係が密接である。そして、遊牧民や牧畜民ともっとも関係の薄い文明のひとつが日本文明なのだ。次回は、この点と梅棹の主張とを比べながら検討をすすめたい。

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肉食の思想―ヨーロッパ精神の再発見 (中公文庫)
日本人の価値観―「生命本位」の再発見
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驚くほど似ている日本人とユダヤ人 (中経の文庫 え 1-1)
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)
一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ (講談社現代新書)
旧約聖書の誕生 (ちくま学芸文庫)
蛇と十字架・東西の風土と宗教
森のこころと文明 (NHKライブラリー)
一神教の闇―アニミズムの復権 (ちくま新書)
森を守る文明・支配する文明 (PHP新書)

縄文人に学ぶ(2)

2015-04-03 13:52:47 | 書評:日本人と日本文化
◆『縄文人に学ぶ (新潮新書)

縄文人は、大型動物を追って移動するのを止め、それほど広くないテリトリーの中で大自然の豊かな幸を可能な限り利用しながら生きる道を選んだ。それを可能にしたのが竪穴式住居の中で燃やし続けた火だった。竪穴式住居は、火の神さまの住居でもあったのだ。

自然へ畏敬は、四季の変化や実りと結びついた太陽への畏敬であった。そして火は太陽(日)の子どもであった。日と火は一体となって、縄文人の宗教心を形づくった。

このブログでは、日本文化のユニークさを8項目の視点から論じ、その一番目の項目は、以下の通りである。

(1)漁撈・狩猟・採集を基本とした縄文文化の記憶が、現代に至るまで消滅せず日本人の心や文化の基層として生き続けている。

ところで、現代日本人が縄文時代以来、受け継いできたであろう母性原理の社会については、二番目の項目として独立させて論じてきた。現代の日本文化を語るにも、それだけ重要だからである。

(2)ユーラシア大陸の父性的な性格の強い文化に対し、縄文時代から現代にいたるまで一貫して母性原理に根ざした社会と文化を存続させてきた。

上田氏の本では、縄文時代の平和や平等主義が母性社会と一体のものとして語られている。氏の論をおってみよう。縄文時代は、土器や竪穴式住居を中心とする一定の文化が1万年以上も続いた。あのエジプト文明ですらたかだか5千年だったことを考えると、これは人類史上稀有なことである。上田氏は、縄文時代が長く続いた理由のひとつを妻問婚に見る。縄文時代の妻問婚が古墳時代へと引き継がれていったというのだ。

妻問婚は、男が女のもとに通うことで婚姻が成立するが、それは一過性のものである。夫婦としての男女の同棲を伴わず、男が通わなくなることも多い。父は、自分の子どもが誰かに頓着しないが、女にとっては、父が誰であれ、産んだ子は等しく自分の子であり、平等に自分のもとで育てる。

子を持つ女たちは、食糧の採集に明け暮れた。いつくるか分からない男たちはあてにならない。そうした社会では母子間の絆は強くなる。そして氏族の先祖は、母から母へとさかのぼり、ついには「一人の仮想上の女性」に至りつくだろう。それが元母(がんぼ:グレートマザー)だ。縄文時代に作られた土偶は、何かしら呪術的な使われ方をしたのだろうが、それは元母の面影をもっている。縄文社会は母系社会だったと思われ、しかも豊かな自然を「母なる自然」として敬う宗教心は、元母への畏敬とも重なっていく。

縄文人の遺跡には、貝塚などの遺跡と並んで石群や木柱群がある。上田氏は、石群と木柱群が「先祖の祭祀」と「太陽の観測」という二つの機能をもつと考える。縄文人は、太陽と先祖の二つを拝んでいた。そして先にみたように火は、太陽の子であった。ところで太陽と先祖とはどのように結びつくのか。縄文人は、氏族の先祖を遡ったおおもとに元母のイメージをもっていただろう。その元母と太陽の両方の性格をそなえていたのは、女性神アマテラスである。元母の根源にアマテラスを見ると、先祖信仰と太陽信仰は完全につながるというのである。つまり縄文人の宗教心は、母系社会の先祖信仰と「母なる自然」への信仰、その大元としての太陽信仰とが結びついていたのではないか。

父系社会では、力の強い男が多数の女を抱えてたくさんの子どもを産ませ、「血族王国」を作りたがる。その結果、権力をめぐって男同士の争いが始まる。ところが母系社会では、男に子どもがない。女の産む子どもの人数には限りがあり、しかも女は子供を分け隔てなく育てるから争いも起きにくい。母系社会では、母はすべての子とその子孫の安寧を平等に願う傾向があるから、血族集団は争いなく維持され、社会は安定した。ここに縄文時代が一定の文化とともにかくも長く続いた秘密のひとつがあるのではないか。

こうして縄文時代は女性中心の時代であり、その伝統は後の時代に引き継がれた。父系性の結婚制度に移行したあとも、家の中での女性の力が比較的強かったのは、その伝統を受け継いでいるからだろ。「刀自(とじ)」「女房」「奥」「家内」「お袋」「主婦」などの言葉は、多かれ少なかれ家を管理する意味合いを持つ。日本では今でも主婦が一家の家計を預かるケースが多いが、欧米ではそのようなことはないという。

日本列島に生きた人々は、農耕の段階に入っていくのが大陸よりも遅く、それだけ本格的な農耕をともなわない縄文文化を高度に発達させた。世界でもめずらしく高度な土器や竪穴住を伴う漁撈・狩猟・採集文化であった。それが可能だったのは、自然の恵みが豊かだったからだろう。母系社会であり、母なる自然を敬う縄文文化がその後の日本文化の基盤となったのである。しかもやがて大陸から流入した本格的な稲作は、牧畜を伴っていなかった。牧畜は、大地に働きかける農耕よりも、生きた動物を管理し食用にするという意味で、より自覚的な自然への働きかけとなる。つまりより男性原理が強い。そして牧畜は森林を破壊する。

さらに日本列島の人々は、他民族にも襲われずに、母なる大地の恵みを最大限に受けながら悠久の昔からそこに住み続けることができた。そのような条件にあったからこそ、自然の恵みを基盤とする自然崇拝的な宗教を大陸から渡来した儒教や仏教と共存さて、長く保ち続けることができたのである。神仏混淆とは、生え抜きの文化が外来の文化に圧殺されなかった結果に他ならない。つまり、母性原理が生残ったのである。

父性原理が支配する社会では、激しい競争により社会は変化・発展するが、弱者は取り残され切り捨てられていく。民族相互の戦争により滅びていく民族は後を絶たず、森林破壊も進む。これらは大陸の歴史を見れば明らかだし、やがては日本もそれに巻き込まれていった。つまり、女性原理は「社会の持続と平等」を生み出すが、父性原理は「社会の進歩と格差」を進めるのだ。

日本では、1万数千年という長きに渡る縄文時代がその後の日本社会を形成する上で、無視できない強固な基盤となった。父性原理の大陸文明を受け入れるにしても、自分たちの体に染みついた縄文の記憶(母性原理に基づく宗教心や生き方)に合わない要素は、拒絶したり変形したりして受け入れていった。こうして中国文明から多くを学んだが、科挙や宦官や纏足は受け入れなかった。西欧文明は受け入れたが、キリスト教信者は今でも極端に少ない。私たちは、たとえ自覚はなくとも、縄文の記憶をいまだに忘れていないようだ。私たちの社会と文化の根底には母性原理が息づいているのである。現代日本の女性も、その遠い記憶に根ざしているから強いのかもしれない。

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蛇と十字架

縄文人に学ぶ(1)

2015-04-03 13:43:58 | 書評:日本人と日本文化
◆『縄文人に学ぶ (新潮新書)


この本の著者・上田篤氏は、もともと「未来を設計する建築学徒」であるが、「日本人のすまい」に興味をもって研究するうちに、その謎を追って結局は縄文時代にたどり着いたという。「日本人のすまい」の謎とは、たとえばなぜ日本人は玄関で靴を脱ぐのか、なぜ家の中に神棚や仏壇を祭るのかといったものである。

著者はこのような謎に対してひとつの「試論」を持つに至ったという。それは、「日本の家は神さまのすまい」というものだ。やがて、その「神さまのすまい」という発想のルーツが、縄文時代の竪穴式住居にあるのではないかと考えるようになったという。

1万2千年ほど前(縄文早期)に日本列島はしだいに暖かくなったが、にもかかわらず北海道から沖縄まで北方住居を思わせる竪穴住居が一斉に作られた。温暖な沖縄までなぜ竪穴住居なのか。それは竪穴住居が人間のすまいというより、「火のためのすまい」だったからではないのか。つまり、気候の温暖化で生じた激しい風雨から火を守るための囲いという意味が強かったのではないか。

著者がこのような「発見」に至ったのは、沖縄の古い家を見たことによるという。沖縄の田舎の旧家では、ついこのあいだまでいちばん大切な神さまは家の奥の地炉のなかの「火の神」だったという。沖縄では稲作文明が流入したのが13世紀であった。すなわち、それまでは稲作以前の「縄文時代」が続いていたわけで、縄文時代をルーツとする文化が色濃く残っているということである。

とすれば、縄文時代の人々も竪穴式住居によって「火の神」を守ったのではないか。火を風雨から守ることは生活に欠かせないだけではなく、神さまを守ることでもあったのだ。縄文人は、神さまの家に住んで、神さまをまもっていたのだ。

そう考えると「日本の家の謎」も解ける。日本の家は「火という神さまを祭るすまい」だった。だからこそ玄関で靴を脱ぐという世界に類のない習慣がある。家の中に神棚や仏壇を設けるも「神さまのすまい」という縄文の記憶にルーツがあるのだろう。

縄文が火を神さまとしたのは、それが定住を保証したからだろう。旧石器人は大動物を求めてさ迷ったが、縄文人は「大自然」そのものを相手にする道を選んだ。彼らは、親族単位で海に近い尾根筋などに住み、女が火を焚き、男が火を絶やさないためのすまいを作った。その住まいを中心とした数キロのテリトリー内で、女たちが木の実や茎、根、小動物、魚介類を採集し、土器で煮炊きした。つまり大動物を追い求めるのではなく、周囲の自然の恵みそのものに依存して生活するようになった。火がそうした定住生活の中心にあった。

そうした縄文人の宗教心はその後の日本の歴史に受け継がれる。たとえば古くからの日本の庶民の家の中心は囲炉裏だった。板敷のリビングに囲炉裏が切られ、その部屋に神棚がおかれた。現代の都会の家でダイニングとキチンが一緒になっている場合が多いのは、リビングと囲炉裏が一体となった古い庶民の家の名残りかもしれないと著者はいう。

今でも日本料理には鍋料理が欠かせない。家族が火加減しながら鍋を囲んで食事をするというスタイルは、欧米料理にはあまり例がないという。鍋料理は、縄文人が炉を囲んで炉の火にかけられた土器から食物をとって食べたであろう伝統を引き継いでいるのかもしれない。日本人が冬になると鍋料理が恋しくなるのは、私たちの中の縄文DNAのなせるわざなのだろうか。

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