へそ曲がりの真っ直ぐ日記

反日の韓国と中国、国内の反日マスコミを斬る

中国がまたも政治宣伝 「中国戦犯の供述書」

2014年07月27日 | 報道・ニュース
中国共産党の「人民網日本語版」に、こんな記事が出ていた。
<「中帰連」から「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」まで 日本国内の反戦の声>
http://j.people.com.cn/n/2014/0725/c94474-8760969.html

■日中友好4団体が在日本中国大使館で7日、盧溝橋事件(七七事変)77周年を記念する盛大で厳粛な式典を行った。「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の合唱団はこの中で、組曲「再生の大地」を披露。フィナーレに入ると、ピアノの伴奏の激しいメロディで雰囲気は最高潮に達し、舞台の上と下では「前事不忘、后事之師」(過去を忘れず、後の世の戒めとする)という言葉が日本語と中国語で繰り返され、多くの人の目には感動の涙があふれた。(文・歩平、中国社会科学院近代史研究所研究員、中国抗日戦争史学会会長。人民日報掲載)

 「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の前身は、1957年に設立された「中国帰還者連絡会」である。この組織は、中国の撫順と太原の戦犯管理所で改造教育を受けた後、釈放されて日本に帰国した戦犯が設立したものだ。

 中華人民共和国の建国後、中国が逮捕・拘留した日本人戦犯は1109人にのぼった。日本の軍人は長期にわたって日本の軍国主義教育を受けていたため、多くの軍人が改造に対しては強く反発した。

 これらの戦犯の改造は非常に困難だった。戦犯の改造事業に従事した中国側の再教育者の多くは抗日戦争の体験者であり、日本軍による被害者らも戦犯と直接対話し、戦争中の自らの被害の体験を語った。戦犯らはこの過程で、侵略戦争が中国人に与えた災禍を深く知り、強い悔恨の念を持つようになり、認識を転換し、懲罰を進んで受けるようになった。こうした戦犯が管理所の数年間でたどった大きな変化は、「鬼から人間へ」の「再生」とも呼ばれ、組曲「再生の大地」でも生き生きと描かれている。

 戦犯に対する改造事業を進めると同時に、最高人民検察院も、全国的な詳しい調査を通じて、4100件の事案についての証拠と2万6700件の告訴状を集め、これらの戦犯の犯罪の証拠を把握した。1956年6月、中華人民共和国最高人民検察院は、45人の戦犯だけを起訴し、1017人の戦犯は不起訴として帰国させる決定を行った。

 帰国後の戦犯らは、多くの圧力に直面したが、ほとんどが日中友好促進の隊列に加わった。1957年には東京で集会を開き、「中国帰還者連絡会」(略称「中帰連」)を設立した。同会は、「日中友好、反戦平和」を方針として日中友好平和運動を展開することを決定し、元第59師団長の中将だった藤田茂氏を会長に選出した。

 日中友好の促進団体である中帰連は、ほかの平和団体とともに活動すると同時に、彼らにしかできない重要な活動も展開した。戦争の罪悪を自らの体験を通じて語ることである。中国で判決を受けた45人のほとんどを含む中帰連のメンバーは、自らの故郷で各平和反戦団体とともに集会を開き、戦争体験を語り、軍国主義の悪を批判し、戦争中の犯罪行為を明らかにした。こうした活動は「証言活動」と呼ばれた。
・・・・・・・・・
 当時改造を受けた戦犯は千人余りにすぎなかったが、彼らは大きな力を生み出した。中帰連のメンバーが中国の法廷に提供した証言は、日本軍国主義の暴行を明らかにする動かぬ証拠である。日本の軍隊の中国における暴行を証言した彼らは、日本の右翼勢力と正面衝突することもしばしばあった。

 メンバーの高齢化と相次ぐ死去により、中帰連は2002年に解散した。だが中帰連の精神は多くの日本人に影響を与え、戦犯改造の歴史を永遠に忘れないための「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」が設立された。「再生の大地」の合唱はこの「受け継ぐ会」の活動の一つである。

 中帰連と「受け継ぐ会」の努力は、戦後の日中関係発展の一つの側面を示している。こうした成果をさらに伸ばし、日本国内の反省と反戦の声をさらに響かせることも、日中関係の発展にとって無視してはならない方向である。「人民網日本語版」2014年7月23日■

「中国戦犯」については、今月こんなニュースがあった。
<中国公文書館、「戦犯」の供述書をサイト上で公開 中韓首脳会談に合わせ日本批判>
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140703/chn14070322460010-n1.htm

■【北京=川越一】中国中央公文書館は3日、公式サイト上で旧日本軍の「戦犯」の供述書などの公開を始めた。中国政府が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に記憶遺産として申請した、いわゆる慰安婦問題に関する詳述も含まれており、中韓首脳会談に合わせ、歴史問題で日本を揺さぶる狙いがうかがえる。

 公開が始まったのは、1956年に中国国内卯所」で起訴された45人の供述書など。1日に1人のペースで供述書を公開していくという。初日の同日は、「鈴木啓久陸軍中将」の供述書が公開された。・・・・・・・・■

この供述書は、「人民網」にもアップされている。今年の日清戦争120年、来年の第二次世界大戦終結70年を見据え、日本の中国大陸侵略、軍国主義
復活、反ファシズム勢力勝利を宣伝し、自らの軍拡、海洋進出を正当化する狙いがあるのだろう。

では、中国戦犯とはなにか? <脱・洗脳史講座>を参考に記述してゆく。
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/kagai/kagai-tokei-2.html
■2 中国戦犯の証言より
  (1)中国戦犯 ・ 鈴木 啓久中将の「罪状」

 「中国戦犯」と呼ばれる人がいます。敗戦とともに5年もの間、ソ連に抑留された日本軍将兵、満州国官吏らの中から969人が選ばれて中国に送られました。この人たちとは別に、中国山西省で共産党軍に投降、捕虜となった将兵140人と合わせて1109人が、いわゆる「中国戦犯」です。
 この中国抑留者(=中国戦犯)については、 ⇒ 「検証・中国戦犯」 、および  ⇒ 「洗脳について」 をお読みください。
 この1千余人の戦犯のなかに4人の師団長(階級はいずれも中将)が含まれていました。その一人が鈴木 啓久中将 (すずき ひらく・第117師団師団長)です。

 以下に引用するのは、中国最高人民検察院(日本でいえば最高検察庁)の起訴状の一部で、第27歩兵団長時代(少将)の「罪行」について告発したものです。

〈 1942年4月、被告人は所属部隊を指揮し『豊潤大討伐』を行なわしめ、河北省遵化県 魯家峪郷 において、
刀剣を用い放火し毒ガスを発射するなど残酷な手段によって、平和的居住民、劉倹・・・、于長万ら220人余を虐殺した。・・・
18歳の娘は毒ガスにあてられながらも逃げ出したところを輪姦されて死亡、
于長合の妻の李氏は強姦を拒んで腹を裂かれ、妊娠中の胎児をえぐり出され 、
劉清隆の妻の何氏は強姦された後、火の中に放り込まれて焼死した。・・・
 (1942年10月には)わが平和的居住民である・・・ら1280余人を惨殺した。
そのうち周樹恩の妻・高氏ら妊婦63人も惨殺され、多くの妊婦は胎児をえぐり出されたし、
・・19人の幼児もまた母親の懐から奪いとられ投げ殺された。 ・・・ 〉
― 『研究叢書10 日中戦争』 から姫田 光義・中央大学教授論考、中央大学出版部、1993年 ―

 この残虐話し、信じるのですか。どういうわけでしょう、日本兵は妊婦を見ると腹を割いて胎児を取り出す趣味があるらしく、この例にとどまらず、ほかにも似た話は結構でてくるのです。■

■検 証 「中国戦犯」証言 ・・・ まえがき
― 共通する異様な残虐性 ―
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/yokuryu-sya-syogen/maegaki10.html

 (1) 金 源 戦犯管理所所長の言
 彼らが帰国するまでの約6年のうち、大部分を過ごした撫順戦犯管理所( =撫順監獄 )の金 源 所長は、自らの体験を活字にし、あるいはインタビューを通じていろいろと発言しています。

 なお、金源所長は日本人戦犯が収容された当初の1950=昭和25年6月から、日本語通訳として撫順監獄に勤務し、管理教育科科長、副所長などを経て、所長にまでなった人物です。ですから6年間をこの管理所にあって抑留者の指導・監督にあたったわけで、日本人戦犯にとっては忘れられない人物と言えるでしょう。
 まず、金所長の総括とも言えそうな、日本兵の残虐ぶりを次のように記しています。

〈 あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を撲殺した後、その肝と脳味噌を食べたのである。
このような人間性の一かけらもないような野獣のごとき実例は、枚挙にいとまがない。 〉

 まずこの発言、信じられますか。中国人を殴り殺して、その肝臓と脳みそを食べたという日本兵がいたことを。しかも、枚挙にいとまがないと形容するほど、多数の実例があったことを。



 実にばかばかしい話と私は思うのですが、抑留者の手記集や、帰国後の証言で成立している『天皇の軍隊』(本多勝一ほか、朝日文庫)を読んで、日本兵の所業を信じるならば、この金所長の発言は「事実の裏づけがある」ということになるでしょう。現に、こうした話を信じる日本人が少なくないのですから、まったく嫌になります。こちらをご一読のうえ、参考になさってください ( ⇒ 異様な残虐行為は事実なのか )。■

なにも学者先生でなくとも、並みの大人なら、これらの証言に少しは疑問を持ってよさそうに思うのです。ですが、実態はフリーパス。朝日、NHK、共同通信 など、日本軍といえば悪し様に報道するのを旨とする報道機関の情報源となり、ことごとく事実とし、かつ好意的に報じられたのです。

 抑留者によって「語られた事実」は「事実に非ず」、あるいはまったくの虚偽と証明するには、ときには膨大な資料、証言の提示が必要ですし、説明についても手順をふむ必要があります。
 ここでは、要点を記すにとどめました。さらに詳しくお知りになりたい方は、拙著『検証 旧日本軍の「悪行」』を参照ください(入手方法は総目次の19をご覧ください)。■

これは真実なのだろうか? それには彼ら戦犯が置かれていた境遇を見る必要がある。
■中 国 戦 犯 に つ い て
http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/yokuryu-sya-syogen/yokuryu-sya.html


■撫順(ぶじゅん)、太原(たいげん)の両管理所(監獄)に収容された 「1109人」 が 「中国戦犯」 といわれる人たちです。ここでは、主に「抑留者」という言葉を使うことにします。
 抑留者が釈放され、帰国するのは1956(昭和31)年以降ですので、ほとんどの人は6年間、残りの人はそれ以上の抑留となりました。ですから、ソ連の分と合わせれば実に10年以上も捕らわれの身となったのです。中国に抑留されていた6年の間に、「学習」などを通して、「洗 脳」 問題があったと言われていることはご存じのことと思います。
・・・・・・・・・・・
手記が書かれた「1955年ごろ」というのは、起訴される前のことであることに注意が必要です。抑留者に絶えず強調されていたことは、「二つの態度と二つの道」 ですが、これは 「罪を認めれば寛大な処置が受けられ、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない」 という論法です。となれば、「何としても帰国したい」彼らが、どう行動するか、ある程度想像がつくでしょう。この「二つの態度と二つの道」については、( ⇒ 洗脳について ) をお読みください。■

戦後、10年以上の抑留(自由の拘束)が続いた中国戦犯。毎日毎日の思想改造教育。何度も繰り返される供述書の作成と書き直し。そして迫る起訴と判決。処刑され。るか、それとも生きて故国の土を踏めるのか、家族に会えるのか。抑留者の心境は、誰にでも想像できるだろう。帰国して、日本軍の悪行の告発を続けた戦犯たちは、「すべて真実」と主張していたのだが。

中国戦犯については、この動画も参考になる。
<中帰連・撫順戦犯管理所洗脳プロセス(南京関連)>http://www.youtube.com/watch?v=RAdq0kAn24o&v3

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。