へそ曲がりの真っ直ぐ日記

反日の韓国と中国、国内の反日マスコミを斬る

「慰安婦強制連行」の嘘は、こうして世界に拡散した

2014年09月08日 | 報道・ニュース
本来は朝日が責任を持って検証すべきことなのだ。
<【慰安婦偽証「吉田証言」とは何か】
強制連行の嘘はいかに海外に拡散されたか>

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140908/plc14090810300006-n1.htm

■朝日新聞が少なくとも16回、吉田清治を記事で取り上げたこともあり、朝鮮半島で女性を強制連行したとする吉田の嘘は、海外にも拡散していった。
 米紙ニューヨーク・タイムズは1992年8月、吉田の写真とともに長文記事を掲載。43年から44年にかけて朝鮮半島で約2千人の女性を強制連行したとする告白を、「アジアにおける今世紀最悪の人権侵害だったかもしれません」との吉田のコメントとともに伝えた。

 AP通信も92年6月、「吉田は韓国の村から日本兵に繰り返し強姦(ごうかん)されることになる女性を強制連行したことを告白した唯一の日本人」として取り上げ、証言内容を世界に向けて配信した。

 これら海外メディアの報道と前後して韓国政府は92年7月、「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表。そこでは、吉田の済州島での「奴隷狩り」が、強制連行の証拠として採用された。■

やはりアメリカには、東京支局を朝日本社内に置くお仲間のNYタイムズが真っ先に広めたのか? 韓国系や中国系記者の多い反日新聞社である。
さらに、虚偽は国連へ、アメリカへと伝播してゆく。

■その後、吉田証言は国連の場にも進出する。
 慰安婦への国家補償などを勧告した96年2月の国連人権委員会のクマラスワミ報告書は、吉田の著作から「千人もの女性を『慰安婦』として連行した奴隷狩りに加わっていた」との内容を引き、慰安婦を「性奴隷」だと認定した。

この報告書は、慰安婦問題をめぐり国際社会が対日批判をするときの根拠にされていく。98年には国連人権小委員会で、慰安所を「強姦所」とするなど、クマラスワミ報告書を下敷きとしながら、表現をさらにエスカレートさせたマクドゥーガル報告書が採択された。

 2007年7月、米下院本会議は慰安婦問題での対日非難決議を採択した。採択に至る過程で議員が審議の参考資料とした米議会調査局報告書は一時、「日本軍の慰安婦とするため、韓国で女性千人を狩り集めた」との吉田証言を明記していた(06年4月)。07年4月の調査局報告書で吉田に関する記載は削除されたものの、決議内容には吉田証言が反映したとされる。

 最近では韓国紙、朝鮮日報が12年8月、吉田証言を「事実」として社説で取り上げた。

 吉田の「強制連行」証言には1992年4月の段階で重大な疑義が生じていた。その時点で朝日新聞が記事の誤りを認めていれば、事実誤認に基づく対日批判がこれほどまでに広がることはなかっただろう。■

吉田清治の大嘘は、国際社会でまだ生きているのである。韓国はウソだとわかっても、この証言にしがみつくだろう。唯一の加害者証言であるからだ。
その吉田清治とはどんな男だったのか。産経の検証は続く。
<【慰安婦偽証「吉田証言」とは何か】
「強制連行」を広めた吉田清治とは何者なのか 「真実を書いても何の利益もない」>

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140908/plc14090812360008-n1.htm

■そもそも吉田清治とは何者なのか。韓国・済州島で奴隷狩りのように女性を強制連行したというその証言について、現地調査で虚偽だと暴いた現代史家の秦郁彦は、吉田氏を「職業的詐話師」と呼ぶ。実際、証言内容が虚構に満ちているだけでなく、吉田の経歴もまた謎に包まれている。

 吉田清治の名はペンネームで、本名は吉田雄兎(ゆうと)。他に別名として東司、栄司を名乗っている。吉田の著書で山口県と記されている本籍地も、実は福岡県だった。門司市立商業学校(当時)の卒業生名簿には「吉田雄兎」の名があるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。

 吉田の著書の記述では昭和12年、満州国地籍整理局に務め、14年から中華航空上海支店に勤務したことになっている。しかし、歴史学者の上杉千年の調査では中華航空社員会で吉田を記憶する者はいなかった。

 吉田によれば、15年に朝鮮の民族主義者で日本の民間人を殺害した金九を輸送した罪で逮捕され懲役2年の刑を受けたという。ただ、吉田は秦に対し、罪名はアヘン密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。

17年に山口県労務報国会下関支部動員部長に就いたとする吉田。済州島での慰安婦狩りも、著書で「(強制連行の)実態は私が家内にしゃべったか見せたかしたので、家内の日記の中にありました」と書くが、吉田が実際に妻と結婚したのは「慰安婦狩り」を行ったという時期の1年後のことだとされる。

 著書には戦後の吉田の足跡は一切触れられていないが、秦によると22年に下関市議に共産党から出馬し落選。45年ごろには福岡県の日ソ協会役員に就いた。
 これら吉田自身の虚構は秦や上杉、戦史研究家の板倉由明らの丹念な研究によって明らかになった。

 強制連行の唯一の日本側証言とされてきた済州島での慰安婦狩りに関しては、地元紙「済州新聞」記者、許栄善が取材すると全くのデタラメだと判明した。慰安婦問題で日本政府の責任を追及する立場の中央大教授、吉見義明も「吉田さんの回想は証言として使えない」と判断している。■

どこなら見ても、根っからの嘘つきというしかない。ホラ男爵と言うのもしゃくなので、顔相から見て「ホラ乞食」とでも言おうか。言うことがまた振るっている。
■朝日新聞が自社の吉田証言を取り上げた記事を取り消したのは今年8月のことだが、吉田自身はすでに平成8年の週刊新潮(5月2・9日合併号)のインタビューで「本に真実を書いても何の利益もない」「事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやっている」と捏造(ねつぞう)を認めていた。

吉田は朝日新聞が昭和57年9月2日付朝刊(大阪本社版)で、「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と大きく報じたことなどを皮切りに、新聞や雑誌、講演に登場するようになった。

 サハリン残留韓国・朝鮮人の帰還訴訟を行った弁護士の高木健一の著書によると、吉田は57年9月30日と11月30日の2回、「強制連行の証言者」として出廷。「慰安婦狩りの実態」が法廷で披露されたことに対し、高木は「証言は歴史的にも非常に大きな意義がある」と評価している。

 吉田は58年7月に『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』を著し、58年12月に韓国・天安市の国立墓地に謝罪碑を建てるために訪韓。以降も現地で謝罪を繰り返した。平成12年7月に死去していたことが判明している。■

戸塚悦朗と並ぶ売国弁護士・高木健一も、すっかり騙された、というより、嘘つきを都合よく利用した、と言ったほうがよいだろう。

金子札幌市議の発言で、全国から注目されるようになった「アイヌ利権」。支援集会の動画がアップされていた。
<『アイヌ民族はもういない』発言の真実 ~金子やすゆき市議応援セミナー ~ 平成26年8月24日(日)>
https://www.youtube.com/watch?v=bklowHdpbAc
②https://www.youtube.com/watch?v=E2tMoCUoYpg
③https://www.youtube.com/watch?v=J1QAd3T8OHY
④https://www.youtube.com/watch?v=08Ekj0drJjU
⑤https://www.youtube.com/watch?v=3zjxk0_X7V0

集会では、『「アイヌ先住民族」その真実―疑問だらけの国会決議と歴史の捏造 』『アイヌ先住民族、その不都合な真実20 』の著書がある医師の的場光昭氏と文化人類学者の河野本道氏が、アイヌとは何かについて講演。アイヌは、国連決議のいう少数民族の定義には該当せず、北海道の先住民族でもなく、もはや民族とも呼ぶような実態もない、と話している。


wikiによると・・・
河野 本道(こうの もとみち、1939年 - )は、日本の文化人類学者、考古学者。専攻はアイヌに関する文化人類学、考古学的研究。

明治・大正期の考古学者で北海道研究の草分け的存在であった河野常吉を祖父に、アイヌ研究・昆虫分類学で業績を残した河野広道を父に持つ。
1964年、北海道大学文学部卒業、1970年、東京大学大学院文学研究科博士後期課程(社会学研究文化人類学専攻)を単位取得退学。

三代続けてアイヌ研究者の家系に生まれた河野だが、若い頃はアイヌ解放同盟の活動に共感し、北海道ウタリ協会に勤務していた。しかし、1980年に北海道出版企画センターから刊行した『アイヌ史資料集』が差別図書であると批判を受け、告訴される[1]。その後、現代におけるアイヌ民族懐疑の立場となった。現代におけるアイヌの民族性を疑問視する小林よしのりと同じ立場をとっている[2]。


動画は①~⑤までであるが、③の後半から北海道議会でアイヌ利権の問題をただ一人追及している小野寺まさる議員が具体的な不正の数々を明らかにしている。アイヌ会が利権については、道とアイヌ協会が癒着しており、これに議会が知らぬ顔をし、マスコミもまったく報じないというのだ。小野寺氏は所属する自民党からも質問を妨害される語っている。アイヌ利権には、「差別」を食い物意する在日、も加わっているというのだ。
小野寺議員のホームページでも義解での質疑を知ることができる。
http://www.onoderamasaru.jp/gikai/shitsumon/

また、先日紹介した砂沢陣氏の新たな動画を見つけた。
<アイヌ民族は民族にあらず【H25.9.13】> https://www.youtube.com/watch?v=1JEEidAjjao.
<【アイヌの真実】砂澤陣氏に聞く[桜H22/2/13] >
https://www.youtube.com/watch?v=PrNkZHyGx9I
②https://www.youtube.com/watch?v=e07pesr-JhY

砂沢陣氏は、有名なアイヌ彫刻家の砂沢ビッキの子息という。wikiを見ると・・・
砂澤 陣(すなざわ じん、1963年 - )は日本の工芸家。
1963年に、砂澤ビッキの息子として生まれる。

1993年2月3日[1]、有限会社アトリエ・ビッキを設立し、ビッキ文様を継承した砂澤陣が自ら作る食器などの工芸品の製作販売、父の砂澤ビッキの作品の保全および展示活動を、行う。

2010年2月13日、日本文化チャンネル桜の『報道スペシャル』の特集「アイヌの真実」に出演し、北海道アイヌ協会の現状を批判する[2][3]。同年5月5日、北海道アイヌ協会札幌支部に、一会員として、修学資金問題、不正経理問題で、質問状を提出するも、砂澤陣は「札幌支部」を除名される[4]。


砂沢ビッキ氏は・・・
砂澤ビッキ(すなざわ ビッキ, Sunazawa Bikky, 1931年3月6日 - 1989年1月25日)は日本の彫刻家。木彫を専門とする。北海道旭川市出身。


土産物の木彫から出発し、大胆にして繊細、原始的にしてモダンな独自の作風を確立した。砂澤自身は「アイヌの芸術家」という枠にはめられることを嫌った。

初期には阿寒湖畔と鎌倉、その後札幌を制作の拠点としたが、1978年からは旭川と同じ上川支庁の北部、音威子府村筬島(おさしま)の小学校跡にアトリエを構え、亡くなるまでの十余年、精力的に木彫作品の制作を行なった。その作品は国際的にも評価が高い。
二代目として、息子の砂澤陣がビッキ文様を受け継ぎ制作活動を行なっている。


不正がはびこるアイヌ協会や札幌市部などへの内部告発ともいえよう。道民も余り知らなかったことではないか。金子札幌市議の発言によって、全国的に知られるようになったのはいいことだ。告発は解決への第一歩である。
金子市議のアイヌ民族や利権についての考えはホームページで。応援尾書き込みもできる。http://kaneko-yasu.seesaa.net/

その他多くの動画の紹介URLが、2ちゃんねるの<北海道新聞スレッド>の「2014/09/07(日)」に記入されている。

アイヌ文化振興などの名目で費やされる予算は、毎年何億円にも及、国と道が半々出してという(ちなみの北海道でアイヌとされているのは2万人程度)。この先、250億円ともいわれる国の巨費が投じられて、<民族共生の象徴となる空間(象徴空間)>なるものが道内に造られるのだという。アイヌが民族と呼べないものなら、壮大な税金の無駄使いではないのか?北海道だけの問題ではない。

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2 コメント

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Unknown (おれんじ)
2014-09-09 02:53:56
こんにちは!

赤い大地北海道での活動、本当に頭が下がります。これからも頑張ってくださいね。応援しています。

ご支援に感謝します (へそ曲がり)
2014-09-09 09:56:18
おれんじ様

ありがとうございます。ブログを読んでくれている人がいることが励みです。続ける力になっています。

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