神は愛 白髪は美の冠 白髪は輝く冠 

聖書の音信、日々のニュース関連を書いています。

映画「この世界の片隅に」予告編

2016年08月29日 | 日記

 

 

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11月12日(土)全国公開 映画「この世界の片隅に」公式サイト

あらすじ~ウィキペディア~
1944年(昭和19年)、絵が得意な少女浦野すずは広島市江波から呉の北條周作のもとに嫁ぐ。
戦争で物資が不足する中、すずは不器用ながらも懸命にささやかな暮らしを守るが、
軍港の呉はたびたび空襲を受けるようになり、1945年(昭和20年)6月、すずも爆風で右手首から先を失う。
見舞いにきた妹のすみからお祭りの日に帰ってくるよう誘われるが、その当日8月6日、
呉では閃光と轟音が響き、広島方面からあがる巨大な雲を見る。
8月15日、ラジオで終戦の詔勅を聞いたすずは、今まで信じていた日常を裏切られたくやしさで泣き崩れる。
翌年1月、すずはようやく広島市内に入り、祖母の家に身を寄せていたすみと再会。両親は亡くなり、
すみには原爆症の症状が出ていた。廃墟となった市内で、すずはこの世界の片隅で自分を見つけてくれた周作に感謝しながら、
戦災孤児の少女を連れて呉の北條家に戻るのだった。


神の愛と憎しみ       聖書

2016年08月27日 | 日記

 

神の愛と憎しみ



「自分の敵を愛し,迫害する者のために祈りなさい」
聖書(マタイ書5:44)


「あなたがたを迫害する者たちを1祝福しなさい。祝福して,のろってはいけません。
だれも悪をもって悪に報いてはいけません」
聖書(ローマ記 12:14,12:17)



神は善人をも悪人をも愛しておられるのでしょうか。神がだれかを憎むことなどあるのでしょうか。


賢王ソロモンは,
「何事にも定められた時がある。天の下のすべての事には時がある。愛するのに時があり,憎むのに時がある」
と明言しました。
聖書(伝道の書3:1.8)



この言葉から,神は,非常に愛のある親切な方であるとはいえ,何かを憎まれる時もある,ということが分かります。

では,聖書で言う「憎む」とはどういう意味でしょうか。ある参考書にはこう説明されています。

『聖書で使われている「憎む」という語には幾つかの意味合いがある。この語は,激しい敵がい心,すなわち悪意を伴うことの多い継続的な悪感情を意味する場合がある。
そのような憎しみは,その対象に害を加えようとする強烈な感情となることもある』。

この意味での憎しみは最も一般的であり,この種の憎しみに起因する事件が世界各地で起きています。
しかし,その参考書にはまた,『「憎む」という語は,強い反感を意味することもある。強い反感とはいっても,その対象に害を加える意図はない』と述べられています。



この記事で考慮している憎しみは,後者の意味のほうです。

忌み嫌い,忌避しますが,悪意や恨みはなく,危害を加えてやろうという気持ちもありません。神がそのような憎しみを抱くことはあり得るでしょうか。



「主(神)の憎むものが六つある。いや,主(神)ご自身の忌みきらうものが七つある。
高ぶる目,偽りの舌,罪のない者の血を流す手,邪悪な計画を細工する心,悪へ走るに速い足,まやかしを吹聴する偽りの証人,兄弟の間に争いをひき起こす者」。
聖書(箴言6:16~6:19)



このとおり,神は,ある種の行ないを憎まれます。とはいえ必ずしも,そのような行ないをした当人を憎む,というわけではありません。
その人の身体的な弱さ,生活環境,生い立ち,知識不足といった,酌量すべき事情を考慮なさるのです。

かわいい息子を懲らしめる父のように。主(神)は愛する者を懲らしめられる」。
聖書(箴言 3:12)




親は,子どもの不従順な行為を憎むとしても,やはり子どもを愛しており,その悪い行ないをやめて立ち直るよう子どもを懲らしめるなど,できるだけのことをするものです。
神(ヤハウェ、エホバ、YHWH)も,罪を犯した人を救える見込みがある限り,愛の気持ちから同じようにされます。