率直で正直
正直さは信頼の土台です。正直者だという評判のある人は信頼されますが,一度でもうそをつくと信頼を失います。
聖書の筆者は正直な人たちで,包み隠しなく筆記を行ないました。そうした率直さのゆえに,聖書には明快な真実の響きがあります。
失敗と欠点。
聖書筆者たちは自分自身の過ちや弱さを包み隠さずに認めています。モーセは,自分が失敗を犯して自らに大きな損失を招いたことを述べています。
『主(神)はモーセに仰せになった。あなたは杖を取り,兄弟アロンと共に共同体を集め,彼らの目の前で岩に向かって,水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し,共同 体と家畜に水を飲ませるがよい」。モーセは,命じられたとおり,主(神)の御前から杖を取った。そして,モーセとアロンは会衆を岩の前に集めて言った。「反逆する者らよ,聞け。この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」。
モーセが手を上げ,その杖で岩を二度打つと,水がほとばしり出たので,共同体も家畜も飲んだ。主(神)はモーセとアロンに向かって言われた。「あなたたちはわたしを信じることをせず,イスラエルの人々の前に,わたしの聖なることを示さなかった。それゆえ,あなたたちはこの会衆を,わたしが彼らに与える土地に導き入れることはできない」これがメリバ(争い)の水であって,イスラエルの人々が主(神)と争った所であり,主(神)が御自分の聖なることを示された所である』。
(民数記 20:7~13)
アサフは,裕福に暮らす邪悪な者たちをねたましく思う時期があったことを明らかにしています。
「神はイスラエルに,心が清い人に対して確かに善いことを行ってくださる。私の足はもう少しでそれていくところだった。危うく滑るところだった。私は高慢な人をねたましく思った。悪人が平和でいるのを見た。その人たちに死の痛みはなく,体は健康である。他の人たちのように思い悩むことも,苦しむこともない。傲慢さを首飾りとし,暴力を身にまとう。目は繁栄で膨らむ。思い描いた以上の成功を収めた。あざ笑い,悪いことを話す。偉そうな態度を取り,脅しつける。天から話すかのように語り,思うままに話して地上を歩き回る。それで,神の民は彼らの方になびく。彼らの豊かな水を飲む。彼らは言う。『神は気付くだろうか。至高者は本当に知っているのか』。こうした悪人は気楽に暮らしている。自分の資産を増やしている。私が清い心を保とうが,手を洗って潔白でいようが無駄なのだ。私は一日中思い悩んだ。毎朝,懲らしめを受けた」。
(詩編 73:1~14)
ヨナは,自分が不従順だったことと,悔い改めた罪人たちに神が憐れみを示された時に自分が悪い態度を取ったことを述べています。
『主(神)の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。「さあ,大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている」。しかしヨナは主(神)から逃れようとして出発し,タルシシュに向かった。ヤッファ(ヨッパ)に下ると,折よくタルシシュ行きの船が見つかったので,船賃を払って乗り込み,人々に紛れ込んで主から逃れようと,タルシシュに向かった』。
(ヨナ 1:1~3)
「真の神は,彼らがしたこと,悪い行いをやめた様子を見て,彼らにもたらすと言った災いについて考え直し,災いをもたらさなかった」。
(ヨナ 3:10)
「ヨナにとって,このことは大いに不満であり,彼は怒った。彼は,主(神)に訴えた。『ああ,主(神)よ,わたしがまだ国にいましたとき,言ったとおりではありませんか。だから,わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには,こうなることが分かっていました。あなたは,恵みと憐れみの神であり,忍耐深く,慈しみに富み,災いをくだそうとし ても思い直される方です。主(神)よどうか今,わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです』」。
(ヨナ 4:1~3)
マタイは,イエスが捕縛された晩に自分がイエスを見捨ててしまったことを隠さずに書き記しています。
「しかし,この全ては,預言者たちの記したことが実現するために起きたのです。その時,弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げていった」。
(マタイ 26:56)
ヘブライ語聖書の筆者たちは,自国民が幾度も不平を言って反逆したことを明らかにしています。
「彼らの父祖たちの神(エホバ,ヤハウェ)は,使者たちを通して警告し続けた。ご自分の民と住まいのことを思いやって何度も警告した。それにもかかわらず,彼らは真の神の使者たちをばかにし続け,神の言葉を侮り,
預言者たちをあざけったので,ついには矯正しようがないほどになった。神(エホバ,ヤハウェ)はご自分の民に激怒した」。
(歴代第二 36:15,16)
自国の支配者についても例外ではありません。
『主(神)の言葉がわたしに臨んだ,「人の子よ,イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して彼ら牧者に言え,主なる神はこう言われる,わざわいなるかな,自分自身を養うイスラエルの 牧者。牧者は群れを養うべき者ではないか。ところが,あなたがたは脂肪を食べ,毛織物をまとい,肥えたものをほふるが,群れを養わない。あなたがたは弱った者を強くせず,病んでいる者をいやさず,傷ついた者をつつまず,迷い出た者を引き返らせず,うせた者を尋ねず,彼らを手荒く,きびしく治めている。彼らは牧者がないために散り,野のもろもろの獣のえじきになる。わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と,もろもろの高き丘にさまよい,わが羊は地の全面に散らされているが,これを捜す者もなく,尋ねる者もない。それゆえ、牧者よ,主(神)の言葉を聞け。主なる神は言われる,わたしは生きている。わが羊はかすめられ,わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが,その牧者はいない。わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが,わが羊を養わない。それゆえ牧者らよ,主(神)の言葉を聞け。主なる神はこう言われる、見よ,わたしは牧者らの敵となり,わたしの羊を彼らの手に求め,彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ,再び牧者自身を養わせ ない。またわが羊を彼らの口から救って,彼らの食物にさせない」』。
(エゼキエル 34:1~10)
使徒たちの書いた手紙も同様に率直で,1世紀の,責任ある人々を含む個々のクリスチャンや幾つかの会衆が抱えていた深刻な問題について述べています。
『兄弟たち,私たちの主イエス・キリストの名によって勧めます。皆さんが語る事柄は一致しているべきです。分裂があってはなりません。同じ思い,同じ考え方でしっかりと団結してください。 私の兄弟たち,皆さんの間に不和があることをクロエの家の人たちから聞きました。皆さんがそれぞれ,「私はパウロに従う」,「いや,私はアポロに」,「私はケファ(ペテロ)に」,「私はキリストに」と言っているとのことです。 キリストは分裂したのでしょうか。パウロが皆さんのために杭に掛けられて処刑されたのですか。皆さんはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか』。
(コリント第一 1:10~13)
「そして,聖なる事柄を汚す無駄話を退けなさい。そうした話により人々はますます神を敬わなくなり,彼らの言葉は壊疽のように広がっていきます。そういう人たちの中にヒメナオとフィレトがいます。 この人たちは真理からそれていき,復活はすでに起きたと言って,ある人たちの信仰を損なっています」。
(テモテ第二 2:16~18)
「デマスは今の体制を愛して私を見捨て,テサロニケに行ってしまいました。クレスケンスはガラテアに,テトスはダルマティアに行きました」。
(テモテ第二 4:10)