▼映画『国宝』|可憐と業の狭間に、化け物は生まれる
2025年06月06日公開■邦画:国宝
第69回芸術選奨文部科学大臣賞、第14回中央公論文芸賞を受賞した吉田修一の同名小説を、
「悪人」「怒り」など吉田作品の映像化を手がけてきた李相日監督が映画化。
幼くして父を亡くしたヤクザの息子が、余興で披露したパフォーマンスに
天賦の才を見抜いた歌舞伎役者の家に引き取られ、史上最年少で人間国宝を受賞するまでの
約50年に渡る人生を描いた波乱万丈の物語。
主演に「キングダム」「東京リベンジャーズ」の吉沢亮。
2020年頃から企画をスタートさせた李監督が
「吉沢が受けてくれなければこの企画は終わり」とまで見込んでのキャスティング。
吉沢と共に厳しい芸道を歩む御曹司役には「流浪の月」に続き2度目の李作品となる横浜流星。
その他の共演者は高畑充希、寺島しのぶ、田中泯、渡辺謙。
少年時代のキャストに「怪物」の黒川想矢、「ぼくのお日さま」の越山敬達と
将来有望な二人を揃えているのもさすがの李監督。
脚本は「しゃべれどもしゃべれども」「八日目の蝉」、アニメ版「時をかける少女」の奥寺佐渡子。
舞台美術は「キル・ビル」などのハリウッド作品も手がける種田陽平。
音楽は「流浪の月」「ロストケア」の原摩利彦、ボーカルゲストにはKingGnuの井口理。


配信中■audible:国宝 上 青春篇(ナレーション:尾上菊之助)
配信中■audible:国宝 上 花道篇(ナレーション:尾上菊之助)
吉田修一の原作小説は、軽妙な語り口を使い、
境遇の異なる青年の人生を「青春篇」「花道篇」の上下巻で描いた大長編。
ヤクザ者の息子・喜久雄と、伝統ある梨園の御曹司・俊介。
同じ年頃の二人がひとつ屋根の下で暮らすこととなり、兄弟・友人・ライバルとして
互いに切磋琢磨しながらスターへの階段を駆け上がっていく物語である。
恵まれた環境の秀才・俊介(横浜流星)と、恵まれぬ環境の天才・喜久雄(吉沢亮)という構図は
「ガラスの仮面」や「エースをねらえ!」を引き合いに出すまでもなく
頂点を目指して競い合うライバルを描く作品では定番中の定番で、この小説そのものが古典とも言える。
Amazonレビューで知ったのだが、本作のaudible版は尾上菊之助をキャスティングされており
本編終了後に劇中に登場する舞台を再現した尾上菊之助の「特別音声版」を収録されているとのこと。
原作を読み終えてから試写会に臨んだこともあり
十二単から七、八枚は減らしたかというほどの軽装で
駆け足に進むこの映画版も、脳内で補完しながら楽しむことが出来た。
しかしもし、未読で臨んでいたらどうだったろうかと考えると、
線を使わず、点と点のみを繋げた荒っぽい脚本では、
『国宝』という作品の全体像を理解するのは難しいのではないかと思う。
薄味になってしまった物語を補ってあまりある吉沢亮と横浜流星の、
それこそ血の滲むような努力をしたであろう女形(手先、視線、発声の全てが圧巻)の前に
希釈された物語までもが背景と化してしまった。
間違いなく俳優・吉沢亮の代表作として後々まで名を残すだろうが
歌舞伎のシーンが美しければ美しいほど、波乱に満ちた二人の生き様が覆い隠されてしまう皮肉。
演者のせいではなく、これは偏に本が悪い。
血を分けた自分より部屋子を選んだ父への嫉妬から
袂を分かった二人の人生が、紆余曲折を経て再び手を取り合う。
小説版「国宝」には、二人の人生を陰日向から支えた多くの人々の、様々な形の愛が描かれている。
物心ついた時から役者になることが決まってた俊介も、
荒くれ男達に守られて幼少時代を過ごした喜久雄も、
歌舞伎を取り上げれば何も残らない、舞台の上でしか「生」を感じられない生粋の芝居バカ。
だからこそ、二人の周りには甲斐甲斐しく世話を焼く人々が溢れている。
しかし映画版では、スポットライトは二人(しかも7割方が喜久雄)にしか当てられず
生涯をかけて芸を磨き続けた二人の「歌舞伎への愛」は十二分に伝わるも、
喜久雄のお目付役的な存在である徳次、喜久雄の育ての母・マツ、
喜久雄の子を産み育てる藤駒ら、原作では忘れ難い名脇役であった人物が、
映画版ではいないも同然の「その他大勢」へと格下げになっている。
グラビア映画になる寸前まで物語を端折ったことで
本作は「舞台裏にも少しだけカメラが入ったシネマ歌舞伎」として画期的な作品にはなった。
「こんな特等席(近く)で曽根崎心中を演る吉沢亮(横浜流星)が見られるなんて贅沢」と、
二人のファンならずとも、思わず溜息を漏らすほどの美しい姿を拝めるが
生憎これは「映画」なのであって「情熱大陸」や「映画館で見る歌舞伎」ではないのである。
3時間の尺に収めるにはこの方法しかなかったと言われればそれまでだが
ならばいっそ原作通りに「青春篇」と「花道篇」の前後編に分けるか、連続ドラマでやってほしかった。
半次郎(喜久雄)の光源氏には滲み出る色香が
半弥(俊介)の光源氏は青年の色欲が匂い立つ(原作より)
俊介が欲しかったものは喜久雄が持つ天性の色香であり、
喜久雄が欲しかったものは、どれだけ稽古を積んでも手に入らない血筋という看板。
血は水より濃くとも、芸道において血とは、優先される条件なれど絶対ではない。
花井半二郎(渡辺謙)が舞台に穴を開ける事故を起こした時、
代役として指名したのが、実の息子の俊介ではなく喜久雄だったことから
足並みを揃えて精進してきた二人の道は、それぞれに過酷な方向へと進み始める。
喜久雄の才能に嫉妬した俊介は、血筋に見合う結果を出せない己の力不足に苦しみ、
俊介を羨んでいた喜久雄は、姿を消した俊介の代わりに舞台も家も背負う覚悟を決める。
「水が澄んだ時こそ底の泥を見よ」の言葉通り、晴れやかな舞台には魔物が付き物。
二人を襲う数々の苦難は、芸を高めるための試練としてもあまりに過酷で
見ていて息苦しくなるほどだが、そこをくぐり抜けた者だけが見える景色というのも
あるのだろうと、血の涙を流しながら舞う二人の姿を見て想像するしかない。
雪景色の中でゆっくりと崩れ去った父の姿を見たあの日から、
人生の大半を舞台に費やしてきた喜久雄。
迫り上がる舞台から眼前に広がる客席の海は、客席からは絶対に見られない景色。
当代随一の女形に贈られる万雷の拍手は、白虎(襲名後の名前)を孤高の地位へと押し上げる。
歌舞伎界を背負い、前だけを見据えてひたすら芸に打ち込む姿は人を寄せ付けない。
月のうち二十五日を舞台で過ごし、残り五日で次の舞台の稽古と準備。
「舞台を降りること」を許されないまま過ごした五十年余の役者人生で手に入れた栄誉は、
彼を幸福にしたのだろうか。
▼【ネタバレあり】原作を使って物語の行間を補完してみる
三時間の長尺にも関わらず、映画版は拙速な脚本のために消化不良を起こしている部分が多い。
そこで、原作を読んだ私なりに(一部おぼろげではあるが)映画と小説の両方を思い出しながら
説明不足の部分を補完してみたい。
(*映画版のネタバレになる部分も含まれているため、読みたくない方はここで止めるのを推奨)
<万菊の散り際>
女形というものは、男が女を真似るのではなく
男が一旦女に化けて、その女をも脱ぎ去った後に残る形である
何と言っても書いておきたいのが、映画版では田中泯が演じていた万菊。
老齢に差し掛かりつつも現役で舞台に立ち続ける女形であり、
その妖艶さを目の当たりにした二人は
喜久雄「こんなもん、女ちゃうわ、化けもんや」
俊介「確かに化け物や、せやけど、美しい化け物やで」
と洩らしている。
映画ではところどころ登場し、その都度強烈な印象を残す万菊だが
小説版では復活後の俊介を引き取り面倒を見るなど
もっと大きな役所を担っている。
女形に人生をかけている二人にとって、万菊は手が届かないほど遠くで輝く巨星であり
いつか追い抜きたい偉大な先輩でもある。
映画版では万菊が余命幾許もないとの知らせが入り、喜久雄が会いに行くシーンが登場するが
試写会の帰り道に「万菊はなんであんな急に落ちぶれた生活をしてたんだろう」という声が
あちこちから聞かれた。確かに小説を読んでいなければ、多くの方がピンと来ないだろう。
万菊が安アパートで最後を迎えたのは、決して落ちぶれたわけではない。
生涯をかけて美しいものを追い続けた万菊だからこそ、長年の重責から放たれ、
「美しいものがひとつもない場所」、若かりし頃に過ごしたドヤ街を死場所と決めたのである。
関係者には何も告げず行方を眩ました万菊は、安宿で夜な夜な粗雑な男衆と酒を酌み交わし
程よく酔ったところで化粧もせず踊りを披露してはウケていたという。
ある日、前夜も遅くまで飲んでいた男たちが昼になっても起きてこない万菊を不審に思い
部屋を開けてみると、そこには美しく化粧を施した万菊が眠るように横たわっていたという。
<徳次>
徳次は、映画でも少年時代の喜久雄とともに冒頭の余興で共演しているが
原作小説では花道篇の最後まで出てくる重要人物である。
喜久雄の危なっかしさを知りながら、覚悟を決めたと見ればトコトンまで付き合い、
時に尻拭いをし、時に体を張って守り、盾となり鉾となり喜久雄をサポートする。
ヤクザ者の息子だからこそ、裏の力を借りずに解決したい喜久雄の生き様と、
それを理解する徳次との関係が描かれなかったことは残念。
俊介が無二の親友であるなら、徳次は血の繋がらない兄のような存在なのだが
徳次の筋の通し方が任侠道のそれであるために、映画では退場を命じられたような気がする。
<興行とスポンサー>
徳次の件と連動しているのだが、映画版では興行というものが
スポンサーの存在なくしては成り立たないことをほぼスルーしている。
この場合のスポンサーとは即ち反社組織であるが
小説版では時代の変化に対応し、形態を変え企業として生き延びている。
そしてそこで働くのが、映画版にも出てくる竹野である。
<竹野>
映画では三浦貴大が演じている竹野もキーパーソンのひとり。
出会った時には、希望した部署と違う歌舞伎に一ミリも興味を示さなかった竹野だが
舞台を観劇するごとに歌舞伎の世界に惹き込まれ、いつしか売れっ子のプロモーターへと成長する。
映画版では端折られていたが、喜久雄の前から姿を消した俊介を
地方巡業先で発見し、復活のお膳立てをしたもの竹野である。
出自や隠し子の存在を暴かれた喜久雄が舞台を追わされた時には、
「ヤクザ者の息子が実子を追い出した」という筋書きでマスコミに触れ回り、
喜久雄を悪者に仕立てることで俊介の復活を後押しした。
喜久雄の復活を手助けしたのもまた竹野であり、俊介と喜久雄の久しぶりの舞台共演や、
同じ題材を別の場所で上演させるという競演を仕掛けるなど、
竹野の手腕があってこそ歌舞伎界が盛り上がった場面がいくつも登場する。
<幸子とマツ、二人の母>
映画版では俊介の母親・幸子を寺島しのぶが、
喜久雄の母・マツを宮澤エマが演じているのだが
まだ少し出番のある幸子はさておき、マツは少年時代にほんの少ししか登場しない。
小説版では、境遇の全く異なる幸子とマツが、俊介と喜久雄のような母性のコントラストを見せている。
マツは喜久雄の実の母親ではなく、病弱な実母の身の回りの世話をさせるために
父・権五郎(映画版は永瀬正敏)が雇った家政婦であるが、
いつしか二人は恋仲になり、実母は二人の関係を知り認めた上で
「喜久雄を頼む」と言い残して亡くなる。
マツは喜久雄のことを本当の子供のように可愛がっており
半二郎のもとに送り出した後も、「向こうの家で肩身の狭い思いをしないように」と
組長を失って傾く組の台所事情をひた隠しにしながら毎月十分な養育費を送り続ける。
一方の幸子は、部屋子である喜久雄の才能を認めつつも、
我が子可愛さに俊介の失踪後は怪しげな宗教を頼ってしまう弱さも持っている。
<藤駒と綾乃>
見上愛が演じていた芸妓の藤駒と、喜久雄との間に生まれた娘・綾乃。
映画では藤駒はほとんど登場せず、娘の綾乃も終盤に登場して
積年の恨み言を喜久雄にぶつけるのだが、小説ではもっと親子仲について描かれてる。
隠し子だった綾乃のところには定期的に徳次が様子を見に訪れており
綾乃が出版社勤務になったのも本好きな徳次の影響である。
しかし喜久雄も決して悪い父親ではなく、満点はもらえないまでも
及第を取るべく何かにつけ心は砕いていた。
綾乃も藤駒もそれは承知していて、綾乃が結婚を決めた時には喜久雄に連絡を入れて
食事の場を設け、結婚相手の相撲取りと顔合わせもした上で
「半二郎の娘として嫁ぎたい」と式への出席を依頼している。
孫が生まれた時にも「七五三に付き合ってくれ」と連絡を入れており
映画版で描かれてるほど放ったらかしではなかったのだ。
<春江>
映画版で高畑充希が演じている春江は、喜久雄から俊介へと乗り換えた女性なのだが
映画版だけ見ると何故俊介の出奔に付き合うことにしたのかが良くわからない。
春江は長崎時代には喜久雄と付き合っており、お揃いの墨を入れ将来を誓い合う仲だったが
芝居に打ち込み高みへと上がって行く喜久雄に一抹の寂しさを感じてもいた。
そんな折、同じく寂しさを感じていた俊介に絆されて付いていったのは
情に厚い春江らしい決断でもあった。
俊介と全国を転々としている間に長男の豊生を授かるも
経済的に困窮していたこともあり幼くして亡くしてしまう。
竹野の力を借りて復活した俊介がほどなく糖尿病を発症し
片足切断との診断(原作では両足)を受けた時も気丈に支えようとするが
半狂乱となった俊介を受け止め切れず、耐えかねて喜久雄に助けを求める。
喜久雄・俊介・春江の三人は、男女の関係としては変化したが絆の強さは変わらないままだった。
<彰子>
映画版では森七菜が演じていたのが彰子。
映画では突然登場し、表舞台への復活を目論む喜久雄が
権力者の千五郎(中村鴈治郎)の力を借りるために色を仕掛けたように描かれている。
きっかけは確かにそうなのだが、小説版での彰子はそんなヤワな女性ではない。
ゆくゆくは喜久雄の個人事務所の社長にまで上り詰め、千五郎と喜久雄の和解の手助けもし
藤駒や綾乃とも懇意にする懐の深さもある。
出会いは下心だったかも知れないが、喜久雄も彰子を信頼しており夫婦仲は決して悪くない。
<一豊>
小説ではかなり重要な人物である一豊は俊介と春江の間に生まれた次男であり、
長男を早くに亡くした二人にとって何が何でも守りたい存在である。
俊介と一豊の親子同時襲名披露は、二十年前に父と喜久雄が立った舞台の再現であり
苦々しい思いが去来するが、その晴れがましい場の口上に、
俊介は喜久雄に並んで欲しいと頼む。
喜久雄はこれを二つ返事で受け、俊介は一豊の襲名を喜びつつ、
本来ならばその場にいるはずだった長男を思い舞台上で嗚咽する。
足の切断をし休業を余儀なくされた時にも
俊介は一豊を預かって欲しいと喜久雄に頼み、喜久雄は無事に育てて見せると約束を交わす。
喜久雄の厳しくも深い愛情を受けた一豊は、(途中色々とあれど)歌舞伎役者として成功を収める。
<喜久雄>
小説を読むと、喜久雄はあらゆる責任から逃れて人間国宝を手に入れたわけではないと分かる。
様々な人達の力を借りつつではあるが、誰も取りこぼさずに生き抜こうと必死に駆け抜けたように思う。
映画版では、全てを手放す代わりに成功を手にした男のように描かれているが
これはそんな単純な物語ではない。
それぞれの人がそれぞれの場所で一応の安息を手に入れたとわかったところで
役目を終えたと自覚した喜久雄は、「小さな水槽に閉じ込められた錦鯉が、広く澄み切った川を想像し、
空想の川に泳ぎ出すように」(小説より)劇場を出ていったのかも知れない。


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