忍之閻魔帳

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カメラが回れば、人は演じる。映画「FAKE」〜佐村河内守・新垣隆のその後

2016年07月06日 | 作品紹介(映画・ドラマ)


▼カメラが回れば、人は演じる。映画「FAKE」〜佐村河内守・新垣隆のその後




<”堕ちたベートーベン”を覚えていますか>

2016年も半分終わり、上半期の鑑賞作品を1月から順に振り返ってみた。
楽しかった作品、感動した作品、半年の間に様々な良作と出会ったが
一番考えさせられた作品が、この「FAKE」。
オウム真理教を題材にした「A」「A2」で話題を振りまいた森達也監督が
テレビ界をも巻き込み大騒然に発展したゴーストライター騒動の
佐村河内守氏に密着したドキュメンタリーである。

聴覚障害を持ちながらも美しい旋律を生み出す姿は
”現代のベートーベン”と持ち上げられ、神格化されていった。
CDは飛ぶように売れ、佐村河内氏の訪問した先々ではいくつもの感動エピソードが生まれたが、
新垣隆氏が18年間に渡り佐村河内氏のゴーストを務めていたと
週刊文春に暴露したことで世間の評価は一変する。
作曲も出来ず、聴覚障害も嘘だとする記事のインパクトは絶大で
虚像を作り上げる手助けをしていたはずのマスコミは一斉に手のひらを返し
佐村河内氏を”堕ちたベートーベン”と容赦なく叩きまくった。

メディア総出で猛烈なバッシングを浴びせられた佐村河内氏は
表舞台から去り、妻と二人でひたすら沈黙を守ってきた。
この映画は、騒動後メディア出演を控えてきた佐村河内氏を口説き落として製作されている。



何度か書いた気がするが、私はこの騒動に関してずっと違和感があった。
会見上で「私は共犯です」と言っていたはずの新垣氏は
批判の矛先が佐村河内氏だけに集中するのをどう思っているのだろう、と。
大の大人が18年間も主従関係だけで繋がっていたはずもなく、
不利な条件でも続けるだけの”何か”が新垣氏にはあったはず。
しかし、バラエティ番組やCMに出演する新垣氏からは、そうした後ろめたさは感じられない。
私の感じていた違和感の正体に辿り着けるかも知れない。
この映画を観ようと思ったきっかけはそこである。

<ドキュメンタリー=ありのままを映した真実なのか>

森達也監督の著書のタイトルは「ドキュメンタリーは嘘をつく」である。
本作のパンフ冒頭にもこんなことが書かれていた。

誰かが笑う。
それをニコニコと書くかニヤニヤと書くかで
読み手の受ける印象は全く違う。
これを記述する人が、その笑いに対して
どのような意識や感情を持っていたかで表現は変わる。
それが情報の本質だ。
メディアに限らずぼくたちが認知できる事象の輪郭は、
決して客観公正な真実などではなく、あくまでも視点や解釈だ。
言い換えれば偏り。つまり主観。
ここに客観性や中立性など欠片も存在しない。



私もブログ開設から数ヶ月が経過した頃に「主観・客観」という記事を書いた。
このパンフを読んで思い出したので以下に抜粋して転載する。

私は常に「主観」に基づいて言葉を紡いでいる。
客観性を持とうと心掛けてはいるが、
私に出来るのは「心掛ける」までだ。
と言うか、言葉を紡ぐ者は皆「主観」を発信しているはずなのだ。
同じニュースを扱った記事の内容が
読売新聞と朝日新聞という日本を代表する二大新聞社で
面白いほどに異なる仕上がりを見せるのも、
書き手の「主観」が異なっているからに他ならない。
そして、「正解」は「主観」の数だけある。


映画「FAKE」はドキュメンタリー映画だが、
『森達也が見た佐村河内守』の記録であり、それ以上でもそれ以下でもない。
味方を装って佐村河内氏の懐に入り込み、疑惑を払拭するどころか
新たな疑惑の芽を観客に植え付けたようとしたのではと
勘繰ってしまうシーンもあるが、それは私の穿ち過ぎが原因であって
映像そのものは極めてニュートラルである(あろうと努めている)。
是枝監督の撮るドキュメンタリーが性善説に基づいているのに対し、
森監督の撮るドキュメンタリーは最終的な判断を観客に委ねている。

この映画の製作を告げる第一報で森監督は
「世間の抱いている佐村河内氏のイメージを変えてみせる」と言っていた。
確かに、私の中で佐村河内氏に対しての見方は変わった。
ただそれは、名誉を回復したわけでも疑惑の念を深めたわけでもなく、
言葉の通り「変わった」だけだ。

<獲物を仕留めれば興味を失う情報の狩人達>

タブロイド誌やワイドショー、まとめ系サイトなどを情報源として
正義の名の下に私刑を執行する人々がいる。
彼らの興味は対象を徹底的に叩き潰したり、
他にもっと面白そうな素材を見つけた途端に失せてしまう。
仮初めの正義は、真実がどこにあるのかを必要としない。

分かり易い例をひとつ出すと、あの騒音おばさんについて、
大半の人にとっては布団をバンバン叩きながら
「引っ越し引っ越し!」と叫んでいた映像しか記憶にないだろう。
マスコミがしゃぶり尽くした頃になって周辺から様々な情報が出始め、
彼女こそ被害者であるとする声も出ていたことをご存知だろうか。
(どちらが真実だというわけではなく、色々な情報が出たということ)
しかし、既に新しいおもちゃへと興味が移っていた世間は
飽きたおもちゃに真実など求めなかった。
こうして、偏った印象を刷り込まれたまま
弁明の機会も与えられない人がひとり、またひとりと増えていく。

森監督が「FAKE」の製作を発表した当時のYahoo!ニュースのコメント欄も
「今さら何ですか」「詐欺師の片棒を担ぐのか」といった
否定的な意見で溢れかえっていたのを良く覚えている。
世間の人々にとって佐村河内氏は「稀代の詐欺師」として結論が出てしまったし、
ベッキーだ舛添だと話題の尽きない情報の洪水の中で
鮮度の落ちた話題を蒸し返すほど暇はないのである。



*映画「FAKE」森達也監督独占インタビュー

<佐村河内氏の主張>

本作は基本的には佐村河内氏に喋りたいように喋らせていて
監督自身の主観(描きたいストーリー)は薄い。
聞き役に徹することで、佐村河内氏の描きたいストーリーを
吐き出させることが目的ではないかと思われる。
佐村河内氏の主張はおそらくこうだ。

「そりゃあ僕にも悪いところはありますよ。
 でも、これほどまでにマスコミに袋叩きにされ
 友人を失い、家族にまで迷惑を及ぼしたまま
 社会的に抹殺されるのは納得がいかない。
 あの騒動には多くの誤解も含まれているのだから
 そこの誤解だけでも解いておきたい。」

本作で佐村河内氏が明確に否定しているのは
「実は耳が聴こえているんじゃないか」「作曲能力はなく楽器も弾けない」の
2点についてのみであり、世間から批判を浴びたいくつかの問題点については
(おそらく)意図的に言及を避けている。
ワンサイドゲームのように叩かれまくったのだから
佐村河内氏の腹の底には懺悔や後悔の念と同じか
それ以上の悲憤が渦巻いているはず。
作品の中で語られる弁明が佐村河内氏寄りなのは当然だろう。

観ていて「おや?」と思う箇所も多いのだが、
それでも監督は「それは都合良過ぎじゃないですか」とは言わない。
ちょっと嫌な言い方をすれば、「泳がせている」に近い。
イエスマンのように頷き続けた監督は、最後の最後に佐村河内氏にある提案を出す。
このカードを切るために言葉をずっと呑み込んでいたのかと思わず膝を打つ。

<協力しなければこうなる、と知らしめるテレビ>

本作を観て違和感の正体に辿り着きはしなかったが、
いくらかの誤解は解けたし、いくらかの疑問は残った。
リアルとフェイクの配合比率は、一度観ただけの私には良くわからない。
それでも、はっきりしたことがいくつかある。

まず、番組制作社の二枚舌の恐ろしさ。
フジテレビから2014年の大晦日特番への出演を依頼された佐村河内氏。
スーツを着た4人の番組関係者は神妙な面持ちで言った。
「佐村河内さんの言い分もあると思うので、思いの丈を語っていただきたい」
しかし番組説明には「司会はおぎやはきとアンジャッシュ」
「2014年を笑い飛ばす」などの記載があり、バラエティ色が強いのではと
怪訝に思った佐村河内氏は出演を断ってしまう。
そして2014年の大晦日、佐村河内氏が出演していたはずのコーナーに
登場したのは誰あろう新垣氏だった。
騒動を振り返るVTRや記者会見の映像を使いながら
新垣氏は佐村河内氏に作曲能力がないことを念押し
司会を始め出演者は口々に「ひどいねー」と相槌を打って番組は終わった。
番組が終わり「出なくて良かった」と呟く佐村河内氏に監督は言った。

「佐村河内さんが出てればこういう風にはならなかったと思いますよ」

出演依頼をしにやって来たのはフジテレビの関係者だったが
映像には安住紳一郎と中居正広が司会を務めたTBS「音楽の日」の映像も含まれていた。
ゴールデンボンバーの歌唱中に新垣氏が乱入し、
耳が聴こえませんというパフォーマンスをして会場は大ウケという映像。
私はこの番組をリアルタイムで見ていて、嫌な気持ちになったのを覚えている。
新垣氏は18年間の積年の恨みをまだまだ返し足りないのだろうか。

森監督は新垣氏が書いた本の出版記念サイン会にも突撃し
騒動の発端になったスクープ記事を書いたフリーライターの神山典士氏にも
取材依頼を出したそうだが、二人とも断られている。
新垣氏は臭い者には蓋をしたかったのだろうか。
神山氏は自分がやったのと同じやり方で吊るし上げられると思ったのだろうか。
本作を観て「なんて新垣は酷い奴だ」「神山典士は卑怯者だ」と思えるほど
私はピュアではないが、二人が正々堂々と出てこなかったことは事実である。

ちなみに神山氏は、BLOGOS(自分のフィールド)を使って
映画を腐す記事を出している。
御丁寧に、監督が口外しないでくれと言っている
「ラスト12分」についても公開直後にも関わらず
完全なネタバレで書いているのだから、
神山氏は神山氏でかなりカチンと来ているのだろう。
だが正直このやり返し方はかなり格好悪いと私は思う。

<「ラスト12分」をどう見るか>

これが一番厄介である。
音楽家として「やっぱり凄い」と思った人もいるだろうし、
離婚もせず支え続けた妻の愛と、
それに応えた夫の新たな第一歩と観た人もいるだろう。
大仕事を終えた佐村河内氏は晴れ晴れとした顔でカメラの前に立つが、
黙々と撮影し続けてきた監督はひとつの疑問を投げかけて映画は終わる。
好きなだけ自己弁護をさせた末にあの質問を投げた監督は
佐村河内氏の味方だったのだろうか。
あることが気になってエンドロールを食い入るように見ていたが
楽曲についてのクレジットは無かった。それは何を意味しているのか。
山ほど課題を与えられた気分になる映画だった。

ドラマであろうがドキュメンタリーであろうが
人はカメラの前に100%の素では立てないのかも知れない。
撮影者のお目当てが被写体の自分語りであったとしても
感情を持たないカメラを向けられた瞬間に、人は無意識に演じてしまうのだ。

曖昧さに溢れている本作において、
唯一信じられたのは、騒動を我関せずと暮らす猫だった。



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