インチ記と褌

駄文をつらねた大変私的なドキュメンタリーブログ
※決して役には立ちません。

お江戸創作糞落語 後編

2006-04-10 | コラム

前編はこちら


「何が鬼ぜお・・、毎度馬鹿馬鹿しい・・・」と心の中では思ったが、
何を言ってるいるのか考える親分。

少し沈黙した後、急に笑い始めた親分。
その笑い声を聞いて顔をこちらに向ける西郷どん。

「知っとるぜお、知っとるぜおー。それは異国人というものぜお。鬼じゃないぜお。
お前は何もしらんぜおのー。これを見てみるぜお」
といつも懐に忍ばせている右手を上着から抜いた親分。
するとそこには見た事もない黒い鉄の塊が。
「これはな、鉄砲というものぜお」と得意顔で説明する親分。
次々に登場する新しい言葉や物に目を丸くする西郷どん。
それもそのはず、西郷どんの知っているのは火縄銃。
田舎者の西郷どん、まず知るはずも無い。

親分から異国人や鉄砲の説明を丁寧に受けた西郷どん、さっきの沈みようはどこへやら、がははがははともう笑いが止まらない。
「これがあれば鬼倒せるたい!長州と同盟を結んで幕府を倒しても問題なかばい!」
同盟に賛成した西郷どんを見て、
「そうぜおそうぜお!幕府を倒したら異国が攻めてくると心配しとったのかい!
冷静なお前らしいぜお」と龍馬親分も笑いが止まらない。
「お前はちっとばかし異国の事を知らな過ぎるぜお。勉強せんといかんぜお。これを見るぜお」と今度は懐から竹で出来た水筒を取り出した。
もうすっかり異国の虜の西郷どん、お目々をぱっちりと開けきらきらさせてそれを見る。
そして得意顔の親分の水筒から出てきたのはなんと黒い液体!

「墨汁・・・?」と小さな声で不思議がる西郷どん。
その顔が面白くてより得意顔になる親分。
「何を言っとるぜお。これはなあ・・・」ともったいぶってもう嬉しくて堪らない。
「これはな、コーシーと言ってなぁ、異国の飲み物ぜお・・・」

これを聞いた西郷どん、もう居ても立ってもいられない。

「待て待て、無くなりはせんぜお、無くなりは」と西郷どんをなだめニヤリとした後、龍馬親分がこれを飲み出した。
もう感情がいっぱいいっぱいの西郷どんは、自分が飲んでもいないのに喉をゴクゴク鳴らす始末。

「プハァー!」と横目で西郷どんを見る龍馬親分。

「お前も異国を知らんといけんのぅ、飲んでみるぜお!」

すると待ってましたと西郷どん、親分の左手から竹水筒を取るやいなや分厚い唇でで飲み穴を完全に塞ぎゴクゴクゴクゴク。

次の瞬間・・・

 「ぶはぁーーーー!」 と黒い霧を吐いたのは西郷どん。

親分の竹筒を投げ捨て二、三歩後にたじろいたと思えば、今度は親分の横にあった残りのおにぎりをちゃかり鷲掴みにし、両腕をグルグルローリングさせ駆け出しだ。
独り取り残された龍馬親分は呆れながらも、今逃がしては、と大声で名前を呼び西郷どんの後を追い出したとさ。
ちなみにその後、聞き耳を立てていた主人が竹水筒を一口飲んでこう言った、
「このコーシー、さしゅがー(流石)にすコーシー(少し)濃かったようだ」と。

 

 


お江戸創作糞落語 前編

2006-04-09 | コラム

ワタクシの使えない脳はまたしてもくだらないものを思いついたようで。取り合えず世界に向けて発信しておこうと思います。
(※この落語はワタクシの勝手な創作によってでっち上げられたもので登場する時代背景やその他全ての違和感はなんじゃらほいです。あと西郷隆盛の子孫の方がいましたら、お気を悪くしないでください笑い)

 

時は江戸徳川の時代、中仙道にある小さな茶屋でのお話。
茶屋の主人が今日も今日とて商いをしていると道の向こうから何やら侍が二人。
見れば右手だけを懐に入れて歩く目つきの鋭い男と、
グーにした両手を前後にふって歩くかっぷくのいい男。
茶屋の長椅子に腰を下ろした二人を見て茶屋の主人はびっくり。
紛れもなく坂本竜馬と西郷隆盛ではないか。
近づいてみると何やらヒソヒソと話している様子。
恐る恐る注文を聞く主人。

「何にしやしょう?」

「おいどんオニギリ5つとお茶を」と西郷隆盛。

注文の品を持って行く主人だったが、どうにも会話の内容が気になる。
すると主人はお盆を置くやいなや、店の壁に立て掛けてある藁の後にスッと隠れ聞き耳を立てた。


「西郷どん、そろそろ時がきたぜお」と坂本龍馬。

「○※$△■#」とおむすびを夢中でほおばる西郷どん。

「取り合えず両手にもっとるおむすびを置くぜお」とまずは西郷どんの食欲を止める。

流石の西郷どんも龍馬親分の言う事とあって残念そうだが従う。

「あーあー、口の周りにもいっぱい付いちょるぜお」と、ニヤリと笑い米粒を取ってやる龍馬親分に西郷どんも照れ笑い。



しばらくして、パンっと右手で右太ももを軽く鳴らした龍馬親分は

「そろそろ長州と同盟を組む時ぜお!」と言い放った。

それを聞いた西郷どん、今まで何処ぞの鼻を垂れてそうな田舎農民朴訥面だった顔がキリリと締まる。そして少し間を置いて低い声でゆっくりこう言い放った。

「おいどんは同盟は必要なかと考えておりますたい!」

それを聞いて今度は龍馬の顔がキリリと締まる。

「それは何故ぜお?」

「親分の言う事はおいどんも大事と思うたい。がしかし、今のおいどんには勇気がなかですたい。」

それを聞いた親分、西郷どんの背中を平手でパチンと叩き、
「何をでかい図体して言うちょるか」と言うやいなや、
「それたい!」と西郷どん、声を少し裏がえし直後顔を地面に垂れる。

自分に比べ2倍はあろうかという体の西郷どんの返答に不思議がる竜馬。
すると西郷どんが顔を地面に垂れたままこう言い出した。

「おいどんは鬼を見たたい・・・。」

続く


アニメーションに見るワタクシの感じる世の中③

2005-09-15 | コラム

①はこちら。②はこちら

 少し前にアメリカでこんな事が行われているのをTVか何かで見た気がする。
それはアニメではないが、最新のCGを駆使して作られた戦闘ゲームだ。このゲーム、実は一般人が遊ぶ目的で作られたものではなく、列記としたアメリカ軍人の為のものだそうだ。実際の戦争において、戦地に行ったアメリカ兵の約70%が敵を銃で殺すときに躊躇するらしい。特に若く、初めて戦地へ派遣された人に多いそうだ。人を殺すということ行為があれ程訓練され、また銃社会で育った人間でも大変な事なのだと当然の事を改めて私は思った。そんな人の為に導入されたこのゲームの目的は予想通りその躊躇を無くすことだそうだ。上官らしき人は「毎日このゲームで大量に人を殺していれば、その兵士は現場で躊躇なく敵を殺すことができるというのだ。いわば、殺人マシーンと化すのだよ」と平然と言っていた。私たち平和ぼけしまったと言われる日本人は、本当に人間はそんなロボットのようになるのか疑わしい気もするけど、効果があるから軍事大国アメリカは導入しているのだろう。
これについては様々な点で賛否両論あるにしろ、こんなことがあるという事だけは今回知っていて欲しい。実はこんな遠い国で行われている他人事に感じる訓練が、私たちの社会にも気づかないだけで存在する事に私は気づいた。

 私たちが何かを想像し物事を生み出す時には、TV等で日々見て聞いて知識となった種が開花する。その知識の種の中に貯めてあった、こんなことはありえない事だと判断していた非リアルな事がごちゃ混ぜになって出てくるのだ。いや、自分はしっかり境界線が引けている人間だ、と思った人はこんな経験はないだろうか。
映画などを見ていて本当はCGで作っているものをいつの間にか違和感がなかったこと。最初は違和感があっても連続して見ているうちに慣れてきて自分の頭の中で新しい現実をとして捕らえていることが。初対面の人間に接するときに緊張するのと同じで、何度も違和感のあった存在を見れば違和感がなくなるものだという意見もあるが、いつの間にかどっぷり使ってその気分になる事もある。例えば、映画館で映画を見て外に出た時に、見る前の世界と見た後の現在とでは少し世界が違って見えたりとか。

 大抵の人はどうあがいても今の進化し続ける社会から逃れることは出来ない訳で、さらに新しいものを見続け自分の非現実の部分もある脳内世界を発展させていくことだろう。そんな世界はよいものを発明生み出す事もあるので決して悪いことではないし、何より私たちは新しく生み出されたものに興味があり欲すだろう。しかし一方でこの想像が違った方向へ気がつかないうちに一人歩きした時、最悪の結末が起こることを忘れてはならない。現在の私が現在のアニメを含む膨大な情報に感じる『?』とは、受け入れる一方で少し疑ってみる、どうしてなぜと、最後にボタンを押すのは人間というアナログの大切さではないだろうかというあなたに対する問いかけだ。


いかがだったでしょうか?
文章を書くとホトホト自分の国語力のなさにがっくりきます(笑)
特に最後の結の部分で思っていることが文章にならないという致命的なところに。
こんなワタクシのコラムですが、一生懸命やっていきたいと思っていますので宜しくお願い致します。しばらくたってこのコラム読んだら恥ずかしいんだろうなぁ~、学校で書いた作文みたで(笑)


アニメーションに見るワタクシの感じる世の中②

2005-09-14 | コラム

前回はこちら


 さて、もう一方の『?』について話をしよう。
最初の例え話の、タイムマシンで現在のアニメを見た小学生時代の私が頭に浮かべる『?』、それは実は至って単純な内容の『?』だと思う。『!』で書いた映像技術の進化、
この流れをいくつも飛ばして作られたアニメに対するものだ。分かり易く言うと、織田信長ワルサーP38を見せたような感じだ。外側だけで見て「ああ、鉄砲なんだろうな」とわかるだけなのだ。あとは他にあるとすれば内容の複雑化だろう。ムシキングだっけ、私は小学生の間で流行っているという噂しか聞いたことがないけど、あんな感じの小学生向けの内容が対象年齢相応のアニメはもちろん残ってはいるし人気なんだろうけど、画面の綺麗さ、色の発色などにはやはり昔に比べて1オドロキはあるだろう、1へぇみたいに。

 ここまで書いてきたのは、もし昔の子供が今のアニメを見たらの話だ。しかし今回書きたかったのは、現在の私が現在のアニメーションに少なからず『?』を感じているということだ。映像や音声全てにおいてレベルアップしていると思うし、対象が大人向きのアニメなど全てにおいて幅は広がったと思う。私の世代でも全然『?』を感じない、こっちのほうがいい!という人も大勢いるだろう。好みと言ってしまえばそれでおしまいだけど、実はその裏に大きなものが存在するような気が私はする。

 世界の人々に日本人の印象について尋ねると、『よく働く人たち』という結果が出るそうだ。アンケートの真偽はやった事ないのでわからないけど、世界的に見て時間にうるさい国なのは事実であり、そこから来る印象なのかもしれない。ちなみにその印象については、『日本人個人の選択ではなく、支配層が上からあおっている公認イデオロギーの産物である』と杉本良夫の本『日本人をやめる方法』には書いてあるそうだ。確かに友達と普段何気なく会話していても「買わなくっちゃ、買わないといけない」のような、何故か自分に自分で変な義務付けをしていることがあるのではないだろうか。もちろん生活に必要なものは買わなくっちゃだが、会社が日本人の集団主義を利用し戦略的に打ち出した罠に過ぎない事を、自分たちで知らず知らずのうちに一般的、平均的なものにすり替え、流行りというものにしてしまっている事も少なくないのかもしれない。本についは読みたい人は後日読んでいただくとして、次へ行こう。

 現在は社会の複雑化など様々な理由により集団の単位が小さくなってきている気がする。『お一人さま』なんていう言葉があるぐらいだ。アニメからも少し曲がった見方をするとそんな風景が見えるもので、巨人の星(父親絶対の日本古来の家庭)→クレヨンしんちゃん(家族は一緒だけど結構みんな自由)→ラブひな、電車男(こちらは映画だけど)など(主人公個人のみの生活単位)にように、『お一人さま』は見えてくるような気もする。最近のアニメを批判つもりは全然ないし、私も楽しんで見たことのある作品もあるけれど、子供のものだったアニメは昔よりも社会をそのままに映す鏡のようになっていきているのではないだろうか。


続く

次で最後になります。


アニメーションに見るワタクシの感じる世の中①

2005-09-13 | コラム

何とかできた(?)ワタクシのコラムらしきもの、間違いなく誤字脱字が多く、かたよった考えではありますが、はじまりまーす。


 私が10代だったのはすっかり昔の事ですが、どうやら外見がやさぐれただけで、中身のほうは未だに10代青春真っ盛のようです。いや、おめでたい。
そんな私は昔からアニメーションが大好なのです。小学生の時にやっていた『ドラゴンボールZ』や『セイントセイヤ』などは、未だに再放送を見ると熱い何かがこみ上げてくるのを感じます。今回はそんなアニメなお話。

 近年のアニメは外見や内容、キャラクターなど、多種類に変化のベクトルは違うけど、多角形で構成される表現のバロメーター表は数値上では確実にでかくなっている思う。
世の中が変化すれば当然その一部であるアニメも変化する訳で、仮の話、『ドラゴンボールZ』を見ている小学生時代の私をタイムマシンで連れてきて、今のアニメを見せたらどう反応することだろう。
第2のゴールデンタイムと呼ばれる深夜枠に放送されているアニメに関しては小学生に相応しくないので深夜枠な訳だけども、それを除いても小学生の私には『!』と『?』が頭に浮かんでいるだろう。

 『!』には近年目覚しく進化したPCが大きく関わっている。
最近の映画やTV等の映像メディアには、言わずと知れたCGといわれるものが使われてる。この最先端のCG技術は日々進化し、ついこないだだった2年前の映像は今見ると何か古いというか、あ~って感じることがあるのではないだろうか。これほどに現在の技術の進化は早いのだ。
こんな最先端の技術を世界のトップを走るジャパンアニメーションはほっておく訳はない訳で、導入の結果今までのセルアニメより格段にレベルアップした作品が作られてきた。

 日本人が一度は見たことのあるスタジオジブリを例にとって見てみると、『もののけ姫』という作品が絵の具での色彩設計をした最後の作品で、その設計をした安田さんという女性がいる。監督の宮崎駿も大変な信用を寄せる彼女は、常時2000色というずば抜けた色数が頭の中にある人物だ。そんな安田さんがいるジブリの色彩設計でさえも時代の流れに乗り、現在はPCが導入されている。その事について安田さんは、以前TVで以下のように言っていた。「絵の具には随分苦労してきました。PCがいいかどうかは分からないけど、使い出して色数がさらに抱負になったし、新しい世界があるんだったらそっちの世界も見てみてもいいんじゃないかなぁ。でも使うのは人間でPCは道具にすぎないですね。」と。また、監督の宮崎駿は「私と彼女はこの色がどうして出来てきたのか、どういう色なのか、どれ程欲しかった色なのかを知っている。ただ色が画面に並んでるだけとか、デジタルだから色が無数にに作れるというのではない。」と。

少し横道にそれる内容も書いてしまったけど、色だけ見ても色数が単純に増え、新しいことができるようになった。当然、動きやその他多くの分野においても同様に、それぞれレベルはアップしているのだろう。
一言で言えばリアルだ!という『!』こそが昔の私が最近のアニメに感じるであろう『!』なのだ。

続く


いかがでしたでしょうか?いきなりヲタクなタイトルで申し訳ない(笑)
次回は『?』についてです。ではー。