山形大学庄内地域文化研究会

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「最上川の文化的景観」の保全について『山形民俗』35号 2021年11月  岩鼻 通明

2022年08月05日 | 日記
 「最上川の文化的景観」の保全について
                            岩鼻通明                          

一 はじめに
 最上川に関する学術研究で、最も早い時期の業績は『山形経済志料』第五集に掲載された五十嵐晴峯「最上川の研究」である(一)。その冒頭は「最上川と文化」から始まり、最上川によって文化は輸入せられた、とする。まさに最上川は自然景観にとどまらず、文化的景観をはぐくんだことを如実に示す指摘といえよう。
 その後、近世の古文書史料から、最上川舟運に関する調査研究は大きく進展した。にもかかわらず、歴史地理学的視点からすれば、最上川流域の港、すなわち河岸の構造および河岸集落に関する調査研究は多いとはいいがたい。河岸の構造と河岸集落の発展をリンクさせた調査研究が重要であるにも関わらず、従来の研究視点からは漏れていたのではなかろうか。管見の限りでは、この問題に言及したのは高橋恒夫と金坂清則および岡本哲志のみにすぎない(二)。
 さて、村山盆地の北端に位置する大石田河岸と南西端に位置する左沢河岸は、ともに上流と往来する川舟の中継基地であり、そこから下流へは大きなサイズの川舟に積み替えることから、河岸集落には積み替え荷物を収蔵する倉庫としての蔵が設置された。本論においては、最上川のいくつもの河岸の中でも、とりわけ重要な大石田と左沢のふたつの河岸を対象に、最上川の文化的景観の保全について問題提起を試みたい。

  二 大石田河岸の近代的変容
 最上川の河岸の中でも、最も栄えたのが大石田河岸であった。その景観は河川水運が衰退に向かう中でも、一九六〇年代半ばまでは、ある程度、維持されていた。ところが、一九六五年から始まった両岸に二キロ余りの特殊堤防が整備された後は、見る影もなくなってしまった。過去の姿は、江戸時代後期の「大石田河岸絵図」に描かれているのみである。
それ以前は当時の写真を見る限り、川船方御役所の跡も若干は残されていたようだが、特殊堤防の建設によって、河岸は堤防の下に埋もれ、役所跡も消滅した。それらの遺構については、残念ながら何ら測量なり発掘調査なりは行われなかったとのことである。
前述のように、大石田河岸は流域で最も重要な拠点としての積み替え地点であり、サイズの異なる舟が接岸していたのであった。たとえば、海の港であるが、瀬戸内の鞆の浦では「雁木」と呼ばれる階段状の港湾設備が江戸時代に整備され、水位が変動しても荷物の積み下ろしが可能な構造が存在した(図1)。海と川の違いはあるとしても、同様の設備が最上川の河岸に存在していたのではなかろうか。
特殊堤防の建設後には、景観整備と称して、まず、一九九一年から一九九五年にかけて、最上川右岸に約六〇〇メートルの長さの堤防壁画が描かれた(図2)。当時は世界最長の壁画として、ギネスブックに申請したという。さらに、一九九五年から一九九六年にかけて、塀蔵や舟役所出入口の大門(図3)が再現された(三)。
岡本によれば、大石田の近世集落は最上川に平行に通る道路を主軸に形成され、道路の両側に水運関係の家屋が短冊状に軒を並べていたという。しかも、上流から下流へと集落は発展したために、下流に行くほど、敷地の奥行は狭くなる(四)。
小山義雄によれば、大石田の河岸集落の街並みの保存をめざして、江戸期から明治期の住宅や土蔵などを町登録文化財に指定する動きが進められているという(五)。ただ、年々、伝統的建築物が取り壊され、街並みが失せつつあると記されている。この度の現地観察では、いっそう新しい建築物が目立ち、街並み保存が円滑に遂行されているとはいいがたい印象を抱かざるをえなかった。
高橋の著作は大石田町に提出された報告書を編集したもので、建築史の立場から大石田河岸集落の街並みを復原し、建物を江戸・明治大正・昭和に三区分するなどの貴重な成果が盛り込まれている(六)。本書に依拠すれば、街並み保存や文化的景観の整備が十分に可能であったと思われ、世界遺産登録推進時の消極的対応が惜しまれる。
吉村知事が世界遺産登録運動を棚上げして以来、最上川流域の多くの自治体において文化財保護が進んでいないことが明らかにされた(七)。前稿で指摘したように、文化財保護は各自治体によるボトムアップが重要であるが(八)、最上川の文化的景観において、最も重要な地位を占めるはずの大石田河岸が、このような現状であることを、どのように評価すべきであろうか。
二〇一八年に日本遺産に認定された「山寺と紅花」の構成文化財には、最上川・大石田河岸・大石田河岸絵図が含まれてはいる。しかしながら、前述のような特殊堤防と堤防壁画が果たして文化財の価値を有しているのかは、はなはだ疑問であるといえよう。せめて、前述の町登録文化財を、国有形登録文化財に格上げする努力がなされるべきではなかったのか。

  三 左沢河岸と堤防建設
 二〇一三年に大江町の「最上川の流通・往来及び左沢町場の景観」が国重要文化的景観に県内で初めて選定された。ただ、大石田と同じく左沢河岸の往時の景観はほとんど不明である。宇井は次のように述べている(九)。
  米沢藩舟屋敷(中略)門を出ると土手があり、最上川の河岸に出た。16艘ほどの大船が置かれた。(中略)渇水期には桜瀬の下に船を着け(中略)米を積んだ。その下流、桜町の川端が商人荷の移出入の港となった。
 米沢藩舟屋敷の門外から川岸まで降りる石段があったようで、大石田でも川船方御役所の門外から川岸に降りる石段があった。これらの石段が、あるいは前述の鞆の浦の「雁木」と同様の役割を果たしていた可能性を追求する必要があろうか。
 さて、二〇二一年八月二四日に開催された令和3年度第1回大江町文化的景観保存整備検討委員会の席上で、唐突に百目木地区の堤防建設に関する議案が提示された。二〇二〇年七月の集中豪雨による大規模な最上川の水害に対して、流域全体で水害を軽減させる「流域治水」を計画的に推進するために、最上川流域治水協議会が設置され、「最上川緊急治水対策プロジェクト」左沢(百目木)築堤河川からの氾濫を防止するため「堤防整備」を実施するという。早期の工事着手に向け調査検討の進め方などについて、地元説明会を開催し、堤防設計に関する測量及び設計を実施中とのことである(十)。
 もし、この堤防が建設されれば、前述の左沢河岸の遺構は堤防の下に埋もれてしまうことになる。かといって、大石田のような堤防壁画などで、景観整備を実施するというのは、お茶を濁した時代錯誤であろう。大石田の景観整備は前世紀のことであり、国重要文化的景観は二一世紀の文化財保護政策なのだから。
 たとえば、岩手県の北上川の堤防工事前の事前発掘調査にともない、藤原氏時代の柳の御所跡が発見され、遺跡保存運動の結果、保存されることになった。この発見は、後の平泉の世界文化遺産登録へとつながるものであった。最上川の文化的景観の世界遺産登録を実現させる上で、左沢河岸の景観を保全することは極めて重要であるといってよかろう。
まず、堤防ありきで議論が進められているのではなかろうか。たとえば、すぐ下流に位置する中州の堆砂撤去および植生除去によって、かなり下流への通水(水はけ)が改善されるのではないのか。
また、上流の朝日町に立地する本流唯一のダムである上郷ダムは建設以来、長い年月が過ぎており、堆砂によって有効貯水量は大きく減少している。このダムが今回の水害の際に、いかなる役割を果たしたかについて、ほとんど検証されていない、あるいは検証はされたとしても公開されていないのではないのか。
さらに、堤防設置ではなく、当該地区の民家のかさ上げ工事によって、水害を防ぐ手段は最上川流域治水協議会サイトにも明示されている。このような多様な方法と比較が行われたうえで、堤防設置という結論が導き出されたのであろうか。よもや、吉村知事の出身地への我田引水ではあるまいか。コロナ禍で国も地方自治体も膨大な累積赤字を抱える今、湯水のように予算を使うことに正当性はあるのだろうか。
四 おわりに
 世界遺産登録には文化財の真正性が要求されるという。登録候補地にはイコモス(国際記念物遺跡会議)による現地調査が実施され、改善が必要な点についての勧告が行われる。大石田の特殊堤防はまさに「絵に描いた餅」であり、真正性を有するとはまず認められないことであろうし、機能を失ったダムは撤去すべきという勧告が出ることは想像に難くない。
 将来の水害に対する備えが必要となるのは当然であるが、最上川の文化的景観と調和した対応が要求されることは、以上の立論から明らかであろう。以上、残された課題は多いと思われるが、現時点での問題提起としたい。
 注
(一)五十嵐晴峯「最上川の研究」『山形経済志料 第五集』一九二七年、山形商業会議所(復刻合本、一九七五年、郁文堂書店)。
(二)金坂清則「最上から庄内への水路と河港」(藤岡謙二郎監修、小林博・足利健亮編『街道 生きている近世二』一九七八年、淡交社、所収)。高橋恒夫『最上川水運の大石田河岸の集落と職人』大石田町、一九九五年。岡本哲志『港町のかたち その形成と変容』二〇一〇年、法政大学出版局、本書では大石田に加えて、酒田が論じられている。
(三)新庄工事事務所編『よみがえった大石田河岸 大石田地区河川環境整備事業』二〇〇〇年。
(四)前掲注(二)岡本、参照。
(五)小山義雄「最上川大石田河岸の「みなと文化」」二〇〇九年、一般財団法人みなと総合財団HP 港別みなと文化アーカイブス、所収。
(六)前掲注(二)高橋、参照。本書では、長井政太郎『大石田町誌』一九四〇年、に示された職業を復元して図化しており、戦前期には舟運関係の職業が消滅したことを示している。他にも有益な図が多く含まれている。
(七)矢島侑真・十代田朗・津々見崇「世界遺産登録運動を契機とした地域の文化財保全・活用の発展に関る研究:山形県及び県内市町村を対象として」都市計画論文集五一(三)、二〇一六年。
(八)岩鼻通明「日本遺産から世界遺産へ~その可能性を探る」村山民俗三五、二〇二一年。
(九)宇井啓「西村山の最上川の河岸」西村山地域史の研究三四、二〇一六年。
(十)国土交通省 山形河川国道事務所HPよりhttps://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/tisui/
(画像は省略)
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