山形大学庄内地域文化研究会

新たな研究会(会長:農学部渡辺理絵准教授、会員:岩鼻通明山形大学名誉教授・農学部前田直己客員教授)のブログに変更します。

江田忠先生の京城時代(「村山民俗学会会報」299~301号、2016年9~11月、より転載)

2016年11月28日 | 日記
  江田忠先生の京城時代 その1  岩鼻通明
 昨秋に刊行された「山形民俗」誌上に「江田先生の学問と私」と題する小論を寄稿した縁で、江田先生のご子息である江田清氏の消息を知るところとなり、江田清氏から江田忠先生の京城時代に関わる資料をお譲りいただいた。
 そのお礼を兼ねて、会報紙上で、これらの資料を紹介させていただきたい。まずは、京城帝大文科助手会によって刊行された学術雑誌「学海」第二輯から紹介しよう。本誌は昭和十年十二月に刊行されており、奥付の京城帝国大学法文学部内 編輯兼発行者は江田忠先生のお名前となっている。
 そして、巻末の会員動静では、所属は「本学東洋史研究室」と明記されており、先の小論では、まだあいまいな記述であったが、これで東洋史研究室助手であったことが確定したといえよう。
 さらに、会員動静には社会学宗教学研究室助手として、柳洪烈氏の名前が記されている。おそらくは小論で記した泉靖一先生の前任者にあたるのであろうか。なお、ウィキペディアによれば、柳氏は歴史学者で、戦後はソウル大学教授を務めた方とされる。
 さて、「学海」第二輯には、9本の論文が収録されている。文学、歴史学、考古学、美術史などの論文の中で、江田忠先生の論文は「パウルバックの[大地]を読む」と題したものである。
 パール・バック女史(1892~1973)は中国で活動していたアメリカ人宣教師の娘で、アメリカの大学卒業後は再び中国へ戻り、南京大学で英文学を教えながら、作家・評論家・社会運動家として活躍したという。
 「大地」の原作が出版されたのは、1931年で、1935年に新井格訳の日本語版が出版され、この訳書は後に新潮文庫版となる。江田忠先生は、この訳書を発行後まもなく入手して読破された後に、この論文を執筆されたものと思われる。
 そして、中国(原文中では「支那」が使われているが、ここでは「中国」に統一して使用する)の現実が「以農立国」であることから、農民から、この小説を取り上げたいとする。
 直言すれば、「中国は国家にあらず、民衆の寄り集まった一つの社会である」と当時の中国に対する批判的姿勢が論文中に貫かれている。小説の中に災害の描写が出てくるが、1934年の旱魃と水害の被
害の事例を引用して、農業恐慌の実態に触れている。国民党政府やマルクス主義への批判も散見するが、時代背景を勘案すれば、このような見地が京城帝大においては一般的な理解であったのだろうか。
 興味深いのは、中国の大家族制についての言及であるといえよう。歴史学というよりはむしろ、民族学的視点から、この問題が取り上げられており、このあたりに、戦後の米沢で、江田忠先生が民俗学の道へと進まれた予兆がみられると言えるのではなかろうか。
 なお、冒頭で「大地」のハリウッド映画化について言及されておられるが、この当時から既に映画への関心が芽生えていたことを示すものかもしれない。全体として、終戦の10年前とあって、まだ自由で清新な気風に満ちた若い世代の研究者によって編集された論文集であるとの印象を受けた。
 では、以上で簡単ながら、「学海」についての紹介を終えたい。

  江田忠先生の京城時代 その2     岩鼻通明
 前回は京城帝大の学術雑誌を紹介したが、今回は京城師範の同窓会誌を紹介したい。
もっとも、これらは終戦後に日本本土へ帰還した卒業生たちが連絡を取り合って、刊行を始めたものであった。
 最初に発行されたものは「旧友通信」と題され、昭和25年10月に第1号が、同年12月に第2号が出ている。当時のことゆえ、いわゆるガリ版(謄写版)印刷で、変色などもあるために、今となっては、かなり読みづらくなっている。内容は近況や消息不明の同窓生の安否を尋ねるものが大半を占めている。終戦後の過酷な状況の中を半島から引き揚げて来られた方々が、ようやく落ち着いた時期がこの頃であったのだろうか。
 その後に刊行された同窓会誌は「連枝」と「春江会報」の2種類があった。もっとも前者は僅かで、後者がメインの会誌となったようである。その後者も福岡版と東京版があるのだが、番号は通号となっており、発行責任者の違いによるものであろうか。
 朝鮮戦争の休戦後には、半島出身者の消息も伝えられてくる。亡くなった方や北朝鮮在住の方など、南北分断の悲哀を感じざるをえない。その中で、著名人として、趙炳華氏の名前がみえる。氏は昭和32年夏に東京で開催された国際ペン会議に来日され、その時に歓談した記録が「春江会報」第13号(昭和32年12月)にみえる。ウィキペディアによれば、趙炳華氏は、慶熙大学校国文科教授を歴任した有名な詩人であり、いくつかの詩集は日本語にも翻訳されている。
 最後の「春江会報」は、昭和50年6月の第22号であり、この頃になると物故者も出てくる。江田先生ご自身も、この後に逝去されたこともあり、最終号の刊行時期は不明であるが、数年前に九州の太宰府天満宮境内で、京城師範の記念碑を見つけたことがあった。卒業生が高齢化し、集まることも困難になったので、最後に記念碑を建立したという。いま思えば、この記念碑を見出したことは偶然とはいえないのかもしれない。
 この連載は、これで終わる予定であったが、意外な展開があり、それは次号に記すこととしたい。

  江田忠先生の京城時代 その3  岩鼻通明
 前回は京城師範の同窓会誌を紹介したが、それで連載を終えるつもりであった。ところが、意外な展開があり、もう一度、連載を続けることにした。同窓会誌を読む中で、昭和25年の「旧友通信」の名簿に、山形県で唯一、松村武雄氏という名前を発見した。
 それで直ちにネット検索してみたところ、寒河江市のNPO法人である「まごころサービスさくらんぼ」という福祉団体の代表者が松村武雄氏であることが判明した。もちろん、同姓同名という可能性もあるので、恐る恐る電話をかけてみたところ、ご本人であることが明らかになった。江田忠先生の教え子が山形県内で存命であったのだ。
 ぜひ直接にお会いして、京城時代のことをお聞きしたいものと電話でお伝えして、さらに詳細を手紙に記してお送りし、9月16日に寒河江へと左沢線に乗って向かった。駅から、ほど近い旧十字屋デパートビルの最上階に法人の部屋が置かれていた。
 法人が開いている平日は、毎日朝から出勤されているとのことで、お元気なお姿にお目にかかれたことは、まさに奇跡に近いものがあった。松村氏は、今年7月に『太陽視角』と『地の使命を終えて天に還った妻の夢物語』と題した2冊の著書を刊行されたばかりである。この著書とお聞きした話しから、以下の文をまとめることとする。
 松村氏は、大正14年に慶尚北道の大邱に生まれ、郵便局で働く父親の京城中央電話局への転勤にともない、京城尋常高等小学校へ転校し、京城男子公立高等小学校から京城師範学校へ進学された。学校は黄金町3丁目にあったが、イテウォンに住んでいたので、毎日、南山を歩いて越えて通学したとのことである。
 当時、師範学校は黄金町にあり、現在はすぐ東側に東大門デザインプラザなどが存在する。幻の東京五輪スタジアムの設計者であった故ザハ・ハディド女史のデザインによる斬新な建築で、昨年末に見学したことが思い出される。すぐ近くを歩いたのだった。
 松村氏は7年にわたり在学され、当時は予科5年・本科2年であったが、本科2年生の時の担任が江田忠先生であった。学級担任印として、江田先生の印鑑が捺された成績告知表も見せていただいた。
 江田先生の思い出としては、毎日の朝礼で詩吟を披露されたそうである。先の論文にも記したが、江田先生の詩吟は木村流の一番弟子だったとのことで、ラジオの朝鮮放送で江田先生の詩吟が流れたこともあった。
 江田先生は、学問と楽しみの両立が必要と説かれたそうで、カセットテープに録音された江田先生の詩吟を聴かせていただくことができた。松村氏の最も好きな詩吟は李白の「静夜思」とのことで、江田先生の泰然たる詩吟はみごとな声だった。
 松村氏は終戦直前に横須賀海軍砲術学校に入学し、日本本土へ渡って敗戦の日を迎え、行くあてもなく本籍地であった寒河江市に帰郷された。その折の受け入れ先が従兄弟の阿部酉喜夫先生であったという。
 故阿部先生には、1990年代の西川町史執筆の際に、多々ご指導をいただいたことが記憶に残る。
松村氏の亡き夫人も詩吟の達人で、阿部先生の奥様の勧めで詩吟を始められたのは、偶然とは言いがたい気がしてならない。
 なお、9月号の会報を読んでいただいた志賀祐紀会員からメールをいただき、国立国会図書館デジタルコレクションに「京城帝国大学一覧」がアップされており、昭和10年のものに、法文学部職員欄の助手の中に「江田忠 山形」という記載があり、昭和10年3月卒業生姓名にも東洋史学専攻として同様の記載がみられることを、ご教示いただいた。記して感謝を申し上げたい。
 また、昭和11年の名簿には既に江田先生の名前はなく、1年間の在職で京城師範へ移られたものと思われる。ちなみに、昭和13年の助手の名簿に泉靖一氏の名前がみえることから、お二人が同時期に助手として在籍されたことはなかった。
 以上で、江田忠先生の京城時代に関する報告を、ひとまず終えることとしたい。
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