15日(水)の午後11時過ぎに、アパートの呼び鈴がなった。
通話機のボタンを押すと、「It’s Judy!」と助けを求めるような、それでいてホッとしたような大声が響く。
階段を駆け降りると、案の定大荷物を抱えたJudyが息を弾ませている。
ハグを交わすと、頬が氷のように冷たい。
ニューヨークでは室内が異様に暖かく、外の冷え込みをなかなか実感することができない。
「ハイ、Kiyoshi!この大荷物から私を救い出してくれる?」
「もちろんさ。さて、一番重いのはどれだ?」
指差した黒いバッグ奪い取ると、本当にずっしりと重い。たぶん、3キロくらいあるだろう。
「それ、裁判の資料なの」
なるほどと頷きつつ改めて眺めてみると、彼女は合計6つもの荷物を運んで来たことが分かった。総計すると、10キロに近い。
部屋に落ち着くと、堰を切ったように今朝の裁判所での様子を報告する。
「昨日、やっと新しい弁護士に会えたんだけど、彼は別の法廷があって私には同行できない。それで、判事あてに手紙を書いてもらったの。“この依頼人にはもっと時間が必要だ”って。もちろん、判事は怒ったけれど、なんとかあと2週間の猶予をもらうことができた。次の出廷日は、3月1日。それまでに弁護士が提訴状を書き上げて私に同行しないと、この損害賠償裁判は打ち切られてしまう」
この6月から続いている綱渡りのような裁判は、いよいよ最終局面を迎えた。
俺自身は、今朝の弁護士不同行で裁判は打ち切られると思っていたのだが、“裁判大国”ニューヨークの判事(女性)は思いのほか寛大らしい。
話がひと段落したところでJudyの顔を眺め直すと、彫りの深い目の下に濃い隈ができて、げっそりと頬がこけている。
聞いてみると、昨夜は一睡もしていないという。
「地下鉄のベンチや地下鉄の中で、思わず居眠りしちゃった。乗り換えを待っているときには、立ったまま眠りそうになって、まったくひどい話!」
ここは、若い女性がバスや電車の中で公然と居眠りのできる日本ではない。
劇的に治安が改善されたとはいえ、ニューヨークの地下鉄で居眠りすることは自ら危険を招く行為であること言うまでもない。
それを知り尽くしている彼女が、そこまで追いつめられたことに思わず胸が詰まる。
気分を換えようと、昨夜渡せなかったバレンタインカードとチョコレート、薔薇の一輪を手渡す。
険しかった眉根がゆるみ、穏やかな微笑が満面に広がっていく。
「私も、あなたのために持って来たものがあるの。まずは、歯磨き粉。もう残り少なくなっていたでしょ。次に、スープ。これ、可愛い豆を煮た健康スープ。マイクロウエーブ(電子レンジ)で温めれば、身体も芯からあたたまる」
さて、いよいよJudyの“マジックショー”の始まりだ。
抱えてきた大荷物の中から、次々に“獲物”を引っ張りだす。
「これ、マカロニ&ベジタブルサラダ。これ、スペシャルサンドイッチ。これ、デザートのチョコレートクッキー」
腹ごしらえがひと段落すると、今度はプレゼントタイム。
別の紙袋から現れたのは、イタリア製のセーターだった。
胸回りに水辺とヨットと山並みを配したデザインが、まるでハドソン川のように見える。
「ね、この茶色の山並みがまるでバリセードの岩みたいに見えるでしょう?」
バリセードとは、マンハッタンの西北部にあるワシントンブリッジを渡った右手、ニュージャージーの岸壁地帯のことで、昨秋、永井荷風の足跡を辿ったとき、何度か話題にした。
彼女は、そのことを覚えていたのだ。
袖を通してみると、ジャストフィット。
運動不足で出張った腹はどうしようもないが、肩も袖も測ったように合っている。
彼女の心遣いに打たれながらも、心の中には寂寥が広がる。
このプレゼントは“バレンタインデープレゼント”とはいえ、間近に迫った別れの証でもある。
話題は、ついつい翌週22日の帰国に向かう。
「あなたが着いたのは、年末の22日。それからクリスマスがあり、私の誕生日がきて、新しい年がやってきた。それから、もう2ヶ月近くが経ったなんて、とても信じられない。時は、本当に飛ぶように過ぎていくのね」
窓の外が、白み始める。
話しながらこっくり、こっくりと居眠りを始めたJudyに眠るよう勧めるが、彼女はなかなか本格的な眠りにつこうとはしない。
過ぎ去る時を惜しむように、瞬時の居眠りから目覚めては喋り、喋ってはまた瞬時の眠りに落ち、2つの時を同時に味わい続ける。
通話機のボタンを押すと、「It’s Judy!」と助けを求めるような、それでいてホッとしたような大声が響く。
階段を駆け降りると、案の定大荷物を抱えたJudyが息を弾ませている。
ハグを交わすと、頬が氷のように冷たい。
ニューヨークでは室内が異様に暖かく、外の冷え込みをなかなか実感することができない。
「ハイ、Kiyoshi!この大荷物から私を救い出してくれる?」
「もちろんさ。さて、一番重いのはどれだ?」
指差した黒いバッグ奪い取ると、本当にずっしりと重い。たぶん、3キロくらいあるだろう。
「それ、裁判の資料なの」
なるほどと頷きつつ改めて眺めてみると、彼女は合計6つもの荷物を運んで来たことが分かった。総計すると、10キロに近い。
部屋に落ち着くと、堰を切ったように今朝の裁判所での様子を報告する。
「昨日、やっと新しい弁護士に会えたんだけど、彼は別の法廷があって私には同行できない。それで、判事あてに手紙を書いてもらったの。“この依頼人にはもっと時間が必要だ”って。もちろん、判事は怒ったけれど、なんとかあと2週間の猶予をもらうことができた。次の出廷日は、3月1日。それまでに弁護士が提訴状を書き上げて私に同行しないと、この損害賠償裁判は打ち切られてしまう」
この6月から続いている綱渡りのような裁判は、いよいよ最終局面を迎えた。
俺自身は、今朝の弁護士不同行で裁判は打ち切られると思っていたのだが、“裁判大国”ニューヨークの判事(女性)は思いのほか寛大らしい。
話がひと段落したところでJudyの顔を眺め直すと、彫りの深い目の下に濃い隈ができて、げっそりと頬がこけている。
聞いてみると、昨夜は一睡もしていないという。
「地下鉄のベンチや地下鉄の中で、思わず居眠りしちゃった。乗り換えを待っているときには、立ったまま眠りそうになって、まったくひどい話!」
ここは、若い女性がバスや電車の中で公然と居眠りのできる日本ではない。
劇的に治安が改善されたとはいえ、ニューヨークの地下鉄で居眠りすることは自ら危険を招く行為であること言うまでもない。
それを知り尽くしている彼女が、そこまで追いつめられたことに思わず胸が詰まる。
気分を換えようと、昨夜渡せなかったバレンタインカードとチョコレート、薔薇の一輪を手渡す。
険しかった眉根がゆるみ、穏やかな微笑が満面に広がっていく。
「私も、あなたのために持って来たものがあるの。まずは、歯磨き粉。もう残り少なくなっていたでしょ。次に、スープ。これ、可愛い豆を煮た健康スープ。マイクロウエーブ(電子レンジ)で温めれば、身体も芯からあたたまる」
さて、いよいよJudyの“マジックショー”の始まりだ。
抱えてきた大荷物の中から、次々に“獲物”を引っ張りだす。
「これ、マカロニ&ベジタブルサラダ。これ、スペシャルサンドイッチ。これ、デザートのチョコレートクッキー」
腹ごしらえがひと段落すると、今度はプレゼントタイム。
別の紙袋から現れたのは、イタリア製のセーターだった。
胸回りに水辺とヨットと山並みを配したデザインが、まるでハドソン川のように見える。
「ね、この茶色の山並みがまるでバリセードの岩みたいに見えるでしょう?」
バリセードとは、マンハッタンの西北部にあるワシントンブリッジを渡った右手、ニュージャージーの岸壁地帯のことで、昨秋、永井荷風の足跡を辿ったとき、何度か話題にした。
彼女は、そのことを覚えていたのだ。
袖を通してみると、ジャストフィット。
運動不足で出張った腹はどうしようもないが、肩も袖も測ったように合っている。
彼女の心遣いに打たれながらも、心の中には寂寥が広がる。
このプレゼントは“バレンタインデープレゼント”とはいえ、間近に迫った別れの証でもある。
話題は、ついつい翌週22日の帰国に向かう。
「あなたが着いたのは、年末の22日。それからクリスマスがあり、私の誕生日がきて、新しい年がやってきた。それから、もう2ヶ月近くが経ったなんて、とても信じられない。時は、本当に飛ぶように過ぎていくのね」
窓の外が、白み始める。
話しながらこっくり、こっくりと居眠りを始めたJudyに眠るよう勧めるが、彼女はなかなか本格的な眠りにつこうとはしない。
過ぎ去る時を惜しむように、瞬時の居眠りから目覚めては喋り、喋ってはまた瞬時の眠りに落ち、2つの時を同時に味わい続ける。