11月6日、朝6時半。
室温は、16℃である。
手足が冷たく、長袖Tシャツの上に薄手の中間着とフリースジャケットを羽織った。
焚火の側で熱い薬草茶をすすってから、家の前のコンクリート道路と庭の間にできた段差に赤土を埋め込む作業に取りかかった。
ラーは台所で、プラーニン(養殖魚)のうこん味スープづくりに励んでいる。
すると、隣家のメースワイ、ミスターオッケー、従兄弟のマンジョーなどが次々にやってきて、焼酎を所望する。
今日はクルマの引き渡しがあるので、“お祝い”にやってきてくれたのである。
私は作業中で、運転もあるので飲めないのだが、とにかくやってきた人々に飲んでもらうことに意義があるらしい。
ラーが私のそばにやってきて、そっと囁く。
「クンターは飲めないのに、ごめんね。でも、こうして人がやってくるということはクンターがみんなに好かれている証拠だし、先々にいいことが起きる印なんだよ」
*
今日は、クルマの引き渡しに立ち会うため、三男のポーも学校を休むらしい。
「おいおい、クルマなんかいつでも乗れるんだから、学校には行かせた方がいいだろう」
「あのね、クンターと結婚する前ウチはとても貧しくて、バイクもなかったでしょう。この子が小学校に入ったころは、送迎制度もなくって、学校まで30分くらいかかって歩いていたんだよ。そのとき、クルマやバイクで学校に送ってもらえる友達に手を振っても誰も乗せてくれず、学校に着いたらその子らに“貧乏人”ってバカにされたの。この子はそのことをずっと忘れず、心の中にしまってきたんだ。だから、今日はとっても幸せで幸せでたまらないんだよ」
「・・・」
そういえば、結婚後にバイクを買ったとき、ラーが涙を流して喜んだことを思い出した。
そのラーも、朝から時間ばかり気にしている。
「クンター、いま何時?」
「だから、7時半って言ってるだろう。引き渡しは8時59分なんだから、8時半に家を出ればじゅうぶん間に合うよ」
「でも、心配で心配で」
「何が?」
「もちろん、クルマだよ」
「クルマの何が?整備も済んだし、名義変更も済んでるんだから、今日はすべてをチェックして支払いをすませるだけなんだ。だから、何も心配することはないんだよ」
「分かっているんだけど、なんだか心臓がドキドキしちゃって。あー、もう死にそうだよ」
「・・・」
*
ピムの店に行くと、エンンジンルームをあけて最後の点検をしているところだった。
「いやあ、昨日チェンマイに行く途中でタイヤがパンクしちゃって。とりあえず、中古品を買って交換しておきましたが、タイヤは近いうちに全部取り替えた方がいいかもしれませんね。あ、それから自賠責保険は2年分払っておきましたから」
見た目はそれほど傷んでいなかったのだが、まったく何が起こるか分からないもんだ。
まあ、引き渡しの直後にパンクするよりも増しだろう。
すべてのチェックを済ませてクルマに乗り込むと、バックミラーにお守りがさがっている。
「ドイステープのふもとで、高僧のお守りを買ってきました。このTシャツ2枚とマスコット人形も、よかったら使ってください。それから、これは僕の母親から幸運のための米と水の贈り物です」
至れり尽くせりである。
最後に、彼が運転席の外に立って合掌し、幸運のためのお祈りを捧げてくれた。
私たち3人も、合掌してこれを受けた。
*
そのままお寺に向かい、ラーが信頼している僧にお祓いをお願いした。
クルマに乗ったまま、まずはフロントガラスに聖水を振りかける。
次に、念仏を唱えながらハンドルの一部とシフトレバーに木綿糸を巻き付けた。
タイでよく見かけるように、ハンドルの根元にぐるぐる巻き付けることはしない。
ラーにそのことをささやくと、「このお坊さんはパワーがあるから、これで十分なの」とささやき返した。
最後に、本堂にあがり、椅子に座った僧に供物セットと封筒に入れたタンブン(縁起をかついでこれまた9の数字を意識した290バーツ)を捧げ、お祈りを受ける。
聖水用の容器をラーとふたりで持ち、念仏を受けながら別の器にその水を注いだ。
*
さて、支払いのため町にたったひとつある商業銀行に行くと、バンコク銀行名義のATM振込はできないという。
そこで、初ドライブを兼ねて、バンコク銀行支店のあるホットの町まで走ってみることにした。
片道、約100キロ。
オムコイからホットへの道は、全面舗装ながら起伏に富んでいるのでテストドライブにはもってこいである。
エンジンは快調だが、やはりタイヤやサスペンションはへたっているようで、道路の凸凹をダイレクトに拾ってしまう。
クラッチも多少滑るようで、4速に入れたつもりがしばしばバックに入ってしまう。
それにしても、山道を走っていると5速シフトはどうも煩わしい。
私はマニュアル車が好きで、特に坂道でエンジンブレーキに切り替えるときの感触がたまらないのだが、日本で最後に乗ったワーゲンがオートマだったので、そのときの無精な感覚が残ってしまったのだろうか。
免許取り消しになってワーゲンを売り払ったのが、確か4年前。
チェンマイに来て、ガールフレンドのクルマをときたま運転していたのが、3年前。
考えてみえば、ずいぶんと久しぶりの本格的なドライブである。
*
ホットに着いて、銀行で待っていたピムの口座に現金を払い込んだ。
昼食を済ませると、彼は名義変更書類を受け取りに再びチェンマイへと向かった。
市場で野菜などを買い込んだあと、スペアキーを作ろうとしたら、あまりの暑さにラーとポーが音を上げた。
オムコイでも日中は30℃にはなるのだけれど、平地の暑さは山のそれとは質が違う。
脳や内臓の中に、暑さがむりやりねじこんでくる、とでも言えばいいのか。
なにしろ、朝には寒くて焚火をしていたくらいなのだから、その温度差は20度に近い。
オムコイの冷涼さに慣れた彼らの体は、日本の厳しい寒さと蒸し暑さに鍛えられた私の体よりも、はるかに耐性がない。
やむなくスペアキーづくりをあきらめ、クルマに乗り込んでクーラーを全開にした。
途端に息を吹き返したふたりは、おやつの乾燥果物を食べ初め、歌を歌い、そしてぐっすりと眠り込んだ。
やれやれ。
これは、いわゆる家庭サービスというものなのだろうか。
私は苦笑しつつ、久しぶりのロングドライブをひとり楽しんだ。
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室温は、16℃である。
手足が冷たく、長袖Tシャツの上に薄手の中間着とフリースジャケットを羽織った。
焚火の側で熱い薬草茶をすすってから、家の前のコンクリート道路と庭の間にできた段差に赤土を埋め込む作業に取りかかった。
ラーは台所で、プラーニン(養殖魚)のうこん味スープづくりに励んでいる。
すると、隣家のメースワイ、ミスターオッケー、従兄弟のマンジョーなどが次々にやってきて、焼酎を所望する。
今日はクルマの引き渡しがあるので、“お祝い”にやってきてくれたのである。
私は作業中で、運転もあるので飲めないのだが、とにかくやってきた人々に飲んでもらうことに意義があるらしい。
ラーが私のそばにやってきて、そっと囁く。
「クンターは飲めないのに、ごめんね。でも、こうして人がやってくるということはクンターがみんなに好かれている証拠だし、先々にいいことが起きる印なんだよ」
*
今日は、クルマの引き渡しに立ち会うため、三男のポーも学校を休むらしい。
「おいおい、クルマなんかいつでも乗れるんだから、学校には行かせた方がいいだろう」
「あのね、クンターと結婚する前ウチはとても貧しくて、バイクもなかったでしょう。この子が小学校に入ったころは、送迎制度もなくって、学校まで30分くらいかかって歩いていたんだよ。そのとき、クルマやバイクで学校に送ってもらえる友達に手を振っても誰も乗せてくれず、学校に着いたらその子らに“貧乏人”ってバカにされたの。この子はそのことをずっと忘れず、心の中にしまってきたんだ。だから、今日はとっても幸せで幸せでたまらないんだよ」
「・・・」
そういえば、結婚後にバイクを買ったとき、ラーが涙を流して喜んだことを思い出した。
そのラーも、朝から時間ばかり気にしている。
「クンター、いま何時?」
「だから、7時半って言ってるだろう。引き渡しは8時59分なんだから、8時半に家を出ればじゅうぶん間に合うよ」
「でも、心配で心配で」
「何が?」
「もちろん、クルマだよ」
「クルマの何が?整備も済んだし、名義変更も済んでるんだから、今日はすべてをチェックして支払いをすませるだけなんだ。だから、何も心配することはないんだよ」
「分かっているんだけど、なんだか心臓がドキドキしちゃって。あー、もう死にそうだよ」
「・・・」
*
ピムの店に行くと、エンンジンルームをあけて最後の点検をしているところだった。
「いやあ、昨日チェンマイに行く途中でタイヤがパンクしちゃって。とりあえず、中古品を買って交換しておきましたが、タイヤは近いうちに全部取り替えた方がいいかもしれませんね。あ、それから自賠責保険は2年分払っておきましたから」
見た目はそれほど傷んでいなかったのだが、まったく何が起こるか分からないもんだ。
まあ、引き渡しの直後にパンクするよりも増しだろう。
すべてのチェックを済ませてクルマに乗り込むと、バックミラーにお守りがさがっている。
「ドイステープのふもとで、高僧のお守りを買ってきました。このTシャツ2枚とマスコット人形も、よかったら使ってください。それから、これは僕の母親から幸運のための米と水の贈り物です」
至れり尽くせりである。
最後に、彼が運転席の外に立って合掌し、幸運のためのお祈りを捧げてくれた。
私たち3人も、合掌してこれを受けた。
*
そのままお寺に向かい、ラーが信頼している僧にお祓いをお願いした。
クルマに乗ったまま、まずはフロントガラスに聖水を振りかける。
次に、念仏を唱えながらハンドルの一部とシフトレバーに木綿糸を巻き付けた。
タイでよく見かけるように、ハンドルの根元にぐるぐる巻き付けることはしない。
ラーにそのことをささやくと、「このお坊さんはパワーがあるから、これで十分なの」とささやき返した。
最後に、本堂にあがり、椅子に座った僧に供物セットと封筒に入れたタンブン(縁起をかついでこれまた9の数字を意識した290バーツ)を捧げ、お祈りを受ける。
聖水用の容器をラーとふたりで持ち、念仏を受けながら別の器にその水を注いだ。
*
さて、支払いのため町にたったひとつある商業銀行に行くと、バンコク銀行名義のATM振込はできないという。
そこで、初ドライブを兼ねて、バンコク銀行支店のあるホットの町まで走ってみることにした。
片道、約100キロ。
オムコイからホットへの道は、全面舗装ながら起伏に富んでいるのでテストドライブにはもってこいである。
エンジンは快調だが、やはりタイヤやサスペンションはへたっているようで、道路の凸凹をダイレクトに拾ってしまう。
クラッチも多少滑るようで、4速に入れたつもりがしばしばバックに入ってしまう。
それにしても、山道を走っていると5速シフトはどうも煩わしい。
私はマニュアル車が好きで、特に坂道でエンジンブレーキに切り替えるときの感触がたまらないのだが、日本で最後に乗ったワーゲンがオートマだったので、そのときの無精な感覚が残ってしまったのだろうか。
免許取り消しになってワーゲンを売り払ったのが、確か4年前。
チェンマイに来て、ガールフレンドのクルマをときたま運転していたのが、3年前。
考えてみえば、ずいぶんと久しぶりの本格的なドライブである。
*
ホットに着いて、銀行で待っていたピムの口座に現金を払い込んだ。
昼食を済ませると、彼は名義変更書類を受け取りに再びチェンマイへと向かった。
市場で野菜などを買い込んだあと、スペアキーを作ろうとしたら、あまりの暑さにラーとポーが音を上げた。
オムコイでも日中は30℃にはなるのだけれど、平地の暑さは山のそれとは質が違う。
脳や内臓の中に、暑さがむりやりねじこんでくる、とでも言えばいいのか。
なにしろ、朝には寒くて焚火をしていたくらいなのだから、その温度差は20度に近い。
オムコイの冷涼さに慣れた彼らの体は、日本の厳しい寒さと蒸し暑さに鍛えられた私の体よりも、はるかに耐性がない。
やむなくスペアキーづくりをあきらめ、クルマに乗り込んでクーラーを全開にした。
途端に息を吹き返したふたりは、おやつの乾燥果物を食べ初め、歌を歌い、そしてぐっすりと眠り込んだ。
やれやれ。
これは、いわゆる家庭サービスというものなのだろうか。
私は苦笑しつつ、久しぶりのロングドライブをひとり楽しんだ。
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