今日の一貫

六次産業化や農商工連携は、百姓の復活、昔に返れと言うこと

競争力のある農業を構築すべきと主張しているが、それを異邦人の主張のようにとらえるのが、我が国の農業界の人々。
だが、何のことはない、これは、昔に返れと言ってるにすぎないのだ。

競争力の強化手法として、生産性の強化や、顧客志向、融合産業化などを主張している。
融合産業化は、農村での六次産業化や農商工連携、企業の農業参入の推進等々
だが、我が国においては農地法によって未だに阻害されている。

 

どちらかといえば都市に存在するといわれる自営業者だが、農地法ができるまで、我が国の農村にも多くの自営業者が存立していた。

農水省のどこの課とはいわないが、いまだに「農地は企業が入るようにはできていない」と主張しているという。

09年の農地法改正は何だったのだろうか?また経営基盤強化法と扱う課が違うのも如何なものかとも思う。

こうした発想が、戦後、農業の成長を阻んできたともいえよう。
 

それはともあれ、農村での自営業者と言えば、『百姓』
『百姓』を農村に再生せよ、という主張は、昔百姓が生成し得た状況を、今制度として作り出せと言うこと。
六次産業化は、「農業は昔に返ること」「戻ること」を少し検証しておこう。

というより、百姓に自営業者が含まれるという説についての検証と言っても良い。

百姓(
hakuseihyakuseihyakusyou)の意味する中身については、それを農民とイコールでとらえてきたのがわが国の近代。
ただ、近年、それは、一般的ではなくなってきたようだ。

むしろ、百姓は、農村に住まいする様々な生業従事者、農村自営業者、と理解するのが普通になってきている。

 

もっとも、歴史的実態認識に関しては、様々な見解がある。

歴史研究は、地方の地主や商家に残された文書を丹念に調べる中から類推して日本の過去の農村を語る手法がもっぱらである。
ある種のケーススタディである。したがって、ケーススタディを、当時としては例外事例なのか、普遍性をもったものとするのかは、論者によって異なるのはやむを得ない。
論者の仮説に沿って事例が使用されることが多いことから、普遍性推定には、やはりある種の限界が伴うことは否めない。

 

したがって、百姓を農家をも含めた農村生業家、農村の自営業者と理解するのは、そうしたケースもあるかもしれないが、例外にすぎないといった主張も可能かもしれない。 

その上で、百姓をすべて農民とした明治時代の統計の有り様はあきらかに誤りとするのが近年の定説と言っても良い。
それでも、全てとは言わないまでも、百姓の大多数が農民である以上、百姓=農民としても何ら問題はないとする論者もいる。

 

それに対し、網野喜彦は、商品経済の発達によって、農村でも都市的事業者が増加し、百姓とされた中にも商工業者が存在したという。
古島敏雄
摂津国平野郷、備中国倉敷村の実態から、「商工業村落」とも言うべき村について言及している。

商工業村落での商工業者は皆百姓とされたというのが網野の説である。
 

またたとえ農民でも、四木三草といわれた茶、桑、コウゾ、漆、それに麻、藍、紅花の作付け、それに基づく農村での農産加工の進展は目を見張るものがあったといわれているし、
副業として行われた、綿花や繭・生糸・実綿・小豆・粟・野菜の収入は副業の域を超えるものであったという。

これらは、年貢となる米生産を遙かにしのぐ稼ぎとなっていたようである。


十年以上前、病後の佐藤常雄と一夕をともにしたことがあるが、彼の推論によれば、六公四民といわれ苛斂誅求を極めたといわれる封建時代でも、『定免法』による年貢制度が定着する享保年間以降(1716年から)明治三年までは、生産力の発展によって『民』の取り分が実質的に増え、米増収だけではなく、
米以外の作付け作物や農産加工、農間稼ぎ等々様々にあり、分母(農家収入)に米生産額ではなく、これら副業の収入も加え計算すれば四〇%の税率は、実質一〇%ほどにすぎなかったのではないか、と語っていた。

これは、『貧農史観を見直す』講談社現代新書として著されている。
いまから15年ほど前のことである。

 

さらに網野善彦の言うように『百姓』は全人口の8割弱を占めるが、その内農業者は8割弱にすぎないという。
つまり全人口の8×8=6,4割弱が農民と言うことになる。

「百姓」の20%は、農業者以外の農村自営業者と言うことになる。
残りの80%の「百姓」のうち、4割は、農村副業として農産物加工業によって生計を営んでいる百姓。
狭義の意味での農業、つまり田畑における穀物の生産を生業とするものは6割ということになる。


つまり、『百姓」の半分の5割は実は農村自営業者(52%)であり、残りの5割弱(48%)が残りの半分が穀作中心農業者だったというのである。
これらの実態?推論は、、米生産を中心とする農業を中心とした社会が日本の封建制下での農村像であるとする農村像を打ち消すことになるというのである。

 

構図は、

町人・侍などの都市居住者が人口の2割強

百姓と呼ばれる農村居住者が8割弱。

 

さらに『百姓』の内、回船問屋や酒屋と言った農人以外の自営業者と『農人』で農産加工を中心に営む自営業者が4割。農人で田畑穀物生産者が4割弱と言うことになる。

 

農村の半分(5割)以上が農村副業も含めた自営業者、あるいは生業家だったという指摘は、明治大正期の農村をみていると容易に想像がつく。

また、江戸末期の農村の人々のお伊勢参りや商品作物の作付けの拡大、商品経済の発達を思えば、納得しうる数値でもある。

 

網野喜彦がこだわったのは、「百姓」概念で現される実態が、農民(農業者)のこととされた明治以降の常識についてであった。
そのためかどうかは知らないが、本来平民とでもいった意味合いのこの概念が田舎ものとでもいった蔑視語として流通してしまう。

要は、現代で、農村の自営業者たる「百姓」を再生させればいいのだが、「百姓再生」といっても、何となくしっくりこないのは、明治政府以降の百姓概念の変質によるところが大きい。
それがまた貧農史観による、わが国の歴史学によって増幅させられてきたのだろう。
いまや農協の思想ともなっている、農民弱者=保護されるべきもの、へとつながっている。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「農業参入・法人化」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
2023年
2022年
人気記事