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すごく遅い「入門書の歴史」の振り返り。

2022-03-31 15:59:57 | 囲碁の入門書

どうも、囲碁の先生してます関です。

1月30日と2月27日、「入門書の歴史」 ありがとうございました!

youtubeでも動画アップされてますので、ぜひ見て見て下さい~

 

だめだとは思うんですが、たくさん喋ったり文章をたくさん書いた後には、なんか筆がとれなくなるので、今になりました。他にも忙しかったし・・・

しかし時間が空いたことで進んだ点もあると思うので、、いま改めてこれにコメントしてみたいと思います。
 
 
 
・先日、囲碁史学会のかたに、「入門書の歴史という試みは新しい」というようなことを言っていただけました。
ありがたいし、確かに!とも思いました。
 
囲碁の歴史は「盤上」の歴史、同時に「トップ棋士」の歴史というのが大きな流れだと思います。
江戸時代から現代まで、プロ制度が中心に置かれて、囲碁界を見ている感じ。
 
囲碁がどのように話され、紹介され、遊ばれ、考えられ・・・という、いわば「民衆」の側の歴史を見つけることができるだろうか。増川宏一先生のご研究(『碁』法政大学出版局 など)はその点も多く書かれています。
 
昔はその点を知れる史料は少なかったけれど、現代では必ずしもそうでもない。
つまり今回でいえば数多くの「入門書」を通じて、
(それを書いたのは囲碁強い人であっても)
囲碁を覚える瞬間について何かを知ることができるかも知れないわけですね
囲碁の文化を考えたり作ったりするにあたって、そのあたりを知ることは重要でしょう。
 
たとえばツイッターだけを見ても、たびたび議論が起きたりします。
(最近だと囲碁入門関連、書籍の厳しい記述について、碁会所批判、などでしょうか)
 
何かが語られることで浮かぶべき問題が浮かび、それぞれの立場が顕れたりするので、大事なことです。
それを実り多いものにするためには、過去にどんな言説があったのか、という土台があったら尚よいわけで、それが文系の研究の価値の一つだと思われます。
 
例えば、1961年『囲碁の手ほどき』(下田源一郎五段)の前書きに、囲碁入門で大事なことの精神が先駆的に書かれていたり
明治から現代にかけて、厳しい記述は減ってきていたり(これは紹介しきれませんでしたが)
 
などなど、もうすでに考えられていたことが色々あったのでした。
 
私としては、「強いほうの人が、相手のことを想像できないこと」
をやめていく過程が入門書の歴史に見られると思います。(まだ途中とは思いますが)
 
例えば、囲碁が強い人の感覚だけで入門書を書いて、初心者が全くわからんものができちゃったりとか
厳しい言葉が当たり前に使われていたけれども、当然それが大丈夫じゃない人もいるわけで、それをやめていくとか
 
現代的な基本姿勢として、あったほうがいいんじゃなかと思います。
 
 
・女性差別について、第二回で取り上げました。
 
(この記事についても、同様に考えていただきたいです)
 
私は世間一般から見ても「マジョリティ」のほうになりやすい立場の人間ですし、囲碁の世界でもそうだと言えます。
男性です。囲碁が強いほうの人間として、仕事をしています。
 
囲碁の世界は人間を男女に二分した形でとらえて、男性優位なように不平等な形を温存しており
(解消の努力があること、同じ土俵で戦っていることは勿論ですが)
それを解消する責任があるとしたら、それはマジョリティ側にあると思います。
私個人の意見でもありますが、一般的といえる発想ではないでしょうか。
 
それゆえ、「そんな自分がどうするか」からスタートすることにこだわりました。
聞いて下さっている皆さんの立場はそれぞれですが、ジェンダー記述への検討は「人間への囲碁入門」を考えるとしたら必要です。そこに特定の人への排除があったら、人間への、とは言えないためです。
 
 
さて、そんなわけで発表では「女性」についての記述を見ていったのですが、それは従来の囲碁界の言説に準じたものでして、足りていないところがあると思われます。
ジェンダー研究やフェミニズムの昨今の考え方では、そして実際の人間のとらえ方としては、
男女の二元論では人間をとらえられない
となるはずです。
その点をほぼ何も言えなかった(質疑応答のときに一言だけ)ので、私というか囲碁界の課題だと思います。
 
たとえば、いま「ペア碁」の公式大会では、「男女」で組むものとなっていますが、このままでいいのかどうか。
 
「女流」なる概念を検討する回がもし開催出来たら、そのときに発表したいですし、考え続けていくと思います。
 
 
・完全に後で気づいたこと。
 
石倉九段への批判のさなか、明治時代とやってることが変わらない」というくだりがありましたが、それは「女性」への見方として、でした。
逆に内容として変わったこととは何か、って言ったら囲碁なんですけど
 
明治では囲碁は「戦い」(野武士!!)、激しい男性的なものと見られていたのに対し、
石倉九段の段階では穏やかなもの」と見られていること。
そして現代のわたしたちも、後者のイメージを所与のものとして受け取りがちであること。
どこかのタイミングで、囲碁が激しいものから穏やかなものに変わった。
少なくとも、そういう言説が増えてきたキッカケがあるはずだ。
 
さっこん、囲碁は「平和」といわれることが多い気がします。なんなら私の囲碁アートも言われます。
明治の段階から、よくそこまでイメージを変えたものです・・・。
 
しかし同時に、逆に、「いくさ」としての説明も歓迎されるでしょう。
「戦争ゲーム」として説明されることが、今もあるはずです。
 
この平和と戦いの奇妙な関係とは。いつからそうなったのか、だれがそうしたのか。
 
この精神の変遷が気になりました。とりあえず、すぐに浮かぶのは呉清源九段の「碁は調和」という発想でしょうか。
 
 
とりとめがありませんが、ひとまず思ったことを書いてみました。
お読みくださりありがとうございます!


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