囲碁とロック

好きなことについて

なぜ和谷の碁をだれも知らないのか 囲碁ガチ勢のヒカ碁論(2)  

2022-09-28 19:55:17 | 日記

※今回もネタバレ注意です。

 
 
 
 
「和谷の対局ってまだ見たことありませんねえ」
 
 
久々に『ヒカルの碁』をじっくり読み返してみて、印象に残ったシーンがありました。
 
ヒカルが「院生」で頑張っている時期。
第55話(コミックス7巻、85ページ)にこんなやりとりがあります。
 
佐為「和谷の対局ってまだ見たことありませんねえ」
ヒカル「ああ どんな打ち方してくるか楽しみだぜ」
 
たしかにそうだ。
プロ棋士を目指す院生の上位の先輩で、入ったばかりのヒカルの面倒もよく見てくれて、研究会にも誘ってくれた和谷。
彼との対局を控えて、胸を躍らせるシーンです。
 
・・・さて問題
和谷は「どんな打ち方」でしょう?
 
 
 
ほとんどの人の「打ち方」がわからない
 
 
そう、分かりません。何も書いてありません。
 
ヒカルの碁では、たとえメインキャストであっても、
「その人がどんなタイプの碁打ちなのか」
「どんな展開を得意としているのか」
が、描写されることは稀です。
すでに読まれたことがある方は思い出してみてほしいのですが、碁のタイプがハッキリ分かる人、どれくらいいたでしょう。
 
囲碁は勝敗がつくものです。
ヒカルが囲碁大会や院生、プロ試験などで戦うことで物語が進んでいくので、『ヒカルの碁』は一応、「バトル漫画」の側面を持っているはずです。
だからこそ、これはすごいことだと思います。
 
例えばお隣、『テニスの王子様』では、主人公の学校である青学の面々はもちろんのこと、ライバル校の選手でも、それぞれのプレースタイル、得意技をどんどん描写しています。
河村先輩は見た目通りパワー系だし、乾先輩も見た目通りデータテニス。
天才・不二先輩はカウンター技を沢山持っており、戦いの中でそれが進化していきます。
スタイルと技のぶつかり合いが、バトルの内容を面白くしていると思います。(それがテニスなのかは別として)
 
バトル漫画はこの世に数多い。
お好きな作品を思い浮かべていただくだけでも、戦う人のそれぞれにスタイルがあり、必殺技がある・・・という例には事欠かないでしょう。
 
 
囲碁にも「棋風」や「得意布石」がある
 
 
囲碁にはそういうのが無いから?
と思われるかも知れませんが、いえいえ、あるんです。
 
碁盤全体にでっかく広げる「模様派」か、端をしっかり陣地にする「実利派」か。
攻めを目指して組み立てるか、守り重視でいくか。
いろいろなところに先回りする「足早」か、じっくり打つ「本手」か。
そもそも、こだわりすぎず、相手の出方に応じるか。自分のスタイルを貫くか。
 
このあたりの得意・不得意や好みが、人それぞれ違ってきて、スタイルと言えるものが形成されます。
それを「棋風」(きふう)といったりします。
 
そういう意味で、和谷がどんな「棋風」なのかが分からないのです。
彼といえば、プロ試験でのヒカル戦、生きるか死ぬかの勝負が思い出されます。
しかしあの一局があったとしても、どういうタイプかまでは、言いきれません。
たまたまそういう展開だったのかも知れないですし。
 
 
逆に、割と明らかになっているのは・・・
 
佐為。「本因坊秀策」そのもの。のち「現代の定石を覚えた秀策」になる。
ちなみに秀策は、判断力に優れており無用な戦いはしない、オールラウンダーだと思います。
 
筒井さん。「ヨセだけはほんとマチガエない」「目算とヨセはキッチリ」(第11話、2巻71ページ)
ヨセは終盤のことで、そこで勝負するタイプと見られます。
ちなみにヨセを間違えないのは完全に「プロ」の技術なので、一部では筒井さん最強説も囁かれます。
 
三谷。「ゴーインな攻めや不意を突く一手」(第27話、4巻44ページ)
碁会所や賭け碁で鍛えたというバックグラウンドがよく表れています。
 
越智。「キミは少々地を気にしすぎるんじゃないかな」「厚みは攻めに働かせないと・・・」(第80話、10巻33ページ)
アキラに指摘される場面です。たしかに、弱点という形でも個性が表れることはあります。
 
塔矢名人。「何とスピードのある足の早い碁だ」(第110話、13巻122ページ)
個人的には、「昭和の碁聖」といわれる呉清源九段の棋風を意識していると思っています。
秀策(佐為)が江戸の碁聖であることの対比でもあります。
 
これくらいじゃないでしょうか。(他にもあるかも?)
実はヒカルやアキラですら、はっきりと言われていないと思います。
中学の団体戦編では葉瀬中の二人がノミネートされましたが、加賀の碁は分かりません。
院生・プロに至っては、ほぼ不明となります。なんてこったい。
(「冷静」「強い」など、あいまいなものは除きました)
 
ここで、現実の囲碁の世界を見てみましょう。
プロ棋士の先生で、有名なのは・・・
 
地を正確に数える力が抜きんでており、ミクロの差で勝負をつけるスタイルでタイトルを獲得しています。
筒井さん的な棋風の代表者といえます。
 
その名の通り、石を攻めて、取ってしまう力が強く、恐れられました。
ベテランになるにつれ「ヨセ(終盤のこと)の加藤」とも。
 
自然に広い方に石がいき、いつのまにか碁盤全体を包み込む大宇宙があらわれます。
囲碁を知らなくても、なんか、見るだけで「分かる」かも知れません。明らかに他と違います。
 
いちばん新しいところでいくと、例えば上野愛咲美女流棋聖は「ハンマー」が定着しました。
やたら相手の石、殺してますよね。そうなる確率がものすごい。
 
挙げたらキリがないのですが、ここは代表として武宮正樹九段を詳しく見てみましょう。
(なぜか?私がいちばん影響を受けた人だから!!)
 
武宮九段、この人は代名詞的な「得意布石」を持っています。
そう、「三連星」です。
 
 
(最近は変わりましたが)昔は先番ならば、ほぼ三連星しか使っていませんでした。
武宮九段と言えば三連星、三連星と言えば武宮九段。
 
 
すると、白番の多くの人が、ここに来ます。「カカリ」です。
この手への対応によって、三連星がどのように展開されるかが変わってくるのですが・・・
 
(いわゆる一間受け定石)
 
(一間バサミ定石)
 
(「牛角三連星」)
 
(無視)
 
武宮九段の碁を調べると、時期によって戦法を変えているようです。
この年は牛角三連星ばかり打ってるな、とか。
詳しく聞いてみないと分からないですが、武宮九段なりに、どの展開が良い感じになるかを実際に試して、研究して、進歩させている。
一つの作戦を極めようとして、徹底的に磨いているわけです。
 
他には小林光一九段の「小林流」というのも、名前がついている通り、本人が使い込んで磨いています。
 
碁を打つ人の誰しもが持っている「棋風」。
「この人はこんな碁を打つなあ」というのは、囲碁の世界では結構、自然に思われる見方だと思います。
例えば、武宮九段の顔を見たとき。
まず「良い人そうだなあ」とか、もちろん思うわけですが
それと同時に、あの宇宙流の碁も浮かんでくるわけです。
生の武宮先生を初めて見たとき、「あ、宇宙流だ」って本当に思いましたもんね。
宇宙流が歩いてるんです。
それがトップ棋士というもの、囲碁が人に宿るのです。
 
そこまでのレベルではなくとも、たとえば同じくらいの力の友人、囲碁教室の生徒さん。
その人の打つ碁の感じとか雰囲気は、普段話しているときでも、なんとなく浮かんできます。
囲碁を覚えると、そういうもう一つのレンズ、いや、第三の眼ができるのかも知れません。
 
 
やっとヒカ碁に戻ります。
ヒカルの碁には、上のような意味での「武宮先生みたいな人」が出てきません。
大きく広げるのが得意、みたいな子が一人くらい目立っててもおかしくないのですが、いません。
三連星が得意で、ずっとこだわって打ち続ける人も、いません。
これはすごいことです。
だって、一番漫画にしやすい部分じゃん。
 
そういうわけで、あくまで私はですが、登場人物に対して第三の眼があまり開かないのです。
和谷が勝負している。しかし、和谷の碁がわからない。その「わからなさ」に、囲碁を知って気づきました。
 
 
「布石」といえば、アイツがいた・・・!
 
 
「得意布石」も、ヒカルの碁の面々はなかなか教えてくれません。
 
お隣の将棋界、『ハチワンダイバー』では、一徹にスタイルや戦法を磨く、魅力的な指し手が現れます。
「雁木の神野」といわれる「二こ神さん」、右四間飛車しか使わない右角。
主人公の菅田も「ハチワンシステム」を編み出し、成長させます。
 
第一部「佐為編」17巻までは、おそらく佐為の「右上隅小目」が唯一では?
右上隅小目は、現代でも使われるけれど、江戸時代で最も一般的な手でした。
秀策が現代に現れたことを示しています。
(新初段シリーズの塔矢名人戦で、現代風の「右上隅星」を選んだのは見事な描写です)
 
 
しかし、この話題において、最重要人物がいることに気付かることでしょう。
 
そう、関西棋院のくんです。
 
(初手天元)
 
 
(初手5の五)
 
この二つをひっさげて、ヒカルたちとの戦いに参戦しました。
(私は5の五使いですが、もちろん彼を意識しています。)
 
得意な布石とか、持ちネタの作戦など、そういうアプローチがなかったこの作品。
いきなり現れた社くんは強烈な印象を残しています。
 
実は、初手天元が登場する前話、「三連星」が登場しています。(第156話、19巻180ページ)
ヒカルと門脇さんとの、2回目の対戦。
1回目は、一年前に佐為が打ったので「小目」からのスタートでした。
やはり小目を予想していたであろう門脇さんの、「星か」「三連星できたか」。丁寧に描写している場面です。
 
ここで三連星を出したことで、いきなり「天元」「5の五」に行くのではなく
 
小目→三連星→天元→5の五
 
という風に、クッションの役割になっています。
これから布石の作戦がテーマになるよ、と準備しているような気がします。
 
 
 
「そういう漫画じゃないよ」ということ
 
 
逆に、このように考えてることもできそうです。
社くんのためにいままで表現をおさえてきたんだ、と。
コミック19冊ぶん布石の話題を避け、20冊目でドーンと放出したような形なんですよね。
これが、「この人はこれが得意」と細やかに知れる展開では、社くんのインパクトはこれほどではなかったかも知れません。
 
その判断基準は、「物語の展開に必要かどうか」でした。
 
ここでもそれに則ってみると、
『ヒカルの碁』は、それぞれの棋風や戦法がどんなものか、とか、どんな戦いをするのか、とかを描かなくても、あるいは描かないことでより一層、素晴らしくなる話だったのです。
代わりに描こうとしているのは、「囲碁を打つということ」であり、「囲碁を打つ人」である。
 
そのためには、棋風の表現を絞り、出す人は出し、出さない人は出さない。
筒井さんがヨセで大逆転することで、三谷がゴーインに攻めて玉砕することで、中学編がどれほど面白くなったことか。
逆に院生編では、それぞれの成長や心理描写、人間関係に集中することで、どれほど面白くなったことか。
 
そのためには、普通ならどんどん書いちゃいそうな「得意布石」というテーマも、ほぼ社くんだけのために使うような離れ業もやってのける。
実際面白くなっているので、納得でしかありません。
 
 
冒頭で引いた、ヒカルの
 
「どんな打ち方してくるか楽しみだぜ」
からの
 
実際には、どんな打ち方か描かれない
という流れ。
 
これは、
「見てもらいたいのはそこじゃないよ、そういう漫画じゃないよ」
というメッセージなのかなあと、思ったのでした。
 
 
次回は、作中での「勝ち負け」について考えてみたいと思います。

なぜヒカルの碁だけでは囲碁を覚えられないのか 囲碁ガチ勢のヒカ碁論(1)  

2022-08-31 19:15:00 | ヒカルの碁

どうも囲碁アートの関です。

 

「ヒカルの碁読書会」

というものを、コロナ前に企画していたのですが

 

お蔵入り同然になっていました。

このままだとズルズルいって本当に封印されそうなので・・・

ブログで書いていこうと思います。

 

※ネタバレ注意

 

まず、私について触れておかねば

小6のときにヒカ碁のアニメが始まり、興味を持って囲碁を覚えました。クラスの半分くらいもの子たちが囲碁を始めていて、正真正銘「ブーム」でした。

その後、中学・高校の大会に出たり、高校を辞めてプロ試験を受けたりしました。今は囲碁の世界で働いています。完全にヒカルの碁に人生変えられちゃいましたね。

囲碁の力は・・・作中のプロ試験に出たら、何局かは勝たせてもらえるかも、というくらいです。
 
囲碁の世界にどっぷりつかるごとに、そして大人になっていくごとに、だんだんヒカルの碁への見え方が違ってくるものです。
大名作で、幾度となく語られてきた作品。
目新しい内容かどうかわかりませんし、私なりの読み方ではありますが、囲碁界の人からみて正直にいろいろ書いていこうと思います。
 
 
 
※物語の大事なところにも触れるので、ネタバレご注意な記事になります。
未読の方や苦手な方はご注意ください。
 
 
 
 
 
 
「ヒカルの碁、面白すぎて5周したけど囲碁のルールはわからん」
 
 
twitterを見ていると、ときおりこんなつぶやきが流れてきます。
「ヒカル 囲碁 わからない」とかで検索すればすごく沢山見れます。笑
 
この漫画、本編を読むだけでは「囲碁を覚える」まではできないのです。
囲碁の「ルール」は実はちょくちょく書いてありますが、
「どう進めて、どう終わるのか」など、実際に遊ぶためにカギとなる情報までは触れられていません。
 
囲碁、そして囲碁の世界を知るごとに私が感じるようになったのは、
「この漫画、思ったより囲碁のことあんまり描いてないね・・・?」
ということです。
 
主人公の「進藤ヒカル」が、平安時代の棋士の霊「藤原佐為」に取り憑かれ、
名人の息子「塔矢アキラ」に出会い、彼を追って囲碁の道を進んでいく
 
ということなので完全に囲碁の話。
囲碁のプロ組織の「日本棋院」が手厚くサポート。
登場する碁石の配置は、ほとんどが実際のプロの対局から選ばれています。
しかし、同時に囲碁の描写は控えめであるようにも感じられるのです。
 
なぜ、そうなったのか。
ヒカルの碁の囲碁表現の特徴について、
そしてそれが物語の素晴らしさに繋がっていることについて、考えてみました。
 
 
 
数少ない盤上表現がすべて、必ず物語を動かしている
 
 
囲碁はゲームで、勝負です。
碁盤の上では四六時中、中身の濃い攻防が繰り広げられています。
ヒカルたちは囲碁で勝負をして、勝ったり負けたりして、上達して進んでいきます。
 
囲碁の描写が控えめ、と言いました。
それは囲碁のゲームの中身のことです。
当然ヒカルたちは頑張って囲碁を打っていますから
この石をこうやって攻めて、ここに陣地を作って、今度は守って、こうなったから勝ちだな、
みたいなことを考えています。
たとえば私がプロの対局を観戦するとき、碁盤の上での攻防がどうなっているのか、まずいちばん気になるところです。
分からないことがほとんどでも、解説を聞いて納得できれば嬉しいものです。
 
しかしヒカルの碁では、「碁盤の上で何が起こっているのか」が、はっきりと分かるように描写されることは稀です。
言葉では言ってるけれど盤面の状況はよく見えなかったり、盤面は見えても内容は伝えていなかったり。
囲碁が分かれば分かるのかな?と思われるかもしれませんが、分からんものは分からないです。
 
例えば、ヒカルVS洪秀英の一戦で、(コミックス9巻144ページ 第76話)
「悪手だと思われたヒカルの一手が、実は左上の攻め合いをにらんだ手だった」
ことによって有利となった、ということは情報として得られますが、
「その手がどのように左上に役立つのか」
までは描かれていない、などのように。
 
同じタイミングでアニメ化された「テニスの王子様」と比べてみると、あちらは
スマッシュを打ってポイントを取れた
とか、
相手に対応して必殺技を生み出し、有利になった
など、何がどうなって勝ったのか、ということがより明確に分かります。(それがテニスなのかは別として)
 
それはルールのわかりやすさ、描きやすさなど理由があると思いますが、
結果的にヒカルの碁は、碁盤の上の出来事をかなり絞った描き方となったようです。
 
(逆に何が中心に描かれているかといえば、それは「囲碁をすること」そのものかも知れません。こちらは次回以降)
 
 
しかし、盤上を見せて、言葉を使って、囲碁の意味を読者に伝えようとしたときには、その表現はすべて素晴らしいものとなっています。
全てに重要な意味があり、登場人物の魅力を引き出し、物語を動かしていると思います。
 
 
・中学の団体戦、三谷と海王中の岸本との主将戦。(コミックス4巻63ページ、28話)
「コウ」を取り合う、という展開が登場します。
あまり意味のないコウだけれども、つい争いをやめてしまった三谷に、
「・・・ひいたね」
と岸本が言います。
「この先キミはくずれていくばかりさ」
 
このやりとりで、三谷の碁のタイプ、それを岸本が完全に見透かしていること、精神的な余裕の差、勝負のゆくえ・・・全て伝わってきます。
 
 
・プロ試験、ヒカルと和谷の対戦。(コミックス11巻55ページ 第90話)
白の地に侵入したヒカルの石が助かるか、取られてしまうか、で決まる完全にヨミの勝負。
勝ちを確信して、師匠の期待に応えた和谷の心情。
「佐為だったら・・・」
で唯一の道を発見したヒカルの実力。
そして破られた和谷の気持ち。
一つのヨミが重要な碁だったからこそ、痛いほど伝わってきます。
 
この囲碁表現は、和谷が佐為の存在にかなり迫っていること、ヒカルの打つ碁の中に佐為がいること、という物語の重要な部分にもつながっていました。
 
 
・第2話まで戻りますが、ヒカル(本当は佐為)VSアキラの第1局目。
物語そのものが動き出す、記念すべき一戦でした。
佐為は指導碁のつもりだったとのこと。
 
「これは最善の一手ではない 最強の一手でもない・・・」
「僕の力量を計っている!! はるかな高みから―――」
 
しかし、実は元ネタの一局とは意味が異なっています。
 
 
 
江戸時代の碁。
黒番は本因坊秀策(藤原佐為が前に憑いていた人)ですが、白番は師匠の本因坊秀和です。
つまり、「指導」する立場にいるとしたら、白のほう、ということになる。
なんとアキラが師匠側なわけです。
そのうえ秀策は、師弟関係を頑なに大切にする人、というエピソードが伝わっています。
(師匠と互角になった後も、実力・立場が上である白番で秀和と対局することを固辞した、というもの。)
 
 
この一手。
指導するなんてもんじゃなく、全体に広がる白の作戦をなんとか防げないか、と頑張って編み出したものと想像するほうが普通です。
 
しかしそれでもなお、佐為が、アキラに、この一手を指導として打つという描写にしたことは、大英断だったと私は思います。
碁盤全体、今まで打たれたすべての石、この一局すべてに響くような、神々しい一手なんですよね。
アキラに「遥かな高み」と感じさせ、「神の一手」という本作のテーマに全く負けていない一手。
元ネタと違う形にしてでも使いたい棋譜だと思いますし、ヒカルの碁のために打たれたといっても私は信じます。
 
 
 
囲碁のルールも、流れの中に
 
 
そんなヒカ碁ですが、囲碁のルールに触れている箇所も、いくつかあります。
ここでは、囲碁の根本的なところ、地と石取りに注目します。
他の細かいルールは置いといて、この2つがあれば「囲碁」といえるからです。
 
 
・将棋部、加賀の初登場シーン。(コミックス1巻、第7話の最後)
「石ころの陣地取り」という表現で囲碁をディスります。
実は、「地(陣地)が多いほうが勝ち」であることは、ここで(こんなところで!?)初めて言葉で示されます。
碁盤は出てこないので、それが実際どんなものなのかは、ハッキリとは読者には分かりません。
その前のアキラとの対局で「2目負け」などは出てきますが、それが「地の差」であることは本編ではまだ説明されません。
 
囲碁嫌いなタイプのヒール役が本編で初めて登場。加賀のバックグラウンドを見事に表しています。
穏やかで囲碁大好きな筒井さんとの対照も際立っています。
ここからヒカルの中学囲碁部編につながっていきました。
 
 
・ヒカルがあかりに「石取り」を教えるシーン。(コミックス2巻、153ページ 14話)
ここで初めて、「石を取れる」ルールが示されます。
 
(黒が◎に打つと、白の1つを取れる、の図)
 
 
あかりの石の逃げ方に、ヒカルがキレます。
 
(石は動かしちゃいけない。正しくは右の◎)
 
囲碁部の日常のワンシーンとして面白いところです。
あかりの天然(?)な感じ、あかりとヒカルの長年の関係性、たぶんヒカルは優しく教えるのは向いてなさそうだな、というのがわかります。
 
 
・筒井さんがあかりに「地」を教えるシーン。
 
三谷のズルがどんなものなのか、初心者のあかりに筒井さんが教えます。
地がどんなものなのか。最後に数えるための「整地」について。
そこでズルをするとどうなるのか、について。
 
(黒石で囲まれた場所が12目の地。線と線の交点を数えましょう)
 
 
囲碁の勝負の決め方が、(他の場面に比べれば)かなりの丁寧さで示されます。
確かに読者のためを思えば、三谷がどんな悪いことをしているのか、知っておいた方がいいでしょう。
このタイミングで、この解説はありがたいものです。
 
しかし、そんなメタ目線を吹き飛ばすような筒井さんの「最も卑劣な行為なんだ」のセリフです。
なぜこの解説があるかって、何よりもまず筒井さんが三谷の行為を許せない、そんなヤツが囲碁部にきてもいいのか、という話です。
だからこそ、地がここで説明されなければならない。
物語の流れにピッタリ囲碁の解説が組み込まれています。
 
 
「引き算」の美学
 
 
逆に、ルールが説明されていそうで、されていない場面があります。
第1話、ヒカルがプロの先生(白川七段)からルールの手ほどきを受けている場面です。
読者より前に、ヒカルは先生から「ちょこっとの基本」を教わっていました。
 
(「石取りゲーム」をしていますが、どうなったら石を取れるかまでは描かれていません。
最後先生が◎に打っていますが、黒3つを取り外すところは描かれていない)
 
 
囲碁漫画の記念すべき第1話。
より深く見てもらおうと、ここで囲碁のルールを一通り、先生に解説してもらうことも出来たかもしれません。
「序盤はこんな風に打って、もう陣地が増えなかったら終わり、数え方はこうで・・・。」
どこかで一局の流れを追体験させるような描写を入れ、囲碁をより覚えやすくすることもできたでしょう。
監修は一流です。

しかしヒカルの碁はその選択はしませんでした。
 
それはおそらく、物語の流れに乗らない、と考えたからではないか。
残念ながらメインキャストとはいえない白川七段が、ヒカルに(読者に)囲碁を紹介するシーン。
これが、ヒカル・佐為・アキラたちの物語に、何を付け足すことができるだろうか。
 
ヒカルの碁には、そんな判断基準、そんな美学が読み取れると思います。
余計なもの、過剰なものを、なんとか省くことはできないか。
ここぞという場面で、最も効果的に囲碁を描くにはどうするか。
 
その「引き算」の結果、囲碁を覚えられないくらいに表現は絞られ、物語そのものは、これ以上ないほどの強度を得たのではないか。
囲碁の名人の芸も、ちょうどそのようなものです。無駄がそぎ落とされているのです。
私は、この物語に何かを付け足そうとは思えません。
 
 
これを書いていて思い出したのは、漫画『ホーリーランド』です。
格闘漫画なのですが、もうとにかく解説解説解説、解説が入ります。
戦いの一挙手一投足、ぜんぶ作者の解説が入っている。そんな漫画です。
何が起こり、なぜこちらが勝ったのか、読者は納得して読み進めます。
 
しかし、私は決して余計・過剰とは思いませんでした。
戦いの意味を深く理解することが、物語の展開を理解することに、そのまま繋がる造りだったからです。
必要なことを必要なぶん、やっている。その必要の量が違うだけなのです。
 
 
「分かるではなく、分かるようになりたい」
 
 
少し前、ヨビノリたくみさんのツイートが良いなと思いまして
 
 
 
ああ、そうだった。
私はヒカルの碁を読んで囲碁を分かったわけではなく、
分かるようになりたいと思ったのだ。
 
 
次回は、「バトル漫画」としてヒカルの碁を見たときに思ったことを書いていこうと思います。

すごく遅い「入門書の歴史」の振り返り。

2022-03-31 15:59:57 | 囲碁の入門書

どうも、囲碁の先生してます関です。

1月30日と2月27日、「入門書の歴史」 ありがとうございました!

youtubeでも動画アップされてますので、ぜひ見て見て下さい~

 

だめだとは思うんですが、たくさん喋ったり文章をたくさん書いた後には、なんか筆がとれなくなるので、今になりました。他にも忙しかったし・・・

しかし時間が空いたことで進んだ点もあると思うので、、いま改めてこれにコメントしてみたいと思います。
 
 
 
・先日、囲碁史学会のかたに、「入門書の歴史という試みは新しい」というようなことを言っていただけました。
ありがたいし、確かに!とも思いました。
 
囲碁の歴史は「盤上」の歴史、同時に「トップ棋士」の歴史というのが大きな流れだと思います。
江戸時代から現代まで、プロ制度が中心に置かれて、囲碁界を見ている感じ。
 
囲碁がどのように話され、紹介され、遊ばれ、考えられ・・・という、いわば「民衆」の側の歴史を見つけることができるだろうか。増川宏一先生のご研究(『碁』法政大学出版局 など)はその点も多く書かれています。
 
昔はその点を知れる史料は少なかったけれど、現代では必ずしもそうでもない。
つまり今回でいえば数多くの「入門書」を通じて、
(それを書いたのは囲碁強い人であっても)
囲碁を覚える瞬間について何かを知ることができるかも知れないわけですね
囲碁の文化を考えたり作ったりするにあたって、そのあたりを知ることは重要でしょう。
 
たとえばツイッターだけを見ても、たびたび議論が起きたりします。
(最近だと囲碁入門関連、書籍の厳しい記述について、碁会所批判、などでしょうか)
 
何かが語られることで浮かぶべき問題が浮かび、それぞれの立場が顕れたりするので、大事なことです。
それを実り多いものにするためには、過去にどんな言説があったのか、という土台があったら尚よいわけで、それが文系の研究の価値の一つだと思われます。
 
例えば、1961年『囲碁の手ほどき』(下田源一郎五段)の前書きに、囲碁入門で大事なことの精神が先駆的に書かれていたり
明治から現代にかけて、厳しい記述は減ってきていたり(これは紹介しきれませんでしたが)
 
などなど、もうすでに考えられていたことが色々あったのでした。
 
私としては、「強いほうの人が、相手のことを想像できないこと」
をやめていく過程が入門書の歴史に見られると思います。(まだ途中とは思いますが)
 
例えば、囲碁が強い人の感覚だけで入門書を書いて、初心者が全くわからんものができちゃったりとか
厳しい言葉が当たり前に使われていたけれども、当然それが大丈夫じゃない人もいるわけで、それをやめていくとか
 
現代的な基本姿勢として、あったほうがいいんじゃなかと思います。
 
 
・女性差別について、第二回で取り上げました。
 
(この記事についても、同様に考えていただきたいです)
 
私は世間一般から見ても「マジョリティ」のほうになりやすい立場の人間ですし、囲碁の世界でもそうだと言えます。
男性です。囲碁が強いほうの人間として、仕事をしています。
 
囲碁の世界は人間を男女に二分した形でとらえて、男性優位なように不平等な形を温存しており
(解消の努力があること、同じ土俵で戦っていることは勿論ですが)
それを解消する責任があるとしたら、それはマジョリティ側にあると思います。
私個人の意見でもありますが、一般的といえる発想ではないでしょうか。
 
それゆえ、「そんな自分がどうするか」からスタートすることにこだわりました。
聞いて下さっている皆さんの立場はそれぞれですが、ジェンダー記述への検討は「人間への囲碁入門」を考えるとしたら必要です。そこに特定の人への排除があったら、人間への、とは言えないためです。
 
 
さて、そんなわけで発表では「女性」についての記述を見ていったのですが、それは従来の囲碁界の言説に準じたものでして、足りていないところがあると思われます。
ジェンダー研究やフェミニズムの昨今の考え方では、そして実際の人間のとらえ方としては、
男女の二元論では人間をとらえられない
となるはずです。
その点をほぼ何も言えなかった(質疑応答のときに一言だけ)ので、私というか囲碁界の課題だと思います。
 
たとえば、いま「ペア碁」の公式大会では、「男女」で組むものとなっていますが、このままでいいのかどうか。
 
「女流」なる概念を検討する回がもし開催出来たら、そのときに発表したいですし、考え続けていくと思います。
 
 
・完全に後で気づいたこと。
 
石倉九段への批判のさなか、明治時代とやってることが変わらない」というくだりがありましたが、それは「女性」への見方として、でした。
逆に内容として変わったこととは何か、って言ったら囲碁なんですけど
 
明治では囲碁は「戦い」(野武士!!)、激しい男性的なものと見られていたのに対し、
石倉九段の段階では穏やかなもの」と見られていること。
そして現代のわたしたちも、後者のイメージを所与のものとして受け取りがちであること。
どこかのタイミングで、囲碁が激しいものから穏やかなものに変わった。
少なくとも、そういう言説が増えてきたキッカケがあるはずだ。
 
さっこん、囲碁は「平和」といわれることが多い気がします。なんなら私の囲碁アートも言われます。
明治の段階から、よくそこまでイメージを変えたものです・・・。
 
しかし同時に、逆に、「いくさ」としての説明も歓迎されるでしょう。
「戦争ゲーム」として説明されることが、今もあるはずです。
 
この平和と戦いの奇妙な関係とは。いつからそうなったのか、だれがそうしたのか。
 
この精神の変遷が気になりました。とりあえず、すぐに浮かぶのは呉清源九段の「碁は調和」という発想でしょうか。
 
 
とりとめがありませんが、ひとまず思ったことを書いてみました。
お読みくださりありがとうございます!

「入門書の歴史」第2回の序論。

2022-02-21 22:36:43 | 囲碁の入門書

「普通の能力を有する者に在りては婦女子と雖(いえど)も此一編を篤と熟読研究せば
棋道が如何なる趣味有るものなるかを知了せん事蓋し疑ひを容れざる處なり」
(1909年 『大日本囲碁解釈』井上保申)

 

「チェスや将棋は、完膚なきまでに相手を打ちのめすゲームですね。その点、囲碁は、相手も地を取りますが自分も地を取ります。
「完膚なきまで……」という息づまる戦いではなく持久戦。チェスや将棋が短距離走なら、囲碁はマラソンに例えられるでしょう。
女性に向いているという所以は、こうしたゲームの性質にあるのではないかと、私は思います。」
(1995年 『これだけで碁が分かる 入門から初段まで』石倉昇)

 

「最近は、女性や入門初心者が行きやすい“囲碁が打てる場所”が増えています。」
(2014年 『女性のための囲碁の教科書』)

 

 

入門書を調べていると、ときたま「女性」について言及した文章がでてきます。
でてきます、とわざわざ書いたのは、「男性」という文字のほうは、わざわざ出てこないためです。

 

2月27日(日)の第2回「入門書の歴史」

その内容を少しお見せしたいと思います。

残席まだまだありますので、ご予約いただけたら嬉しいです!

 


1、『大日本囲碁解釈』と明治の女性

 


「婦女子といえども」。
囲碁をする人は男性なのが普通で、女性が囲碁をやるのは珍しい、という背景を感じます。
そして、ここでの「普通の能力」とは。

明治時代の女性の立ち位置を「良妻賢母主義」というキーワードで振り返り、
この入門書の2年後、平塚雷鳥らが立ち上げた『青鞜』という雑誌の活動、
(「元始、女性は太陽であった」の創刊宣言、その意味を読み解きます)

同時期に活躍した囲碁の「天才」喜多文子氏について紹介し、
前書きの文章の背景、井上師の心情を探ってみました。

 


2、「現代入門書」と女性、そのはじまりと問題点

 

 

囲碁教室での指導を活かし、現代的な水準の入門書を定着させたひとり、石倉昇プロ。
彼は同時に、やはりその体験から「女性」への囲碁普及に積極的になっています。

しかし、ここで引いた石倉プロのコラムには、言いたいことが山ほどあります。

将棋やチェス?「囲碁が女性に向いている」ことの理由付けは?
分析すると、「明治」が現代に蘇ってくるはずです・・・!
囲碁の世界に残る問題を、ここでは批判的に考えてみます。

 


3、誰が入門書を作ってきたのか、作っていくのか

 

 

『女性のための囲碁の教科書』

これは「おっ」と思わせる、思い切ったタイトルだと思います。
大変におすすめの入門書。囲碁を始めるために必要な内容がきれいにまとまっています。

そのうえで、女性にフォーカスしている。

本書の書き手が誰であるのか。男性が書いたとしたら、女性が書いたとしたら。

そしてその方針をしっかり見ていくと、ある問題意識をもって囲碁の世界を見ている、

注目すべき仕事がそこにはありました。

 

4、「女流」の囲碁界的な意味

 

「入門書」からは少し離れることになりますが

以上の三冊について検討したうえで、囲碁の世界において「女流」と名指されるものとは何か、考えてみたいと思います。

果たして囲碁の歴史は、「囲碁をするのは男性が普通」という格差を打ち破ることができるのか?

 

 

おおむね以上となります。

乞うご期待!!!

 

参照文献(囲碁関係以外で)

『良妻賢母主義から外れた人々』関口すみ子 2014年 みすず書房

『良妻賢母の世界』仙波千枝 2008年 慶友社

『『青鞜』 女性解放論集』堀場清子編 1991年 岩波文庫


「イベントの流れを止めても、差別を指摘することができます。」

2022-02-14 18:26:43 | 囲碁の入門書

どうも、囲碁の先生してます関です。

 

(第2回は2月27日!まだ空席あります!)

 

先日、平井の本棚で1月30日に行われました
入門書の歴史 第1回の動画をアップしました。

前後編で2本になっております。

 

前編では、明治42年の入門書『大日本囲碁解釈』を紹介。
ドヨメキが起こるくらい、現代と感覚が違う点を頑張って伝えてみました。

 

 

後編では、現代に向けて入門書が変化していく流れをお話ししています。
石倉昇プロの1994年の本あたりから、現代的な潮流ができあがるのではないか(「現代入門書」)

ということを考えてみました。

 

テーマ的にお堅いところはお堅いものになっていますが、
笑いありドラクエありで進めることができたんじゃないかと思います。


発表の内容については、ひとまず動画に任せるとして
自分が研究をして何かを発表するときに気を付けることにした点がありますので、

今回はそれを紹介してみたいと思います。

 


☆流れに関わらず指摘していただいて構いません

 

まず最初に、二つのことを表明しました。

 

 

このうちの後者が、今回特に大切に思っていることです。

今回の「入門書の歴史」というテーマでやるにあたり
もっとも大きな存在感を持った人の本の中で、どうしても見過ごすべきでない、
女性差別的とみられる箇所がありました。
第2回の「入門書とジェンダー、明治と『青鞜』」で指摘する予定でおります。

入門書を書く技術の積み重ねは凄いものであることを動画で解説していますが、
同時に、囲碁界がずっと抱えている問題点もあったのです。
(その人だけでなく、全体の問題とも見たいところです。)
それをスルーして発表することは、特定の属性の人が踏みつけられているのに、何もなかったことにしてしまうのに等しいと思いました。


とはいえ、書いた人も、それを指摘しようと思っている私も、男性です。
私は、男性以外の者としての主観を持ったことがありません。
研究書やほかの人の意見も参考にしていますが、
それでも私が完璧に話せるとは考えていません。

つまり私が無自覚に差別してしまう危険もあると思います。
それもまた、そのままにしておくべきとは思えません。


本来、どんな場合でも差別は指摘されてよいものです。
しかし、なかなかできることではありません。
具体的な人間関係のなかで、とっさにはもちろん、後からでも指摘することには大変な困難があることがほとんどでしょう。
私がこの会をこのテーマで開くのですら、怖がりながら(今も)悩んだすえに決断したものです。

そこで、「場」のシステムからそうしちゃおう。
差別と感じたら指摘してよい、という決まりを作りたいのです。

今回いちばん喋るのは私なので、ひとまず「関自身の発言」にしました。

「もし私の発言により、どなたかが抑圧を受けてしまった場合は、
イベントの流れを止めても指摘することができます」ということを明示しました。

イベントの最中でも後回しにせず対応しますし、終わった後でもいいです。


わざわざこの明示をすることには(特に囲碁の世界では)意味があると思っています。


囲碁の世界は、昔から「囲碁が強い人が雲の上」みたいな雰囲気があります。
それはプロ棋士のことでもあるし、
たとえば囲碁部や同好会において、その中で一番強い人がエラくなっちゃったりしがちです。
何気ない会話でもそうですが、特に囲碁を教わっているときに、
どんな発言でも、「強いから」許されてしまうかもしれません。
一方的に厳しいことを言ったり、怒ったりしても。
(最近は減ってきていると信じますが・・・。)

もしそうだったとして、指摘できるだろうか。

 

加えて、囲碁は伝統的に男性のプレイヤーのほうが多いものでしたから、
男性&囲碁強い人が、大きな力を持ちやすいという傾向があります。
この言い方が良いか分かりませんが、マジョリティになりやすい。
私は、囲碁が強いほうの男性であるので、その点を自省しつつ臨むべきだと思います。


また、参加した囲碁の会が、問題なく楽しく進んでいたとします。
楽しく成り立っているのは素晴らしいことですし、このイベントもそうでありたいものです。

しかしその途中で、些細にも思えるけれど、引っかかることを言われたとします。
相手に悪気はなさそうです。忘れようと思うけれど、なんかモヤモヤしてしまいます。
(「マイクロアグレッション」のようなもの)

そういう場合にも、言えるような場にしたいのです。

「せっかくの楽しい場だから、壊してしまうのは申し訳ない。」
「些細なことだから、それを指摘するのは不快に思われるのではないか。」

という思いが歯止めになってしまいます。

「いや、いいんです、そちらのほうが大ごとです」
というメッセージを、場のシステムによって出すことができるかも知れません。

いきなりすべてが変わらないかも知れないけれど、
少なくとも私のいるところでは、そうしたいと思います。


このようなことを「息苦しい」と評する人がいる世の中だと思いますが
私はこうした考え方があることで、生きるのがだいぶ楽になったひとりです。

 

2月27日(日)の第二回も、しっかり準備して、興味深い発表にしたいと思います。

ぜひご予約ください~~!