囲碁とロック

好きなことについて

無限うさぎの縁起物

2022-12-11 16:48:44 | 囲碁アート

 

 

1つのうさぎは19×19、これ囲碁の碁盤と同じ大きさです。

石が置かれていない、空いている場所は目のところだけですが

これ「セキ」になっていまして、黒と白がうまく共存している様子になっています。

囲碁、すーぐ縁起よくなるよね。

 

工夫した点として、碁盤の色をいじりました。

赤色です。

 

 

クリアファイルにしたんですけれども(マルシェルで販売開始!)

たまたま透ける形式にしたら、なんとまあダークな!

もとの作品の段階から、怪しい感じをイメージしてはいましたが、

こんなに暗闇に光る赤い目みたいな感じにできるとは・・・!

 

ちなみに紙をいれると、こうなりました。

これはウサギチャン活動開始しましたね。

 

 

透けるものによって、また違った感じになります。

これは囲碁教室のプリントです。なんかやべえ・・・

 

 

この、ブロックをつなぎあわせる形の作品は、以前にも「ねこ」を商品化しておりましたが

無限につなげていけて、しかもずっと引き分けをキープできるということで

大変に好きなジャンルです。


久保タケフさ

2022-12-08 19:02:16 | 囲碁アート
 
 
ボールが生きた、つながった
という場面です。
 
 
 
ボールの模様の黒石は、囲まれているようでいて・・・
「二眼」以上できていて取られなかったり、外につながってたり。
 
対して白石の方は、石はあるけれど、どこにも陣地がありません。
そういうときには、味方の石とつながっていないと、死んでしまいます。
つまり全部取られちゃいます。
 
 
つながっている、といえば
囲碁ではこの白石の形
 
「タケフ」
 
が象徴的ですね。
竹の継ぎ目みたいな形だからです。
 
こっちきたらこっち
 
こっちきたらこっち
で、絶対つながるということです。
 
囲碁を知ると、タケフの間の空間が白く見えて、
 
 
(もう見えてきたはず!!)
 
ボールが生きているのがわかります。
 
 
囲碁の戦法や技が、ピッタリ現実にあてはまるような場面を切り抜きたいわけです。
ただやるんじゃなくて、せっかく囲碁でやるのだから。最近はそれをすごく意識しています。
 
逆に、今回は引き分けでもなく、タケフ一点突破でしたね。
他の要素を混ぜるとノイズになるような気がして・・・。

囲碁に情報が宿りました。

2022-11-28 18:50:44 | 囲碁アート
 
どうも囲碁アートの関です。
 
※「QRコード」は(株)デンソーウェーブの登録商標です
なので別の呼び名にしております。
 
すごくいいものが出来ちゃいました。
 
木製・二次元囲碁バーコードバッヂ
 
 
 
なんと木製(MDF素材)です!
触り心地最高。
いぜん、缶バッヂで同様のものを作ったのですが・・・
缶の反射があり、スマホで読み込みにくいという欠点がありました。
それを完全に解決しております。
 
いやあ、いいものっていいですね。
 
 
実は囲碁の内容も、だいぶリニューアルしています。
 
 
(以前の「悪霊退散」)
 
 
(今回の「恋愛成就」)
 
 
お気づきでしょうか。気づいたらすごすぎる。
 
 
 
・周りに白石が足されています。
 
本来の姿として、コードの外部が白い、というところまで含めてコードです。
実際、それで読み取りやすさが変わってきます。
紙などに印刷すれば自動的に周囲は白だったのですが、
いざ活動に移してみると、そうでない場面は結構多かったですね。
 
そういえば
白と言えば白石
白と言えば囲碁
ということで、囲碁でやっちゃえとなりました。
 
 
 
・黒石と白石の数を同数にしました。
 
これは僕も気づけません
 
「引き分けになる」ということなんですが、意外にも(?)石の数はいつもバラバラです。
こだわったことがありません。
日本の囲碁ルールは「地」(陣地)の大きさで勝負。
あいているスペースが最後に互角になっていれば良いのです。
石の数はひとまず関係なくて、
 
これでも
 
 
これでも
 
引き分けにできています。
黒ばっかり、白ばっかりじゃないと作れないものも多いので、
白黒同数にこだわらなかったからこそ出来た作品、とも言えそうですね。
 
 
しかし、今回は白黒を同数にするふかーい理由があります。
それは、「実際の勝負であらわれうる形にする」という意味付けです。
 
今回のやりかたならば、
「碁会所で囲碁を打っていたら、なんかスマホで読める形になった!!」
プロがガチで互角の名勝負をしていたら、ある情報を表す形ができていた!!」
ということが可能になります。
 
井山さんと一力さんが打っていたら、「恋愛成就」を意味する模様になっていた・・・!
ということも、まあ、完全には排除しきれないくらいにはなっているわけです。
 
 
これは誇張ではなく、囲碁の可能性を一つ広げることだと思っています。
「QRコード」が囲碁から着想を得て生まれたもの
ということがたびたび注目されますが、
それと同時に、当の囲碁のほうもQRコードとそれを読み取る技術によって可能性が広がったと思うのです。
 
つまり、「囲碁は情報である」
情報の授業とかで習ってもいいかもしれませんね~~~

「定石や布石を踏襲するのもマネ碁」なのか?

2022-11-06 22:39:19 | 囲碁アート

どうも囲碁アートの関です。

 

前回、囲碁アートの新作から、藤沢朋斎九段のマネ碁を思い起こすという話をしました。

相手の打った手をコピーしてそのまま返す「マネ碁」

しかし藤沢九段は単にマネするだけでなく、相手の手と違う手をぶつける、という勝負の仕方もしていました。

 

昭和の時期には、棋士が打った碁を載せて解説する「打碁集」がたくさん出されています。

今回は

怒涛 藤沢朋斎 芸の探求シリーズ4 

という、彼の碁をまとめた書籍をひらいてみます。

コラムの中に、とても印象的な文章があるんです。その中の一節を引用させていただきます。

 

「マネ碁は見ていておもしろくないとか、独創性に欠けるというような意見は多い。しかし、どちらがどこで解消するかということじたいが一つの見どころではないだろうか。古人の定石や布石を踏襲するのも一種のマネ碁といえるのだし、少なくとも専門棋士なら、マネ碁は否定するものではなく、真剣な研究の対象とするべきものだ。」(144ページ)

 

おお、バッチバチだ...笑

基本的に、マネ碁は相手がやったことをそのまま返すものなので、「おもしろくない」「独創性に欠ける」という批判が上がってくるのは自然かも知れません。実際沢山あったようです(高川格九段など

それに対して、「そっちもマネしてんじゃないの??」ってことなんですよね。うおおお。

注意点として、藤沢九段は自分の道をひたすら歩む求道派としてイメージされる棋士です。自分から他人の道を否定したりするような人ではない、と思った方がよいでしょう。

あまりにも「独創性がない」と世間から言われすぎて、そのカウンターとしてのものだと考えています。

 

私は、この言葉がとても好きです。別の角度から囲碁を極めようとした人の言葉として、とても生々しく自分に迫ってくるような感じがします。

ここでいう「独創性」とは、何でしょうか。

藤沢九段のマネ碁は独創性に欠け、そうでなければ独創性があるのでしょうか。

 

 

・次の一手のあらわれ方、という視点

 

囲碁は、黒、白、黒、白・・・と、一手ずつ打ち合っていき、進みます。

打っている方、あるいは見ている方としても、「次の一手を待つ」という時間はとても楽しいものです。

どんな感じで来るのかな、おれの一手にどう応えてくれるのかな、と。

相手の脳内は常に未知です。あらゆる可能性を思い浮かべつつ、待つことになります。

マネ碁を「自分の打った手をそのまま返してくるもの」と捉えるならば、こんなに「独創性」がないものはありません。

相手の次の一手がわかりきっているからです。

新しい展開にならず、囲碁の発展もないように思われます。

 

・人としての個性、という視点

 

囲碁を打つ人には個性(棋風)があります。

人それぞれ、どのように組み立てて、勝負して、勝ちに持っていくかという道筋が異なります。

特にプロの棋士ならば、自分なりの仕方で究めていくことで、囲碁の研究・発展に尽くすことが使命となるでしょう。

マネ碁を「自分の打った手をそのまま返してくるもの」と捉えるならば、こんなに「独創性」がないものはありません。

自分の手がそのまんま返ってくるだけで、個性は成り立ちようがないように思われます。

 

 

棋士がマネ碁をしてしまうことについて懸念があるとすれば、おそらく以上の二点のようなことでしょうか。

このような論調で言われまくっていたとしたら・・・藤沢九段の心中は想像絶します。

 

しかし。

前回も書いたように、藤沢九段のマネ碁は、ただマネしてるだけではありません。

「自分の打った手をそのまま返してくるもの」ではないのです。

 

「どちらがどこで解消するかということじたいが一つの見どころではないだろうか。」

と本人が述べているように、マネ碁状態が解除されることを常に意識しています。

つまり前者の視点で言えば、次の一手でマネが続くのか、藤沢九段自らが違う手を打つのか、常に未定ということになります。

私たちは後で記録(棋譜)を見て、彼の「マネ碁」を鑑賞するしかありません。

すると「ああまたマネしてるなあ」ということになりますが、リアルタイムでは絶対に違います。

藤沢九段は長考派でも有名でした。一手一手、どれだけ悩んでいただろうか。

これは、実際に見てみたかった点です。(あと50年早く生まれて、インターネットがあったらなあ)

 

後者、人としての個性という点でも、九段はただのコピー人間とはかけ離れています。

吟味があり、批判があるのです。

マネする前に、相手のその一手は正しいものだろうか?

 

前回の図ですが、黒1をマネせず白2という態度です。

「その手は私は正しいと思いません、こちらがいいでしょう」

と、すぐ目の前の相手に見せつけているわけですね。

これ、むしろ「個性」ダダ漏れですよね。一つの棋譜の中で、両者の考えの違いがそのまま見れるのですから。

それで最後は、結果が出て白黒つくわけですね。

 

このような点を含めると、私はどうしても、「独創性がない」なんて思えないのです。

ほんとにそのままマネするだけならば、そういう批判には同意できますが・・・

藤沢九段に限っては、それはあまり当たらないのではないか。

むしろ、誰もやらないマネ碁(実はあまり勝率良くないです)を一徹にやり続けたことで、彼だけが際立って、もっとも独創的になっているとすら言えます。

マネ碁へのステレオタイプ的なもの、藤沢九段を実際に見ていないためのもの、というのも多く含まれていたんじゃないかと思っています。

 

 

さて、カウンターがあったのでした。

古人の定石や布石を踏襲するのも一種のマネ碁といえるのだし」

しびれますねえ。

 

「定石」は、序盤でよく出てくる戦いの形。「布石」は、それも含めた碁盤全体の作戦のこと。

囲碁には、古くから先人が積み重ね、対局する中で結果を残し、良いとされてきた定石・布石が生き残ります。

最善の一手・答え・正解、とまではいきません(人間には分かりません)が、少なくとも今一番良い・勝ちに近いといえるもの。

勝負の世界で囲碁を打っていたら、当然採用することになります。

今の世の中ならば「AI」が人間より強いので、AI先生の手から流行が生まれやすいです。

そういったものも「マネ」なんじゃないか、という問題提起をしているように見えます。

 

しかし冒頭でも言ったように、決して否定したいわけではないでしょう。

むしろ、「私もあなたも同じなんじゃないの?」ということではないか。

マネ碁をするのも、定石を研究してそれを発展させるのも、違う形で囲碁を究めていく過程なんだ、ということです。

 

少なくとも専門棋士なら、マネ碁は否定するものではなく、真剣な研究の対象とするべきものだ。」

解消が見どころ、として独創性の面を確保しつつも、藤沢九段の力点は、この最後の部分にあるように思えます。

マネ碁は研究の対象。マネできてしまうことは囲碁の隠しきれない側面です。

(事実、彼がマネ碁を打ち続けたことにより「マネ碁対策」が研究され、ほぼ確立されているようです。見逃せない実績ですよね)

 

藤沢九段たちのような棋士にとって、囲碁は決して独創性を最優先にするものではないはずです。

勝ち負けがあり、より良い手を打つために力を高めるものであり、学問と同じように研究の積み重ねがあり、進歩があります。

好手や結果がなく、独創性だけがあっても、それだけで評価されはしないでしょう。

 

しかし逆に、その中で悶えつつも、自分なりの一手を打つ中でどうしても滲み出てしまうものが個性であり棋風です。

そんな貴重なものがトップ棋士の独創性であり芸であり、だからこそみんな大事にしたいと思っているわけですね。

マネ碁への真剣な反感も、そこから生まれるものと思います。

 

結論。真摯にやれば、マネだったとしてもいいんです。

 

 

 

・・・と書いていて避けて通れないのは、昨年2月に若くして引退した関西棋院の小野田拓弥四段です。

彼は純粋な「独創」を実行しています。

明らかに最善手ではない、おそらくそれをわかりつつ、あえて実験的に打っているように見えます。

現代音楽とかがたぶん近い。でも結構勝ってらっしゃいます。

ここで棋譜は貼れないのですが、興味のある方は調べてみて下さい(中国のこのサイトが唯一よくまとまっている

 

今回書いたような、囲碁への向き合い方があったうえで、あえて別の道を採っている。

その意味とインパクトについても、機会があれば考えて書いてみたいと思います。


最小で最強の囲碁表現(囲碁アート・5路カード)

2022-10-27 20:49:07 | 囲碁アート

どうも囲碁アートの関です。


「ここから囲碁すると引き分けになる」
そんなコンセプトの作品群は、さまざまな面から見ることができそうです。

生み出される絵柄がどんなものになるか。どんなサイズになるか。
など「絵」として見るもの。
そしてもちろん、囲碁的にどんな意味を持っているか、も私は興味があります。

勝ち負けに行き着く囲碁とは別の、引き分けを目指すものとしての囲碁
を追究するものでもあります。


「ぜんぶ持碁になるアルファベット5路カード」
を、今回はご紹介します。

 

「5路」、つまり5×5の小さい碁盤の中に、アルファベットを描いた作品を収録しています。
実際の公式戦では、19×19の大きなサイズ。
小さめのものだと13×13や9×9もよく遊ばれますが、
5×5となると、普通に囲碁をするには狭すぎるサイズです。
(黒が真ん中打てばほぼ勝ち確)

ところが!
何かをここに書いて、いい勝負にしようとすると、これがまた素晴らしいサイズ。
これを作ってみてわかりましたが、アルファベットは5×5におさまりやすいですね。

これは本ではなく「カード」です。
26枚つづりで、A~Zまで、すべて囲碁として成り立っている形。
ここから囲碁をすることができ、うまくやると引き分けです。

(答えもついてます)

 

しかし、上述のように五路盤は狭すぎるので、対応する碁盤がない・・・!?

 

 

なんとカードの上に石を置いて、囲碁できちゃいます!!
(狭すぎて逆に助かったところです。)

 


「マイルド」は、囲碁を覚えたあとにできるものから、ちょっと骨のあるものまで。

勝負というより、二人協力プレイで、引き分けへの道筋を探るという、別のゲーム性がありそうです。

ピッタリ一致したときの感動・・・

 


「激辛」は、初段以上AI以下。自分でもよくわかりません。
なんでこれ引き分けになるの?いまだに間違えてないか自信がありません。

(いちばんすごいと思うL☆5)

 

計52作品。
本当に作るのが大変で、字形によっては難易度調節なんてできず、
なんとか成り立たせたら鬼のようなものができていた、という思い出があります。

でっかい作品がやはり注目されがち(だし、私も推しがち)ですが、小品もけっこういいですよ。
ぜひお手に取ってみてください。
マルシェルにて販売いたします。