どうも囲碁アートの関です。
前回、囲碁アートの新作から、藤沢朋斎九段のマネ碁を思い起こすという話をしました。
相手の打った手をコピーしてそのまま返す「マネ碁」
しかし藤沢九段は単にマネするだけでなく、相手の手と違う手をぶつける、という勝負の仕方もしていました。
昭和の時期には、棋士が打った碁を載せて解説する「打碁集」がたくさん出されています。
今回は
怒涛 藤沢朋斎 芸の探求シリーズ4
という、彼の碁をまとめた書籍をひらいてみます。
コラムの中に、とても印象的な文章があるんです。その中の一節を引用させていただきます。
「マネ碁は見ていておもしろくないとか、独創性に欠けるというような意見は多い。しかし、どちらがどこで解消するかということじたいが一つの見どころではないだろうか。古人の定石や布石を踏襲するのも一種のマネ碁といえるのだし、少なくとも専門棋士なら、マネ碁は否定するものではなく、真剣な研究の対象とするべきものだ。」(144ページ)
おお、バッチバチだ...笑
基本的に、マネ碁は相手がやったことをそのまま返すものなので、「おもしろくない」「独創性に欠ける」という批判が上がってくるのは自然かも知れません。実際沢山あったようです(高川格九段など)
それに対して、「そっちもマネしてんじゃないの??」ってことなんですよね。うおおお。
注意点として、藤沢九段は自分の道をひたすら歩む求道派としてイメージされる棋士です。自分から他人の道を否定したりするような人ではない、と思った方がよいでしょう。
あまりにも「独創性がない」と世間から言われすぎて、そのカウンターとしてのものだと考えています。
私は、この言葉がとても好きです。別の角度から囲碁を極めようとした人の言葉として、とても生々しく自分に迫ってくるような感じがします。
ここでいう「独創性」とは、何でしょうか。
藤沢九段のマネ碁は独創性に欠け、そうでなければ独創性があるのでしょうか。
・次の一手のあらわれ方、という視点
囲碁は、黒、白、黒、白・・・と、一手ずつ打ち合っていき、進みます。
打っている方、あるいは見ている方としても、「次の一手を待つ」という時間はとても楽しいものです。
どんな感じで来るのかな、おれの一手にどう応えてくれるのかな、と。
相手の脳内は常に未知です。あらゆる可能性を思い浮かべつつ、待つことになります。
マネ碁を「自分の打った手をそのまま返してくるもの」と捉えるならば、こんなに「独創性」がないものはありません。
相手の次の一手がわかりきっているからです。
新しい展開にならず、囲碁の発展もないように思われます。
・人としての個性、という視点
囲碁を打つ人には個性(棋風)があります。
人それぞれ、どのように組み立てて、勝負して、勝ちに持っていくかという道筋が異なります。
特にプロの棋士ならば、自分なりの仕方で究めていくことで、囲碁の研究・発展に尽くすことが使命となるでしょう。
マネ碁を「自分の打った手をそのまま返してくるもの」と捉えるならば、こんなに「独創性」がないものはありません。
自分の手がそのまんま返ってくるだけで、個性は成り立ちようがないように思われます。
棋士がマネ碁をしてしまうことについて懸念があるとすれば、おそらく以上の二点のようなことでしょうか。
このような論調で言われまくっていたとしたら・・・藤沢九段の心中は想像絶します。
しかし。
前回も書いたように、藤沢九段のマネ碁は、ただマネしてるだけではありません。
「自分の打った手をそのまま返してくるもの」ではないのです。
「どちらがどこで解消するかということじたいが一つの見どころではないだろうか。」
と本人が述べているように、マネ碁状態が解除されることを常に意識しています。
つまり前者の視点で言えば、次の一手でマネが続くのか、藤沢九段自らが違う手を打つのか、常に未定ということになります。
私たちは後で記録(棋譜)を見て、彼の「マネ碁」を鑑賞するしかありません。
すると「ああまたマネしてるなあ」ということになりますが、リアルタイムでは絶対に違います。
藤沢九段は長考派でも有名でした。一手一手、どれだけ悩んでいただろうか。
これは、実際に見てみたかった点です。(あと50年早く生まれて、インターネットがあったらなあ)
後者、人としての個性という点でも、九段はただのコピー人間とはかけ離れています。
吟味があり、批判があるのです。
マネする前に、相手のその一手は正しいものだろうか?
前回の図ですが、黒1をマネせず白2という態度です。
「その手は私は正しいと思いません、こちらがいいでしょう」
と、すぐ目の前の相手に見せつけているわけですね。
これ、むしろ「個性」ダダ漏れですよね。一つの棋譜の中で、両者の考えの違いがそのまま見れるのですから。
それで最後は、結果が出て白黒つくわけですね。
このような点を含めると、私はどうしても、「独創性がない」なんて思えないのです。
ほんとにそのままマネするだけならば、そういう批判には同意できますが・・・
藤沢九段に限っては、それはあまり当たらないのではないか。
むしろ、誰もやらないマネ碁(実はあまり勝率良くないです)を一徹にやり続けたことで、彼だけが際立って、もっとも独創的になっているとすら言えます。
マネ碁へのステレオタイプ的なもの、藤沢九段を実際に見ていないためのもの、というのも多く含まれていたんじゃないかと思っています。
さて、カウンターがあったのでした。
「古人の定石や布石を踏襲するのも一種のマネ碁といえるのだし」
しびれますねえ。
「定石」は、序盤でよく出てくる戦いの形。「布石」は、それも含めた碁盤全体の作戦のこと。
囲碁には、古くから先人が積み重ね、対局する中で結果を残し、良いとされてきた定石・布石が生き残ります。
最善の一手・答え・正解、とまではいきません(人間には分かりません)が、少なくとも今一番良い・勝ちに近いといえるもの。
勝負の世界で囲碁を打っていたら、当然採用することになります。
今の世の中ならば「AI」が人間より強いので、AI先生の手から流行が生まれやすいです。
そういったものも「マネ」なんじゃないか、という問題提起をしているように見えます。
しかし冒頭でも言ったように、決して否定したいわけではないでしょう。
むしろ、「私もあなたも同じなんじゃないの?」ということではないか。
マネ碁をするのも、定石を研究してそれを発展させるのも、違う形で囲碁を究めていく過程なんだ、ということです。
「少なくとも専門棋士なら、マネ碁は否定するものではなく、真剣な研究の対象とするべきものだ。」
解消が見どころ、として独創性の面を確保しつつも、藤沢九段の力点は、この最後の部分にあるように思えます。
マネ碁は研究の対象。マネできてしまうことは囲碁の隠しきれない側面です。
(事実、彼がマネ碁を打ち続けたことにより「マネ碁対策」が研究され、ほぼ確立されているようです。見逃せない実績ですよね)
藤沢九段たちのような棋士にとって、囲碁は決して独創性を最優先にするものではないはずです。
勝ち負けがあり、より良い手を打つために力を高めるものであり、学問と同じように研究の積み重ねがあり、進歩があります。
好手や結果がなく、独創性だけがあっても、それだけで評価されはしないでしょう。
しかし逆に、その中で悶えつつも、自分なりの一手を打つ中でどうしても滲み出てしまうものが個性であり棋風です。
そんな貴重なものがトップ棋士の独創性であり芸であり、だからこそみんな大事にしたいと思っているわけですね。
マネ碁への真剣な反感も、そこから生まれるものと思います。
結論。真摯にやれば、マネだったとしてもいいんです。
・・・と書いていて避けて通れないのは、昨年2月に若くして引退した関西棋院の小野田拓弥四段です。
彼は純粋な「独創」を実行しています。
明らかに最善手ではない、おそらくそれをわかりつつ、あえて実験的に打っているように見えます。
現代音楽とかがたぶん近い。でも結構勝ってらっしゃいます。
ここで棋譜は貼れないのですが、興味のある方は調べてみて下さい(中国のこのサイトが唯一よくまとまっている)
今回書いたような、囲碁への向き合い方があったうえで、あえて別の道を採っている。
その意味とインパクトについても、機会があれば考えて書いてみたいと思います。