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なぜ和谷の碁をだれも知らないのか 囲碁ガチ勢のヒカ碁論(2)  

2022-09-28 19:55:17 | 日記

※今回もネタバレ注意です。

 
 
 
 
「和谷の対局ってまだ見たことありませんねえ」
 
 
久々に『ヒカルの碁』をじっくり読み返してみて、印象に残ったシーンがありました。
 
ヒカルが「院生」で頑張っている時期。
第55話(コミックス7巻、85ページ)にこんなやりとりがあります。
 
佐為「和谷の対局ってまだ見たことありませんねえ」
ヒカル「ああ どんな打ち方してくるか楽しみだぜ」
 
たしかにそうだ。
プロ棋士を目指す院生の上位の先輩で、入ったばかりのヒカルの面倒もよく見てくれて、研究会にも誘ってくれた和谷。
彼との対局を控えて、胸を躍らせるシーンです。
 
・・・さて問題
和谷は「どんな打ち方」でしょう?
 
 
 
ほとんどの人の「打ち方」がわからない
 
 
そう、分かりません。何も書いてありません。
 
ヒカルの碁では、たとえメインキャストであっても、
「その人がどんなタイプの碁打ちなのか」
「どんな展開を得意としているのか」
が、描写されることは稀です。
すでに読まれたことがある方は思い出してみてほしいのですが、碁のタイプがハッキリ分かる人、どれくらいいたでしょう。
 
囲碁は勝敗がつくものです。
ヒカルが囲碁大会や院生、プロ試験などで戦うことで物語が進んでいくので、『ヒカルの碁』は一応、「バトル漫画」の側面を持っているはずです。
だからこそ、これはすごいことだと思います。
 
例えばお隣、『テニスの王子様』では、主人公の学校である青学の面々はもちろんのこと、ライバル校の選手でも、それぞれのプレースタイル、得意技をどんどん描写しています。
河村先輩は見た目通りパワー系だし、乾先輩も見た目通りデータテニス。
天才・不二先輩はカウンター技を沢山持っており、戦いの中でそれが進化していきます。
スタイルと技のぶつかり合いが、バトルの内容を面白くしていると思います。(それがテニスなのかは別として)
 
バトル漫画はこの世に数多い。
お好きな作品を思い浮かべていただくだけでも、戦う人のそれぞれにスタイルがあり、必殺技がある・・・という例には事欠かないでしょう。
 
 
囲碁にも「棋風」や「得意布石」がある
 
 
囲碁にはそういうのが無いから?
と思われるかも知れませんが、いえいえ、あるんです。
 
碁盤全体にでっかく広げる「模様派」か、端をしっかり陣地にする「実利派」か。
攻めを目指して組み立てるか、守り重視でいくか。
いろいろなところに先回りする「足早」か、じっくり打つ「本手」か。
そもそも、こだわりすぎず、相手の出方に応じるか。自分のスタイルを貫くか。
 
このあたりの得意・不得意や好みが、人それぞれ違ってきて、スタイルと言えるものが形成されます。
それを「棋風」(きふう)といったりします。
 
そういう意味で、和谷がどんな「棋風」なのかが分からないのです。
彼といえば、プロ試験でのヒカル戦、生きるか死ぬかの勝負が思い出されます。
しかしあの一局があったとしても、どういうタイプかまでは、言いきれません。
たまたまそういう展開だったのかも知れないですし。
 
 
逆に、割と明らかになっているのは・・・
 
佐為。「本因坊秀策」そのもの。のち「現代の定石を覚えた秀策」になる。
ちなみに秀策は、判断力に優れており無用な戦いはしない、オールラウンダーだと思います。
 
筒井さん。「ヨセだけはほんとマチガエない」「目算とヨセはキッチリ」(第11話、2巻71ページ)
ヨセは終盤のことで、そこで勝負するタイプと見られます。
ちなみにヨセを間違えないのは完全に「プロ」の技術なので、一部では筒井さん最強説も囁かれます。
 
三谷。「ゴーインな攻めや不意を突く一手」(第27話、4巻44ページ)
碁会所や賭け碁で鍛えたというバックグラウンドがよく表れています。
 
越智。「キミは少々地を気にしすぎるんじゃないかな」「厚みは攻めに働かせないと・・・」(第80話、10巻33ページ)
アキラに指摘される場面です。たしかに、弱点という形でも個性が表れることはあります。
 
塔矢名人。「何とスピードのある足の早い碁だ」(第110話、13巻122ページ)
個人的には、「昭和の碁聖」といわれる呉清源九段の棋風を意識していると思っています。
秀策(佐為)が江戸の碁聖であることの対比でもあります。
 
これくらいじゃないでしょうか。(他にもあるかも?)
実はヒカルやアキラですら、はっきりと言われていないと思います。
中学の団体戦編では葉瀬中の二人がノミネートされましたが、加賀の碁は分かりません。
院生・プロに至っては、ほぼ不明となります。なんてこったい。
(「冷静」「強い」など、あいまいなものは除きました)
 
ここで、現実の囲碁の世界を見てみましょう。
プロ棋士の先生で、有名なのは・・・
 
地を正確に数える力が抜きんでており、ミクロの差で勝負をつけるスタイルでタイトルを獲得しています。
筒井さん的な棋風の代表者といえます。
 
その名の通り、石を攻めて、取ってしまう力が強く、恐れられました。
ベテランになるにつれ「ヨセ(終盤のこと)の加藤」とも。
 
自然に広い方に石がいき、いつのまにか碁盤全体を包み込む大宇宙があらわれます。
囲碁を知らなくても、なんか、見るだけで「分かる」かも知れません。明らかに他と違います。
 
いちばん新しいところでいくと、例えば上野愛咲美女流棋聖は「ハンマー」が定着しました。
やたら相手の石、殺してますよね。そうなる確率がものすごい。
 
挙げたらキリがないのですが、ここは代表として武宮正樹九段を詳しく見てみましょう。
(なぜか?私がいちばん影響を受けた人だから!!)
 
武宮九段、この人は代名詞的な「得意布石」を持っています。
そう、「三連星」です。
 
 
(最近は変わりましたが)昔は先番ならば、ほぼ三連星しか使っていませんでした。
武宮九段と言えば三連星、三連星と言えば武宮九段。
 
 
すると、白番の多くの人が、ここに来ます。「カカリ」です。
この手への対応によって、三連星がどのように展開されるかが変わってくるのですが・・・
 
(いわゆる一間受け定石)
 
(一間バサミ定石)
 
(「牛角三連星」)
 
(無視)
 
武宮九段の碁を調べると、時期によって戦法を変えているようです。
この年は牛角三連星ばかり打ってるな、とか。
詳しく聞いてみないと分からないですが、武宮九段なりに、どの展開が良い感じになるかを実際に試して、研究して、進歩させている。
一つの作戦を極めようとして、徹底的に磨いているわけです。
 
他には小林光一九段の「小林流」というのも、名前がついている通り、本人が使い込んで磨いています。
 
碁を打つ人の誰しもが持っている「棋風」。
「この人はこんな碁を打つなあ」というのは、囲碁の世界では結構、自然に思われる見方だと思います。
例えば、武宮九段の顔を見たとき。
まず「良い人そうだなあ」とか、もちろん思うわけですが
それと同時に、あの宇宙流の碁も浮かんでくるわけです。
生の武宮先生を初めて見たとき、「あ、宇宙流だ」って本当に思いましたもんね。
宇宙流が歩いてるんです。
それがトップ棋士というもの、囲碁が人に宿るのです。
 
そこまでのレベルではなくとも、たとえば同じくらいの力の友人、囲碁教室の生徒さん。
その人の打つ碁の感じとか雰囲気は、普段話しているときでも、なんとなく浮かんできます。
囲碁を覚えると、そういうもう一つのレンズ、いや、第三の眼ができるのかも知れません。
 
 
やっとヒカ碁に戻ります。
ヒカルの碁には、上のような意味での「武宮先生みたいな人」が出てきません。
大きく広げるのが得意、みたいな子が一人くらい目立っててもおかしくないのですが、いません。
三連星が得意で、ずっとこだわって打ち続ける人も、いません。
これはすごいことです。
だって、一番漫画にしやすい部分じゃん。
 
そういうわけで、あくまで私はですが、登場人物に対して第三の眼があまり開かないのです。
和谷が勝負している。しかし、和谷の碁がわからない。その「わからなさ」に、囲碁を知って気づきました。
 
 
「布石」といえば、アイツがいた・・・!
 
 
「得意布石」も、ヒカルの碁の面々はなかなか教えてくれません。
 
お隣の将棋界、『ハチワンダイバー』では、一徹にスタイルや戦法を磨く、魅力的な指し手が現れます。
「雁木の神野」といわれる「二こ神さん」、右四間飛車しか使わない右角。
主人公の菅田も「ハチワンシステム」を編み出し、成長させます。
 
第一部「佐為編」17巻までは、おそらく佐為の「右上隅小目」が唯一では?
右上隅小目は、現代でも使われるけれど、江戸時代で最も一般的な手でした。
秀策が現代に現れたことを示しています。
(新初段シリーズの塔矢名人戦で、現代風の「右上隅星」を選んだのは見事な描写です)
 
 
しかし、この話題において、最重要人物がいることに気付かることでしょう。
 
そう、関西棋院のくんです。
 
(初手天元)
 
 
(初手5の五)
 
この二つをひっさげて、ヒカルたちとの戦いに参戦しました。
(私は5の五使いですが、もちろん彼を意識しています。)
 
得意な布石とか、持ちネタの作戦など、そういうアプローチがなかったこの作品。
いきなり現れた社くんは強烈な印象を残しています。
 
実は、初手天元が登場する前話、「三連星」が登場しています。(第156話、19巻180ページ)
ヒカルと門脇さんとの、2回目の対戦。
1回目は、一年前に佐為が打ったので「小目」からのスタートでした。
やはり小目を予想していたであろう門脇さんの、「星か」「三連星できたか」。丁寧に描写している場面です。
 
ここで三連星を出したことで、いきなり「天元」「5の五」に行くのではなく
 
小目→三連星→天元→5の五
 
という風に、クッションの役割になっています。
これから布石の作戦がテーマになるよ、と準備しているような気がします。
 
 
 
「そういう漫画じゃないよ」ということ
 
 
逆に、このように考えてることもできそうです。
社くんのためにいままで表現をおさえてきたんだ、と。
コミック19冊ぶん布石の話題を避け、20冊目でドーンと放出したような形なんですよね。
これが、「この人はこれが得意」と細やかに知れる展開では、社くんのインパクトはこれほどではなかったかも知れません。
 
その判断基準は、「物語の展開に必要かどうか」でした。
 
ここでもそれに則ってみると、
『ヒカルの碁』は、それぞれの棋風や戦法がどんなものか、とか、どんな戦いをするのか、とかを描かなくても、あるいは描かないことでより一層、素晴らしくなる話だったのです。
代わりに描こうとしているのは、「囲碁を打つということ」であり、「囲碁を打つ人」である。
 
そのためには、棋風の表現を絞り、出す人は出し、出さない人は出さない。
筒井さんがヨセで大逆転することで、三谷がゴーインに攻めて玉砕することで、中学編がどれほど面白くなったことか。
逆に院生編では、それぞれの成長や心理描写、人間関係に集中することで、どれほど面白くなったことか。
 
そのためには、普通ならどんどん書いちゃいそうな「得意布石」というテーマも、ほぼ社くんだけのために使うような離れ業もやってのける。
実際面白くなっているので、納得でしかありません。
 
 
冒頭で引いた、ヒカルの
 
「どんな打ち方してくるか楽しみだぜ」
からの
 
実際には、どんな打ち方か描かれない
という流れ。
 
これは、
「見てもらいたいのはそこじゃないよ、そういう漫画じゃないよ」
というメッセージなのかなあと、思ったのでした。
 
 
次回は、作中での「勝ち負け」について考えてみたいと思います。


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