迷悟在己

痴呆寸前が巷間を漂いながら日々の雑感を書きます

村上春樹にノーベル賞は要らない

2018-08-26 17:54:13 | 日記
私は村上春樹の小説も、エッセイも読んだことがない。
ちゃらちゃらした流行作家なのだろうと思っていた。

こういう私が村上春樹という人を素晴らしい人と思った一瞬があった。
それはイスラエル賞の授賞式にあたって氏が披露した思想に触れた時だった。
はっきり覚えていなかったが、兎に角あなた方イスラエル人のやってることには賛成出来ない。
本当は受賞を拒否するべきなのかも知れないが、敢えてここに立って受賞の感想を訴えることに
大きな意義があるものと思ったからだ と、そのような意味だったと記憶している。
こういう氏の思想に喝采を叫ぶ人も少なからずいるものと思う。
それは右左、の立場に関係ない。

連中が世界中の報道をすべて牛耳っているために、パレスチナの人々に毎日毎日行われてる蛮行、殺戮、破壊の様子はひとつも伝わって来ない。
いつのことだったか パレスチナ人への蛮行に抗議して、イスラエル人の戦車の前に立ちはだかった
白人女性がいたが、イスラエル人はこともなげに彼女をキャタピラの下敷きにした。

正義感や、一片の感傷も、一葉の憐憫の情も持ち合わせていない人種!。
このような人種が世界の科学者にノーベル賞などというお茶らけた賞を配布している。
何たる茶番!。ノーベル平和賞の受賞者の顔ぶれを見るまでもない。

村上春樹は、かくして永劫ノーベル賞はもらえないのである。それはかの賞に対して明らかに
批判をしたからにほかならない。
ノーベル賞なんぞいただかなくともわが村上先生は世界の読者を持つ大作家なのだ。

彼のイスラエルにおける演説の一部を掲げる。
村上春樹 万歳!!

私は今日、作家として、言わばプロの嘘の紡ぎ手として、イスラエルまでやってきました。

もちろん、作家以外にも嘘をつく人種はいます。皆さんご存知のように政治家も嘘をつきます。外交官や軍人も、場合によっては外交官の嘘、軍人の嘘をつきますし、中古車のセールスマンや肉屋や大工だって同じです。しかし、作家の嘘には他の人々の嘘とは違う点があります。作家は嘘をついたからといって不謹慎であると批判されることはありません。むしろ、嘘が大きくて巧みであればあるほど、そしてそれが独創的であるほど、人々や批評家から賞賛されるのです。何故でしょうか?

私の答えはこのようなものです。すなわち、巧みな嘘をつくこと、言い換えれば真実味のあるフィクションを構築することによって、作家は真実を別の場所に晒し、新しい光を当てることができるのです。ほとんどの場合、真実をそのままの形で把握し、正確に描写することは不可能です。だから、真実が潜んでいるところからおびき出して、フィクションの次元に移し、フィクションの形を与えることで、その尻尾を掴もうとするわけです。しかし、これを成し遂げるためには、まず、我々自身の中の真実がどこにあるのかをはっきりさせておかなければなりません。これは巧みな嘘を作り上げる上で重要な条件です。

しかし、本日、私は嘘を言うつもりはありません。できるだけ正直になろうと思います。私が嘘紡ぎにいそしまない日は年に数日しかないのですが、今日はたまたまその一日だったということです。

というわけで、率直に言います。たいそうな数の人々からエルサレム賞を受け取るためにここに来るべきではないと忠告されました。中には、私がここに来たら私の本の不買運動を展開するとまで警告した人々もいました。

理由はもちろん、ガザで起こっている激しい戦闘です。国連のレポートのよれば、1000人以上の人が封鎖されたガザ市で命を落としています。その多くは非武装の市民-老人や子供たちです。

賞についての話が出るたびに、私は自問しました。このような時期にイスラエルを訪れ、文学賞を受賞することは適切なのだろうか?これが、紛争の一方の側に味方する印象を造らないだろうか?圧倒的な武力を解き放つ選択をするという政策を支持することにならないだろうか?もちろん、このような印象与えたいとは思いません。私はいかなる戦争も反対ですし、いかなる国も支持しません。また、同じように自分の著作がボイコットされるのも本意ではありません。

しかし、じっくり考えた末に、結局は来ることにしたのです。こう決心した理由の一つは、あまりにも多くの人に来るなといわれたことでした。恐らく、多くの作家がそうだと思いますが、私は他人に言われたことと反対のことをする傾向があるのです。もし人々に「行くな」とか「するな」と言われたら-特に、脅されたら-私は行きたくなるししたくなる。これは、私の、言うなれば、作家としての習性なのです。作家とは特異な人種です。作家は自身の目で見、自身の手で触れたもの以外を完全に信用することができません。

だから私はここにいるのです。留まることよりもここに来ることを選びました。見ないことよりも自身の目で見ることを選びました。口を塞ぐことよりも、ここで話すことを選びました。

それは、私がここに政治的なメッセージを運んできたということではありません。物事の善悪を判断することは作家の最も重要な仕事であることはもちろんです。

しかし、そうした判断を他人にどのような形で伝達するかという決定は個々の作家にゆだねられています。私自身はそれを物語の形にーそれも、シュールな物語に変換するのを好みます。だから本日、皆さんの前に立っても政治的なメッセージを直接伝えようとは思わないのです。