イエスとビヂャパチ新時代の要求を思いめぐらす!!
真理に導通する聖人は、どこそこを問わずいるものだ。それがイエスとビヂャパチであろう。ビヂャパチとは何者であろう。この中だけでは窺い知ることが出来ない。
ただ、肝胆相照らす仲というのは確かにある。魂の兄弟と言うべき存在である。二人はそれを超えて余りある。
<出典不詳:記事に無関係>
縁なき衆生という言葉もある。たしか、仏陀の言葉だと思っているが、たしかにそれもある。かといって、同胞には違いない。それぞれの魂の時を歩んでいると永い目で見る必要がある。
さて、形式と儀式について、傾聴すべき見解がある。投稿者はその見解に同感す
る。完全な時代は必ず訪れる。その時、すべて人間は僧侶であり、奉仕者であるとの実相を見ることが出来ると確信する。且つ又、人間が王者となる。しかし、
今も又、心の王国では、それを見ることが出来る。
イエスとビヂャパチ新時代の要求を思いめぐらす。
インド聖者とイエスは時々会ってもろもろの国民や人々の必要とするものや、来るべき時代に最もふさわしい神聖な教義、形式、儀、武などについて語り合った。一日共に山道に坐していた時、イエスは言った、
「来るべき時代には、確かに僧侶も寺院も生き物の供物も、不用になろう。禽獣の供物には人を助けて神聖な生活に導く力はない。」
するとビヂャパチは言った、「一切の形式、儀式は、人が魂の神殿の中でなすべき行 事の象徴です。聖なるお方は、人が人のために喜んで生命を捧げることを喜び給う。また原始時代以来、祭壇や神殿で行われた所謂捧げものは、人問同胞を救う ために、身を捨てることを教えることにできたものです。これは、人が人を救うためには、身を打てなければ決して救われないからです。
完全な時代には形式、儀式、また生きたささげものを要しません。来るべき時代はまだ完全な時代ではありません。それで人々は実物教授と象徴的な儀式を要します。
あなたの伝えられようとする偉大な宗教にあっては、何か洗浄とか記念などの簡単な儀式が必要でしょうが、禽獣の残酷ないけにえは、神が要求し給わないでしょう。」
イエスは言った、「われらの神は、僧侶や僧侶の附属物の華美な飾りものを嫌い給う に相違ありません。人々が神々の奉仕者であることを示そうと綺麗に装束したり、信心とか何かほかのことで、人々からほめられようと孔雀のように気取って歩 いたりしたら、神は確かにいやがって顔をそむけられることだろう。
人間はすべて誰でもひとしくわれらの父神の奉仕者、王者、僧侶である。
来るべき時代にあっては、人の子らの間の一切の階級制度や不平等は勿論、僧職制度をも全廃することを要求しないだろうか。」
ビヂャパチ、「来るべき時代は霊の時代ではありません。人々は僧衣を着て得意になり、自分が聖徒たることを示すために、聖歌を詠唱するでしょう。
あなたの紹介されようとする単純な儀式は、その時代の神聖な儀式が、その絢爛(けんらん)さに於いてブラマ教時代の僧侶の礼拝を遥かに凌ぐまでは、あなたに従う人々だけに賞讃されよう。
これは人々が解決すべき問題である。
完全な時代が始まるのは、人々がめいめい僧侶であって、人々が信念を示すために、特別な服装をつけなくなる時でありましょう。」
【宝瓶宮福音書:栗原 基訳】
第六部 インドでのイエスの生活と行動
第三十五章 イエスとビヂャパチ新時代の要求を思いめぐらす。
1)インド聖者とイエスは時々会ってもろもろの国民や人々の必要とするものや、来るべき時代に最もふさわしい神聖な教義、形式、儀、武などについて語り合った。
2)一日共に山道に坐していた時、イエスは言った、「来るべき時代には、確かに僧侶も寺院も生き物の供物も、不用になろう。
3)禽獣の供物には人を助けて神聖な生活に導く力はない。」
4)するとビヂャパチは言った、「一切の形式、儀式は、人が魂の神殿の中でなすべき行事の象徴です。