日々に薔薇と共存

大好きな薔薇を追っかけて日々癒されて生活をしています。

嬉野温泉・呼子・柳川 名護屋城跡(5)

2015-11-15 09:32:24 | 薔薇いっぱいの庭
豊臣秀吉の野望の名護屋城

豊臣秀吉は天正18年(1590)、天下統一を果たし、
約100年続いた戦国時代に終わりにした。

秀吉は、明(中国)の征服に取り掛かる。
その渡海の基地として築城されたのが、名護屋城だそうです。

大阪城に次ぐ雄大な城が、わずか5ケ月余りの短期間で完成したそうです。

文禄元年(1562)、16万の日本軍が朝鮮に侵入。
文禄・慶長の役の始まり。
秀吉は大阪城からこの城に移り,総指揮をとったそうです。

城下には全国の大名130諸侯の陣屋ができ、予備軍16万が待機して
その賑わいは、「京都にも増し申し候」。
今の町の人口より多かったそうです。









広いですね。



















歴史で習った名前が出ています。










所々石垣が壊されています。
破却の跡が生々しく残りる名護屋城。






石垣も積み方が色々違います。
それは、城の土台となる石垣工事を九州の諸大名が分担してされたからだそうです。







陣跡







徳川家康陣跡のあった場所


















全域17万平方メートルとか。やはり広い!










井戸も残っています。





















この場所から見た景色



























美しい眺め








































また来た道へ




何故か桜の花が2輪悲し気に咲いていた。



何故この地が選ばれたのか?
唯一最大の理由は朝鮮半島に最も近いと言う
戦略上の地の利であったからだそうです。

この城は秀吉の死と共に、わずか7年間で尽き、
名護屋城は秀吉にとって、最後の晴れ舞台だったそうです。

この名護屋城跡を散策しながら、「秀吉が長生きしておればどうなっていたのかなぁ?」
と思いを馳せる私。

「夏草やつわものどもが 夢のあと」の有名な一句が・・・。
何故かもの悲しく感じました。

せめて名護屋城跡でなく名護屋城が残っておれば、
こんな空虚さを感じることはないでしょう・・・・・。