縄文人のページ

何を書くかわからない

●京都の人

2018-03-24 09:40:26 | 文化


●京都人の密かな冬の愉しみ  Ep.4 
◆鴨川 冬の景色
https://youtu.be/JMzY-NdMuWY

◆鴨川 (淀川水系) - Wikipedia - 京都市
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%B7%9D_(%E6%B7%80%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%B3%BB)
鴨川(かもがわ)は、京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川。

◆四条大橋 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1%E5%A4%A7%E6%A9%8B
四条大橋(しじょうおおはし)は、京都市を流れる鴨川に架かる四条通の橋である。
鋼製の連続桁橋で川の中に2つの橋脚を持つ。
東行きは右折レーンを含む3車線、西行きは2車線の車道、歩道は周囲の道路に比べ幅が広い。
四条通の東の先は祇園、八坂神社、鴨川西岸には四条河原町がある。
京都を代表する繁華街を結ぶ橋であることから、人通りが多い。
 
◆京都観光Navi:荒神橋
https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=3000039
上京区と左京区の境の鴨川に架かる橋。
1855年(安政2)皇居炎上後、天皇移動のために架けられたという。
別名幸橋・勤王橋。
橋名は近くの清荒神護浄院にちなむ。
1953年(昭和28)11月、デモ行進中の大学生100人が警官隊と橋上で衝突、
学生10数人が欄干もろとも転落したのが荒神橋事件である。市バス荒神口すぐ。
 【正式名称】: 荒神橋(こうじんばし)

◆賀茂川・鴨川、飛び石 - abax
http://www.abaxjp.com/kamogawa/kamogawa.html
≪ 賀茂川 ・ 鴨川、 さあ どっち!≫
"飛び石" で京都鴨川を渡る
京都を舞台とするテレビドラマや映画に、鴨川を 飛び石 伝いに渡る光景がよく取り込まれる。
京都らしさを出す為の場所選びに、有名観光スポットばかりでは初心者のようで能がない。
さりげない風景で、チョットは京都を知っている人達の自尊心をくすぐっている。
「あ、あの土壁の家は、東福寺近くの、、、」 「この流れは白川疎水の、、、、」と、ドラマの展開よりも、主人公が徘徊する京都風情の再会に快感を覚えてしまう。
国内旅行、海外旅行、、知っている町並みに再会し、思い出を蘇らせるのも旅行の楽しみの一つである。
 
◆京都の八坂神社の門前町として発展した。これは、花街に住む女性の物語  "祇園 "
https://youtu.be/E46HrSova50

 
◆祇園 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92
祇園(ぎおん)は京都市東山区にある、京都の代表的な繁華街及び歓楽街。
一般に祇園町という。
東は八坂神社、南は建仁寺、西は鴨川付近、北は新橋通の広い地域の名。
鎌倉時代から祇園社(八坂神社)の門前町として開けたが、江戸時代からは遊興の町として発展。
花街を中心に高級料亭やスナックが密集して一大繁華街になっている。
京阪電車祇園四条・東一帯。
【正式名称】: 祇園(ぎおん)
概要
現在の八坂神社は明治以前は神仏習合であり祇園社(ぎおんしゃ)と称し、鴨川一帯までの広大な境内地を保有していたが、そのためこの界隈のことを祇園と称する。
その鳥居前町は元々は四条通に面していたが、明治以降に鴨川から東大路通・八坂神社までの四条通の南北に発展した。
京都有数の花街(舞妓がいることでも有名)であり、地区内には南座(歌舞伎劇場)、祇園甲部歌舞練場、祇園会館などがある。
現在は茶屋、料亭のほかにバーも多く、昔のおもかげは薄らいだが、格子戸の続く家並みには往時の風雅と格調がしのばれる。
北部の新橋通から白川沿いの地区は国の重要伝統的建造物群保存地区として選定、南部の花見小路を挟む一帯は京都市の歴史的景観保全修景地区に指定され、伝統ある町並みの保護と活用が進んでいる。

また、四条通と東大路の交差点は「祇園」交差点である(しばしば「祇園石段下」とも言う)。
交差点付近に京阪バスの祇園バス停留所がある。

もと山城国愛宕郡八坂郷八坂廻り、下京区八坂廻り(昭和4年(1929年)まで)。
なお、名の由来となった祇園社(感神院)は祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神とされていたのでこの名になった。

町名
弥栄地区
弁財天町、元吉町、末吉町、清本町、橋本町、常盤町、富永町、廿一軒町、中之町、川端町、祇園町北側、祇園町南側、林下町、円山町、清井町

◆舞妓 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9E%E5%A6%93
舞妓(まいこ)
京都の上七軒、先斗町、宮川町、祇園甲部、祇園東の五花街で、舞踊、御囃子などの芸で宴席に興(きょう)を添えることを仕事とする少女のことで、芸妓の見習い修行段階の者をいう。
舞妓・芸妓は、今から約300年前の江戸時代に、京都の八坂神社(当時は祇園社)のある東山周辺の、神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人にお茶をふるまった水茶屋の茶立女(ちゃたておんな)にルーツがあり、水茶屋もはじめはお茶や団子を提供していたものにそのうち酒や料理が加わり、その店で働く彼女達が、歌舞伎芝居を真似て三味線や舞踊を見せるようになった。
現在も京都の祇園を中心とした花街で厳しいしきたりの下で活躍している。京都市内で、普通に見かける舞妓は、観光客の扮した変身舞妓であり、舞妓が日中、花街や花街以外を出歩くことはめずらしく、京都府民・京都市民でも、本物の舞妓を見かけることはほとんどない。

なお、東京など関東地方における「半玉」、「おしゃく」とは別の文化起源であるため、区別されるものである。
 
◆半玉(はんぎょく)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%8A%E7%8E%89
関東地方を中心とした花柳界における年少芸妓(芸者の見習い)のことである。
別名「おしゃく(しばしば雛妓の字があてられる)」「赤襟」「半線香」など。
名前はかつて「玉代(ぎょくだい)」が一人前の芸者の半分であったことに由来する。
全国各地に「半玉」とよばれる存在があるが、ここでは東京の半玉について述べる。

◆お しゃく【御▽酌】
( 名 ) スル
①酌を丁寧にいう語。 「上座から順に御酌する」
②客に酌をする女性。酌婦。
③一人前にならない芸者。半玉(はんぎよく)。

 
◆げい しゃ【芸者】
①歌・舞踊・三味線などで宴席に興を添えることを職業とする女性。芸妓。芸子。
②遊芸に巧みな人。芸達者。 「貴人、高人、よろづの-は各別/浮世草子・永代蔵 6」
③芸能を職業とする人。役者・能楽師など。 「つひに末座にある-に膳をすゑず/咄本・醒睡笑」
④たいこもち。幇間ほうかん。 「たいこもちは-と云ふ/洒落本・辰巳之園」

◆花見小路通 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E8%A6%8B%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E9%80%9A
花見小路通(はなみこうじどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。
北は三条通から南は安井北門通まで約1km、祇園の中心を通るメインストリートである。
四条通を境に北側と南側で雰囲気は大きく異なる。
四条通以北は居酒屋などが入居するテナントビルが立ち並ぶ。
四条通以南はもともと建仁寺の領地であったものが明治以降発展した。
由緒ある茶屋や料理屋が立ち並ぶ。
2001年に電線類地中化、石畳の整備が完成し、情緒ある町並みへと生まれ変わった。
 
◆祇園甲部(ぎおんこうぶ)は、京都市東山区にある京都で最大の花街。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%94%B2%E9%83%A8
寛永年間(1624年 - 1645年)に祇園社(現在の八坂神社)の門前で営業された水茶屋が始まりとされる。
京都所司代板倉重宗によって茶立女(ちゃたておんな)を置くことが許可され、門前の茶屋町を「祇園町」と称するようになった。
寛文年間になると四条河原町に芝居小屋が建ち、四条通と大和大路通にも茶屋が開かれるようになり、弁財天町・二十一軒町・中之町・山端町・宮川町で、「祇園外六町」と称した。
享保17年(1732年)、正式に茶屋渡世の営業許可が下りると元吉町・橋本町・林下町・末吉町・清本町・富永町の「祇園内六町」が開かれ、さらに繁栄した。この際に、団子をモチーフにした紋章が作られた。
この紋章は現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。
江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。
 
◆祇園東(ぎおんひがし)は京都市東山区花見小路通四条上ル東側に位置する花街。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E6%9D%B1
江戸初期に八坂神社の門前で営業された水茶屋がこの花街の始まりである。
後に行政からも花街として公認されることになったが、この際に団子をモチーフにした紋章が作られた。この紋章は 現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。
江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたといい、文人や政治家等に愛され大いに繁栄した。

明治14年(1881年)に入り、祇園甲部から分離独立した。一時は『祇園乙部』と称されたが、戦後は名称を『祇園東』に改め現在に至る。
祇園東の一帯はかつて膳所藩屋敷が存在していたことから地元では『膳所裏』と呼ばれていた。
近年の芸妓数減少で後継者難を極めている。
毎年、秋になると「祇園をどり」が開催される。舞踊の流派は篠塚流、井上流を経て現在は藤間流。

◆京都の芸舞妓が惚れる人と敬遠する人の差
贔屓を気取っても本質は態度に表れる
http://toyokeizai.net/articles/-/193020
竹由 喜美子 : 元芸妓
一流の人が実践している気持ちをつかむ遊び方とは?
生まれも育ちも京都です。
14歳のとき舞妓になる意思を固め、それから11年間、京都花街で芸舞妓を務めさせていただきました。
その間に延べ数千人のお客様に接し、そのお人柄に触れさせていただきました。
京都には私がいた「先斗町(ぽんとちょう)」のほか「宮川町」「上七軒」「祇園甲部」「祇園東」など5つの花街があります。
その花街には、芸舞妓を呼んでお客様が飲食する「お茶屋」があります。

花街のお座敷にあがられるお客様というのは、社会的な地位を得られ、財もなしておられる方々です。
ただ、拙著『京都花街の芸舞妓は知っている 掴むひと 逃すひと』でも触れていますが、私たちの心を鷲づかみにされるお客様と、少々残念なお客様がいらっしゃいます。
一流の方が実践している、気持ちをつかむ遊び方とは、どんなものでしょうか。
 
 
◆ひい き【贔屓・贔負】
( 名 ) スル
〔「ひき(贔屓)」の転〕
①気に入った人に特に目をかけ世話をすること。気に入ったものを特にかわいがること。 「えこ-」 「 -にしている芸人」 「一方だけをひいきする」
②目をかけて世話してくれる人。パトロン。後援者。 「御ひいきに挨拶(あいさつ)回りをする」 「ひいきすじ」
[句]
贔屓の引き倒し

◆贔屓 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B4%94%E5%B1%93
贔屓(ひき・びし、拼音:Bìxì、正字体:贔屭)
中国における伝説上の生物。石碑の台になっているのは亀趺(きふ)と言う。
概要
中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。
重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。
日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者を不利にする、その者のためにはならない」という意味の諺だが、その由来は、柱の土台である贔屓を引っぱると柱が倒れるからに他ならない。

「贔屓」を古くは「贔屭」と書いた。「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表したもの。
「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたもので、財貨を多く抱えることを表したものである。
「この財貨を多く抱える」が、「大きな荷物を背負う」を経て、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになった。
また「ひき」の音は、中国語で力んだ時のさまを表す擬音語に由来する。

◆帯の歴史~丸帯の誕生と衰退~【いまさら聞けない着物豆知識】 | 着物 ...
http://www.bbth.co.jp/kisste/post-2334
2017/05/01
服装だけでなく女性の髪型も豪華なものへと変わっていき、通常の帯では目立たない、ということから両面ともに柄のある豪華絢爛な「丸帯」が誕生しました。
この時代の歌舞伎役者、上村吉弥が舞台で娘役に結んだ「だらり結び」は当時大流行したそうです。
 戦後、時代の流れとともに「軽装」が流行。結びやすい現在の「袋帯」が作られるようになり、今では「花嫁衣装」や「舞妓」「芸者」が結ぶのみとなりました。
丸帯は「一人で結ぶもの」ではなく「誰かに結んでもらうもの」だったんですね。
※だらり結びとは?
結んで両端をだらりと長く下げる帯の結び方です。(舞妓さんたちが結んでいる結び方)
http://www.bbth.co.jp/kisste/wp-content/uploads/2016/01/01.jpg
 
◆舞妓さんの装い 「だらりの帯」 京都伝統産業ふれあい館
https://youtu.be/CVvliT6YC64
Kei Gekiku
2015/10/19 に公開
宮川町 富美芳さん  舞妓さん の装い 京友禅 花かんざし
Englishi Page Maiko's Dress:   
https://youtu.be/eW_ShhsrnVo
京都伝統産業ふれあい館  2015年10月18日
Fumiyoshi san Maiko-san (Miyagawa-cho)  
http://www.yururitube.com/ 
E-mail:
info@golfmall.co.jp
 
◆「一見さんお断り」の本当の意味をご存じですか? – アゴラ
http://agora-web.jp/archives/2029591.html
2017/11/21
京都花街は「一見さんお断り」である。
つまり、はじめての人は、お茶屋を利用できない。紹介があって、はじめて座敷にあがることが可能になる。
「敷居が高いなあ」という声が聞こえてきそうだ。
しかしこれにはちゃんとした理由がある。
「そんなに格式を重んじていたのでは、お客を失い先細りしていくのではないかと思われるかもしれません。
こういうしきたりが続いているのには、それなりの理由があるのです。
信頼関係にもとづく長いお付き合いをしていくためです。
京都花街では、お座敷にあがられたお客様から、その日にお支払いいただくことはありません。」(竹由氏)

「経費はお茶屋が立て替え、後日精算いただくようになっています。
お茶屋経由で2次会に行かれたなら、その支払いも移動のタクシー代もすべてお茶屋に請求がくるようになっています。
お客様は財布を持っていなくても大丈夫なのです。
お客様への請求はお客様への請求は数ヵ月後(場合によっては半年)ということもあります。」(同)
 
◆ひな祭りの雪洞(ぼんぼりとは?提灯や行灯との違いはどこにあるの?
http://www.chochin-kojo.com/wp/?p=781
毎年3月3日、女の子の健やかな成長を願って行われるひな祭りこと、桃の節句。

この時期になると、街のいたる所でも装飾に春らしい物が取り入れられるようになり、気分も軽やかになって来ますよね。

また、この時期になると、桜の開花宣言も気になる所。

お雛様と花見、この2つに共通するのは可愛らしい華やかさと賑やかな美しさ、そして、ぼんぼりではないでしょうか。

ところでこの「ぼんぼり」とは、一体なんなのか?ご存知ですか?

そこで今回、提灯工場が贈るのは、ぼんぼりについてのこと。それをたっぷりとお伝えします!
 
◆ぼんぼりの意味は?
ぼんぼりとは江戸時代、「ぼんやりとしていて、はっきりしないさま」、「物が薄く透いていて、ぼんやりと見えるさま」を表す言葉でした。

◆ぼんぼりの漢字は?
ぼんぼりは雪洞と書きます。これは「せっとう」とも読みます。

雪洞は、茶道具の一つである茶の湯を沸かす風炉の蓋であり、これをぼんぼりと呼びます。

以上のことから、ぼんぼりとは形状から、意味から、そして漢字からと、それぞれ別々の成り立ちがあることが分かります。

 
◆京舞(キョウマイ)
日本舞踊の上方舞(かみがたまい)のうち、京都で起こり発達したもの。篠塚流・井上流などがある。主として地歌を地とする。→上方舞 →地歌舞.

地唄(じうた)を伴奏とする、京都で発達した舞踊。

◆井上流 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B5%81
井上流(いのうえりゅう)は、日本舞踊における流派のひとつ。上方舞に分類され、京都で発展したことから「京舞」とも呼ばれる(京舞と呼ばれる分野には、他に篠塚流がある)。
 
◆篠塚流(しのづかりゅう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%A1%9A%E6%B5%81
日本舞踊における流派のひとつ。江戸時代の後期、文化・文政期(1804年-1830年)に、歌舞伎上方歌舞伎所作事の振付師・篠塚文三郎によって創設された京舞最古の流派である。

◆上方舞(かみがたまい)(地歌舞から転送)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%96%B9%E8%88%9E
江戸時代中期(1800年頃)から末期にかけて上方で発生した日本舞踊の一種。着流しに、屏風を立てた座敷で舞う素踊りを基本とする。
源流となった御殿舞と、能を基本にした静的な舞に、人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を加味しており、しっとりとした内面的な舞い方をする。
歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きである。
本来、舞台より座敷で舞われることが多いとされていたので座敷舞と呼ばれたり、伴奏に地唄が用いられることから、地唄舞とも呼ばれる。
また上方舞のうち、京都で発展した井上流、篠塚流を京舞(きょうまい)と呼ぶ。
毎年、11月に東京の国立劇場で行われる「京阪の座敷舞」は、東京で上方舞が観られる数少ない機会であり、最も大規模なものである。
 
◆八朔 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%94
八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである。
新暦では8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動する(秋分が旧暦8月中なので、早ければその29日前、遅ければ秋分当日となる)。
この頃、早稲の穂が実るので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからあった。
このことから、田の実の節句ともいう。
この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をするようになった。

 
◆めでる【愛でる】
[文]め・づ[ダ下二]
1 美しさを味わい感動する。「月を―・でる」
2 いつくしみ、愛する。かわいがる。「小鳥を―・でる」
3 感心する。ほめる。「勇気に―・でてその行動を許す」

◆八坂女紅場学園 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/八坂女紅場学園
八坂女紅場学園(やさかにょこうばがくえん)は、御茶屋の並ぶ京都の祇園町南側界隈の土地を所有する学校法人。
法人が経営する祇園女子技芸学校(ぎおんじょしぎげいがっこう)は、京都市東山区祇園町南側にあって、舞妓・芸妓のための教育施設。
前者が学園と名乗っているので、両者はしばしば混同され、あたかも1つの団体のように思われている。
概要
八坂女紅場学園は1872年(明治5年)に創設された八坂女紅場が母体である。
1902年(明治35年)、財団法人となる。1951年(昭和26年)、学校法人となる。都をどりで知られる祇園甲部歌舞練場(ぎおんこうぶかぶれんじょう)に付属するように看板があがっている。通称「にょこば」。

「女紅場」(じょこうば)は、明治初期、全国でにつくられた女子のための習い事の施設。のちにこの言葉は用いられなくなった。

祇園女子技芸学校の必須科目は舞、鳴物、茶道、三味線。その他、能楽・長唄・一中節・常磐津・清元・地歌・浄瑠璃・小唄・笛・華道・書道・絵画などを学ぶことができる。生徒は祇園の芸・舞妓の全員で、年齢は15歳から80過ぎまでと幅広い。

◆御居処(おいど)の意味・語源・由来を解説
【意味】 おいどとは、お尻。
【おいどの語源・由来】
「お」は接頭語の「御」、「い」は「座る」を意味する古語「ゐる(居る)」の名詞形、「ど」は「場所・所」を意味する「と・ど(処)」で、おいどは「座るところ」という意味である。
おしりは座る際の中心となる部位であるため、中世頃から上品な女性語として用いられるようになった。
現在では、愛知と近畿以西の方言にみられる。
 
◆都をどり - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E3%82%92%E3%81%A9%E3%82%8A
都をどり(みやこをどり)は、毎年4月1日 - 30日にかけて、京都の祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞踊公演。
沿革
都をどりの原型と言われる伊勢古市の「伊勢音頭」総踊り。1847–52年ごろ、歌川貞秀画「いせおんど 桜襖」。

1872年(明治5年)、京都で初めて博覧会が開催されたとき、その余興として万亭の杉浦治郎右衛門と井上流家元の井上八千代(三世 片山春子)が企画したのがはじめである。

時の京都府知事、槇村正直が作詞を、当時新進であった井上流家元、井上八千代(三世 片山春子)が伊勢古市の亀の子踊り(伊勢音頭の総踊り)を参考に振付を担当した。
舞台まで両側の花道が設え、今までの舞台とは一味違う革新的で、花道からおそろいの衣装を着けた踊り子たちが登場して観客を驚かせた。
以来、歌舞伎や源氏物語などを題材にして、明治以来のスタイルを踏襲しながらその年の干支や話題にちなみ、新たなる志向で上演され続けている。

 
◆移ろい(ウツロイ)
1 移り変わること。「心の移ろい」「四季の移ろい」
2 物事の状態が盛りを過ぎること。「のどかなる御代の春知る色なれや雲居の桜移ろいもせぬ」〈続千載・賀〉
3 住まいを移すこと。転居。「世の常のすみかに移ろいなどし給はむを」〈源・総角〉

◆うつろいぎく【移ろい菊】
襲(かさね)の色目の名。表は中紫(なかむらさき)、裏は青。一説に、裏は白か黄。秋に使用。
 
◆紙縒 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E7%B8%92
紙縒(こより)は、紙を細く裂いた物を寄り合わせて紐とした物である。
なお紙撚とも表記する。
特に丈夫な紙を原料にしたものは元結と称し、主に冊子の綴じ紐や髪を束ねるために使用される。
また、紙縒りに糊を引き、染色あるいは箔加工したものが水引となる。
紙縒の原料となる丈長紙は、越前・美濃・阿波・丹後・伊予・土佐・日向で製紙され、2005年現在では、長野県飯田市がその特産地である。
なお、ティッシュペーパーなどの薄く柔らかい紙を、先端が細くなるように捻ったものを紙縒と呼ぶこともある。
 
◆PDF]金 沢 伝統工芸 - 金沢・クラフト広坂
http://www.crafts-hirosaka.jp/kougei/sasshi/doc/Japanese.pdf
古九谷の茶碗や加賀蒔絵のなつめ、江戸時代の絵画や掛軸、屏風など、茶道具に関する古美術品を中心に展示しています。
抹茶とお菓子を味わうこともできます(有料)。
地域の伝統を未来につなげ、世界に開く美術館として、工芸をはじめとする文化が、21世紀にどのような可能性を持つのか、異文化交流の視点に. 立って問いかけます。
現代アートを中心に、国内外の作家を紹介する展覧会ゾーンのほか、恒久展示作品がある無料の交流ゾーンが充実しています。

◆切ない…。こういうつらい気持ちになること、ありませんか? | 生活百科
https://seikatsu-hyakka.com/archives/2485
2018/02/13
小説や漫画などでよく使われる表現の一つに「切ない気持ち」という言葉があります。
切ない気持ちというのは、どんな時に生まれる感情なのか考えてみてください。
あなたはここ最近で、切なさを感じたことがありますか?
切ない気持ちというとは非常に曖昧です。
悲しい気持ちと混同されやすく、全員が全員同じ感情を“切なさ”と呼んでいるかも定かではありません。
個人によって気持ちの受け止め方や表現の仕方は違うものです。
 
◆女将(おかみ) - ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E4%B8%8A
お上・御上(おかみ)
貴人や主君に対する尊称である。転じて、公儀権力を示す。
なお、「おうえ」と読んだ場合は、主婦あるいは座敷・居間を意味する。
歴史
四等官筆頭の長官がカミと呼ばれるように、日本では古より最上位の権力者をカミと称してきた。
武家政権時代であれば、庶民にとってのオカミは領主であり、武士にとってのオカミは主君であり、公家にとっての主上(おかみ)とは天皇であった。
明治に入り一君万民論の浸透とともに、狭義には天皇一人を、広義には「天皇の政府」としての公権力一般を指すようになった。
第2次世界大戦後は「お上」をもって天皇を指すことは一般的にはなくなり、揶揄的に役所・政府ないし政府機関、省庁を指す俗用のみが残っている。

にょしょう【女将】. ⇒ じょしょう(女将)(おかみ)
 
◆祇園(茶立て女)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054883210264/episodes/1177354054883668793
 八坂神社の後なので、ついでに祇園も紹介しましょう。

 京都の花街は現在5つ残っています。

 「祇園甲部」(ぎおんこうぶ)、「祇園東」、「先斗町」、「上七軒」(かみひちけん)、「宮川町」の5つ。

 それと例外ですが、日本で唯一太夫(花魁)がいる「島原」と言う所が1ヶ所残っています。

 現在は太夫は1人ないし2人が活動しているだけで、置屋も1軒しか残っていません。

 この中で一番大きな花街が祇園甲部で、明治時代になってから建仁寺の寺領を召し上げて作られました。

 5つの花街の内、一番古いのが上七軒と言う所で、室町時代に北野天満宮を修復した余りの木材で7つの水茶屋を立てて、巫女を辞めた女性がお茶を出す(茶立て女)ついでに踊りを披露したのが始まりです。

◆ちゃたて‐おんな〔‐をんな〕【茶立て女】の意味
1 茶店で茶をたてて客に供する女。茶くみ女。

2 江戸時代、大坂で、茶屋に雇われて客に給仕をするとともに、遊女を兼ねた女。
 
◆固めの杯(カタメノサカズキ)
人と人との結びつきや約束事を確かにするために、杯を取り交わして酒を飲むこと。
「固めの杯を交わす」

◆簪 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/
簪(かんざし)は、女性が髪を結う時に使う日本の伝統的な装身具である。
概要
日本人女性の髪を飾った髪飾りのこと。
特に江戸時代後期には様々な種類のかんざしがつくられ、髪を飾った。

簪の原材料には漆を塗った木(つげ、桐、朴、桜など)、金や銀をめっきした金属(近代では強度の面などから真鍮製が一般的)、鼈甲(べっこう)、象牙(ぞうげ)、絹のような広範囲にわたる材料から、最近はプラスチック(プラスチックにも様々な種類がある)も用いられる。
飾り部分にはサンゴ、瑪瑙(めのう)、翡翠(ひすい)、水晶なども用いられた。
珍しいものとしては縁起を担いでか鶴の骨で製作したとされるものまである。
江戸時代初期の簪は現存しているものが品質・材質共に貴重なものであるため、稀少価値のあるコレクターズ・アイテムともなっている。
中でも、明治初期のベークライトでできた簪は極めて珍重されている骨董品である。

英語では英: hair slide、Hair stickと訳されるが、上述のように日本の伝統的装飾具であるため英: Kanzashiでも通用する。

装着法には多くの種類や様式が存在する。 例えば芸者がどのような簪をどのように着けるかで、「通(つう)」や「粋人(すいじん)」など精通した遊び客には彼女らの地位が判別できる。

とくに花柳界の女性の間では日本髪の結い方や簪を装着する位置は着装者の地位や立場に準じる。
舞妓は、先輩である芸妓と較べて下がりのついた華美な簪を着用するが、階級が上がるにつれ立場に応じた髪型や簪へと段階的に変わっていく。
 
◆京都をつなぐ無形文化遺産 花街の男衆(おとこし)
http://kyo-tsunagu.net/kagai/mono/
花街を支える「ひと」「わざ」「もの」

芸妓や舞妓を引き立てる髪型やきもの,三味線や笛などの邦楽器,さらに,舞台や座敷を飾るしつらえなどには,髪結い師,着付師のほか,きものや帯,かんざしなどを作る伝統工芸の職人の「わざ」が凝縮している。
職人の手から手へと受け継がれてきたこれらの「わざ」は,花街をはじめ京都の雅な文化の中で洗練され,精緻を極めてきた。

このように花街では,至るところに京都の多彩な伝統工芸を見ることができ,高い技術を誇る京都の伝統工芸が花街の文化を支えていると言える。
また同時に,花街における伝統工芸に対する需要は,ものづくり都市・京都の活性化につながり,このことは日本文化の継承・発展にも寄与していると言える。

<現状と課題>
京都の「ひと」「わざ」「もの」が花街を支えるとともに,花街における需要が,それらを支えているという側面もある。
そのため,その需要の低下は京都の伝統産業にも影響を与えている。
髪結い師や着付師など,花街の文化を支える後継者の不足も危惧されている。
 
◆先笄 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%88%E7%AC%84
先笄(さっこ、さきこうがい)
江戸時代後期に上方を中心に西日本の町家の若い既婚女性によく結われた髷(喜田川 守貞『守貞謾稿』によると現在の愛知県岡崎市内にあったある村の西と東で既婚女性が「先笄」「両輪」に結う地域と「丸髷」に結う地域の二手に分かれた。)。
一般には明治の末頃まで結われたという。
現代では舞妓が衿替え(舞妓から芸妓になること)直前の挨拶回りに結う(町家のものとはやや形が異なっている)。

先笄と先笄に似た髷
先笄は結うときに笄が不可欠な「笄髷」の一種。

後頭部で髪をひとつにまとめて折り返し、笄に毛束を交差して巻き付けた後、毛束を髷の根元に折り返して持って来て「さばき橋」(髷の上を縦断する毛束)にする。

髪飾りは髷の根元に手絡を巻きつけて、一揃いの櫛、笄、(以下簪)前挿し、根挿し、いち留を使用する(舞妓は鼈甲に統一し花簪を挿す)。

先笄と同じ結い方で輪を水平にして島田髷に形を似せ、「さばき橋」がないものを粋書髷と呼び京都の二十代前半ごろの女性がよく結った。

上方を中心に西日本の既婚女性が多く結った両輪髷は笄髷を勝山髷風に結ったもので、先笄と見た目がよく似ている。先笄と違って髷の根を上げず、逆に下に折り曲げるのが特徴。
 
◆お梶(先笄)
http://kanoh.tokyo/nihon/style/style_cat/shimada/okaji.html
お梶、いわゆる先笄になります。
一を島田にして、残りの毛を笄に掛けて始末し、油付けの毛と手絡で飾り付けたところに、更に橋の毛を掛け、一留めを付けます。
非常にパーツの多い贅沢な頭です。関西では新妻の髪型、襟替直前に舞妓さんが結う髪型として知られています。本によっては、既婚女性は関西では先笄、関東は丸髷を結うとしていて、関西既婚女性の代表的な髪型のようです。

関西では、結婚後先笄に結い、子供ができると両輪に髪型を変えたとのこと。

◆お梶 (おかじ)
http://kanoh.tokyo/nihon/style/style_time/style53okaji.html
○いきさつ・・・
http://kanoh.tokyo/images/nihon/kiroku/53_okaji_01.jpg
節分きたー!

節分といえば、お化けですね。
関東ではあまりなじみのない風習ですが、花柳界ではやはりお化けをするそうで、先生のお店にもお化け用に髪型を変える鬘が預けられている季節です。
 
◆替え(えりかえ) 京都通百科事典
http://www.xn--1lq080npta.jp/Tradition/KagaiErikae.html
襟替え(えりかえ)とは、
http://www.kyototsuu.jp/Tradition/KagaiMaiko.html
舞妓さんが晴れて芸妓(げいこ)になることをいう
 芸妓へのお披露目の時に、着物の襟をこれまでの赤襟から白襟に変えることから「襟替え」と称されるようになる<BR />

 また、これまでの住まいから自立するので「一本になる」ともいう
 この時に、旦那がついて襟替えをすることを、花の水揚げにたとえ、あるいは、
商いの上がり花(あがりばな)などにたとえ「水揚げ(みずあげ)」という

 芸妓の役割には大きく2つあり、
 舞踊を主にする者を立方(たちかた)
 長唄や清元などの唄、語りや三味線や太鼓の類の演奏をうけもつ者を地方(じかた)という
 地方となるにはそれなりの修練が必要であり、通常は立方を卒業した姉芸妓が地方を担い、舞妓さんが立方を担う

 また、芸妓になるには、素養として一通りの舞踊、茶事などの修行が求められる
 芸妓は、通常"京都の花街"花街にある
http://www.kyototsuu.jp/Tradition/KagaiOkiya.html
"置屋"
置屋</A>に籍を置いて、料亭やお茶屋で宴席があると、検番を通して呼び出しが来る
 芸子屋は、芸妓の抱元であり、お客を遊ばせる場所ではない
 お客は、時間決めで宴席に呼ぶことができ、その料金のことを「線香代」とか「玉代」といわれる
 <舞妓さんから芸妓への髪型>
舞妓さん時代は、自分の髪で結い上げ、芸妓になるとカツラになる
舞妓さんになると「割れしのぶ」を結い
 18歳になると「お福(福髷)」に結いかえ
芸妓になる1週間から10日ぐらい前から、絢爛豪華な「先笄(さっこう)」となる
 
◆京言葉で「おきばりやす」ってどういう意味ですか?どういうときに使うんですか

「おきばりやす」は「お気張りやす」ですから、「頑張ってくださいね」などの意味ですね。
何か趣味や仕事を始めたとか、何かに熱中しているとかの会話に対しても使えると思います。
でも一般ではあまり使わないかと…、着物仕事系やご年配はよく使用します。
気合入れて頑張って、と応援も兼ねてかける言葉と考えて良いと思います。
「せいぜい、おきばりやす」ではエライ意味が変わりますが。。。


 
◆おとなの修学旅行「伝統と革新の旅 京都編」
https://youtu.be/ETlngwZmdg4

 
◆八ツ橋 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E3%83%84%E6%A9%8B
八ツ橋(やつはし、八橋・八つ橋・八ッ橋とも記す)は、京都を代表する和菓子の一つである。
明治時代、京都駅で販売されたことをきっかけとして認知されるようになり、人気となった。
第二次世界大戦後には「生八ツ橋」が考案され、現代ではこちらの方が人気がある。
八つ橋は京都を代表する観光土産であり、統計調査によると京都観光の土産として菓子類を購入する人は96%にのぼるが、そのうち八ツ橋の売上は全体の45.6%(生八ツ橋24.5%、八ツ橋21.1%)を占め、京都を代表する土産物になっている。
関西地方では京都府以外でも駅やサービスエリアの売店でも売られている事がある。

なお、京都には「京都八ツ橋商工業組合」と呼ばれる組合がある。

起源・由来
江戸中期にあたる1689年(元禄2年)に、聖護院の森の黒谷(金戒光明寺)参道の茶店にて供されたのが始まりとされる。

八橋の名の由来は定かではなく、箏曲の祖・八橋検校を偲び箏の形を模したことに由来するとする説と、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台「三河国八橋」にちなむとする説がある

◆西陣織とは | 西陣織工業組合
http://nishijin.or.jp/whats-nishijin
多品種少量生産が特徴の、京都(西陣)で生産される先染(さきぞめ)の紋織物の総称です。
昭和51年2月26日付で国の伝統工芸品に指定されました。
西陣の織屋は平安朝以降連綿と続いてきた技術とともに、優れたデザインのため創造力や表現力への努力を重ねています。
 
◆西陣とは
「西陣」とは、西陣織工業組合の登録商標で、その生産地域は広いが境界は定かではありません。

西陣という行政区域は特別にはありませんが、西陣織にたずさわる業者がいる地域は、京都市街の北西部に位置し、上京区、北区を中心に、おおよそ南は丸太町通、北は上賀茂、東は烏丸通、西は西大路通に囲まれたあたりを指します。


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