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何を書くかわからない

ビデオ日誌「すべきことを探して、すべきことをする、それが老後の統合性」

2018-02-27 18:01:44 | 文化


★0555 ビデオ日誌「すべきことを探して、すべきことをする、それが老後の統合性」
https://youtu.be/Ehs5oyQbkHs

《01》2007年10月23日 XML
●老後の統合性
カテゴリ:生きザマの問題
●老後の統合性

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老後をどうすれば有意義に生きることができるか。
それは、『自己の統合性』で決まる。

それがこの4年間で得た、私なりの結論である。

つまり(自分がすべきこと)と、(現実に今していること)
を一致させる。これが「統合性」である。

若いときは、(したいこと)と(していること)を一致させれば、
それでよかった。自己の同一性を確保できた。

今、その最中にいる若い人たちにはたいへんなことかも
しれないが、老後の統合性とくらべたら、何でもない。

というのも、(したいこと)と、(すべきこと)の間には、
大きな距離がある。

たとえば釣りが好きだからといって、毎日釣りをして
いても、その人の空虚感が、満たされることはない。

ふつう(すべきこと)は、自分のしたくないことのほうが、
多い。ある種の苦痛や苦労がともなう。

しかしその(すべきこと)の追求なくして、老後はない。

まず、4年前に書いた原稿を紹介する。このとき私は
まだ、自分の老後を、実感として、自分のものにする
ことができなかった。

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《04》 で、こうした行為が、私の心に何かの「うるおい」をもたらすかというと、そういうことは、まったく、ない。客観的に見れば、私は人助け(?)をした。よい思いをもって当然なのに、それがない。相変わらず、孤独は孤独のまま。絶望感も、疎外感も、空虚感もそのまま。

 私のどこが、どうまちがっているのだろう。おかしいのだろう。何かの見返りを求めているのだろうか。ノー。感謝されることを願っているのだろうか。ノー。自分の優位性を楽しんでいるのだろうか。ノー。

 一つ理由があるとすれば、私は、相手の立場になりきっていないということがある。口では、「たいへんですね」と、同情したフリをするかもしれないが、それはあくまでもフリ。私はいつも、そのフリだけで生きている。だからそういう相談に答えながらも、いわばハウ・ツー的な知識を説明しているにすぎない。

 これではいけない。このままでは、さらにいけない。私の老後は、まちがいなく、悲惨なものになる。……私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 さあ、時間がないぞ。私はどうしても急がねばならない。あと五年か。それとも10年か。いや、とても10年は、もたないだろう。それまでに、何としても、自分を立てなおさなければならない。
(030914)

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《06》
 その(生きること)は、まさに(無)の世界。どこまでも純粋で、透明。濁った心が入り込んだとたん、(生きること)は、台なしになってしまう。

 ……しかしそこまで、無私、無欲になりきれるものなのか。が、これだけは言える。「人間は死ぬときは、無に還(かえ)る」ということ。死なないまでも、死がちかづけば近づくほど、無に近くなる。話はぐんと現実的になるが、そのことは、ケア・センターに通う老人たちを見ればわかる。

 あのケア・センターでは、老人たちが、20~30歳前後の若い人の指導で、粘土細工をしたり、折り紙をしたりして、時間をつぶしている。若いときには、みな、それぞれ、それなりの人たちだったはずである。

 私の母にしても、今では、8~10畳間の部屋とベッドが、すべての財産。若いころは、勝ち気で、負けず嫌いだった。親戚の人たちと、遺産の取り合いまでしたことがある。しかし今、残っているものは、何もない。

 だったら、それに早く気づけばよい。どうせ私たちは、みな、「無」に還る。遅かれ、早かれ、そうなる。無になることを恐れるのではなく、無を前提として生きる。そうすれば私利、私欲も消え、その分だけ、より早く自分の統合性を確立することができる。

 この原稿を、また4年後に読み返してみたい。そのとき私は、何を発見しているだろうか。私は、どうなっているだろうか。
(07年10月23日、満60歳まで、あと少し!)


《老後の統合性について、どうか、私の原稿をお読みください》

 https://plaza.rakuten.co.jp/hhayashi/diary/200710230005/


《02》
【4年前の原稿より】(03年9月作)

●不安

 日本人の80%近くが、老後に不安を感じているという。少し前、何かの調査で、そんなことがわかった。

 私も、実は、その中の一人。そのうちどこかの老人ホームに入るつもりでいるが、かなりのお金が必要だという。ワイフは、「土地と家を売れば、何とかなるわ」と言っているが、私の感じている不安は、そんなものではない。

 問題は、老後の生活ではない。問題は、どうやって老後の孤独、絶望、疎外、空虚と戦うか、だ。死への恐怖もある。どう考えても、その方法がわからない。それまでに人生観が確立できればよいが、今のままでは、それも無理だろう。
 
 とくに私のように、戦後の高度成長期を生きてきた人間は、豊かな生活と引きかえに、もっと大切な「心」を、犠牲にした。すべてを「マネー」に結びつけて生きてきた。今さら、「友だちの数こそ、真の財産」「我を捨てて、慈悲の心をもて」と言われても、どこでどうすればよいのかさえ、わからない。

 そう、私たちの生活には、「だからどうなの?」という部分がない。豪華な車に乗って、これまた豪華なレストランで、おいしいものを食べる。しかしそのとき、ふと、こう考える。「だからどうなの? それがどうしたの?」と。

オール電化の、便利な家を建てる。風呂の温度も、湯の量も、すべて自動化されている。暑ければクーラーをつければよい。しかしそのときも、ふと、こう考える。「だからどうなの? それがどうしたの?」と。


《03》
つまり私たちは、「だからどうなの?」という部分を、置き去りにしたまま、ただがむしゃらに生きてきた。たとえばそのことは、美術館で巨匠たちの描いた絵画を見たときに、思い知らされる。「すばらしい絵だ」と思うのだが、「だからどうなの?」という部分で、その絵を、自分と、どうしても結びつけることができない。そしてあろうことか、「この絵は、一億円の価値がある」「二億円だ」と、そんなふうに考えてしまう。

私が感ずる老後の不安は、そんなところから生まれる。

 もし生きるだけなら、死ぬまで生きればよい。うまくいけば、ベッドの上で、寝たきりでも何でも、数年間は生きられる。しかし、そんな人生に、どんな意味があるというのか。もっと言えば、明日が今日と同じ。あるいは明日は、今日より、もっと悪くなるという人生に、どんな意味があるというのか。ただ生き長らえているという人生に、どんな意味があるというのか。

 若いとか、年をとっているとか、そういうことは関係ない。肉体などというものは、ただの入れ物。パックに入っていようが、グラスに入っていようが、ミルクはミルク。問題は、そのミルクの味、中身、それに鮮度なのだ。

 今の私には、孤独、絶望、疎外、空虚と戦う自信は、まったく、ない。このまま行けば、やがて孤独という無間地獄の中で、気が狂ってしまうかもしれない。その可能性は大きい。そこで聖書をひもとき、仏教の経典を開き、「心」をさがす。しかし頭の中では理解できても、それが実践できない。実践しても、どうも身につかない。

 昨日も、ある親から、子育てについて、相談があった。二時間近く、電話で話した。このところ毎日のように、電話がかかってくる。居留守をつかうという方法もあるが、ウソをつくのは、もっといやだ。だから電話に出る。


《05》 この原稿を書いてから4年。私は『自己の統合性』という言葉を知って、自分の老後に、ある種の光がさし込んだのを知った。わかりやすくいえば、「おぼろげながらも、道が見えた」。

 もちろんこの言葉は、心理学では常識的な言葉で、私が考えたものではない。若い人についていえば、『自己の同一性(アイデンティティ)』という言葉がある。それと対比させて考えてみると、わかりやすい。多くの若い人は、(自分のしたいこと)を模索しながら、やがてそれと自分を一致させていく。それが『自己の同一性』。

 が、「統合性」というのは、そんな生やさしいものではない。というのも、先にも書いたように、(すべきこと)には、ふつう、苦痛や苦労がともなう。できるなら、そういう苦痛や苦労は、避けたい。統合性を確立するためには、そういう苦痛や苦労を乗り越えなければならない。

 しかも、その統合性は、一朝一夕には確立できない。エリクソンという学者が言っているように、その時期は、「人生の正午」と呼ばれる、満40歳前後。そのころから、老後に向けて、準備する。計算すると、老後を迎える、20~30年前から、ということになる。

 「60歳になりました。これからはボランティア活動に精を出します」「ゴビの砂漠で、ヤナギの木でも植えてきます」というわけにはいかない。その下地がない人が、まねごとだけで、それらしいことをしても、意味はない。長続きしない。

 で、私にとって(すべきこ)とは何か? 言い忘れたが、(すべきこと)というのは、無私、無欲が前提である。功利、打算が入ったとたん、その(すべきこと)は、霧散する。つまり(すべきこと)というのは、「なぜ私たちは生きるか」「何のために生きているか」「何のために生きてきたのか」という問題と直結している。


今まさに40代半ばの私にとって、とても心に響くお言葉でした。

正直なところ、老後の自分、あらゆる事が衰えて行くであろう自分の事を考えるのが怖くて、
逃げてばかりいるのが現状ですが(苦笑)。


本当のところ、老後を生きることのたいへんさ、そしてすばらしさを、目下、体験しています。老後になってはじめて、子育ての煩わしさ、煩悩、性欲の奴隷から解放されましたよ。線香花火のように、短い期間かもしれませんが、精一杯燃焼させたいです。ただ若いときのような、ぜいたくはできませんが。。。子どもの教育費は、ほどほどに。老後の資金を大切に。私は、失敗しましたが。。。


DNAレベルで設定された時計から逃げずに、準備を進めていきたいと思います。


 ▼動画をご覧くださり、ありがとうございます。
ただいま、返事を書く時間がなくて、すみません。
時間があきましたら、また返事を書かせてくださいね。
すみませんが、よろしくご理解ください。  

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またおいでになってください。
Come early and stay late with me, for which I thank you very much.


老化は例外なく誰にも訪れますから。外側に幸せを求めるのではなく、林先生が言われる様に、真善美を求める事が、老いて直面するだろう恐れ、不安、孤独感に立ち向かえる鍵なのですね。
死ぬまで元気に真善美を追い求めたいです。ありがとうございました😊


林先生、UFO詳細図をこちらに⇒ http://mihaidesign.jp/ufo.html
アップしましたので、ご確認願います。


https://youtu.be/_jbogotg218   
アップしておきましたので、どうかご覧になってください。
ありがとうございました。


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