縄文人のページ

何を書くかわからない

靖国放火、判決に韓国人「賞賛」

2015-12-05 15:37:31 | 政治
2013年1月3日
http://news.livedoor.com/article/detail/7285307/
韓国高裁は3日、靖国神社放火犯は「政治犯」にあたるとし、日本に引渡さないと判決
韓国のネット上では、韓国高裁の判決に喜びの声が続出
靖国神社の放火について賛辞を送るという、日本人には理解し難い反応が集まった



靖国神社放火犯を日本に引き渡さず、韓国高裁の判決に韓国ネット上は「よくやった!」


2013年1月3日 23時30分
韓フルタイム


靖国神社放火犯を日本に引き渡さず、韓国高裁の判決に韓国ネット上は「よくやった!」
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靖国神社の門へ放火し、日本が日韓犯罪人引き渡し条約によって身柄の引き渡しを求めていた中国人の劉強元受刑者に対し、韓国高裁は3日、「政治犯」にあたるとして日本に引き渡さないとする判決を下した。

韓国のネット上ではこのニュースに対し、喜びの声が集まった。

ソウル高裁はこの日の判決で、「政治的犯である劉強を日本に引き渡すことは、韓国の政治秩序と憲法理念のみならず、多くの文明国家の普遍的な価値を否認することになる」と説明した。

靖国神社については、「法律上は宗教団体の財産とされているが、日本の侵略戦争を主導した戦犯らが合祀されている政治的に象徴性のある場所」だとし、劉元受刑者の犯行は「政治的な大義のために行ったもので、犯行と政治的な目的の間に有機的な関係が認められる」と説明。人命被害がなく、被害も大きくなかったことなどから、犯罪は重大かつ深刻、犯人論的だとは断定し難いと判断した。

同条約では、政治犯と認定された場合は引き渡さなくてよいとされているため、劉元受刑者は直ちに中国に送還されるとみられる。

劉元受刑者は2012年1月、ソウルの日本大使館に火炎瓶を投げ込み、懲役10カ月の実刑判決を受け服役した。取り調べの過程で、2011年12月に靖国神社に放火したことを自供し、日本は同年5月に引き渡しを求めた。しかし、中国は、劉元受刑者を政治犯として中国に送還し、日本には引き渡さないよう要求。韓国の判断に注目が集まっていた。

日本は、政治犯ではなく「放火」の容疑で引き渡しを求めており、「韓国が引き渡しを認めない場合は、条約の不履行国となり、国際的信用の失墜は免れない」とも指摘していた。にも関わらず、ソウル高裁は日本への引き渡しを拒否。当然のことながら、日本側は今回の判決に強い不満を示している。

一方、韓国のインターネット上には喜びのコメントが大量に書き込まれた。

劉元受刑者は以前、韓国メディアに対し、「慰安婦のおばあさんたちや、韓国・中国の国民の尊厳のために実行した」「日本の軍国主義者たちの反人間的な行動に抵抗しようとした」などと話している。

そのため、ネット上には「靖国放火犯なら賞を贈って」「ほっとした」「英雄」「韓国人の代わりにやってくれた」「昔なら独立闘士だ」「中国の安重根だね」などと劉元受刑者の犯行を讃えたり、判決に喜ぶコメントが殺到。韓国で起こした放火で服役していた劉元受刑者に、靖国神社への放火については賛辞を送るという、日本人には理解し難い反応が集まった。

■ 毎年神社・寺社は平均毎週2~3社ずつ燃えている

2015-12-05 15:11:18 | 政治
2014-05-01
http://d.hatena.ne.jp/next49/20140501/p1
■ 毎年神社・寺社は平均毎週2~3社ずつ燃えている
CommentsAdd Starmomonga-ifa11enprinceyuka7rin12vanbraam

一見、データ付きでもっともらしいけれども、列挙されている事例が本当にあるのかを確認するソースを見せていない。これは他者からの検証に耐える形で情報を提供するという意思がないあらわれ。卒業論文や実験レポートにおいて参考文献部分をうるさく言われるのは「他者からの検証に耐える形で情報を提供する意思」が端的に表れるのが参考文献の適切さであるから。

• はてな匿名ダイアリー:毎週のように神社が燃やされて、文化財が中国でオークションに流れる
http://anond.hatelabo.jp/20140501191750
◦ あがさの一歩:日本の神社仏閣重要文化財火災 重要文化財窃盗事件 まとめ:元ネタ?
http://agasatea.seesaa.net/article/362432901.html
◦ テレビにだまされないぞぉ:「日本から消えた文化財・・・韓国”窃盗ビジネス”の実態とは?」【報道ステーション SUNDAY】
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2013/03/l-c37b.html

上記エントリーが主張しているのは次の3点
1. 毎週のように神社や寺社が燃えている
2. その原因は放火である(文中に明示していないが、エントリーの構成から意図は明らか)
3. 放火の理由は、文化財の盗難のためであり、盗難された文化財は中国でオークションにかけられている

神社や寺社が毎週のように燃えているのか?

新聞記事のデータベースにアクセスできる環境にあるならば検索で探すのも良いけど、こういうのは統計情報が公開されていないかを探すのから始めるのが良い。火事の話なので Googleで「火災 統計」で検索すると消防庁の消防白書の存在い行き当たる。
• 消防庁:刊行物、映像データ等
http://www.fdma.go.jp/concern/publication/index.html
多くの場合、データは付属資料として白書の終わりにまとめられていることが多いのでそれを探してみると平成25年度(2013年度)の消防白書の付属資料II-20:建物火災の火元建物用途別の損害状況という表が見つかる。この表は平成24年(2012年)中の火災報告より作成されたもの。消防白書には1年前の状況がまとめられており、現在は平成25年度版までしかでていないので、2003年~2012年の10年間の神社・寺社の火災件数と損害額、死者数を消防白書の付属資料から抜き出した。

年  件数 損害額(百万円) 死者発生数
2003 137 953 3
2004 144 721 1
2005 158 836 3
2006 94 1166 5
2007 150 1215 2
2008 136 1368 3
2009 118 903 N/A
2010 126 969 2
2011 113 400 7
2012 106 915 2

1年は52週なので少ない年でも平均毎週2件、多い年では平均毎週3件燃えている。この点に関してはリンク先のエントリーは嘘はいっていない。でも、正確でもない。
NAVERまとめ:
http://matome.naver.jp/odai/2136751001913246201
静岡で2夜連続して神社全焼【記録35件】神社仏閣の相次ぐ火事、いったい日本でなにが起こっているのかというのもあるけど、頻度的にはそれほど不思議ではない。

ついでに建物の用途に学校があったので学校でも同じ表を作ってみた。この学校はたぶん小学校から大学・専門学校まで含んでいると思われるので、そもそも総数が多いというのはあるけど、年間200件~300件の火災が起きているというのはちょっと驚いた。平均すると毎日1件学校が燃えている。避難訓練重要。

年  件数 損害額(百万円) 死者発生数
2003 369 333 1
2004 352 252 1
2005 384 433 2
2006 330 279 1
2007 341 333 1
2008 320 950 1
2009 317 245 1
2010 292 264 0
2011 260 66 0
2012 234 130 0

神社・寺社の火災原因は放火であるか?

建物の用途別火災件数とその出火原因が消防白書には掲載されていないので何とも言えない。平成25年度消防白書付属資料II-6:主な出火原因を見ると放火および放火の疑いを合わせて、全出火原因の20%を占める(平成19年~24年までほぼ一定)。これを単純に割り当てると、神社・寺社の火災の20件~30件が放火による火災なのかもしれない。毎年平均月2件ぐらい?

(追記)以下のコメントをもらったのでその資料を追加。

• houyhnhm 元々、火事って放火多いんですよ。重文では生活がないので、必然的に放火の割合が増えます。あと、日本って広いし重文って多いんですよ。
• frothmouth 重要文化財建造物等においての出火原因の内訳は「放火」又は「放火の疑い」の割合が6割以上(神社寺一般は不明)/ハテナはネトウヨ憎しで目が曇ってないかい?

内閣府:重要文化財建造物の総合防災対策検討会
http://www.bousai.go.jp/jishin/sonota/bunkaisan/
第1回(平成20年(2008年)7月14日)の資料 3より。
http://www.bousai.go.jp/jishin/sonota/bunkaisan/pdf/080714_siryo3.pdf
過去10年間の文化財建造物における火災の状況。出火原因の65%が放火(放火 40% + 放火の疑い 25%)。

年度 H9 H10 H11 H12 H13 H14 H15 H16 H17 H18 総数
件数 4 4 9 4 4 5 4 4 4 2 44

放火の理由は、文化財の盗難のためであり、盗難された文化財は中国でオークションにかけられている?

放火の理由はわからない。文化財が盗難されているかどうかについては火災の損害額が1件あたり数百万円なので建物の修理費などから勘案すると価値のあるものは対して燃えていないと推測される。

また、件のエントリーでリンクされている産経新聞の記事重文が
100点以上不明 一部は中国に流出? 文化庁緊急調査 
http://www.sankei.com/life/news/131102/lif1311020015-n1.html
国宝発見も把握せずは寺社・神社の火災と直接の関係がない(記事中に一言も寺社・神社の火災がでてこない)。文中にあるとおり、盗むなら放火して大げさにするよりも、こっそり盗むのではないだろうか。


関係者によると、昭和37年2月、奈良・東大寺の国宝「金銅八角燈籠」の羽目板の一部がバールのようなもので取り外され、何者かに持ち去られる事件があった。羽目板はその後、境内で見つかったが、文化庁では発見の経緯を把握しておらず、金銅八角燈籠を現在も盗難国宝の一つに数えていた。

また、重要文化財は個人所有が多いとのこと


一方、海外流出が懸念される所在不明の重文が100点以上もあることをめぐり、保護に努める文化庁や都道府県教育委員会の確認体制の不備も浮き彫りになった。

文化庁は平成22年2~3月、売買されることの多い個人所有の重文約800点について、都道府県教委を通じて調査を行い、約半数の所在がはっきりしないことが分かったが、その結果を公表していなかった。

(追記)文化財の窃盗や放火が発生し、問題視されているのは事実。
• 文化庁:文化財保存施設(収蔵庫)の防犯対策の強化について(2004年)
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t20020716001/t20020716001.html
おわりに

列挙されている火災の見出しを参考に新聞を検索すればよいのだろうけどやる気がでなかった。消防白書のデータだけだとあんまり有効なカウンターにはなっていない。力尽きたのでここまで

寺・神社の犯罪事情

2015-12-05 15:08:13 | 政治
寺・神社の犯罪事情

寺社仏閣の犯罪
http://www.hanzai.net/temple/

ここ数年仏像や神像が盗まれる被害が急増しています。

平成18年2月には、一人で東京・奈良・広島などで約60件の仏像窃盗をした男性が逮捕されました。 自宅には18体の盗んだ仏像が発見されています。 奈良の法隆寺では盗み出す際に、国宝の木製格子6本をのこぎりで切断される他、盗まれた仏像は指や腕が折れるなど一部が破損する被害を受けています。 この犯人は個人の収集のための窃盗を繰り返していましたが、日中の拝観者を装いのこぎりで格子を切断するなどの手口は巧妙で、見つけられませんでした。

盗まれるのは重要文化財だけと思われるかもしれませんが、被害の大半は文化財の指定を受けていないものが多いのです。盗みやすく、売りさばきやすいことが原因と思われます。
無住寺が多く、ほぼ半数が盗難被害に気づくまでに3日以上、最長は約2ヶ月も経過していたこともあります。

盗品の情報は、通常警察から古美術業界に通知されます。寺社管理者がすぐに犯行に気づき、警察に仏像等の写真や寸法等詳細内容を届け出れば見つかる可能性も高くなるのに」とある古美術商は指摘しています。実際に事件の報道で盗まれた重要文化財の写真が新聞掲載されたため売りさばくのをあきらめて離れた場所に放置されていたケースもありました。

「盗品だと判らずに購入する例はあり、古くて状態が良ければ1体5万~10万円程度で買い取ることが多い」とのこと。

海外で価値が出る物も多く、古美術として海外に販売されることも多いのです。約9割が海外とも言われています。
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放火被害も急増。


平成12年、京都大原の寂光院は放火にて本堂が全焼。堂内の重要文化財「木造地蔵菩薩立像」(鎌倉時代)も焼損しました。
本堂には人は住んでおらず、西側の縁付近からプラスチック製容器の燃えかすと、灯油が検出され放火と断定されました。
平成19年5月に、犯人を絞りきれず時効となりました。

平成16年度の神社・寺院の火災発生件数144件のうち、71件が放火・放火の疑いのある火災でした。

放火は、「むしゃくしゃした腹いせに」といった犯行が非常に多いのです。神社仏閣の場合木造建築のため、気づいたときには火が広がっていて、大切な建物な仏像や宝物などに被害が発生していることが多い。
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犯人にとっては「犯行しやすい環境」


泥棒や放火犯にとって、最も重要なことは「人目に付かず確実に逃げられること」。
神社仏閣は下記の通り、犯人にとって「犯行しやすい環境」ベストコンディションであるということをぜひ認識し、少しでも対策することが重要です。
「観光客、参拝者を装って下見」が可能。誰にでも開放されている場合が多いため、いつでも下見や犯行を行うことができる。
樹木に囲まれており、道路など外部からの見通しが悪い。
夜間暗がりがあり、隠れたり犯行を行うのに適している。
誰にでも開放されているため、たまたま誰かに出くわしても参拝者を装い逃げることが可能。
大切な仏像や宝物、賽銭などが手に届くところに置いてあり、周囲に人目がない時間帯が多い。
無住の寺社も多く、異常が発見されにくい。
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最近の犯罪事例


滋賀県では平成15年以降仏像・ご神体の窃盗被害が18件74体発生。狛犬、掛け軸、仏具を入れると100点以上。大半が無住寺社で文化財指定は1件のみ。
裏の勝手口アルミサッシのドアをバールのようなものでこじ開けられ滋賀県の寺にて仏像2体、狛犬1体、掛け軸計8点が盗まれる。
滋賀県で文化財指定なしの室町~江戸時代作と推定される大日如来像など44体盗まれる。
本堂入口の南京錠が金具ごと外され扉上部の電線が切断される。
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対策

無施錠のところからの侵入による被害が多いため、必ず破壊工作に強い錠前を付け、施錠することを習慣にしましょう。
無住の寺社の被害が多く、発見が遅れると、被害が拡大するため、特に注意しましょう。
地域での防犯パトロールを実施し、「防犯意識が高い」ことをPRしましょう。地域住民や門徒、氏子などとの連携をすることが大切です。
常日頃より何か異常が発生した時の連絡網をきちんとつくっておきましょう。
仏像、ご神体、狛犬、掛け軸などは写真を撮り、特徴などを記録させておくこと。万が一盗難されても手配ができるようにしておくことが大切です。
夜間などの敷地内への侵入を検知する「赤外線センサー」や人が入った時に自動的にライトを付ける「人感ライト」、監視性を高める監視カメラ、放火時の炎を検知する「炎センサー」など防犯システムを設置すると効果があります。
放火対策としては、燃えやすいものを建物周辺に放置しないことが大切です。
壁などへのいたずら書きや窓ガラスの割れたのを放置しないこと。防犯意識が低いと思われ、次の犯罪を誘致することとなります。

●日露戦争で日本軍が203高地を占領(1904年)

2015-12-05 14:17:48 | 歴史
●日露戦争で日本軍が203高地を占領(1904年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89
◆日露戦争(にちろせんそう、英語: Russo-Japanese War、ロシア語: Русско-японская война ルースカ・イポーンスカヤ・ヴァイナー、1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国[7]との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。

講和の結果、ロシア領の南樺太は日本領となり樺太庁が設置され、ロシアの租借地があった関東州については日本が租借権を得て、関東都督府が設置された。

 
◆樺太庁(からふとちょう、ロシア語: Префектура Карафуто)は、日本の領有下において樺太を管轄した地方行政官庁である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E5%BA%81
この場合、樺太とは樺太島の内、ポーツマス条約により日本へと編入された北緯50度以南の地域(いわゆる南樺太)及びその付属島嶼を指す。

 
◆ポーツマス条約(ポーツマスじょうやく、英語: Treaty of Portsmouth, Portsmouth Peace Treaty)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。日露講和条約とも称する。1905年(明治38年)9月4日(日本時間では9月5日15時47分)、アメリカ東部の港湾都市ポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎(外務大臣)とロシア全権セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。

また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日 -)のことをポーツマス会議、 日露講和会議、ポーツマス講和会議などと呼ぶ。

 
◆関東州(かんとうしゅう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E5%B7%9E
ユーラシア大陸の遼東半島先端部と南満州鉄道附属地を併せた租借地である。1905年日露戦争を終結させたポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した地域で、日本人はここで植民地経営をおこなった。1945年、日本の敗戦により機能停止した。現在の中華人民共和国大連市の一部地域(大連及び旅順地域)などに該当する。
 
◆関東都督府(かんとうととくふ、旧字体: 關東都督府)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%83%BD%E7%9D%A3%E5%BA%9C
大日本帝国時代の日本の機関。遼東半島先端部の関東州を統治する任務を帯びた。
 
◆日露戦争後、ロシアより譲り受けた関東州と長春・旅順間の鉄道(後の南満州鉄道)を防衛するため、1905年9月26日に公布された「関東総督府勤務令」により天皇直属の機関である関東総督府が設置された。本部は遼陽に置かれた。関東総督は満州北部に依然として勢力を保持するロシアの脅威に備えるため排他的な軍政を断行したが、市場の門戸開放を主張するイギリスやアメリカ合衆国の対日感情を悪化させる結果を招き、第1次西園寺内閣の外務大臣の加藤高明が辞任する事態となった。

外相を引き継いだ西園寺公望や文治派の巨頭である伊藤博文(当時は朝鮮統監)は関東総督府の軍政を民政に移行するため動き、1906年5月22日より伊藤主導で元老や内閣、軍上層部を集めて開催された「満州問題に関する協議会」において伊藤ら文治派の主張が児玉源太郎ら武断派の抵抗を退け、軍政から民政への移行の方針が決定された。

同年9月1日、関東総督府が廃止され、旅順に移転・改組された関東都督府になった。

関東都督府は関東州の統治と防備を受け持ったが、天皇直属であった関東総督府時代とは異なり、政務や軍事の各権能について外務大臣・陸軍大臣・参謀総長・陸軍教育総監らの監督を受けることとされた。また、南満州鉄道株式会社(満鉄)の業務監督や満鉄附属地の警備も行った。

これ以降、満州統治は関東都督府と領事館(外務省)と満鉄によって担われることとなったが、それぞれが権限を主張し、行政の一元化を妨げることとなる。

1910年、第1次山本内閣において拓殖局が廃止されると、関東都督府は軍機事項を除いて、再び外務大臣の指揮監督下におかれた。

大隈内閣の時代、第一次世界大戦が勃発し、日本が中国に対華二十一ヶ条をつきつけるなど強行姿勢をとると、関東都督府の元で関東州の行政を一元化させようとする提案がなされ、また第二次満蒙独立運動に積極的に関与するなど活動が活発化した。

1917年、寺内内閣の時代、陸軍出身の寺内首相の下で、懸案であった関東州の行政一元化問題につき関東都督府に有利な解決がなされ、在満領事が関東都督府の指揮下におかれることなった。さらに拓殖局が復活すると、外相の権限は再び縮小した。また、関東都督府官制の改定により関東都督は首相の監督下におかれることになり、かつ満鉄総裁と兼任されることとなるなど、関東都督府の権限は再び強化された。1918年6月1日、陸軍兵器部が事務を開始[1]。

1919年、原内閣の時代になると、寺内退陣による陸軍の弱体化と外務省の巻き返し、それに大正デモクラシーという時代の風潮もあって、関東州の民政への移行などを定めた関東庁官制が公布された。これにより関東都督府は廃止となり、軍事と政治が分離されそれぞれ関東軍と関東庁とに分かれた。

 
◆旅順要塞攻囲戦・黄海海戦・遼陽会戦[編集]
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89#.E6.97.85.E9.A0.86.E8.A6.81.E5.A1.9E.E6.94.BB.E5.9B.B2.E6.88.A6.E3.83.BB.E9.BB.84.E6.B5.B7.E6.B5.B7.E6.88.A6.E3.83.BB.E9.81.BC.E9.99.BD.E4.BC.9A.E6.88.A6
詳細は「黄海海戦 (日露戦争)」および「遼陽会戦」を参照
「黄海海戦 (日露戦争)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6_(%E6%97%A5%E9%9C%B2%E6%88%A6%E4%BA%89)
「遼陽会戦」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BC%E9%99%BD%E4%BC%9A%E6%88%A6


黒木為大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、4月30日-5月1日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。続いて奥保鞏大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。南山は旅順要塞のような本格的要塞ではなかったが堅固な陣地で、第二軍は死傷者4,000の損害を受けた。東京の大本営は損害の大きさに驚愕し、桁を一つ間違えたのではないかと疑ったという。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を得利寺の戦いで撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利した。

旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視で十分であると判断していたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力な露軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定した。だが海軍側としては陸軍の援助なしの海軍独力による旅順の処理を望んだようで、事前調整の段階から陸軍の後援を要求しない旨をしばしば口外した大本営海軍幕僚もいたと伝えられる。4月6日に行われた陸軍の大山巌参謀総長、児玉源太郎次長と海軍軍令部次長伊集院五郎との合議議決文には「陸軍が要塞攻略をすることは海軍の要請にあらず」という1文がある[23]ように、4月に入っても海軍は独力による旅順艦隊の無力化に固執し続け、閉塞作戦失敗後は機雷による封鎖策に転換し、4月12〜13日に実施されたが失敗した。

ロシアバルト海艦隊(バルチック艦隊)の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた海軍は開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなった。このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。

6月20日現地総司令部として満州軍総司令部が設置され、大本営から指揮権が移された。

6月8日に大連に到着した第三軍司令部は、すでに上陸していた第一、第十一師団(共に第二軍より抽出された)を貴下に加えて前進を開始し、6月26日までに旅順外延部まで進出した。7月12日には伊東祐亨海軍軍令部長から山縣有朋参謀総長に、旅順艦隊を旅順港より追い出すか壊滅させるよう正式に要請が入る。8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向け砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。これを受けて旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こった。この海戦で旅順艦隊が失った艦艇はわずかであったが、今後出撃できないような大きな損害を受けて旅順へ引き返した(黄海海戦・コルサコフ海戦)。ロシアのウラジオストク艦隊は、6月15日に輸送船常陸丸を撃沈するなど(常陸丸事件)活発な通商破壊戦を続けていたが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉された。第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与えその後の活動を阻止した(蔚山沖海戦)。旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていたが、日本側ではそれが確認できず第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始した。だがロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け失敗に終わる。

8月末、日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫った。8月24日-9月4日の遼陽会戦では、第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領したもののロシア軍の撃破には失敗した。10月9日-10月20日にロシア軍は攻勢に出るが、日本軍の防御の前に失敗する(沙河会戦)。こののち、両軍は遼陽と奉天(現・瀋陽)の中間付近を流れる沙河の線で対陣に入った。

10月15日にはロジェストヴェンスキー中将率いるバルチック艦隊(正確にはバルチック艦隊から抽出された第二太平洋艦隊)が旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発した。

旅順攻略

詳細は「旅順攻囲戦」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

旅順要塞への28サンチ砲の砲撃
第三軍は旅順への攻撃を続行中であった。しかしながら港湾への大弧山からの観測射撃を8月~10月まで、黄海海戦を挟んで実施し旅順艦隊の壊滅には成功していた。しかし日本側にそれを確認することができず、その後の作戦運用に混乱をもたらすことになった。

第三軍は、要塞東北方面の防衛線を突破しその背後にある、旅順要塞で最高峰である「望台」を占領することで要塞の死命を制し、海軍の要望も果たそうとした。9月19日と10月26日の前後に分けて行われた第二回総攻撃は、突起部を形成している第一回総攻撃で占領した拠点の周辺を安定化させることを目的とし、203高地以外の作戦目標を攻略して目的を達成していたが、中央には失敗と判断された。この際に第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼ全てを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引き籠っている海域だけが俯瞰できず、このころより海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請をしだす。この海軍の要請に大本営も追認するが、第三軍と、上級司令部である満州軍は東北方面主攻を主張し続け対立。大本営と海軍は天皇の勅許まで取り付けて方針を変更するよう促す。

11月26日からの第三回総攻撃も苦戦に陥るが、途中より乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取り止め、203高地攻略に方針を変更する。戦況を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将は、大山巌元帥の了承をもらって旅順方面へ向かっていたが、直前に乃木が攻撃目標を変更したことを受けて、その攻略に尽力した。激戦の末、12月4日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。しかしその後も要塞は落ちず、第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行し、翌1905年1月1日にようやく東北方面の防衛線を突破して望台を占領。これを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意。旅順艦隊は203高地を奪われた時点で、すでに艦砲と乗員を陸地に揚げて防衛戦に投入しており、戦力としては無力化していたが、観測射撃を受けるようになった。しかし日本側の砲弾の品質問題などで殆どの艦は船底を貫通されることはなく、殆どの艦艇は要塞降伏前後に、すぐさま使用できないように全て自沈させられた。

沙河では両軍の対陣が続いていたが、ロシア軍は新たに前線に着任したグリッペンベルク大将の主導の下、1月25日に日本軍の最左翼に位置する黒溝台方面で攻勢に出た。一時、日本軍は戦線崩壊の危機に陥ったが、秋山好古少将、立見尚文中将らの奮戦により危機を脱した(黒溝台会戦)。2月には第三軍が戦線に到着した。

奉天会戦[編集]

詳細は「奉天会戦」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E6%94%BB%E5%9B%B2%E6%88%A6

渡河を実施する奉天のロシア軍
日本軍は、ロシア軍の拠点・奉天へ向けた大作戦を開始する(奉天会戦)。2月21日に日本軍右翼が攻撃を開始。3月1日から、左翼の第三軍と第二軍が奉天の側面から背後へ向けて前進した。ロシア軍は予備を投入し、第三軍はロシア軍の猛攻の前に崩壊寸前になりつつも前進を続けた。3月9日、ロシア軍の司令官クロパトキン大将は撤退を指示。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、またもロシア軍の撃破には失敗した。

この結果を受けて日本側に依頼を受けたアメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが和平交渉を開始したが、間もなく日本近海に到着するバルチック艦隊に期待していたロシア側はこれを拒否した。一方両陸軍は一連の戦いでともに大きな損害を受け作戦継続が困難となったため、その後は終戦まで四平街付近での対峙が続いた。

日本海海戦[編集]

詳細は「日本海海戦」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7%E6%B5%B7%E6%88%A6

バルチック艦隊は7ヶ月に及んだ航海の末日本近海に到達、5月27日に連合艦隊と激突した(日本海海戦)。5月29日にまでわたるこの海戦でバルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失うのみならず、司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受けた。これに対して連合艦隊は喪失艦がわずかに水雷艇3隻という、近代海戦史上においても例のない一方的な圧勝に終わった。

欧米各国における「ロシア有利」との予想をくつがえすだけでなく、バルチック艦隊が壊滅するという予想もしなかった海戦の結果は列強諸国を驚愕させ、トルコのようにロシアの脅威にさらされた国、ポーランドやフィンランドのようにロシアに編入された地域のみならず、白人国家による植民地支配に甘んじていたアジア各地の民衆を熱狂させた。この海戦の結果、日本側の制海権が確定し、頼みの綱のバルチック艦隊を完膚なきまで叩きのめされたロシア側も和平に向けて動き出した。

樺太攻略[編集]

詳細は「樺太の戦い (1905年)」を参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(1905%E5%B9%B4)

日本軍は和平交渉の進むなか7月に樺太攻略作戦を実施し、全島を占領した。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなる[24]。講和以降の樺太には王子製紙、富士製紙、樺太工業などのパルプ産業企業が進出した。

講和へ[編集]

詳細は「ポーツマス条約」を参照

ロシアでは、日本軍に対する相次ぐ敗北とそれを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、国民の間には厭戦気分が蔓延し併せて経済も停滞の一途をたどり、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していた。さらにバルチック艦隊が壊滅し制海権も失っていた上に、日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけ、国家としての戦争継続が困難な情勢となっていた。

日本は勝利に次ぐ勝利でロシアを土壇場まで追い詰めたものの、19か月の戦争期間中に戦費17億円[要出典]を投入、戦費のほとんどは戦時国債によって調達し、また当時の日本軍の常備兵力20万人に対して総動員兵力は109万人に達したことなどから、国内産業の稼働が低下し経済的にも疲弊するなど国力の消耗が激しかったことから、講和の提案を拒否しなかった。

アメリカの仲介により講和交渉のテーブルに着いた両国は、8月10日からアメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した

 
◆バルト艦隊、バルト海艦隊
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%83%E3%82%AF%E8%89%A6%E9%9A%8A

 
◆ロシアないし旧ソビエト連邦海軍のバルト海に展開する艦隊を指す。

日本においてはバルチック艦隊という呼び名が広く定着しており、またこれは、日露戦争の折にロシアが編成した「第二・第三太平洋艦隊」のことを指す場合も多い。すなわち旅順港に封じ込められた極東の太平洋艦隊を増援するために上記のバルト海所在の艦隊から戦力を引き抜いて新たに編成した艦隊を指す

 
◆203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/203%E9%AB%98%E5%9C%B0
1904 - 1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。

【スパイ速報】特定秘密保護法適性評価、防衛・外務両省の職員ら計25人が拒否 初判明

2015-12-05 12:05:40 | 政治
http://www.honmotakeshi.com/archives/47099807.html
1: 記憶たどり。 ★ 2015/12/04(金) 06:50:25.50 ID:CAP_USER*.net
特定秘密保護法に基づき、機密を扱う公務員らの身辺を調べる「適性評価」を
防衛、外務両省の職員ら計25人が拒否したことが3日、共同通信の取材で分かった。
10日に施行1年を迎える同法の適性評価で、拒否したケースが判明したのは初めて。

調査が詳細な個人情報に及ぶ適性評価をめぐっては、プライバシー侵害の
懸念も指摘されている。拒否の理由は不明だが、公務員らの一部も抵抗感を
抱いていることがうかがえる。

適性評価を拒否したり、評価の結果「不適格」になったりした職員らは
特定秘密を扱えず、職場の配置転換や業務の変更を迫られる可能性がある。

19
防衛省

http://this.kiji.is/45193009150789112?c=39546741839462401


78: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:31:11.81 ID:s1w/Zxl70.net
http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/jyouhouhozen/dai2/siryou6.pdf
1 適性評価の対象となる方の氏名等
2 家族・同居人の氏名等
3 特定有害活動及びテロリズムとの関係
4 犯罪及び懲戒の経歴
5 情報の取扱いに係る非違の経歴
6 薬物の濫用及び影響
7 精神疾患
8 飲酒についての節度
9 信用状態その他の経済的な状況
・ 過去の適性評価の経歴

特に2と3に重点が置かれていて、
適性評価の対象者の家族・同居人の国籍、帰化歴、元国籍、
外国機関、外国人との関係、海外の資産、海外の居住歴、渡航歴
などがチェックされる。


30: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:06:30.30 ID:jWno2HxP0.net
>>1
早速、効果が出ているな
拒否した時点でスパイ確定。
クビにしろ

4: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 06:52:48.61 ID:9dMSu7AQ0.net
> 適性評価を拒否したり、評価の結果「不適格」になったりした職員らは
> 特定秘密を扱えず、職場の配置転換や業務の変更を迫られる可能性がある。

可能性で済むとか何のための法なのさ
確実にやれよ

5: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 06:52:51.85 ID:qpEc0KT70.net
やましいことなかったら拒否しないからそういうことなんだろ

6: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 06:52:58.31 ID:+1THH5IC0.net
だだのスパイだろ

7: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 06:53:24.05 ID:u7ryHwxs0.net
防衛、外務で拒否する奴とかヤバすだろ
防衛は直近で露助スパイにやられてたし

11: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 06:55:52.87 ID:/FHYYDJh0.net
徹底的に調査しろ

15: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 06:58:19.69 ID:+tzrIxwJ0.net
拒否する権利はあるだろ中共北朝鮮と違って自由の国だし
重要機密から離れた世界で生きてくれ

23: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:04:27.27 ID:lAbn09Y/0.net
解りやすくてかえっていいじゃん
調査の手間が省けるし、重要な仕事からも省ける
それを理由に訴訟なんて起こしてくれたら身元調査がいっそう捗るし
何か問題でも?

26: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:04:57.09 ID:3FIdxy1L0.net
自分は問題ないと考えてるなら堂々と評価を受ければいいし
それで不的確となったらその時に戦えばよい
何か懸念があると自覚があるなら配置転換を受け入れるしかない

公務員だろ?

32: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:07:16.34 ID:ZoXDqVz40.net
>>26
拒否が一番マズイわな。

適正評価して適正なしと言われれば配置転換を
受け入れればいいだけなのに拒否なんてしたら
自分がスパイであることをゲロしてるだけw

28: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:05:51.07 ID:yJZwyYXH0.net
ネズミが炙りだされてるようだな
徹底的に排除しろ

47: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:14:10.12 ID:z+Oe9nFU0.net
今日のニュースで、
元自衛隊員が、ロシアの在日大使館の奴に、
教育に関する資料を渡して書類送検、とか。
書類送検しかできないのかね?

56: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:16:37.65 ID:ZoXDqVz40.net
>>47
スパイ防止法がない。

スパイ防止法がある米国だと懲役40年ぐらいになる。

66: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:21:36.21 ID:V1y+W3J50.net
>>56
あんなに刑が軽いなら、やるやついるよね。

早いとこ、スパイ法案が必要だね。

58: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:18:09.30 ID:DJ0RAxyiO.net
機密を扱う人間が調査されるのは当たり前だろ
拒否ってなんだよ

80: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:32:13.59 ID:nJS7tDDt0.net
マイナンバーといい、反日やサヨクを洗い出す踏み絵かw。

82: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:33:37.32 ID:3s/RnCs10.net
いい法律じゃねーかw
犯罪を未然に防いでる

83: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:35:16.86 ID:67xUhbAa0.net
リスト入りおめでとう

69: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:23:41.25 ID:u7ryHwxs0.net
25人スパイあぶり出すとか有能法案だったな

102: 名無しさん@1周年 2015/12/04(金) 07:55:46.35 ID:shWNTNci0.net
重要な外務省と防衛省に25人もスパイがいたのか
制定してよかった

引用元: http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1449179425/