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映画批評etc

映画の感想ではなく批評
その他諸々

耳をすませば

2009年08月14日 | 映画(マ行)
1995年【日】
監督 近藤喜文

本名陽子
高橋一生
室井滋
露口茂

原作 柊あおい 「耳をすませば」(集英社)
脚本 宮崎駿

あらすじ
月島雫は、普通の中学三年生。ある日、本の貸し出しカードに共通して書かれている名前「天沢聖司」を見つけます。電車の中で偶然に猫を追いかけていくと、丘の上に地球屋というアンティークショップにたどり着き、男の子に会います。昨日自分を学校で冷やかした「ヤなやつ」でした。でも、彼が「天沢聖司」だったのです。次第に好感をもてるようになっていって・・。

寸評
甘酸っぱい、こっぱずかしい作品である。
原作が少女漫画ということもあり、大人のある一定の年齢に達すると、厳しい。
しかし、公開当時、高校生だったこともあり、それほど抵抗なく観た覚えがある。
反対に、女性だと、ど真ん中ストレートな純真少女漫画なので、反応は普通だろう。
少女マンガの潮流に関して、あまり造詣はないのだが、「NANA」のようなグチャグチャの話が受けているあたり、非常に価値観は多様化しているのだなと想像する。
一昔前のような画一的なテーマで、画一的なデザインでは最早通用していないのだろう。

ところで本作である。
真っ直ぐで「あり得ない」作品なのだが、そこかしこにリアルな設定はしてある。

主人公の住む団地はありふれていて広くもない。
姉と共同の部屋だ。
学校も公立だ。
聖蹟桜ヶ丘がモデルだが、着眼点は間違ってない気がする。
新興の住宅地であり、住んでいる世代はまだ若い。

当たり前の風景を当たり前の設定で描く。
そこに、甘酸っぱい恋が芽生えるのだ。

だから、誰しもが「ありえねーよ」と思いつつも、他の設定その他のところで自分の日常を重ねられているので、最後まで見させてしまうのだ。
だから、ストーリーはある程度トンデてもいいのだ。
(地方では受けないのかもしれない。これは飽くまで関東地方のリアルだから)

天沢クンはクールでシャイだ。
本当の中学生は、頭の中はスケベな妄想が充満しており、自分でもコントロールできなくなるくらいなのだ。
彼は勿論そんなことはない。
雫は純な女の子だ。
一生懸命に中学生活を生きている。
そんな二人が主人公の作品。


あぁ、眩しいな。
これはファンタジーである。

大きな声で名作だとは言えないが、何か好きな映画だ。
30オーバーのおっさんが今更見ることもないだろうが、テレビでやっていたら、何となく気になるだろう作品だ。

Mr.&Mrs. スミス

2009年08月13日 | 映画(マ行)
2005年【米】
監督 ダグ・リーマン

キャスト
ブラッド・ピット
アンジェリーナ・ジョリー

あらすじ
運命的な出会いの末、結婚したスミス夫妻。しかし、二人には秘密があった。Mr.スミスは一流の殺し屋、一方のMrs.スミスも暗殺エージェントのエースだったのだ。しかも2人は対立する組織に属していた。互いに正体を隠し結婚生活を送っていた2人だったが、ある時ついに、ミッション遂行中の現場でバッタリ出くわしてしまう。正体を知られてしまった以上、たとえ愛する人でも抹殺するのがこの世界の掟。さっそく2人は相手を始末すべく、壮絶な戦闘を開始するのだが…。

寸評
ピット&アンジー結婚の契機になった作品。
ダグ・リーマンという気鋭の監督はアクション作品ばかり撮っている。
一部のシーンには光る部分もあった。
が、いかんせん、この作品は悪い意味での典型的な娯楽映画だ。
ストレートに一貫して娯楽なのだ。
徹底している。
彼ら2人がキャストでなければクソC級映画だろう。
売れないし、その後も何の意味もない作品だったろう。
ジャンル分けすると、アクションラブコメディだ。


何故、この作品にこの二人が主演しているのか判らなかったが、運命なのだろうか、wikiを見るにこの2人が結婚するための作品だったのだろう。
引用すると、

元はジェーン役にはニコール・キッドマンがキャスティングされていたが、ニコール主演の映画『ステップフォード・ワイフ』の撮影が延びたため、降板となった。
ブラッド・ピットは当初契約を渋っていたが、アンジェリーナ・ジョリーがサインするとすぐに契約したという逸話がある。

とのことである。
だからなんだ。と思う部分はある。

ところでこの作品の見かたである。
腐っても鯛、C級映画でこの2人が主演すると、それなりに見える作品になるのだ。
アクションも衣装や小道具やセットも人工的で見ようによってはチープだが、彼らがいると、映画として成立しているのだ。
スターってのはこういうことなんだろうか。
華っていうのは役者にとって一番大切なのかもしれない。


しかし、名作でも問題作でもなんでもないので期待してはいけない。
スタンスとして一番正しいのは、テレビで見るくらいが一番いいのではないだろうか。
頭を使わないので、力を抜いて見られる。
つまらなくもないので、飽きずに見られる。
かといって面白くもないのでお金は掛ける必要もない。

そんな非常に珍しいニーズを満たしてくれるだろう映画である。

ミスティック・リバー

2008年12月11日 | 映画(マ行)
★2004年公開

★キャスト
ショーン・ペン
ティム・ロビンス
ケビン・ベーコン
ローレンス・フィッシュバーン

★スタッフ
監督 クリント・イーストウッド
原作 デニス・ルヘイン
脚本 ブライアン・ヘルゲランド
音楽 クリント・イーストウッド
作曲 カイル・イーストウッド

★あらすじ
幼馴染のジミー、デイブ、ショーン。ある恐ろしい出来事を切欠に、幼い彼らの友情は崩れ落ち、以来それぞれに全く異なる人生を歩んで来ていた。そんなある日、ジミーの愛娘が悲惨な事件の被害者となってしまう。絶望に喘ぐジミー。今は刑事となって事件に取り組むショーン。そして、心の傷に苦しむデイブ。幼き日の忌まわしい出来事が、今また彼らを新たな悲劇に誘い込む… クリント・イーストウッド監督が鋭く描く、心の闇と人生の悲哀。

★寸評
救われない映画である。
イーストウッドの作品はどこか影のある作品が多い。
この作品はアメリカの現状を炙り出しているのだろうか。

ショーン・ペンの演じる強者の我儘さは、アメリカ自身に対するオマージュか。
ティム・ロビンス演じる貧困な弱者は、ホワイトトラッシュと言われる低所得者層を象徴しているのか。
それほどまでにアメリカは病んでいるのか、と暗澹としてしまう。
しかもラストに関しては賛否両論あるだろう。
が、ペンのポジションを強者の歪んだ人間性を通して観るとある程度は納得なのかもしれない。

いずれにしろ、イーストウッドは人間を非常に複眼的な視線で描くので観方が幼稚だとエライ目に遭う。
すなわち、ちゃんと大人じゃないと自殺したくなる位のリアリティで厳しい価値観を突きつけられるだろう。
だから、ただ単純に楽しい気分になりたいとか、癒されたい時は向いてない。
ココロが強いときに観るべきである。

ミリオン・ダラー・ベイビー

2008年12月11日 | 映画(マ行)
★2004年公開

★キャスト
クリント・イーストウッド
ヒラリー・スワンク
モーガン・フリーマン

★スタッフ
監督 クリント・イーストウッド
助監督 ロバート・ロレンツ
演出 バディ・ヴァン・ホーン
脚本 ポール・ハギス
音楽 クリント・イーストウッド
編曲 レニー・ニーハウス
挿入曲 カイル・イーストウッド

★あらすじ
ボクシング・ジムを経営する一人暮らしの老人フランキーにとってボクサーたちは家族同然。その彼のもとに、貧困家庭出身で三十過ぎまで我流でボクシングを学んだ女性マギーが現われる。「女にボクシングはさせない」とマギーをつっぱねたフランキーも次第にその熱意にほだされ、苛烈さでは男同士の戦いに勝るとも劣らない女子プロ・ボクシングの世界にいつしかのめり込んでいた。

★寸評
観る前にテーマの重さはある程度覚悟しなくてはいけない。
中盤までは、結構単純なスポ根だが、敗戦を機に一気に展開していく。
プロットだけ追っていると、この展開は読めないし非常に意表を突かれた感じもする。
ただ、それが好き嫌いに繋がってくるもので、ハッピーでもアンハッピーでも共感を得られ易いと、好かれるし得られにくいと嫌われる。
本作は、共感は得にくいだろう。
安楽死、尊厳死の問題があるし、家族の絆に関する問題があり、障害を持った人に対する見方の問題、格差社会の問題もある。
この幾重にも連なる社会問題のデフレなサイクルを易々と抜け出すのが、ハッピーで馬鹿ななスポ根の良さなんだろう。

が、本作に関してはどこらへんをエンターテインメント性を感じればいいんだろう。
興味深い作品であり、見所は沢山ある。

作品中における隠しテーマとして親子間の愛情がある。
イーストウッドの娘に対する愛情と、スワンクの父に対する憧憬である。
基準をそこに持つと、後半のシーンもそれほど抵抗なく見られ最終的には美しく感じられるんではないだろうか。
両者とも家庭関係は深刻な崩壊状態にあると言える。
従って、両者の間にどこかしら互いを偶像化・象徴化して観ているような節がなくもない。
単なるトレーナーとボクサーの関係を超越した、特殊な美しい関係が成立している。
互いの家族関係が崩壊しているがゆえに、この二人の関係が奇跡的な美しさを持ちうるんだろう。

そして、モーガン・フリーマンの味のある重厚な存在感は素晴らしい。

モンタナの風に抱かれて

2008年12月11日 | 映画(マ行)
★1998年公開

★キャスト
ロバート・レッドフォード
クリスティン・スコット・トーマス
サム・ニール

★スタッフ
監督 ロバート・レッドフォード
脚本 リチャード・ラグラヴェネーズ
音楽 トーマス・ニューマン
撮影 ロバート・リチャードソン
製作 ロバート・レッドフォード

★あらすじ
仕事に追われる両親を持ち、愛馬とのひと時に安らぎを覚える少女グレース。ある冬の朝、彼女は不幸な事故から親友と自らの右足を失う。そして、重症を負ったピルグリムの心までも失ってしまうのだった。彼女はグレースの心を取りもどすべく、愛馬と娘を連れて長い旅に出るのだった。モンタナの大自然を舞台に、ロバート・レッドフォードが贈る。

★寸評
レッドフォードは古き良きアメリカの良心ともいうべき、至宝である。
彼は、知的でありワイルド、という成立させるのが難しい特徴を兼ね備えている。
そしてハリウッドで初めて「演技と製作の双方で地位を確立した映画人である。

その彼が作った本作は実に彼らしい作品である。
アメリカの美しい自然を生き生きと写している。
テーマは実にシンプルで、モンタナの自然と共生する人々とのふれあいである。

本作のレッドフォードは実にワイルドである。
ワイルドというイメージが、道路に唾を吐いたり酒で乱れたりすることではないという事を、本作で彼は教えてくれている。
彼は事故の影響で狂馬となった馬を、危険を顧みずに調教し、同時に心を閉ざしがちな娘の面倒までみてしまう。
その方法は論理に裏打ちされたものではなく、原始的で天性の勘に頼ったやり方である。

対するC・S・トーマスは都会で暮らす、キャリア・ウーマンである。
自分のキャリアに自信を持ちつつ、今後の人生に迷いの混在する現代を象徴するような女性である。

この映画における議論で、不倫の問題がある。
すなわち、レッドフォード演じる主役と仕事を依頼にきた女性の間の仄かな想い。

結論からいうと、不倫はテーマなどではない。
ちゃんと観ていれば、テーマとして重要な部分ではないことぐらい判る筈である。
不倫には不貞行為の存在が要件だが、本作にはなく、プラトニックである。
この程度がちゃんと読み取れないならば、国語の読解をやり直さなければいけない。

おそらく、ある程度は年齢が上でないと観ても実感も無い上に共感もない。
加えてユルい映画である。
気持ち次第ではダルい映画になってしまうだろう。

未来世紀ブラジル

2008年12月11日 | 映画(マ行)
★1985年公開

★キャスト
ジョナサン・プライス
ロバート・デ・ニーロ
マイケル・ペイリン

★スタッフ
監督 テリー・ギリアム
製作 アーノン・ミルチャン
脚本 テリー・ギリアム
   チャールズ・マッケオン
   トム・ストッパード

★あらすじ
20世紀、徹底した情報管理社会のある国。政府は横行する爆弾テロに手を焼いていた。そんなおり、靴屋のバトル氏を容疑者のタトル(ロバート・デ・ニーロ)と間違えて逮捕してしまうという事件が起こる。情報省の役人サム(ジョナサン・プライス)がもみ消しに派遣されるが、彼は自分の夢に出てくる美女が、バトル氏の隣人ジルであることに気づく……。テリー・ギリアム監督が撮った近未来カルト・ムービー。

★寸評
当時、最も先鋭的とされていたであろうカルトな映画。
クリエイターの趣味や趣向が凝縮された作品。
従って、面白い映画かどうかは評価は分かれるだろう作品である。
ストーリーなり、台詞で感動を感じたい人間ならば向かない。
観る場合には右脳で観る工夫をすればいい。
ギリアム監督はアニメーターであるがためにストーリーはどこかしら現実離れした感があり、台詞にも出ている。
シナリオに関してはかなり製作会社側から指示があり変更を余儀なくされたらしい。
なにしろラストシーンまで変更されたらしい。
現在レンタル等で観られているのは監督自身の編集によるものだ。


シナリオに比較して映像や小道具や衣装は凝りに凝っている。
これらに凝っているのはSFだから当然だろうが、現在見ても遜色ない事に驚く。
この点だけでも鬼才たるギリアムの面目躍如だろう。


世界的に爆弾テロが横行する本作の世界は現代とも符号する。
なんとも皮肉な予言的内容である。

役者はデニーロが何とも言えない役を演じている。
キャスティングが終わった後に、本人たっての希望で出演したらしい。
が、数える位しか場面がない。
その割りには存在感が凄まじいのは彼の力量というべきか。
単に浮いていると言うべきか。

主演のジョナサン・プライスは可もなし不可もなし。
しっかりと映画の中に埋没している。
それゆえ、ラストシーンの表情は印象的に映る。

モンスター

2008年12月11日 | 映画(マ行)
★2003年公開

★キャスト
 シャーリーズ・セロン
 クリスティーナ・リッチ

★監督&脚本 パティ・ジェンキンス

★あらすじ
幼い頃から不遇な環境にありながらも、夢見る少女であったアイリーンは、売春婦として生計を立てていた。自殺を考えるが、その直前に同性愛者のセルビーに出会い、リーはセルビーと人生を共にすることを決めるがいつものように客となるはずの男に、リーは殺されそうになる。とっさに持ち合わせていた銃でその男を殺す。それから男たちへの復讐の為、不安がるセルビーをよそに男たちを銃殺していく。実話であり、シャーリーズセロン(本作でアカデミー主演女優賞受賞)は体重13キロ増量&特殊メイクで臨んだ。

★寸評
「泥棒にも三分の理」という慣用句があるが、それを映画にするとこの作品になるんだろうか。
総じて救われない映画である。
二度三度観たい映画ではない。
主演のシャーリーズ・セロンは美しさを封印し、悲惨な人生を送り冷酷な殺人犯になり処刑されたアイリーンそのもののルックスになった。
この映画の男性はアイリーンの視点から描かれるため、ゲスが殆どである。

そして彼女は反社会性人格障害(APD)いわゆるサイコパスという人格障害を持っていたようである。
殺人の場面がいくつかあるが、これらは全て彼女が生きるためには仕方ないという風に描かれている。
 
そんなことねーだろー

とも思うが、些かそれは穿った見方か。
彼女の精神世界では仕方ない殺人なわけだ。
サイコパスなんだから。
その意味では納得である。
単なる自己チューではない。
疾患である。

この人物、障害を持っているが故に、生命に関する認識が大分我々日本人とは違うんでしょう。
自分の死刑を早く執行するように希望します。
殺人は、いずれも物証が弱く、状況証拠と本人の自白が柱となっていたため、本人が弁護士の指示通りに無実を主張し続ければ死刑は回避できた可能性が高いが、死刑の早期執行へのアイリーンの意志は強かった。
供述によれば過去にも数回の自殺未遂歴がある。

アイリーンが裁判途中で積極的な自白に転じ死刑を望むようになったのは、唯一信頼していたティリア(劇中ではセルビー)が裏切ったことが大きな要因となっている。
反社会性人格障害の犯人は、自分が絶対的に正しいという自己イメージを持つと同時に、生きるに値しないゴミであるという矛盾したイメージも持っている。

実に苦しそうである。

唯一信頼していたティリアに裏切られたことにより、自分の絶対性というイメージが崩れ去ったということだろう。
故に自殺にも似た死刑執行を望んだ。

これら発言や行動は本邦でも記憶に残る池田小学校殺人事件の宅間守にも類似する、気がする。

 ところで、何故監督がこの到底美人とは言い難いシリアルキラーに、それまで典型的美人役しか演じていなかったシャーリーズ・セロンを指名したか。
 それは彼女達の生い立ちに共通する点が多くあったようだ。
どちらの父親も精神的障害やアルコール依存症を持ち、ドメスティックヴァイオレンスに悩むなど、当人達にしか理解出来ない領域を持っているからであろう。

蛇足だが、本作のアイリーン・ウォーノスとティリアをモデルに名作「テルマ&ルイーズ」は作られたらしい。
本作の深さに比べると実にいいかげんな設定だったと思う。

モンスターズインク

2008年12月11日 | 映画(マ行)
2001年
監督 ピート・ドクター
   デヴィッド・シルヴァーマン (共同監督)
   リー・アンクリッチ (共同監督)
制作 ピクサー・アニメーション・スタジオ

あらすじ
モンスターズインクが所有する無数のドア。モンスターたちは毎日、このドアを通って人間界に行き、子どもたちの悲鳴を集め、モンスター社会の電力源として使っていた。しかし彼らは実は、人間の子どもは猛毒を持っていると信じていて、本当はひどく怖がっていた。そんなある日、2歳の女の子が迷い込んでしまう。それに気付いたサリーとマイクのコンビは、初めこそ恐怖におののいたが、やがて愛情を抱き、お尋ね者の彼女を何とか人間界に返そうとする。

寸評
展開も設定も実に良く練られた作品である。
一分の隙もなく、首尾一貫したエンターテインメント作品である。
上記のようなあらすじなどは殆ど意味をなさず、これらを説得力のあるものとしているのは、圧倒的な映像の力と、磨き上げられた台本によるものだろう。
普通のところがこの台本を作ろうとしてもクソ作品しか出来ない筈だ。

これほどの作品には批判など出来ない。
子供が見ても楽しめるだろうし、大人が見ても楽しい。
funをストレートに表現することに関しては、日本はアメリカには勝てないのかもしれない。