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映画批評etc

映画の感想ではなく批評
その他諸々

イングロリアス・バスターズ

2009年12月10日 | 映画(ア行)
監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ブラッド・ピット
ダイアン・クルーガー
ティル・シュヴァイガー
ダニエル・ブリュール
クリストフ・ヴァルツ
メラニー・ロラン

あらすじ
家族をナチスに惨殺された少女の復讐劇を軸に、ヒトラー暗殺計画に挑むゲリラ部隊の活躍を描く。

寸評
タランティーノ監督の独特の会話劇が好きかどうか、に尽きる。
独自のスタイルを既に築いてしまっている彼の作品だから、どうしても好き嫌いはあるものだ。

今回もとにかく会話で押しまくる。
ブラッドピットはドスの利いた声で終始渋い顔をしている。
相変わらずこの男、正統派二枚目役をやらない。
今回の役はナチと対決する役だが、異常に残虐だ。
が、またこの男がやると暗くならず、妙にノー天気にさせてしまうのだ。
このへんが、彼の好みなのだろう。

この作品でのサプライズはクリストフヴァルツという役者。
過剰な演技だが、タランティーノの世界にはハマっている。
いちいち演技にクセ者感が漂うのだ。
この演技のアプローチは古畑を演じるときの田村正和のようだ。
本当にやり過ぎ。
だが、多数の言語を自在に喋るとは・・・スゲー。


しかし、残虐なシーンがそこかしこに描かれるタランティーノ映画。
本作での暴力描写は、素晴らしいと思った。
特に、映画館のバルコニーからマシンガンのシーンは素晴らしく美しさすら感じた。
残虐なシーンが苦手な人は多いだろうが、タランティーノは見る、という方は多い。
今回の作品もとても正視に堪えない程のレベルではない。
むしろそれ以外に緊張感を煽るシーンは多い。

なかなかの作品である。

生きてこそ

2009年09月12日 | 映画(ア行)
1993年【米】
監督
フランク・マーシャル

キャスト
イーサン・ホーク
ヴィンセント・スパーノ
ブルース・ラムゼイ
イレーナ・ダグラス
ジャック・ノーズワージー
ダニー・ヌッチ
ジョン・マルコヴィッチ

あらすじ
1972年10月にアンデス山脈で旅客機の墜落事故発生。南米ウルグアイの学生ラグビーチームを含む計45名の乗客及び乗員が行方不明。そして事故から72日後に16人が生還。その事故に基づくノンフィクション。「アンデスの奇跡」として有名。

寸評
心を抉られるような精神的苦痛を伴う作品だ。
アンデス山中に飛行機が墜落。
航行距離は短く、機内食等は殆ど積んでない。
幸か不幸か生き残ってしまった青年達に突き付けられるテーマが重すぎる。
「カニバリズム」
人肉食だ。
しかもそれは先に死んでいった友人達だ。

自分が先に死ぬ分には、何とも思わない。
食ってくれ、とすら思う。
「不味いとか言うなよ~」
と軽口を叩いている者もいたが、同じような気持ちだ。

が、食う側になると話は別だ。
今の自分ならば、生きるために食うことを選択するだろう。
精神が崩壊しない限りは生きる道を選びたい。
しかし、最初に食う度胸は無いな。
「どう?」
なんて、先に食ったヤツに感想を聞いたりするかもしれない。
当然、無言だろうけど。

本作では、割と早い段階で食い始める。
これが現実なんだろう。
極限状態に置かれた人間は本当に強い。
平時のタブーなんてクソ喰らえだ。
前向きに生に立ち向かっていく。

イーサン・ホークが素晴らしい演技をしている。
所謂ジェネレーションX世代の中では地味な部類だが、本作では渾身の演技で、極限状態における前向きさ、冷静さを表現している。

しかし、実話ベースの話は沢山あるが、これくらい究極の話も珍しい。
もう、生きるってなんじゃ?とか考える暇なんか無いんだな、と思わされる。
「生きてこそ」なんだなと。
もう見たくはない。

海猿

2009年08月19日 | 映画(ア行)
2004年【日】
監督 羽住英一郎

キャスト
伊藤英明
加藤あい
海東健
香里奈
伊藤淳史

原作 佐藤秀峰 「海猿」(ヤングサンデーコミックス/小学館)
主題歌 ジャーニー 「Open Arms」
製作 亀山千広

あらすじ
海難救助のエキスパート「潜水士」を目指し、海上保安庁の各管区から選ばれてきた訓練生たち。彼らは、地元の人々から「海猿」と呼ばれていた。50日に及ぶ想像を絶する程の厳しい訓練に耐え抜き、最後の関門である水深40メートルでの訓練に挑む彼ら。そこには、思いもしない大きな試練が待ち構えていた。海に生きる男たちを描き、大人気を博したコミックの映画化。

寸評
青春群像ストーリーだ。
男らしい役者陣に、鬼教官、過酷な訓練、恋愛、仲間の死。
所謂、ベタベタな内容だ。
過去にこの手の内容は幾度となく制作された内容だが、これが詰まらないかというと、決してそうでもない。
役者陣は皆若く、芸達者な者は皆無だ。
伊藤英明は棒読みがかなり目立つ。
加藤あいも同様。
表情もかなりナチュラル。
にも関わらず、映画全体の雰囲気はアツい。
これはどういうことだろう。
しかし、周りの名前の無い役者陣はアツいからバランスはいいのかも知れない。

と、いうことでテレビドラマも観てみるとこれがまた悪くないのだ。
芝居がナチュラルなのはテレビの演技だからなのか。
むしろストーリーが良い。
展開が非常にスリリングでありながら、無駄な「跨ぎ」も無く、しっかり見せてくれる。
これはなんだろうと。

イマイチすっきりと納得いかないので、原作を読んでみる。
すると、アツいことは間違いないが、映画やドラマと印象がまるで違う。
はっきり言って面白くないのだ。
普通の漫画だ。

と、ここまで来て、本作に戻ってみる。
この作品、典型的ハリウッドなベタベタストーリーを、日本的風景をバックに日本的若者群像を描いた映画だ。
役者陣は若く、情熱的に、アツく演じている。
多くは未だに日の目を浴びていない者もいる。
が、潜水士への情熱と役者自身の這い上がりたいという熱意が重なる。

青臭いのだ。


朗らかな気持ちになる作品であり、「平和的作品」なので、毒々しい気持ちにならないのかもしれない。
そんな気持ちの中では、あまり多くの感情の持ち合わせが無いのかも知れない。

夏にやっていれば、爽やかな気持ちにさせてくれるような作品。
映像的にも青臭く爽やかだ。

とにかく、テレビ局が中心に作った作品だ。
そこを理解して観ると楽しめる作品だ。

硫黄島からの手紙

2009年08月15日 | 映画(ア行)
★2006年(日・米)公開

★キャスト
渡辺謙
二宮和也
伊原剛志
加瀬亮
中村獅童

★スタッフ
監督 クリント・イーストウッド
製作総指揮 ポール・ハギス
製作 クリント・イーストウッド
   スティーヴン・スピルバーグ
   ロバート・ロレンツ
脚本 アイリス・ヤマシタ

★あらすじ
硫黄島で圧倒的な兵力のアメリカ軍と死闘を繰り広げた栗林忠道中将指揮による日本軍将兵と、祖国に残された家族らの想いが描かれる。ストーリーはタイトルである栗林中将や西郷が家族へと向けた手紙を基に展開される。

★寸評
アメリカ人監督とスタッフにより製作された映画の中では、日本人に対する偏見や誤解による描写や表現がほとんど見られないという点がクローズアップされる映画である。
それと、硫黄島の戦いをモチーフにした「父親達の星条旗」と比較するという愚劣な行為に曝される作品である。
二部作なんだからどっちの方が面白いなどは無駄な話である。


この作品は戦争映画であり、歴史にモチーフを持ち、実在の人物が登場する。
こういった作品においては、「事実と違う」と得意満面に指摘してみたり、抗議したり、愚が尽きない。

ドキュメンタリーではない。
エンターテインメント作品である。
観客に「感動」をもたらすことを目的としている。
「感動」の種類は様々だが、本作の目的も多様である。
その目的の一つに事実を写生するということがある。
その目的の中のほんの一部にミスがあるとして、この作品の評価を決定するのは大きな間違いだということを言いたい。
しかし、単に写生をするだけならば、写真を編集したものをスライドで観ることが最高の正解となってしまう。
或いは、実に退屈な場面も含めてひたすらダラダラと描写ばかりのシーンが連続してしまう。
この作品はリアリティもさることながら、ドラマ性に関してもレベルは高い。
唯一、日本軍が優勢だった部分をもっと描いてほしかったというのはあるが、要望のレベルに過ぎない。

基盤には二宮演じる若い兵士を置き、上官や家庭を描く。
プラス憲兵を追い出された加瀬の苦悩。
そして栗林司令官の生き様。


語弊もあるかもしれないが、戦争の場面であるから、実にスリリングなシーンが続く。
が、ここに好悪の判断はし難い。
ただ、リアリティがあり、スリルがあればいいか、この評価は難しい。
あの映画史に残るショッキングな「プライヴェート・ライアン」の最初の30分あまりのシーンは素晴らしいと言えるだろう。
この手の戦いのシーンは当然、付き物だから。
凄惨な、ある意味ではグロテスクな戦争描写の評価は、単なる主観に過ぎないと思う。

人物の描き方は非常に好く練られている。
二宮君の演技は軽い。これをもって二宮君の素のキャラクターではないかという批判がある。
が、重々しい演技なり仰々しい演技はこの役では無理だろう。
総じて、サラリと演じている。
いわば語り部の役だから、このキャラクターを通して、シーンを観ることになる。
渡辺謙さんもサラッとした演技である。
愛国心を、狂信的にではなく美しく表現できている。
それに、貫禄を出すには充分な長身と眼力である。
堂々たる威容。

全編を通して、セピアの淡い映像で撮っている。
加えて、洞窟の中のシーンが多い。
この絶望的な消耗戦を覆う暗い雰囲気の中で、この撮り方は緊張感を生み出している。
張り詰めた空気。刺激が加わった瞬間に狂気へと飛躍しかねない。
この戦場における空気の異常性が観る者に緊張を強いる。

ゲリラ戦の、しかも孤島という、補給は期待ゼロの環境。
(戦術は納得がいく。それもよく描かれている。)
この戦況でここまで冷静に戦いきった軍人がいたことを知らしめてくれたイーストウッドに感謝の念を禁じえない。

今後、外国人が描く日本人の模範になるべき作品である。
アメリカで、興行的に大苦戦してしまったことが残念でならない。
(批評家からの評価は高い。賞レースでも健闘した。)
やはりアメリカ人大衆は頭が悪いので、この作品の希少性が理解できない。
ドンパチと景気のいい、都合のいい話しか理解できない馬鹿な国民なのである。
最近はネタがないと日本の作品をリメイクしたり、シリーズ作品と実話ベース。これでヒット作は賄ってしまっているのだ。
軽蔑に値する。

しかしながら、日本映画にはこのテーマを描く体力もなければ、思想的背景も持てていない。
描かれた戦争がテーマの作品はどれも観る価値のない作品ばかり。
にも関わらず、作品とは別のところでの議論ばかり。
踏み込んだ映画作りに対するリスペクトが無ければ、作り手に情熱も無くなってしまうだろう。
期待ができるのは、米国という惨状はあまりにも悲しい。

アマデウス

2009年08月13日 | 映画(ア行)
1984年アメリカ

監督
ミロス・フォアマン

キャスト
F・マーレイ・エイブラハム
トム・ハルス
エリザベス・ベリッジ

原作 ピーター・シェーファー
脚本 ピーター・シェーファー

あらすじ
1823年、自殺を図ろうとしてウィーンの精神病院に収容された老人は楽聖モーツァルトのことをたんたんと語りはじめる。何を隠そうこの老人はサリエリという元宮廷音楽家でモーツァルトとつきあいがあり、彼を殺したのは自分だと言うのだ。サリエリはモーツアルトにまつわる様々な話をはじめる……。

寸評
モーツァルトという不世出の天才を生々しく描いた作品である。
数々の逸話を具現化しており、本人も納得するであろうとすら思える。
枝葉末節の相違点に目くじらを立てるのは研究者に任せておいて、作品そのものを考えてみる。
現在伝わるモーツァルトの人物像を考えてみる。

・天才的な音楽家
・若くして亡くなった。
・奇行の目立つ下品な男

といった代表的なイメージは余すところなく表現されている。
しかし、作品のテーマは彼を描くことではなく、天才に対する凡人の嫉妬、しかしながらその傑出した才能に惹かれざるを得ない葛藤といった、天才のわきの人間である。
このサリエリという男は常に嫉妬している。
事あるごとに、モーツァルトに嫉妬する。
しかし、彼の音楽に触れる度に、感動している。
基本的にこの繰り返しなのだ。

しかし、この単純な構成に飽きさせない工夫は様々仕込まれている。

モーツァルトの常軌を逸した天才っぷり。
リアルなオペラの上演風景。
本人によるピアノ演奏や指揮。
豪華で退廃的なパーティー。

現代に例えれば、クラブでのドラッグパーティーのような退廃っぷりなんだろう。
しかし、享楽的な生活でも彼の才能は衰えることなく音楽は湧き出てくる。

そして史実通り、レクイエムを作って死ぬ。
ハッピーさは欠片もない、人間の悲しさ、醜さ、滑稽さを描いた作品だ。
観る側の精神状態によって感想が大きく違いそうな作品だ。

いま、会いに行きます

2009年06月24日 | 映画(ア行)
監督
土井裕泰

キャスト
竹内結子
中村獅童
武井証

原作 市川拓司 『いま、会いにゆきます』
脚本 岡田惠和

あらすじ
秋穂巧(中村獅童)は妻の澪(竹内結子)に先立たれ、1人息子の佑司(武井証)とつつましく暮らしていた。ある雨の日、妻にそっくりの女性が現れるが、彼女は記憶喪失だという。それから家族の生活がまた始まるが・・・

寸評
ドラマ、映画ともにスマッシュヒットを飛ばし、その後主演が結婚、出産、浮気、離婚という、泥を塗られた作品。

が、作品自体には何の影響も与えていないと信じたい。
センセーショナルに報道された影響もあり、誰もが事実を知る事になってしまっているが、この事実は後には忘れられ作品だけが残るわけだ。
そうなると、作品自体の評価は現在とは違う結果になるのかも知れない。

それはさておき、作品自体は練られた複雑な構成をしている。
2部構成と言ってもいい。
巧の部、澪の部の2つ。
これが前半を見ているだけだと
「あれ」
と思う様な伏線が2部で
「これだったのか」
と回収されていく。

至極順調に回収されていく。
この伏線だが、1部を観ただけでは何のことだか、絶対に解らない。
なので、ネタが「こういうことじゃねーの?」「やっぱりどーじゃねーか」
とはならないので、なかなか面白い。

そして映像だが、この手の作品だと美しさが必要だが、しっかりと答えている。
東京や首都圏を避けてロケをしているためか、緑と水が豊富で目に優しい。
そして、出演者陣も優しい丹念な芝居で、たおやかである。
季節が初夏ということもあり、実に爽やかな印象を与える。

ついでなので演技について。
この作品での中村獅童は、フラットに丁寧に演技している。
役柄も作品にも素直に没入し、他作品にある様な変に気張ったり浮く様な癖が無い。
彼の資質からすると意外だが、向いているのかもしれない。
かなり意外ではある。
竹内結子は文句の付けどころがない。
透明感のある美しさはイメージ通り。
だが、幻想的な役でもあり、ストレートに演じると逆にリアリティが損なわれる。
リアルと幻想の境界線ギリギリの演出を繊細に演じている。
一種棒読みっぽくなるわけだ。
下手に見えかねない。だがそんな役者ではないことは別の場面を見れば分かる。
これは技術的には相当高いものである。

他にはオレンジレンジの歌。
どうだろう。
賛否両論ありそうだ。
どこかでウッスラ流しておけばよかったんじゃないか。
ラストで流してしまうとどうもなぁ。
契約でそれは無理か。

おもひでぽろぽろ

2009年06月14日 | 映画(ア行)
監督
高畑勲

キャスト
今井美樹
柳葉敏郎
本名陽子

原作 
岡本螢、刀根夕子

製作プロデューサー 
宮崎駿

寸評
一言で言えば、地味な作品である。
起こる出来事も地味な上に、描き方も地味である。
だからダメな作品かというと、そうでもない。
この地味さ加減が、結果、評価の分かれるところになる。

曰く、退屈とか、ホウレイ線が気になるとか。

絵に関しては、完全に好みであり、客観的な批評の対象にはなり得ないので、言及しない事とする。
ジブリ作品故に、映像が美しいのは当たり前のことであり、今更何も言うこともないわけだ。

この作品に描かれる舞台は山形の農村でのホームステイ生活だ。
農業に関わりながら、ポロポロと思いだす小学校時代の思い出。

この思い出がフワフワしている。
人物や出来事は極端になっており、いかにも思い出らしい。
そして、実際の出来事と昔の思い出は殆どリンクしない。

ほとんどの観客は、農村での生活を夏休みに帰ったかのようなノスタルジイを感じる。
子供時代の思い出に共感なり反感を覚える。
ここら辺が、ふわふわした浮遊感を生んでいるのだ。

これに気持ち悪さを覚えるのか、心地よさを感じるかは、その人の年齢なり、環境に拠る部分が大きいか。
すなわち、酒に酔う体質に近い。
狙っている客層はかなり狭いとも言えるだろう。
目線は女性オンリー、しかもOL限定。テーマには結婚の如何。

だから、賛否が分かれるように出来ている作品なのだ。
男でこの作品に没入してしまえる部分は少ない。
共感を感じられる視線を持つキャラが少ないのだ。

ジブリというブランドが発する作品という偏見。
ジブリは活劇アニメという偏見。

そんなもんを持ってると楽しみ難いかもしれない。

アフタースクール

2009年06月11日 | 映画(ア行)
監督
内田けんじ
キャスト
大泉洋
佐々木蔵之介
堺雅人
常盤貴子
田畑智子

あらすじ
ちょっとお人好しな中学教師の前に、元クラスメートを名乗る探偵が現れた。二人は、やくざの情婦と失踪したという旧友を探し始める。しかしエリートサラリーマンであるはずの旧友には謎がありそうだ。キャッチコピーは「甘く見てるとダマされちゃいますよ」

寸評
甘く見ていて騙された。
巧妙に張られた伏線とミスリードによって、人物の関係を描かれるがままに素直に信じてしまっていた。
加えて、大泉洋が、彼本人そのもののキャラクターで登場しており、単なるアクセントとして捉えてしまっていた。

中盤から、人間関係やトリックが見え隠れしてくる。
すると、「あれ?コイツ実はこうじゃねーか?」
などと考え始め、グッとくる。

聞けばこの監督、既に評価もされた、なかなかの実力者である。
本当に映画をよく知っている人だ。
だから、この手法も可能なのだろう。
コメンタリーでの発言だが
「よくわからないと観客は理解しようとする」
とのことだが、ミスリードはこうして作られるのだなと。

この手法が使えるのは映画のみに許された手法である。
漫画でも可能か。
文字表現ではできない。
映像ありきでないとできない。
脚本もこの監督の手によるもののようである。
なるほど。
原作は無い。
映画はこうでないといけない。

キャストだが、特に特筆すべきことは無い。
みな、良い。


エデンの東

2009年02月09日 | 映画(ア行)
監督 エリア・カザン
製作 エリア・カザン
脚本 ジョン・スタインベック
   ポール・オスボーン
出演者 ジェームズ・ディーン
    ジュリー・ハリス
    レイモンド・マッセイ

あらすじ 
1917年、アメリカ合衆国カリフォルニア州サリナス。この町に住むトラスク家の次男ケイレブ、愛称キャルは、度々町を抜け出しては15マイル離れた港町モントレーに行き、モントレーの一角でいかがわしい酒場を経営しているケートをこっそりと尾行していた。

寸評
ジェームスディーンの繊細な演技が冴えている。
彼の伝説への第一歩となった作品の高尚で静謐な雰囲気が漂っている。
現代の我々がこの作品を鑑賞するうえでは、彼の死の感傷を抜きには語れない作品であり、作品自体の純粋な評価というのは難しい。

時代背景等を無視して鑑賞すると、本作は実にシンプルな作品である。
当時無名の若手俳優のジェームスディーンを起用し、若者の葛藤を描いた作品である。
幾多の「現代のジェームズディーン」が生まれたが、単に彼は当時の若者のアプローチに嵌っただけである。
テーマは愛、善悪、家族などのありふれた内容だが、一つの価値観は提示されている。
いわゆるティーンエイジャーの元祖。
みんなが彼に夢中になった理由はわかる。

映像は美しい。
そして台本はオーソドックスである。
主演は伝説の名優である。

それが本作であり、以上でも以下でもない。

監督のエリア・カザンは好い仕事をしている。

WALL・E/ウォーリー

2008年12月28日 | 映画(ア行)


監督 アンドリュー・スタントン
製作総指揮 ジョン・ラセター他
脚本 アンドリュー・スタントン

あらすじ
舞台は29世紀。人間は、汚染され尽くした地球を捨て、宇宙船で生活している。
量産型のゴミ処理ロボットであるウォーリーは、人類が地球を去ってから700年間、何があっても、仲間たちが壊れて動かなくなっても、ただ黙々とゴミを圧縮し、積み上げ、塔を建て続けてきた。 
ある日、上空から巨大な宇宙船が着陸し、中から白く輝くロボットEVE(イヴ)が現れ、周囲を探査し始める。いくつかの誤解や軋轢の後、やがて二人は仲良くなるが、ある時、WALL・Eの宝物の一つを見たEVEは、突然驚いたようにそれを収容すると、そのまま動かなくなってしまう。数日後、あの宇宙船が戻って来て、EVEを回収してしまう。WALL・EはEVEを追いかけ、宇宙船にしがみつき、宇宙へと飛び出す。


寸評
作品の至る所に、PIXERブランドの印は押されている。
実に「らしい」場面は各所に散りばめてある。

舞台は超未来。
地球はゴミだらけで、廃墟と化している。
既に人は住めず、ロボットもウォーリーしか住んでいない。
人間は肥え太り身動きすらままならない。

絶望的な世界観である。
にも拘らず、ウォーリーは実にテキパキと、時に好奇心旺盛に働いている。
台詞は殆ど無い。

生き生きとした健気なウォーリーはPIXERならではのキャラクターである。
自分の仕事中に見つけたガラクタコレクションをイヴに見せてあげる。
機能停止しちゃったイヴの面倒を必死で見てあげる。
回収されるイヴを宇宙まで追っかけていっちゃう。

どうにも駄目な奴だが、人間は根源的に駄目な奴の味方である。

しかし。
宇宙に行くと世界が変わってしまう。
退化した人間の姿は実に醜い。
全員がブクブクブヨブヨのデブで、満足に自分のことが自分で出来ない。
オートメーション化された環境で生きるブクブクに太った人間は、大量消費と使い捨てが好きで「もったいない」の概念を最近知った現代のアメリカのカリカチュアライズした姿である。
そんな風になっちゃいますよ、とでも言いたげである。

テーマは複雑になる。
スケールは格段に上がっている。
荒廃した地球と完全にオートメーション化した宇宙船との対比は凄まじい。
要はここで子供向けではなくなっているだろう。
色合いはアメリカ的に明るいが、暗い未来の展望が示される。

以上のように本作は、単純な作品ではない。
分かり易い部分は分かり易いが、エンターテインメント作品ではあるが、テーマは深く且つ重い。
すなわち、エンタメ要素がやや抑え目である。
従って、子供向けではないとも思う。

蛇足だが、キューブリックの「2001年宇宙の旅」のオマージュがされている。
子供が知ってるわけない。

ALWAYS 続・三丁目の夕日

2008年12月11日 | 映画(ア行)
★2007年公開

★キャスト
吉岡秀隆
堀北真希
堤真一
小雪
もたいまさこ
三浦友和
薬師丸ひろこ
貫地谷しほり
温水洋一
マギー
須賀健太
平田満
上川隆也
小日向文世
ピエール瀧
渡辺いっけい
手塚理美
吹石一恵

★スタッフ
監督 山崎貴
原作者 西岸良平
脚本 山崎貴
   古沢良太

★あらすじ
昭和34年春。日本は高度経済成長時代に足を踏み入れようとしていた。取引先も増え、軌道に乗ってきた鈴木オートに家族が増えた。事業に失敗した親戚の娘、美加を預かることにしたのだ。しかし、お嬢様育ちの美加と一平は喧嘩ばかり。一方、一度淳之介を諦めた川渕だが、再び茶川の所にやってくるようになっていた。淳之介を渡したくない茶川は、再び芥川賞に挑戦しようと決意する。

★寸評
大ヒット作品の続編。
結論からすると、前作の方向性を踏襲しつつ無理なくまとめた良作である。
オープニングに東宝の「奴」が出てきて暴れやがる。

批判があるとすれば、単なる好みの問題であったり、イチャモンのレベルを出ない罵詈雑言である。
好みの問題ならば観なければいい話である。
もとからベタベタの作品なのは予告を見てれば判るはず。
最初に言っておくが、この作品はベタである。
直球、ドストレートである。
映画をよく観る人には殆どが想定内である。
あまり映画を観ない人でも無意識ながら予想している。
その期待に奇をてらうことなくベタベタに応えている作品である。
だから、お約束を期待して観にいけば、バッチリ嵌れる作品である。

ベタと言えば発想が貧困のようにも聞こえる。
発想が古いとか、スタイリッシュではないとか。
しかし、これは大きな間違いである。
ベタが判っていなければ、新しい発想も判らない。
ベタが作れる人材は今となっては、非常に貴重ですらある。
需要はまだまだあるわけである。

本作はその点、ベタ作品としてよく出来ているし、日本人には理解し易い作品である。

批判について喝破しておく。
この手の作品ではよくある批判だが、批判をすることにより自分を上位に置こうという下らない発想の人間がいる。

内容について。
昭和の時代の人情喜劇である。
それをテクノロジーの進歩を最大限に利用して作られている。
脚本に関しては大雑把に分けると4本分のエピソードがある。
すなわち、

1、鈴木オートの部
2、茶川竜之介の部
3、子供の部
4、ヒロミの部

である。
それぞれが独立しつつも関連している。
そして、前作同様昭和の町並みや昭和ならではの懐かしいエピソードが満載されている。
前作でオチのついていなかったエピソードもあり、そこも取りこぼすことなく宿題に応えてくれている。(瀧演じる氷屋、三浦演じる寂しい医者など)


何故、続きものの作品なのに前作に匹敵するか或いは超越する作品になったのか、じっくり考えてみる必要がある。

第一に、キャスト・スタッフが同じ顔ぶれである。
その上、キャストは実力者が勢ぞろいである。
これら前提はなかなか実現しにくい条件をクリア出来た。

次に、スタッフに関して、前作同様の丹念な作業をこなしている。
日本の映画界にはもともと世界的に優秀なスタッフが揃っているので、この仕事を実現出来たのは喜ばしい。

そして、脚本。
根幹の部分である。
本作における新しい基軸は、鈴木オートにやってきた女の子、六ちゃんの同級生、それ以外はぶつ切りの挿話である。

ここで気付く。

殆ど新基軸はない。
前作の掘下げの方が多い。
キャラは既に立っているし、舞台の設定も既に出来ているので説明は少なくてもいい。
つまり乗っかった上で、話を転がしているのである。
だからあまり無理が無い。
前作の取りこぼしを回収する作業が多いということである。
それほど難しい作業をしているわけではないということ。

これが結果として成功をもたらしたという何ともパラドキシカルな結果となった。

ベタに素直に感動出来る人は観て損はしない。
良い作品である。

ALWAYS 三丁目の夕日

2008年12月11日 | 映画(ア行)
★2005年公開

★キャスト
吉岡秀隆
堤真一
薬師丸ひろ子
小雪
堀北真希

★スタッフ
監督    山崎貴
製作総指揮 阿部秀司
脚本    山崎貴
      古沢良太


★あらすじ
昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の暖かな交流を描く人間ドラマ。(東京の愛宕町界隈を想定している。)

★寸評
『美しい国へ』(安倍晋三著)の中で、「映画『三丁目の夕日』が描いたもの」として、本作品が書かれている。
また、2007年4月に中華人民共和国温家宝首相が日中会談で安倍晋三との会談の際に、本映画を見たと述べた。

など、政治的にも利用される日本の原風景を描いた作品。

作品中の、昭和30年代を再現したセットやVFXが話題になった。
高い技術である。
恐らく、その時代を生きた人々にすれば様々な意見が出るだろう。
曰く、「汚さが足りない」「あんなもんじゃない」

馬鹿かお前らは。

画の汚さを追求する映画ではないのは、歴然としている。
過去の時代の映画を作るのに美しくしなくてどうするのだろう。

同時代人でない人間からすれば、美しい日本の風景である。
ノスタルジアを喚起させる日本の下町。
その住人はまた、日本人から失われた精神性を持った、温かみのある人々が慎ましくも精一杯生きている。
この辺がこの作品の主題なのは、誰が見ても分かるだろう。

賞レースを総なめしたのは頷ける。
ここで描かれた人々は、日本の庶民が本来持っていた精神的文化の血を通わせている。
即ち、映画界からのメッセージと取るべきである。

それを、やれ「ありきたり」「結末が見えた」としたり顔で述べる人間は実に浅慮である。


このストーリーでしかありえないでしょう。
全く無難なストーリーである。
少しでも変わった趣向をやろうとすれば、訳を知った風なオッサンやババァが批判してくるから、このベタベタな内容にせざるを得ない筈。
その上、古臭い手垢まみれの展開を客は欲しており、それに見事答えた作品である。
言ってみれば、お約束を徹底して追及し、作られたわけである。
これは賞賛に値する。

ともすればクリエイターはアーティスティックなものを作りたがる。
時代の数歩先を行きたがる。
売れようが売れまいが関係ない人間が本来はクリエイターという人種である。
自分の好きなことをやれたら嬉しいのがクリエイター。
それをこの製作者達はVFXのみに留め、ストーリーをコテコテの日本映画にして、パッケージして売った。
見事に売った。
ダサダサの形で。

結果、大成功である。

内容的には先ほどから書いている通り、どーってことない。
綺麗にまとまっている。
演技者も全員が水準以上である。
特に吉岡秀隆は難しい役を流石の感性で演じきった。

好い作品であると言わざるを得ない。

アメリ(仏)

2008年12月11日 | 映画(ア行)
★2002年公開

★キャスト
オドレイ・トト
マチュー・カソヴィッツ
ジャメル・ドゥブーズ
ドミニク・ピノン

★スタッフ
監督 ジャン=ピエール・ジュネ
脚本 ジャン=ピエール・ジュネ
音楽 ヤン・ティルセン
製作 クローディー・オサール

★あらすじ
アメリはモンマルトルのカフェ・ムーランで働く22歳。幼い頃から父と二人暮しだった彼女は、いつのまにか空想好きでエキセントリックな女性になっていた。そんな彼女が、駅で証明写真機の下を探る男性ニノに一目惚れする。彼女は、ダイアナ妃が亡くなったニュースを見ながらアパートの浴室でみつけた小さなブリキの箱を持ち主に届ける事ができれば、新しい世界に飛び込んでみようと決心する。

★寸評
評価が真っ二つと言って差し支えない程に分かれる作品。

まず、表層部分について。
音楽はアコーディオンを中心に、哀愁に満ちたメロディでシーンを明るく見せている。
映像は実に凝っている。
時にフラッシュバックしたり、コマ送りをしたり。
映像自体のテンポは悪くない。
衣装やセットも美しくセンスは好い。
素晴らしいスタッフワークと言えるだろう。


そして、キャスト。
まず主役の女優。
かなり難しい役だろう。
が、ストレートに演じている。
あまり、奇をてらうこともなく、監督の意図通りに演じてるんじゃないだろうか。
他もそれほど目立つキャストはいない。

この作品はやはり台本だろう。
ジュネ。
実に癖のある台本を作った。
しかも自分で監督までしている。
簡単に要約すると、モテないアメリに彼氏が出来るようになるまでの話である。
これを彩るキャラクターは殆どがコミュニケーション能力に欠陥を抱えている。
アメリ自身もコミュニケーションは苦手だが、活発に世間とは関わっている。
しかもその手法は主に、どうでもいいような悪戯やお節介を中心としている。
この手法がカワイイと取るか、鬱陶しい、キモいなどと受けるかでこの映画の評価が決まってくる。

男たちの大和/YAMATO

2008年12月11日 | 映画(ア行)
★2005年

★キャスト
反町隆史
中村獅童
松山ケンイチ

★スタッフ
監督 佐藤純彌
原作 辺見じゅん 「決定版 男たちの大和(上・下)」
脚本 佐藤純彌
音楽 久石譲
主題歌 長渕剛
製作 角川春樹

★あらすじ
終戦60周年を記念して制作された。 菊水作戦における戦艦大和の乗組員の生き様を描いた作品である。

★寸評
戦争の記録映画である。
あ、それ以上でも以下でもなく、それを観る事にのみ価値があると言っていい。
キャストに反町、製作が角川、主題歌が長渕となかなかに右な連中である。
が、それは本作にはそれほど大きな影響を与えていない。

勿体無い部分が非常に多い。
折角の大和のセットを遠くから撮ってなかったり、仲代達也を現代に無駄遣いしたり。
こんな、どうにもならない部分が多くあるかなと。
焦点を絞ればいいエピソードが沢山あるのに、絞りきれていないから散漫な印象が残ってしまう。

この映画、右的な要素がプンプンするのに、話題にならなかたったのと物議を醸さなかったのは色んなどうにもならない失策が多かったからである。

演技は普通くらいです。
光っていたのは蒼井優です。
この手の演技が得意なんでしょうか。
所謂、田舎っぽい、前時代的な普通の子っていう設定。
反町は、思ったより笑えない普通の芝居をしている。
ある意味空気がわかる感じの普通の人になってきたのかもしれない。
それはそれで残念である。

踊る大捜査線 THE MOVIE 修正削除 移動

2008年12月11日 | 映画(ア行)
★1998年

★キャスト
織田裕二
柳葉敏郎
深津絵里
水野美紀
いかりや長介
ユースケ・サンタマリア
筧利夫

★スタッフ
監督 本広克行(ROBOT)
脚本 君塚良一
プロデューサー 亀山千広(フジテレビ)

★あらすじ
ある日、署管轄の川で男の水死体が発見され、対応に追われる湾岸署内で何者かによる窃盗事件が続出する。同じ頃、警視庁副総監の誘拐事件が発生した。殺人を示唆するネット犯罪と、重大事件が重なり署内には騒然とした空気が流れる。本庁からの指示で思うように捜査ができない青島刑事(織田裕二)は独自の捜査を開始する。

★寸評
本作はテレビドラマとは別物であり、一個の映画として評価し、ドラマとの比較論には与しない。

細かい箇所には沢山文句がある。
パクリもある。
設定に無理もある。

しかしながらアツい。
どいしようもなくアツい。
テレビ的なスポ根的なアツさです。
これが好きな人が観ればいい映画です。

はっきり言ってパクリは露骨です。

そもそも青島刑事自体が「セブン」におけるブラッド・ピットだし、いかりや長介はモーガン・フリーマンです。
本作の小泉今日子は「羊たちの沈黙」のアンソニー・ホプキンスです。
あと、黒澤映画の「天国と地獄」のシーンのパクリをやってしまってます。(wikipediaによると使用許可を得ているらしい)

しかし、客層にテレビシリーズのファンを中心に設定して観てもらうつもりでしょうから、コアな映画のオマージュがあっても気付かないです。
従って、パクリに関してはオマージュと捉え前向きに考える。

本作の最大の弱点は犯人に強烈な悪役を設定していないところでしょう。
ですから、見方を間違えるとえらいことになる。
この作品は刑事を中心とした、群像劇或いはコメディのような作品なんでしょう。
本作を推理サスペンスと捉えたら、すっころんでしまう。

ここら辺を間違えないように観なければいけないんでしょうが、殆どの人はテレビシリーズの延長で観る根強いファンだろうからあまり関係ないんでしょう。

観客動員数で作品の好悪を判断してしまうと痛い目にあいます。