一橋MBAブログ 「くにたち」な日々

HMBA有志による非公式リレーブログ

恥と意地

2006-02-05 01:51:26 | わたしには世界がどう見えているか
こんばんは。うみていです。2回目です。

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 鑪幹八郎の『恥と意地』という本がある。副題は「日本人の心理構造」である。アイデンティティの研究で有名な研究者なのだが、この本を読んだときは、こういう人が日本人論を書いているとは意外だな、という印象を持った。しかし、中身を見ると、確かにうなづけるものがある。

 同じ著者の手による、講談社現代新書の名著『アイデンティティの心理学』は、日本人のアイデンティティは、定まったコースを歩む「予定アイデンティティ」である、としている。すなわち日本人はこれまで、ある程度まで自分の進むべき道、役割が、周囲の人々との関係性のなかで、あらかじめ決まっていて、他に選択肢のないまま、それに添った形で自分を作り上げる、ということをやってきている。そしてこれは、葛藤の少ない生き方で、ある意味では、楽に生きることが出来た、という旨を述べている。

 このような予定されたアイデンティティは、今の日本の社会では、だんだんとなくなりつつあるが、それでもなお、大きな流れを形作っている。そして、このような「予定アイデンティティ」から、「選択するアイデンティティ」というもう一つの流れが生まれてきたことによって、日本人のアイデンティティに対する意識は、高まりながらも混乱するということが起こってきている。このように述べていた。

 さて、ここからが、もう1冊の著作『恥と意地』の話であるが、元来、予定アイデンティティに沿って生きることをやってきた日本人は、そこから外れることはあってはならないことだと考える傾向にあった。みんなが、アイデンティティの崩壊を恐れて予定された道から外れないように行動する結果、同じような考え方、行動特性、いわゆる「横並び意識」が生まれ、そこから外れることは、「恥」になったのである。そして「恥」をかくことによって傷つくと、あるいは、名誉を保てなくなると、今度は「意地」でも、その「恥」をすすごうとする。このような行動原理が、日本人の心理構造の中に埋め込まれているのではないか、ということを、(少し違うかもしれないが)同書では主張していた。

 例としてあがっていたのは、『忠臣蔵』であった。個人的な見解だが、これはある意味当たっている。そして時代を超えてこの話が支持される背景には、日本人の深層心理に、この「恥」と「意地」の原理がいきづいているということをあらわしていると考えられる。

 このように考えると、よく上司と部下の関係で、「叱る文化」などと称して、ここでいう「恥」を与えて、「意地」を引き出すという管理手法がみられるのも、ああそうか、と納得できるような気がする。ただ、これがだんだん通用しなくなってきているということもまた、明らかであるというふうに思われる。ただ、このようなことをいうと、邪推だといわれることしばしばである。なぜこのような話は敬遠されるのだろうか。この『恥と意地』、なぜだか今は再版は無いようである。(了)


■ついでにクイズ。→「鑪幹八郎」の「鑪」はなんて読むでしょう?


 わかった方は、ご連絡ください。では。(うみてい)