一橋MBAブログ 「くにたち」な日々

HMBA有志による非公式リレーブログ

中間発表会

2006-09-29 21:12:29 | 人事組織のハナシ(学級委員長)
せっかくなので、今週あった中間発表ネタを書きましょう。

HMBAでは毎年9月最終週にワークショップ(WS)論文の中間発表が行われます。半年間の研究の成果をまとめて発表する機会でして、8つのWSが2つずつ4組に分かれて先生方や学生相互の意見、コメント、指導を各自がもらいます。

昨年はギャラリーとして傍聴させていただき、先輩方の発表を聞く立場でして、半年の成果の割にはイマイチ煮詰まっていない感を感じていたわけですが、今年いざ自分の番となると先輩方の気持ちが痛いほどよくわかるわけです。うーん、煮詰めるのがこれほど難しいかと。

まぁそんな煮え切らない自分の発表はさておき、今年は全WSの発表をちょっとずつですが聞いてみました。仲間の発表内容への興味半分、WSの雰囲気やアプローチ方法の違いなどへの興味半分といったところでしょうか。

案の定、WSが違えばここまで違うのかというほど、色々な面で違いが見られて面白かったです。例えば先生方のコメント。必死に学生側に新たな切り口を提示しようとする方もいらっしゃれば、研究の動機や意義を突っ込むタイプもいらっしゃいますし、至らなさを一刀両断バッサリやる先生もらっしゃいます。それに応じて学生の側も、データ積み上げ型だったり、先行研究重視型であったり、理論応用型だったり、事例深耕型であったり、論理妄想型であったり。色々と個性を感じました。

WS。専攻分野がハッキリ決まっていると分かりやすいですが、微妙な場合は悩むでしょうね。指導教官の専門性はもちろん、指導方法や相性の問題、テーマ設定の広さへの許容度やアプローチ方法の特徴なども気になります。まぁ、厳しい先生ほど学ぶものも多いというのは真なりのような気がしますが。

中間発表。こういう貴重な機会が用意されているのは選ぶ側にはありがたいですね。発表する側としては…。これまた貴重な機会だったと思いたいです。

災難の9月

2006-09-28 23:34:01 | Border Dwellerのつぶやき
コンタクトが風に飛ばされ突然の出費で落ち込んでいるところ、おまけに私のコンタクトは特注品なので納品までの1週間、中途半端な視力ですごさなければいけなかったのですが、PCはワークショップの中間発表前日にクラッシュし、仕上げは中間発表で散々な目にあった9月も残すところ2日となりました。ここらで気持ちを切り替えたいものです。

切り替えるといえば、最近しきりに報道されている“飲酒運転”関連報道。自治体の中には飲酒運転撲滅運動をしているところもあるようです。

ところで、世間で撲滅運動の対象にされるのは“結核”とか“エイズ”とか“シロアリ”とか…、完全になくすのが目標だけどそうするにはかなりの困難があるものが対象にされることが多いというのが私の認識です。ですから、飲酒運転が撲滅運動の対象になるということに違和感を覚えます。言外に“飲酒運転を完全になくすのはむずかしいよね”という共通認識が見え隠れするからのです。どうやら“お酒を飲むこと”が“大人であること”だとか“男らしさ”の証明で、「ちょっとだったら大丈夫」といった甘えが社会的に容認される風土というか雰囲気があるようです。たとえば、お酒に強く、たくさん飲んでも乱れないことがある種の賞賛の対象になっているのであれば、少々のアルコールで判断力が鈍るはずはないと本人も周囲の人も考えるでしょうし、そういった状況で自動車の運転をやめさせようとすること自体が“野暮なこと”と見なされてしまうのではないでしょうか。(ちょっと極端な話かもしれませんが、会食会に車で出かける人が多いということは、心のどこかに「お酒はちょっとだけにすればOKだよね」というイイワケがあるようですし、事実、街頭インタビューでもそういった回答が多く聞かれます。)

アルコールが判断力を鈍らせるのは化学反応でありアルコール耐性の強弱とは関係ありません。だから犯罪なんで、検問でアルコール反応が出るかどうかが犯罪の基準ではありません。お酒を飲んで運転すること自体が犯罪であり、飲んだら乗らないことが“大人として価値がある”(あるいは“お酒に強い男or女としてすばらしいこと”)として賞賛されるくらいの認識の転換が起きない限り、飲酒運転はまさに“撲滅”対象であり続けるのではないでしょうか。

こんなふうに人の行動って普段はあまり意識することのない“大勢の認識”に影響されることが多いし、だからこそ行動を変えるには認識自体を変える必要があると思うのだけど、こうした考え方自体に問題があるのかしら。あぁ、私って結構打たれ弱いので、気持ちの切り替えがうまくできないなぁと、相変わらずグダグダしている自分が心配です。
(Border Dweller)

豚まん

2006-09-27 18:04:23 | 戦略ってなに?(P&N)
こんにちは。P&Nです。

今日、ワークショップ(いわゆるゼミ・卒論)の中間発表が終わりました。

議論をあっち振ってみれば違うと言われ、ではこっちに振ればなにを考えているのだと言われ、困ったものです。「困った」と言っても先生の指摘がイヤだ、と言うわけでは決してなく、「何かを考える」とはこんなに難しいのか、と頭を抱えています。

さて、今の私にとっては、そんなことはどうでもよく、現在、来週までは、体重増加許容期間です。なぜかというと、関西で有名な「豚まん」が期間限定で東京に出てきており、それを食べることが今私にとって大切だからです。関東だと「肉まん」なのですが、関西人に言わせると、これはやっぱり「豚まん」でないとダメなんだそうです。

その「豚まん」というのは、ご存知の方も多いと思いますが大阪の「551蓬莱」です。現在渋谷の東急東横店で「なにわうまいもん市」というのを10月3日まで開催しており、そこに「551蓬莱」が出店しています。
この豚まんは日経新聞の「関西からのお土産」という記事でも第一位になった豚まんで、実際私が新大阪駅、京都駅に行ったときもお客さんが並んでいました。もちろん私も並んで、新大阪駅からはるばる東京まで10個持って帰ってきました。

戦略とは何か、というのが私のブログのテーマなのですが、戦略なんてゴチャゴチャ言っても、そんなものは関係なく「うまいもんはうまい」(これもどこかで聞いたことがあるフレーズです)のです。無粋な話は関係なくやっぱりお客さんは買うのです。これが食べ物ビジネスのいいところかもしれません。難しくて複雑なことは考えず、ひたすら味を追求する。このシンプルさが向いている人にはいいビジネスなのでしょう。

やめましょう、こんなつまらない話は。

私が気に入っているのは、豚肉もいいのですが、あの「皮」です。結構甘口で、それが豚肉の塩味と絶妙にマッチし、これがまた、なかなか。
東京でもあの味を求めていろいろな店の「肉まん」を食べてみるのですが、あの味にはまだ出会えていません。

この「うまいもん」市では、豚まん以外にも、たこ焼き、お好み焼き、カレーパン(これもおいしかった)、コロッケ、などなどたくさんの店が出店しているので、ぜひ皆さんもお試しください。

ですが、夕方行ったりすると、豚まん買うのに1時間待ちだったりしますから、その点はご注意ください。

組織思う、ゆえに組織あり

2006-09-23 18:53:42 | 人事組織のハナシ(学級委員長)
個と全体。個人と組織。ミクロとマクロ。要素と集合。

最近組織の問題を考えていると、こんなことを考えざるを得なくなってきています。「組織って何だ?」とか、「組織の性格って何だ?」とか。

文字。「ひ」「と」「つ」「ば」「し」。1つ1つの文字には何の意味もないのに、「ひとつばし」と繋がると、そこには意味が生じます。もちろん、意味を認知できるかどうかの問題もありますが。

人間。基本的には原子の集まりです。陽子と電子と中性子の集まりとも言えますかね。でも、集まって分子になり、細胞になり、器官になり、人間になると、そこには生命が生じます。

人。「Aさん」「Bさん」「Cさん」「Dさん」「Eさん」。1人1人は別個の個人でも、例えば大勢集まってHMBAとなると、そこには個の集合以上の意味が生じます。

個と全体。個人と組織。ミクロとマクロ。要素と集合。

組織を構成する要素としての人は入れ替わります。でも、組織の性格は残る場合があります。人間ならDNAが受け継がれるイメージでしょうか。じゃぁ、組織のDNAって何だ?

組織変革。風土改革。人は変わらなくても、組織は変わることがあります。変わるもの。変わらないもの。

「我思う、ゆえに我あり」。「組織思う、ゆえに組織あり」。組織に人格があればそうなるんでしょうか。これまさに哲学の世界。

難しいですね、組織って。

SNSの可能性

2006-09-21 23:36:55 | Border Dwellerのつぶやき
おひさしぶりです、Border Dwellerです。
P&Nさんも書いていらっしゃいますが、タイの「クーデター」には驚かされました。
1発の銃の発射も、流血もないのにほっとさせられますが、「クーデター」という言葉の持つ力と現実(だと見られる)との間に大きなギャップを感じます。

大きなギャップという点で、mixi上場で盛り上がるSNSビジネスにもびっくりしています。「案外いい値段がつきそうだゎ」程度にしか思っていなかったのですが、公開初日は値がつかず。2日目の大引けは初値を上回る312万円。公開価格の2倍近い金額を支払っても買いたい、もっと価値が上がると思っている人が大勢いるらしいということになります。

mixiは紹介者がないとネットワークに入れないため不特定多数が登録できるものと比較してリアリティが高い、ユーザーの7割が3日に1度は必ずロクインしており利用率が非常に高いという2点から広告媒体として期待が高まっているようです。しかし、実際の友人から紹介されなくても「紹介者になります」という人がいるようなので、「ユーザーになりたい」と思えば誰でもユーザーになれますし、極端な話、いったんユーザーになってしまえば(利用規約違反ですが)自分で自分を紹介し多重登録することだって可能です。年齢や性別だって、どれくらい登録者が正直に登録しているかアヤシイものです。どこまでいってもネット上の出来事はリアルなものとはなりえないといった気がします。

それでもコミュニティは“好き”とか“興味”を核としており、メーカーにとっては明確にセグメントされたターゲットとして映るかもしれません。しかし、これについても私は疑問を感じます。というのは、以前あるコミュニティの人々が集まる場に居合わせたことがあるのですが、共通の“思い”でつながっている人々は、“思い”に敏感で、同質な人に対して働く求心力と同じ大きさの遠心力が異分子に働くような居心地の悪さを感じたからです。リアルな場だったので「そこはまぁ、大人のつき合いを…」といった雰囲気だったのですが、SNSのコミュニティはつながり自体がバーチャルですから、ためしに参加しても“思い”が共有できなければアクセスしなくなればそれでOK。一方的に関係を断ち切ることも可能です。つまり戦略的な広告媒体としてコミュニティに参加したところで、商業目的の発言を受け入れる人以外はいつの間にかコミュニティから離れてしまっていたということになりかねないのです。

私はSNSにかぎらずWeb上の情報ってかなり流動的で不確実なものだと思っているのですがそんなことないんでしょうか?そこのところ、mixiを高く評価している皆さんがどう考えているのか知りたいなぁと思う今日この頃です。
(Border Dweller)

タイの「クーデター」

2006-09-20 21:57:23 | 戦略ってなに?(P&N)
こんにちは。P&Nです。

いや~、驚きました。タイで「クーデター」とは。
本格的なクーデターにならないことを祈り、カギカッコ「 」付きにしておきます。

タイはアジア通貨危機のきっかけとなった国ではありますが、1年ほど前までは政治的に安定していたようでしたし、自動車産業もずいぶん発展してきて、アジアの自動車産業の中心地になるような印象を持っていただけに、驚きました。
タイに非常に詳しい知人は、あまり後を引く深い問題にはならないのではないか、という意見でしたが、本当にそう願いたいものです。

社会人時代にタイの人と一緒に仕事をした経験があります。非常に穏やかないい人たちでした。それだけに、「クーデター」という物々しい表現がどうもピンと来ません。

その時「本場のキックボクシングを見に行きたいのだが」と言ったら、「あの場では現地の人々も熱くなって、外国人には危ないからやめておけ」と言われました。この穏やかな人々もやっぱり熱くなるのか、と思いましたが、そのくらいはどの国の人でも当たり前ですから、印象は変わりませんでした。

やっぱり経済とか経営には何しろ政治的安定が大条件ですね。こういう事態があると経済的にも影響は多かれ少なかれ不可避ですし、企業の経営的にも影響は大きいですね。売上予測は外れてしまうし、必死の費用削減もあっという間に水の泡になるし、人の活動も制約を受けるし、気持ち的にも不安だし。特需の恩恵を受ける一部の人以外、まったくいいことがありません。

原材料価格高騰、為替の変動、株価の下落、など経済的な急変動のヘッジ手法はずいぶん広まってきました。さらに政治的な変動も考慮して、事前の備えを打たなければならないのでしょうね。

考えることがありすぎます。タイのことを心配する以前にまずは日本は大丈夫なのか、それよりもまず、来週に迫ったワークショップの自分の中間発表は大丈夫なのか、が心配です。いえ、全然大丈夫ではないです。昨日完全にダメ出しされてしまいました。あと1週間で何とかしなければなりません。

しかしやはりそんなことよりも、もう連絡を取っていないとはいえ、一緒に仕事をしたタイの人たちを思い出して、大事にならないことを本心から願っています。

徒然なるままに

2006-09-16 10:48:21 | 人事組織のハナシ(学級委員長)
今週の水曜日、確かHMBAの1次試験が行われたように思います。相変わらず平日に1次試験をやってしまうこの感覚が、社会人学生からするとあり得ないわけなんですが。それでも最近の2次試験は日曜日にやるようになったようです。昔は両方平日でしたから、どうやって休みをとるか苦心された方も多かったと思います。私なぞ、絶対に2週続けて同じ曜日に休みが取れないんで「辞めます」とか先に会社に言ってしまった人ですから。まぁ、学校側にも色々事情があることは分かりますが、ビジネススクールのマーケティング感覚がこの程度というのは寂しい気もします。

寂しいといえば、このブログも寂しくなってきました。続けるって難しいですね。特に「何のために」という意義の部分を明確にしないままやってきましたから、足並みが揃わないのも当然といえば当然でして。本来ならこうした受験前後の時期こそ、色々な情報を現役生の側から発信して判断の材料にでもしてもらえればよかったんですが。ご期待に沿えずに申し訳ないと思います。我らがMBAも実際は100人近い学生がいますから、1人が年間に記事を3~4本書けば毎日更新も可能なんですよね。それぐらいやれば集団でブログを書く意義も見出せるかもしれません。

さて、学校の方の様子をお知らせしますと、2年生は今月末の中間発表に向けて準備に追われています。もちろん、ワークショップ論文の中間発表です。一方、1年生は…。何しているんでしょうね。夏休み課題の締め切りがもうすぐだとかで学校で何人か見かけましたが。インターンに行っている人なんかもいるかもしれませんね。ちなみに私は昨年の今頃、カナダにいました。冬学期の授業は10月初週からです。

ということで、自分も研究を進めないと。頑張りたいです。

努力の方向

2006-09-15 10:08:25 | 戦略ってなに?(P&N)
こんにちは。P&Nです。 

今日の日本経済を支えているのは自動車産業といってもいいでしょう。1社で利益1兆円!? 売上1兆円でもすごいのに、「利益」ですか・・・。自動車産業の方々の努力や熱意が実った結果ではありますが、他の業界にいる人が、この成功物語をシンプルに自分の企業や産業にあてはめるだけでは不十分なように思います。

日本の自動車産業は戦後、国内市場の拡大、輸出の拡大、海外生産の拡大、と成長してきました。海外の消費者に日本車が受け入れられたのは、日本車が低燃費の小型車であったことが大きな理由だと言っていいと思います。ではなぜ日本の自動車メーカーが低燃費の小型車を作ろうとしたかといえば、まずは技術力が弱くいきなり大型車を作れなかった、消費者の所得も低くて小型車しか買えなかった、石油がなくガソリンが高く、低燃費でないと消費者に嫌がられたためだと思います。そのような中で1970年代のオイルショックで世界中で低燃費性能が注目され、海外でも日本車を望む消費者が増えていきました。

つまり「ないないづくし」の日本市場に対応しながら企業が能力を蓄積していたら、ある出来事をきっかけにその能力が長所として海外の消費者にも支持されることになった、というストーリーです。日本市場への対応努力が、相当程度そのまま海外での競争力につながったケースであるように思います。

では、日本市場の特徴に一生懸命対応して能力を蓄積していけば必ず海外でも成功するのか?というと、必ずしもそうとは言えないところが困るところです。

花王の「アタック」は箱を小型化し、家が狭い日本でヒットしました。でも広い家に住む海外の消費者にとっては、箱が小さくなっても日本の消費者ほどは嬉しくないでしょう。花王といえばヒット連発の超優良企業です。しかしBig3を脅かす自動車産業とは違い、花王の売上規模はP&Gの売上規模の5分の1程度(2004年)です。

プラスチック原材料を作る日本企業も日本の自動車メーカーや電機メーカーの要求に合わせて多くの品種を揃えて頑張ってきましたが、「そんなに使い分けないから少ない品種を大量生産して安くしてくれ」という海外ユーザーの希望に合わせた海外の化学メーカーの方が優勢なように見えます。

携帯電話も日本国内ではデザインや機能の競争が激しいですが、そのデザインや機能が海外の消費者から大人気か、というとそうでもないようです。

つまり、日本市場の特徴に一生懸命対応して能力を蓄積しても、それが海外での成功につながらないケースもあるようです。でもだからといって日本市場の特徴に一生懸命対応する努力を緩めたら、海外の企業にあっさり参入されてしまうかもしれません。

どの方向にどの程度力を入れて頑張るのか、今自社が専念している市場は長期的に自社にどんな影響をもたらすのか、自分の企業や業界の特徴を考え、頭を使って外部環境や世の中の流れも見極めなければならないようです。

少子化な時代

2006-09-09 11:10:46 | 人事組織のハナシ(学級委員長)
「少子化要因は育児世代の長時間労働」「1899年以来初、人口が自然減 」「厚労白書に初めて「働かせ方」 」「40歳以上の出産、2万人超える」。ネットのニュースにこんな記事が踊ります。

少子化対策。この文脈に乗ると、まず第1に考えられるのが「いかにして出生率を回復させるか」になります。そうすると労働環境の是正やら、行政の支援やらが浮かび上がってくるわけですが…。

「いかにして少子化に耐えうる社会を作るか」。これは、この間日経新聞の「やさしい経済学」の欄で紹介されていた少子化に関する記事に書かれていたことです。これも1つの考え方です。ある程度人口が減っても、経済規模を縮小すればむしろ豊かになる可能性も残ります。もちろん、社会インフラの問題や技術革新の問題など、これはこれで課題が残りますが。

さて、もっとミクロな視点から企業の人事的立場から考えるとどうでしょうか。企業自体は常に競争の渦中にありますので、単に社会的な貢献の為に競争力を犠牲にすることは出来ません。ですから優秀な能力を最大限効率的に利用するインセンティブを企業は常に持っています。優秀な人材にはできる限り長時間、高い成果を出し続けさせることが企業には有利ですし、それ以外の人材は出来る限り低コストに抑える分、長時間働かせて一定レベルの賃金を確保する。結局長時間労働のインセンティブは常に存在するわけです。

ここに中国のような成長著しい新興国があります。そこに日本に比べれば低賃金で、さらに猛烈に働く沢山の労働者がいたとします。今や世界的な競争ですから、こうした国とのグローバルな戦いは避けられません。当然、競争に勝つには賃金格差を上回る生産性を実現するか、賃金を下げて格差を埋めるか、彼ら以上に猛烈に働くか。生産性や付加価値の格差が縮まるほど、ここにも長時間労働へのインセンティブは存在することになります。

こうした必然ともいえる流れが、場当たり的な少子化対策で変わるわけもなく。だったら少子化を前提に社会を組み立てる必要もあるのかなと。ふと、そんなことを感じたのでした。

社会の中での多様な人々

2006-09-06 19:27:39 | 戦略ってなに?(P&N)
こんにちは。P&Nです。

8月のレポートで米国のアップル社のスティーブ・ジョブズ氏について調べました。その中で読んだ米国の人々の生き方に結構驚かされました。
学校を出たらできるだけ大きな会社に入る。思い切るといってもせいぜい転職。家族が定職を持たなかったりしたら青くなって心配する、という感覚ではないようです。

参考文献によれば、大学の助教授がその地位を「あくびもの」と考え、やりたい仕事を求めて放浪を始めたり、ハーバード大の卒業生がアップル社で働きたいばかりに受付係の仕事を受け入れたり、技術系の優秀な修士・博士が当たるかどうかわからないベンチャーで死ぬほど働いたり。

どうも彼らの感覚がわかりません。
そんなことしていて、あなたたちの人生設計(特にお金)は大丈夫なの? と聞いてみたい気がします。年金など、どういう仕組みになっているのでしょうか? が、結構大丈夫なのでしょうね。

そういえば昔会った人にもこんな人がいました。欧州で生まれた彼は、米国の大学を出て、日本の大学院で経済学の修士号を取り、日本の高校で英語会話教師として働き、ある日、インドネシアでボランティアをする、といって出かけたきり、連絡がありません。

個々人の生活は(特に老後)大丈夫なのか、と勝手に心配してしまいますが、社会全体としては、そういう人生を通じていろいろな経験をしている人がいるのも、大きな資産だと思います。次の仕事を探す放浪中にいろいろな人と出会って視野を広げたり、海外をブラブラする中でガイドブックにはない現地の実体を知ることができたり。本人もあせるかもしれないし、周囲はもっとやきもきするでしょうけれども。でもそういう人の中から、大きなイノベーションを起す人が事実出てきているわけです。

どうも彼らみたいに思い切った、泰然自若(?)とした発想になりきれず、ささいなことを心配してしまう自分が悲しいところです。

参考文献
ジェフリー・S・ヤング ウィイリアム・L・サイモン 井口耕二訳「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」 東洋経済新報社 2005 
アラン・デウッチマン 大谷和利訳「スティーブ・ジョブズの再臨」 毎日コミュニケーションズ 2001