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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

ハルビン 革新街電楼 - 1930年代の変電設備

2018-03-15 | 東北を歩く
2015年秋にハルビンの中山路を歩いていたとき、いかにも古そうなコンクリート製の塔を見かけました。


これは何でしょうか?

パネルの説明書きによると、この塔は日本殖民時代の変電所だそうです。
高さが約7メートルあります。
1930年代の建設です。

当時のハルビンの街中には、このような変電塔がたくさん建っていたそうです。
送電設備の建設には日本の技術を導入したのでしょうか。

今は最新型の箱形変電設備によって処理が行われていますので、変電塔は役目を終え、ほとんどが撤去されたようです。

ハルビンの近代の歴史的遺構ということでこの1本を残しているようです。

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丹東 鴨緑江断橋

2017-03-25 | 東北を歩く
帰国前に中朝国境の街、丹東に行ってみました。

丹東の名所といえば、鴨緑江断橋です。


鴨緑江断橋は1909年に建設された鉄道用のトラス橋です。

中国と北朝鮮の国境である鴨緑江に京義線の「鴨緑江橋梁」として建設されました。
建設を担ったのは日本駐鮮総督府鉄道局です。





この橋は、船舶が通行できるように中央部が旋回する可動橋だったそうです。
日本国内の可動橋といえば、日露戦争の戦勝を記念して建設された隅田川の勝鬨橋(1940年)が有名ですが、それより30年も前に海の向こうで完成させていたことになります。





橋梁は朝鮮戦争中の1950年11月8日、国連軍による爆撃によって橋梁の中央部から北朝鮮側までが破壊されました。その後も歴史的建造物として保存されています。

現在、中国と北朝鮮との往来の役割を果たしているのは、断橋のすぐ隣に掛けられた中朝友誼橋です。


左側の橋が中朝友誼橋です。





この橋は、鴨緑江第二橋梁として1943年に完成しました。こちらも日本による建設です。


橋の向こうは北朝鮮の新義州市です。

北朝鮮では大きな街のひとつに数えられるようですが、高層の建築物は見当たりません。
橋の袂に遊園地があるのか観覧車の姿が見えますが、動いていないようです。

近代化が進み、高層ビルが林立する丹東市内に対して、荒涼とした雰囲気が伝わってくる川向こうの景色とのコントラスト・・・。これが日本では決して感じることのできない「国境」の風景です。


地元のビールのラベルにも断橋が描かれていました。
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ハルビン 旧東清鉄道幹部師宿舎

2017-01-10 | 東北を歩く
ハルビンの旧東清鉄道本社(現ハルビン鉄路局)の向かい一帯には、東清鉄道の宿舎として利用されていた老建築がたくさん残っています。


この建物は、そのうちの一つです。東清鉄道の幹部用宿舎だったようです。

1908年の建築だそうです。

ハルビンの典型的なアール・ヌーヴォー様式と説明されています。


最近までレストランとして利用されていたようですが、今は営業していないようです。

レンガと木材を組み合わせて造られたようですが、100年以上経っているにもかかわらず、よくぞ風雪に耐えて姿を留めているものだと思います。


ハルビン市の歴史建築に指定されていました。
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虎山長城 – 万里の長城の最東端

2016-12-31 | 東北を歩く
万里の長城の最東端に行ってみました。


丹東の虎山長城です。

丹東市内から北に約20キロ、北朝鮮との国境に建っています。
明の時代である15世紀後半から造営が始まったそうです。






城壁の上を頂上に向けて歩くと、南側の眼下に北朝鮮の荒涼とした景色が広がります。


急勾配の階段を登り切ると、約150メートルの頂上に到達します。


手前の川が国境です。向こう側は北朝鮮です。


頂上に到着しました。


丹東市内方向。川の左側が北朝鮮、右側が中国です。


川の左側が中国。右側が北朝鮮です。

北朝鮮側では、収穫が終わったばかりと思われるトウモロコシ畑で北朝鮮の農民と思われる人物が作業をしています。

よくぞ、什器などなかった古い時代に、急峻な山上にこんな建造物を作ったものだと思います。
どのように石積みを行ったのでしょうか。

僕はこれまで、北京の八達嶺、甘粛省の嘉峪関などいくつか長城の遺構を見てきました。

車両での移動中にも山の上の長城を見かけることがあります。しかし、これらとてごく一部に過ぎません。中国の広さには舌を巻きます。

保存状態がよく、建築から550年もの年月が経過しているとは思えません。

調べてみると、虎山長城は1990年代から修復が始まったそうです。それなら納得です。
今は造営当時の姿とは違っているかもしれません。


この部分は修復されていないらしく、老朽化がうかがえます。




もちろん世界遺産です。




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丹東 鴨緑江戦績 - 日露戦争初の本格的陸上戦の地

2016-12-10 | 東北を歩く
丹東に残る日露戦績をご紹介します。

丹東の九連城に、「日本山」と呼ばれる小山があります。

この山の頂上に、日露戦争の「鴨緑江の戦い」(1904年4月〜5月)の勝利を記念して建てられた石碑があります。


こんな山道を登ると・・・


石碑が見えてきます。







「鴨緑江の戦い」は、日露戦争の序盤である1904年4月下旬、朝鮮半島を北上してきた帝国陸軍第一軍が鴨緑江に橋を架けて渡河し、満州へ向かう途中で、待機していた帝政ロシア軍との間で起こった会戦です。

日露戦争で初めて行われた本格的な陸上戦です。

会戦は5月1日、日本側が一帯の占領に成功して幕を閉じます。
第一軍はその後、遼陽を目指して大陸を北上します。一方、遼東半島の攻略は第二軍が担いました。

石碑のある日本山の頂上一帯は過去に公園のように整備された形跡がありましたが、今は管理されておらず、風化が進んでいました。


この石碑は1916年(大正5年)に満州戦績保存会が建設したものです。ちょうど100年前です。

裏面の石版には次のような文字が刻まれています。





第一軍ハ初韓国西北部二行動シ、明治三十七年四月下旬義州附近ニ開進シ、鴨緑江右岸ノ敵ヲ攻撃ス。
軍艦摩耶・宇治及水雷艇装砲汽船各二隻、龍巌浦ニ在リテ之二協力ス。
三十日、第十二師団ハ水口鎮附近ヨリ、第二師団及近衛師団ハ九里島附近ヨリ鴨緑江ヲ渡リ、五月一日、軍司令官黒木大将ハ九龍山ニ進ミ、第十二師団ヲ右翼二、近衛師団ヲ中央ニ、第二師団ヲ左翼ニ配置シ、靉河を隔テテ展開ス。
尋テ梧桐林子附近ヨリ馬溝ヲ経テ九連城ニ至ル一帯ノ敵地ヲ攻略シ、第十二及近衛師団ハ蛤蟆塘河ノ線ニ、第二師団ハ安東県ニ向ヒテ追撃シ、敵ノ大部ハ鳳凰城方向ニ潰走ス。
実ニ明治三十七・八年戦役ニ於ケル陸戦ノ第一回ナリ。
陸軍大将伯爵黒木為楨碑名ヲ書ス
大正五年十月 満洲戦蹟保存会



眼下には鴨緑江を隔てて北朝鮮側の景色が目に入ってきます。

1年近くにわたって苛烈を極めた日露戦争の陸上戦は、この地から始まったのです。

この日記でご紹介してきた日露戦績は「旅順攻囲戦」の旅順や「南山の戦い」の金州ばかりでしたが、ここが起点ということになります。

帰国前に訪問できてよかったと思います。


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マンホール蓋 - 奉天市公署

2016-10-28 | 東北を歩く
瀋陽市内を歩いていたときに見かけたマンホール蓋です。


大連ではみかけないタイプです。

これは、奉天市公署のマークのようです。

奉天市公署は、満洲国設立を受けて1931年に設立された行政機関です。
市役所のような役目を果たしていたものと思われます。

おそらく、この蓋は1930年代に設置されたものでしょう。


こんな蓋もありました。「S」の文字がありますので下水用のようです。

これも満州国時代のもののようですが、この「✖」は何のマークでしょうか?
「✖」は交番の地図記号ですが、まさか交番が下水の管理はしないでしょうし・・・。

どなたか情報をお持ちの方、ご一報ください。
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旧ホテルニューハルビン - ハルビンを代表するクラシックホテル

2016-09-16 | 東北を歩く
旧ホテルニューハルビンは、日本の雰囲気が残るクラシックホテルです。


ジオメトリックなアール・デコ建築です。


1937年6月に竣工、開業しました。設計者はロシア人です。


当時の写真が残っています。


「満洲概観」1938年版ではこのように紹介されています。

開業当時は「近藤林業公司」という日本人の会社が経営していたそうです。

近藤林業公司は、旧満州国を代表する林業会社で、創業者の近藤繁司氏はロシア文化の造詣が深く、ハルビン材木商組合長なども務めたという記録が残っています。

ホテル1階には近藤林業公司の社長室もあったそうです。

旧ホテルニューハルビンは、ハルビンを代表する高級ホテルとして、内外の多くの客を受け入れてきました。
毛沢東や周恩来もここに宿泊したそうです。


ホテル内部です。2階から5階まで吹き抜けになっています。

ハルビン市第一類保護建築に指定されています。

今も哈爾濱国際飯店として現役で活躍中です。
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長春 旧満州国国務院総理官邸

2016-08-17 | 東北を歩く
旧満州国時代の国務院総理官邸です。


(かなり広い庭があります)

今は人民解放軍八一招待所になっています。

満州国の国務院総理ですから、鄭孝胥と張景恵の2人が暮らした家ということになります。


(当時の写真です)


(今の姿。同じような角度から撮ったつもりです)

当時の写真と比べると、今は大きく成長した柳の木が建物を覆っていて全体が見えませんが、却って神秘的な雰囲気を出しているようにも思えます。

立ち入り禁止とは書かれていませんが、入っていいのでしょうか?
ホテルですから大丈夫だとは思うのですが、看板を見て躊躇してしまい、止めておきました。
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承徳 避暑山荘 - 清の皇帝たちが夏を過ごした離宮

2016-08-03 | 東北を歩く

避暑山荘は、河北省承徳市にある清朝の皇帝たちが夏を過ごした離宮です。

周囲の城壁は10キロメートル、総面積5460平方キロメートルと広大な敷地を有しています。
現存する皇室庭園としては、世界最大だそうです。


1703年に康熙帝(第4代皇帝)が造成を開始し、1792年、乾隆帝(第6代清)の時代に完成したのだとか。


内午門に掲げられた「避暑山荘」の扁額。金箔で書かれています


清王朝を象徴する竜のレリーフが随所に見られます。

承徳は高原で季候がよく、自然が豊かで景観も優れ、温泉もあったので、この地が選ばれたそうです。

歴代皇帝たちは、夏場になると涼しいこの地で政務を執りました。つまり当時、承徳は清の第二の都だったわけです。

山荘は、宮殿エリアに苑景エリアに大分されます。


宮殿エリアです。


荘厳な佇まいを今に伝えます。


庭園エリアは風光明媚な景色が広がります。

蘇州や杭州など江南地方の庭園を参考に造営されたそうです。たしかに江南らしい景観が広がります。


いかにも江南の庭園様式です。

杭州の西湖を思わせます。
ちょっと懐かしい気分になります。


これも江南風です。


訪問したのは6月です。蓮の花が咲く直前でした。

敷地のほとんどは苑景エリアです。

それにしても、当時の中国の建築や造園の技術には舌を巻きます。


樹木と水面と雨粒の調和が静かに美しさを演出します。


有名な熱河泉です。今も滾々と泉が湧き出ています。


この地方の旧称「熱河省」は、この熱河泉から採られました。

300年も前に、よくぞこれだけ大規模で優美な離宮を作り上げたものだと思います。
相当な資金と労力が投入されたことは想像に難くなく、清王朝の力がどれほどのものだったのかが偲ばれます。

万里の長城を見た時に湧き上がってくるのと同じ感想です。

避暑山荘は、1994年、世界文化遺産に登録されています。




人工池の中に建造物。なんとも優美です。


礎石が残っています。ここには何が建っていたのでしょうか。

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旧満洲土木建築業協会ハルビン支部

2016-07-24 | 東北を歩く
ハルビンを歩いているときに見かけた歴史建築です。



ハルビンの老建築といえば多くがロシア風ですが、これは違うようです。
ロシアを感じさせません。


(こんな説明書きがありました)

玄関近くに掲げられたパネルによると、「満洲土木建築業協会ハルビン支部」とあります。
1936年の建築だそうです。

つまり、これは満州国時代に日本人が手掛けた建築物と思われます。

満洲土木建築業協会とはどんな組織だったのでしょうか?
1920年代から終戦にかけて存在した旧満州国における日系土木建築業者の業界団体だったと推測されます。
本部は新京(長春)にあったようです。

1936年の新聞には、

「満洲土建協会と日満土建協会は会員の重複を避け、冗費をはぶく意味をもって合併され、満洲土木建築業協会となり、真に満洲における統一団体として、第二次建設期に入った満洲経済界の躍進に対応して立った」

と紹介されています。

別の文献では、榊谷仙次郎という人物が1928年からこの協会の理事長を務めたとも紹介されています。

建設ラッシュに沸いたと思われる当時は様々な業界団体が存在し、利害があったことが窺われます。
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承徳 - 大叔父の71年目の初参り(3)

2016-07-14 | 東北を歩く
大叔父の71年目のお参りの続きです。

承徳で慰霊を果たした後、職場に休みをもらい、一時帰国してきました。

今回は東京だけでなく、九州の実家にも戻ります。
1年半ぶりの帰省です。


(僕と大叔父の故郷はこんな場所です)

まずは、承徳の写真と、松の木の下で拾った石ころを持って、大叔父の姉妹である大叔母3人に報告に回りました。



幸いなことに、大叔母3人はいずれも僕の実家から徒歩圏内に住んでおり、この年になっても認知症を患うこともなく元気に暮らしています。

1年半ぶりに再会した3人は、それぞれ感慨深げに写真と石ころを眺め、71年越しの慰霊が実現できたことを喜んでくれました。

「そうかそうか、おまえが行ってくれたか。ありがとう。本当にありがとう」

そんな言葉を掛けてくれました。

さて、次は大叔父の墓参りです。

線香を持って大叔父の墓がある共同墓地に出掛けました。
大叔父は未婚のまま他界したので、祖母の実家の墓に眠っています。ここも実家から徒歩圏内です。

墓石の下の隅に、承徳から持ち帰った4つの石ころを供え、線香を焚いて手を合わせました。



今頃、天国の大叔父はどんな思いなのでしょうか。

これでようやく故郷に帰ってくることができた、と感じてくれているでしょうか。
手紙を大事に保管していた祖母はどうでしょうか。

5メートル離れている祖母の墓の前でも心の声で報告します。

「おじさん、ばあちゃん、これでいいかな・・・」

心の中で天国の2人に問いかけてみます。
もちろん、返事はありません。
大叔父や祖母が満足してくれているかはわかりません。

それでも、できることはやりました。

あと、僕がやるべきことは、大叔父の存在を忘れることなく、因縁の地となった大連での務めをしっかりと果たし、無事に帰国することなのだと考えることにしました。

大連最後の夏に、ようやく承徳への初参りを果たすことができました。


これらの故郷の景色は、大叔父の時代から変わっていないと思います。

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承徳 - 大叔父の71年目の初参り(2)

2016-07-13 | 東北を歩く

昨日の続きです。

大叔父が眠る承徳へのお参り旅の記録です。

6月のとある週末の18時、大連駅北口のバスターミナルから承徳行きの夜行バスに乗り込んで出発しました。まだ明るい時間です。

満席のバスは、遼東半島から渤海を回り込むように西に向かいます。

途中で数回の休憩を挟み、翌朝8時に承徳バスターミナルに到着しました。
実に14時間のロングドライブでした。季節柄、乗客の体臭が充満する車内はなかなか苦痛でした。
しかし、かつて大叔父が体験した苦労に比べれば、こんなものはまったく苦労とは言えないでしょう。

バスを降りて、大きく息を吸い込みます。大連とは違う湿った感じのする空気です。
到着した承徳は雨模様でした。バスターミナルの売店で傘を購入します。

承徳は燕山山脈の中腹に当たる高原地帯です。
周囲を山に囲まれ、武烈川の流れを湛え、緑豊かな美しい景色が広がります。高原なので、この季節でも幾分肌寒さを感じます。



市の中心を流れる武烈河です。



長距離バスターミナルから市の中心部に向かう路線バスに乗り換えました。
バスの車内から周囲をうかがうと、松らしき木は見当たりません。市内ではなく山間部には自生しているのでしょうか。

市内に入りバスを降りました。傘を差しながら雨の承徳市街地をそぞろ歩きます。





大叔父は、この地で何を思い、どのような生活を送ったのでしょうか。

故郷九州のなだらかで丸みを帯びた山並みに比べると、燕山の山々はいくぶん鋭角的でゴツゴツした印象を受けます。

大叔父に、この山並みはどのように映ったでしょうか。



承徳駅です。大叔父も鉄道を利用したのでしょうか。





1930年代の承徳の街並みです。



当時の市内の街角でははこんな光景があったようです。

歩いているうち、承徳を代表する名勝である避暑山荘の入口が見えてきたので、入場してみました。

清の時代の皇帝たちが夏場を過ごした離宮です。世界遺産です。

避暑山荘の広大な敷地内には、松の大木をたくさん見かけました。



この立派な松は樹齢300年を越えていると思われます。





やはり、承徳に古い松がたくさんありました。

そう考えると、大叔父が眠る松の木も、まだ残っているのかもしれません。

とはいえ、これだけ広い承徳市内でその1本を探し当てるのは不可能です。なにしろ、特定に至る手掛かりは「承徳の大きな松の木の根っこ」しかないのです。

通りすがらに見かけた大きめの1本を、それに見立てることにしました。

松の木の下に屈み込み、頭を垂れ、手を合わせて目を瞑ります。
終戦から71年越しの初参りです。

「おいちゃん、待たせたね・・・。僕はあなたが手紙を書いたH姉さんの孫だよ。知らんと思うけど。さぞ苦しかっただろうね・・・。どうかどうか、安らかにね」

しばし、静かに祈りを捧げます。

空からは冷たい雨が降り続いています。

祈りを終えると、松の木の下にあった小さめの石ころを4つ選んで、ポケットに入れました。

時計を見ると、昼を過ぎていました。腹が減ってきました。

適当な食堂に入って簡単に食事を済ませると、バスターミナルに戻り、北京行きの長距離バスに乗り込みました。

承徳での滞在時間は約6時間でした。

ポケットにしたためた石ころを確認して、承徳の街を離れました。再びバスに揺られます。

今度は、帰国してこの石ころを九州の大叔父の墓に供えようと思います。

続きは明日の日記でご報告します。

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承徳 - 大叔父の71年目の初参り(1)

2016-07-12 | 東北を歩く
河北省の承徳に行ってきました。

目的は、71年前に承徳で戦死した大叔父の弔いです。
大叔父は、1945年9月12日に命を落としました。わずか21歳でした。

我が家に残る悲劇の戦争エピソードをご紹介します。

大叔父は、1924年生まれです。
存命であれば、今年92歳です。

僕の父方の祖母の弟に当たります。
大叔父は、九州の片田舎の農家の長男として生まれました。7人きょうだいの5番目で、唯一の男でした。
このため、大叔父は幼少時代から家族の一身の期待を集めたそうです。

ほかの姉妹たちが「百姓に学問は必要ない」という理由から中等教育機関への進学を果たせない中、大叔父だけは地元の有力な工業高校に進学し、薬剤師の資格を得ました。
姉妹たちは働いて学費を調達し、大叔父の学習を支えました。
大叔父は真面目で素直、誠実な人物だったそうです。

大叔父は高校卒業後、大連に渡って南満州瓦斯株式会社(2015年2月24日の日記)に入社します。
なぜ大連で働くことになったのか、どのような経緯があったのかはわかりません。


大連の旧南満州瓦斯株式会社本店。当時の建物が今も残っています。

我が家に、大連駐在中の大叔父が僕の祖母(大叔父の姉)に宛てた手紙が残っています。
消印が読み取れないのですが、おそらく1941年前後に書かれたものと思われます。

こんな内容です(カッコ内は僕の注釈です)。

拝復本日御手紙拝見致し誠に有難ふ御座居ました。
御家族一同大元気にて暮らし由何より嬉しく思ふ次第であります。降つて小生も大元気にて毎日通勤致して居ります故御安心下さいませ。
前日は色々と御心配を掛け誠に面目次第も御座居ません。色々とお父さんより聞かれた事と思います。
今度こそは立派に努力をし石にかじりつかうが如何なる苦労が自分に乗りかかろうが乗り切り成功して見せます。
自分も今迄は男一人で暴れ腕白で育ちて来た結果こんな事になったものと思います。自分がもう少し引き締まって暮らして居たら今度の事は無かったかもわかりませんでした。これも皆自分が悪いのです。勘弁して下さいね姉上様(注:この記述ぶりから、大連での就職は不本意なものであり、制裁的な意味合いがあったことが窺えますが、何があったのかは不明です)。お願い致します。
自分も外へ出て始めて父母兄弟の恩と云うものがわかりました。自宅でM子姉(注:長姉)やT姉(注:3番目の姉)が口癖のように言って居た、目から汗が出ると云ふ事を初めて味わいました。それから社会と云ふ所の複雑さがわかりました。
今度こそは肝玉を大きく持って生活してお金を貯めて見せます。
それからT姉から届いた手紙には父が病気で仕事も出来ぬとか心配です。代々身体の弱い父、自分の事で病気になったのでは無いでせうか。自分程親不孝者は無いですね。おお実につまらない事をした(注:何をしてしまったのかは不明です)。
母はどうでせうか、これも病気にならなければ良いですがね。母あて手紙を出したいのですが字の読めぬ母の不自由さ、自分で読んで初めてわかる手紙の内容、母もよほど自分の事に心配致して居られる事でせう。
A君も国民学校一年に入学した事でせうね。Y秋(注:甥、手紙の受け取り主である姉の長男、僕の父)も大きくなることでせう。SとY彦(注:祖母の次男)はやはり競いをして遊ぶことでせう。T兄(注:義兄)さんは元気で軍務に励んでおられることでせう。Y重(注:妹)もT津(注:末の妹)も優秀な成績を修得したとか。何卒お導きを下さる様お願い致します。
今夜はこれにて筆を止めませう。皆様にくれぐれもよろしく。子供大切に。身体あっての今日、身体に気を付けて無理なきようお働き下さい。サヨウナラ。
   四月十八日夜
   弟ヨリ
H姉様

この手紙が見つかったのは数年前です。
2年前に他界した僕の祖母が弟の形見として大切に保管していたようです。
文面からは、大叔父が謙虚で家族思いの優しい人物だったことが窺えます。

しかし、「大連で努力して貯金をする」という誓いとは裏腹に、大叔父は戦況の悪化に伴い徴兵を受け、陸軍の兵隊として満洲戦線に駆り出されてしまいます。
おそらく関東軍の所属だったと思われますが、どの部隊に所属し、旧満州のどこで軍務に当たったのかは不明です。

そして、1945年9月12日、承徳にて非業の死を遂げます。

一方、戦争が終わったことで、九州の家族たちは大叔父の帰国を心待ちにするようになります。
なにしろ、手塩にかけて育てた貴重な若い男手です。
学歴や経験を生かして疲弊した家族の生活を救ってくれると期待したそうです。
当時、九州には続々と兵隊たちが戦地から引き揚げてきたので、姉妹たちは大叔父も帰ってくるに違いないと信じ、汽車が最寄り駅に到着する時間になると毎日のように駅まで出迎えに行ったそうです。

しかし、いつになっても大叔父は姿を見せません。
家族は、1945年8月に旧満州で起きていたソ連侵攻の悲劇を知らなかったのです。

そんなある日、我が家に大叔父が所属した陸軍の元同僚兵士を名乗る人物が現れます。
元同僚兵士は、故郷である鹿児島に戻る引き揚げの途中で立ち寄ったのだそうです。

そこで、元同僚兵士は大叔父が承徳で無念の死を遂げたという事実を告げます。
そのときの家族の驚きと落ち込みぶりは、想像に難くありません。

元同僚兵士の話によると、大叔父を含む部隊は戦争が終わり、武装解除されたという事実を知らず、8月15日以降も抗戦を続けていたのだそうです。
抗戦を続けていた部隊の物資は底をつき、補給経路も失われていました。大叔父は同僚の兵士たちに食料を譲り続けたため、最後は栄養失調で力尽きたのだそうです。
大叔父の死後、元同僚兵士は、大叔父の亡骸を承徳市内の大きな松の木の根っこに埋葬したそうです。

元同僚兵士は、家族に対して在りし日の大叔父の様子を一頻り語った後、自分は埋葬した場所をしっかり記憶しているので、将来国交が回復して自由に中国に渡航できるようになったら必ず自分が遺族を承徳の埋葬場所に連れていく、ということも約束したそうです。
しかし、その元同僚兵士は早世してしまい、遺族の渡航が実現することはありませんでした。

現在、九州に大叔父の墓はありますが、遺骨はありません。
中国大陸から持ち帰られた遺品は、元同僚兵士が辛うじてポケットに忍ばせた印鑑ひとつだけです。

僕の祖母姉妹たちは、いつか承徳に赴いて慰霊を行うことを望んでいたようですが、叶うことはありませんでした。代わりに、毎年地元で開催される戦没者慰霊祭などに出席し、お参りを続けてきました。


(九州の地元の戦没者慰霊碑です。大叔父はここに祀られています)

現在、この7人きょうだいで健在なのは、四女(93歳)、五女(89歳)、六女(85歳)の3人のみです。僕の祖母(次女)は2年前に逝去し、三女も今年の初めに他界しています。

僕は、大連への着任が決まって以来、大叔父との不思議な縁を感じ続けてきました。
大叔父と同じ大連に駐在した以上、一度は承徳に赴き親族を代表してお参りをしなければならないと考えてきました。
遅くなりましたが、今回、ようやく実行に移しました。

承徳への訪問日記は、明日ご紹介します。
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旧ハルビンヤマトホテル

2016-06-16 | 東北を歩く
ハルビン駅の向かいに建つ龍門貴賓楼酒店は、旧ハルビンヤマトホテルです。



今もハルビン随一のクラシックホテルとして現役で活躍中です。





もともとは1903年、中東鉄路ホテルとして建築されました。ハルビン初の豪華ホテルだったそうです。
時期は不明ですが、在ハルビンロシア総領事館として利用された時期もあったそうです。

その後、日露戦争が勃発すると帝政ロシア軍司令部として利用され、その後は中東鉄路公司理事会となりました。
満州事変が起きるまではここが中東鉄路の拠点であり、ハルビン市行政の中心でした。







1935年、ソ連が中東鉄路および一部支線を満州国に売り渡すと、中東鉄路公司理事会も解散されます。

その後満鉄による改築が行われ、1936年にヤマトホテルとして開業しました。
当時、客室は56で、大食堂、中食堂、小食堂、グリルルームと4つの食堂があったそうです。

ヤマトホテルとしての利用時期は、10年もなかったことになります。

重厚で落ち着いた雰囲気が、当時の高級ホテルの趣を伝えています。




ロビーには、ヤマトホテル開業時の資料が展示されていました。
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長春 旧横浜正金銀行新京支店

2016-04-08 | 東北を歩く
旧横浜正金銀行新京支店は、長春駅にほど近い勝利大街に残っています。

1920年の建築です。


(正面に配された4本のイオニア式オーダーが目を引きます)


(現役だった頃の古写真が残っています。日の丸が掲揚されています)

旧横浜正金銀行といえば、大連や上海にも歴史建築として残っていますね。

当時は中国の各地で外国為替業務を担っていました。
資料によると、中国に21か所存在していたそうです。
すごいですね。

この建物の興味深いところは、玄関の「横濱正金銀行」という社名表示が当時のまま残っているという点です。


(いかがでしょう?)

たいてい、建物は残しても当時の看板類は撤去されていますので、非常に珍しいと言えます。

今は雑技場として利用されていますが、来場者はこの「横濱正金銀行」を見てどのように感じるのでしょうか。
やはり興味深いですね。


(長春市の文物保護単位に指定されています)
コメント (1)
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