丹東に残る日露戦績をご紹介します。
丹東の九連城に、「日本山」と呼ばれる小山があります。
この山の頂上に、日露戦争の「鴨緑江の戦い」(1904年4月〜5月)の勝利を記念して建てられた石碑があります。

こんな山道を登ると・・・

石碑が見えてきます。



「鴨緑江の戦い」は、日露戦争の序盤である1904年4月下旬、朝鮮半島を北上してきた帝国陸軍第一軍が鴨緑江に橋を架けて渡河し、満州へ向かう途中で、待機していた帝政ロシア軍との間で起こった会戦です。
日露戦争で初めて行われた本格的な陸上戦です。
会戦は5月1日、日本側が一帯の占領に成功して幕を閉じます。
第一軍はその後、遼陽を目指して大陸を北上します。一方、遼東半島の攻略は第二軍が担いました。
石碑のある日本山の頂上一帯は過去に公園のように整備された形跡がありましたが、今は管理されておらず、風化が進んでいました。

この石碑は1916年(大正5年)に満州戦績保存会が建設したものです。ちょうど100年前です。
裏面の石版には次のような文字が刻まれています。


第一軍ハ初韓国西北部二行動シ、明治三十七年四月下旬義州附近ニ開進シ、鴨緑江右岸ノ敵ヲ攻撃ス。
軍艦摩耶・宇治及水雷艇装砲汽船各二隻、龍巌浦ニ在リテ之二協力ス。
三十日、第十二師団ハ水口鎮附近ヨリ、第二師団及近衛師団ハ九里島附近ヨリ鴨緑江ヲ渡リ、五月一日、軍司令官黒木大将ハ九龍山ニ進ミ、第十二師団ヲ右翼二、近衛師団ヲ中央ニ、第二師団ヲ左翼ニ配置シ、靉河を隔テテ展開ス。
尋テ梧桐林子附近ヨリ馬溝ヲ経テ九連城ニ至ル一帯ノ敵地ヲ攻略シ、第十二及近衛師団ハ蛤蟆塘河ノ線ニ、第二師団ハ安東県ニ向ヒテ追撃シ、敵ノ大部ハ鳳凰城方向ニ潰走ス。
実ニ明治三十七・八年戦役ニ於ケル陸戦ノ第一回ナリ。
陸軍大将伯爵黒木為楨碑名ヲ書ス
大正五年十月 満洲戦蹟保存会

眼下には鴨緑江を隔てて北朝鮮側の景色が目に入ってきます。
1年近くにわたって苛烈を極めた日露戦争の陸上戦は、この地から始まったのです。
この日記でご紹介してきた日露戦績は「旅順攻囲戦」の旅順や「南山の戦い」の金州ばかりでしたが、ここが起点ということになります。
帰国前に訪問できてよかったと思います。

丹東の九連城に、「日本山」と呼ばれる小山があります。
この山の頂上に、日露戦争の「鴨緑江の戦い」(1904年4月〜5月)の勝利を記念して建てられた石碑があります。

こんな山道を登ると・・・

石碑が見えてきます。



「鴨緑江の戦い」は、日露戦争の序盤である1904年4月下旬、朝鮮半島を北上してきた帝国陸軍第一軍が鴨緑江に橋を架けて渡河し、満州へ向かう途中で、待機していた帝政ロシア軍との間で起こった会戦です。
日露戦争で初めて行われた本格的な陸上戦です。
会戦は5月1日、日本側が一帯の占領に成功して幕を閉じます。
第一軍はその後、遼陽を目指して大陸を北上します。一方、遼東半島の攻略は第二軍が担いました。
石碑のある日本山の頂上一帯は過去に公園のように整備された形跡がありましたが、今は管理されておらず、風化が進んでいました。

この石碑は1916年(大正5年)に満州戦績保存会が建設したものです。ちょうど100年前です。
裏面の石版には次のような文字が刻まれています。


第一軍ハ初韓国西北部二行動シ、明治三十七年四月下旬義州附近ニ開進シ、鴨緑江右岸ノ敵ヲ攻撃ス。
軍艦摩耶・宇治及水雷艇装砲汽船各二隻、龍巌浦ニ在リテ之二協力ス。
三十日、第十二師団ハ水口鎮附近ヨリ、第二師団及近衛師団ハ九里島附近ヨリ鴨緑江ヲ渡リ、五月一日、軍司令官黒木大将ハ九龍山ニ進ミ、第十二師団ヲ右翼二、近衛師団ヲ中央ニ、第二師団ヲ左翼ニ配置シ、靉河を隔テテ展開ス。
尋テ梧桐林子附近ヨリ馬溝ヲ経テ九連城ニ至ル一帯ノ敵地ヲ攻略シ、第十二及近衛師団ハ蛤蟆塘河ノ線ニ、第二師団ハ安東県ニ向ヒテ追撃シ、敵ノ大部ハ鳳凰城方向ニ潰走ス。
実ニ明治三十七・八年戦役ニ於ケル陸戦ノ第一回ナリ。
陸軍大将伯爵黒木為楨碑名ヲ書ス
大正五年十月 満洲戦蹟保存会

眼下には鴨緑江を隔てて北朝鮮側の景色が目に入ってきます。
1年近くにわたって苛烈を極めた日露戦争の陸上戦は、この地から始まったのです。
この日記でご紹介してきた日露戦績は「旅順攻囲戦」の旅順や「南山の戦い」の金州ばかりでしたが、ここが起点ということになります。
帰国前に訪問できてよかったと思います。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます