ヤン・リシエツキ 聖なる子鬼のエチュード

2011-10-30 19:07:56 | 日記
ポーランド系カナダ人、ヤン・リシエツキのピアノリサイタルをオペラシティで聴いてきた。

ちょうど一年前に紀尾井ホールで聴いたときとは別人のよう。金髪の貴公子然としたたたずまいはさらに背が伸びて、時々びっくりするほど大人っぽく見えるし

技術面は元々申し分のないピアニストだが、何より演奏の、精神性の高さに感動した。内容がすごく豊かになった。

この一年で何があったのか…すごく成長している。

日本ではまだ無名に近いので、オペラシティの二階・三階席はほぼ無人状態。一階の左右と後ろもガラガラだ。

しかし、怠慢なベテランより、こういう演奏家こそ聴かれるべきだろう。大人の怠惰のすべてが後ろめたく思えるほど、渾身のエネルギーが感じられる演奏。

今回も、前半一時間を休みなくぶっ続け弾いていた。

バッハ、ベートーヴェン、リスト、メンデルスゾーン、一度も席を立たない。

そして、時代も様式も異なるそれらの作曲家の作品が、ひとつらなりの大きな音楽に聴こえたのは不思議なことだった。

これは選曲の段階で意図されたものでもあり、そこからさらに磨きをかけて完成された「雰囲気」なのだろう。

音色は多彩で、弱音の過激なほどの美しさは、去年の演奏会では聴けなかったもの。

自分のピアノの響きをよく聴いて、面白く音を重ねている。聴き手の注意を引き寄せる独特の引力をもつ音で、一時間のあいだ全く退屈しなかったのだ。

前半は、リストの「3つの演奏会用練習曲 S144」が、特によかった。

第一番「悲しみ」第二番「軽やかさ」第三番「溜め息」…とても流麗で上品、かつ内側に秘めたものを感じさせた。

彫りが深くて、大人の憂鬱さもあり、スピリチュアリティのようなものも含まれている。

そして後半。バッハの平均律クラヴィーアのあと、去年と同じショパンの作品25のエチュードを全曲弾いた。

なんと、これがとても色彩豊かで、ベルカントなエチュードであった。

リシエツキはポーランドの血をひいていることもあり、ショパンのマズルカやクラコヴィアクの拍の取り方が絶妙なのだが、

エチュードではジャズの楽しさを感じさせたり、多数の音をシンプルに聴かせる「歌曲のような」アプローチを強調していた。

去年と同じく、一曲一曲へのパワーの込め方は熾烈で、最後の10番ロ短調、11番木枯らし、12番大洋、は

聴いているこちらまでバラバラになりそうな、極限的なパフォーマンスであった。

そこまでやらないと、弾いた気がしないのだろう。

最後まで弾き切った後、またあっさり出てきて、おまけのワルツを弾き始めた。

なんだかとても飄々としている。


翌日、本人に会って色々な話を聴いたが、エチュードは演奏会ごとに生まれ変わる曲であって

二度と同じものはない、と語っていた。彼なりのコツがあり、演奏していても疲労感を感じることはないそうだ。

間近で様子を見ていると、まだ本当に10代の子どもなのだ。が、本当に強い性格をしていて

大人が子供扱いできないような、ストロングな「気」を出している。

なるほど。その点はもう「できあがっている」のだ。

ドイツ・グラモフォンからのデビュー作はモーツァルトの協奏曲の20番と21番。

リリースは2012年の春になるという。

「絶対この曲でデビューすると決めていたんだ! 」と嬉しそうな顔だった。

来年もまた、ちょうど一年後の10月にオペラシティでリサイタルを行う。

それでもまだ、17歳。

「大人もがんばろう。お酒なんか飲んでだらしなくなっている場合じゃない」と思うのでした。


※webマガジン「.fatale」のブログでも、リシエツキについて書いてみました。
さらに彼を分析してみました。

http://fatale.honeyee.com/blog/hodashima/archives/2011/10/31/16.html

神様の贈り物 エフゲニー・キーシン ピアノリサイタル

2011-10-11 01:57:25 | 日記
キーシンの魅力はミステリアスだ。
ピアノという楽器は非常にパーソナルな性格を持っているため、演奏家の性格的な強烈さや偏りといったものをダイレクトに映し出す。
ピアニストの魅力とは、しばしば「歪み」であったり「破綻」であったりする。
マシナリーでメカニカルな超越性を湛えたグールドや、極端に遅い演奏で延々と引き伸ばされた時間を創出するポゴレリチ、
音楽とはほぼ無縁かも知れない文学的な境地に出口を見出すヴァレリー・アファナシェフ…

ピアニストは「エキセントリックさ」が、大きな魅力になる。

しかし、キーシンはすべてが自然で、その音楽美は「個性」を超越している。
グールドのバッハやポゴレリチのショパン、アファナシェフのブラームスは
ピアニストの解釈が作曲家をのっとって突き出した、とても先端的なものだが
キーシンのショパンは、あくまでもショパンだ。
すべての和音やスケールは、ショパンに所属し、その宇宙で歓喜の叫びをあげている。
それでも、模範的でも中庸というのでもない。明らかな芸術的興奮を感じる演奏なのだ。

10/10のリサイタルは、当初バースデイ企画として、アルゲリッチも参加予定だったが
彼女が体調を崩して来日できなかったため、後半は丸々キーシンのソロになった。
前半のクニャーゼフとの共演は、シューマンの幻想曲集とラフマニノフのチェロ・ソナタ。
ラフマニノフに、特に心を打たれた。ロシア的な恍惚を炎のように歌い上げるクニャーゼフを
キーシンは的確に支えていた。ちょっとした「行き違い」が破綻に通じてしまうほど
ピアノとチェロが堅密に織り込まれた曲なのだが、キーシンは素晴らしいデリカシーで
弦楽器の「歌」を支え、気品のある世界を完成させていた。
二人の間の、言葉にならない深い信頼のようなものも、感じられた。

後半のショパンでは、たくさんのことを感じた。
ショパンのロ短調のピアノソナタ三番は、誰にも似ていないキーシンだけの音楽で
独特の優雅さに溢れている。
キーシンは、聴き手の期待する昂揚感がおとずれるタイミングより、ほんのわずかだけ「遅く」弾く。
ピアニストが明らかに興奮し、昂揚するようなシークエンスにさしかかると
キーシンはいっそうつつましくなる。ペダルは最小限になり、
絢爛たるスケールや分散和音は、とても「中立的」な音になる。
突出的になりやすい華やかな部分が、キーシンにおいては最も控え目に演奏されるのだ。

その時間感覚は、実に洗練されている。
こちらの先走る感情とシンクロせず、微細にズレることで、より大きな輪郭線を描くのがキーシンの方法だ。
それは巧みに仕組まれたものというより、むしろとても自然な印象をもたらす。
音楽は最初から最後まで、キーシンの手中にあり、大きなひとつの流れの中に組み込まれている。

三楽章のラルゴの美しさは絶品だった。
それだけでひとつの幻想曲のようで、清らかな源泉から溢れ出る川の流れを思わせる。
最後は、幾重にも滲んだ輪郭線が、ここではないどこかへと心を運んでいくかのようだった。
それらすべては魔法か催眠術のようで、とらえがたい精妙な美の法則に従っているのだ。

キーシンはカリスマでも曲芸師でもオカルティストでもない。
あえていえば詩人だが、その詩的言語はあらゆる重力やローカリティから逃れている。
キーシンは「ロシア的」でさえない。
この透明でありながら、確固とした音楽の様式には、毎度驚きを禁じ得ない。
これはもう、ありきたりの芸術家の自我を越えている。
神様からの贈り物としか思えないのだ。

40歳のバースデイ・コンサートはキーシンの初来日から四半世紀のメモリアルとも重なった。
15歳当時、彼は天使のような美少年だった。
聴衆からひたすら愛され続けて大人になった彼。
ミステリアスな演奏の、インスピレーションの源泉になっているものは、
本人にも説明がつかないのではないか?
あらためて、この世界にとってかけがえのない芸術家だと思った。

(10/23のリスト・プログラムも聴きにいく予定です)




世界は女で回っている バイエルン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」

2011-10-09 01:31:51 | 日記
昔昔、ほら穴に男と女が暮らしておりました。男は毎日狩りへ出かけ、女が獲物を料理していました。二人は幸せに暮らしておりました。
ある日、夜になっても男が帰ってこない。
女は三晩待ちました。七晩待ちました。そのあともえんえんと、男の帰りを待ちました。
時間は過ぎ…ある日ほら穴には、女と、別の男が暮らしておりました。

美味しいお料理とともに、このお話を聞かせてくれたのは、サンタ・マリア・ノヴェッラ代表のエミール山野さんだったが、女は太古からこのようなものであった、という象徴的な逸話である。

しかし、ある種の不寛容な男たちはこのことが許せない。
女は、愛する男を失ったら、男の影を追い続け、悲しみに溺れて死ぬべきだ。
それは単に「自分なきあとに、女が他の男のものになる」という事実が許せないだけなのかも。
「女はみんなそんなふう=男をのりかえる」という事実を、躍起になって証明したかった男は、台本化と悪だくみして偽悪的なオペラまで作った。
すなわちモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」。
ロココ精神は、女の本能と宿命を必死でおちょくり、復讐した。

「ぼくがいなくなったら、君も生きられないよね」
という男の執着心は、時代によって色々に描かれる。

「男」と「女」の関係は、「ロマン主義」と「音楽」の関係にも置き換えられるかもしれない。
ぼく=「ロマン主義」が消えてしまったら、きみ=「音楽」は生きられないよね?
しかし、音楽は生き続ける。女も生き続ける。
リヒャルト・シュトラウスが素晴らしいのは、いかにもそのことを楽しげに、魔術師の手さばきで描き切ってみせたことだ。

「ナクソス島のアリアドネ」」のシュツットガルト版(初版)が書かれたのは1911-1912年。前年には「ばらの騎士」が完成し、1911年にはグスタフ・マーラーが亡くなっている。後期ロマン派の象徴的人物がこの世から去り、ウィーンでは新しい潮流が台頭していた。
マーラーが、調性音楽の最後の偉人だった。
それ以後を生きなければならない音楽家たちは、意識的であればあるほどシリアスな袋小路に迷い込んだことだろう。
そんなときに、リヒャルト・シュトラウスは、実に知的で時代精神に富んだリアクションをした。
彼の音楽を聴いていると、こんな無意識の声を聞こえてくるようだ。
「神話も悲劇も終焉を迎えなければならない」「ロマン派の退廃美にも別れを告げなければならない」「しかし、それでも人間には確かに聖なる部分があるのだ」

劇中劇の体裁をもつ「ナクソス島…」では、女たち=ソプラノ歌手が大活躍をする。
作曲家も、女優も、女神も、主要な語り手は全員女性なのだ。
今回のバイエルンはロパート・カーセンの演出によるプロダクションだったが
実に、実に、実にリヒャルト・シュトラウスがの精神が生き生きと描かれていたと思う。
興行主から、作曲家と歌手たちに課されるお題は
「悲劇(セリア)と喜劇(ブッファ)を同時に(!)上演せよ」というもの。
すったもんだのドタバタの末、それは見事に上演される。

愛する唯一の男を失ったアリアドネは、死に焦がれ、繰り返し嘆き歌うが
まわりを見渡すと、自分そっくりの扮装をしたオッサン・アリアドネ(!)や
忍者ハットリ君のように増殖した分身アリアドネがうろついている。
小間使いデスピーナのように世間知にたけたツェルビネッタが
おっぱいをぷりぷりさせながらハイヒールで闊歩している。
舞台の上で並列されているのは、
「愛する男と殉死したい」というロマン派精神と
「筋肉ムキムキのいい男たちには我慢ができない」という女の本能。
カーセンは、黒ビキニパンツ一丁のイイ男たちまで舞台に登場させる。
「神様はなぜ、男を魅力あるものにおつくりになったの」というツェルビネッタの嘆きは、顔面蒼白なロマン主義をたちまち粉砕するファロス(笑劇)のカタストロフィに溢れている。

ところで、20世紀初頭、音楽からロマン派の危機を迎えた時代には、
さまざまな表現主義、アバンギャルドが台頭した。
劇中、音楽家(ソプラノ)が歌う歌詞に「もはや僕の旋律は世間を駆け抜けることはできない」というのがある。
そうなのだ。旋律が生きられず、口ずさまれることさえ忌々しく扱われたのが、作曲家がこのオペラを書いた時代だった(少なくともウィーンにおいては)。
シェーンベルクは12音音階の神殿を築き、ストラヴィンスキーは古代の旋律を野太く蘇生させ、復調のメロディーを書いていた時代。
そしてリヒャルト・シュトラウスの音楽は、ロマン派を超克していながら、とてもロマンティックなのだ。
カメレオンのように色彩を変えていく旋律には、明らかな陶酔がある。
「聖なるものを破壊せよ」と命じられても、このどうしようもないほど俗な人間たちの世界こそが、既に神聖なのだ、とでも言いたげだ。
「ナクソス島…」には、ジャズを感じさせるシークエンスさえ出てくる。
20世紀の、邪で生命力にあふれ、人懐こい聖性にあふれた素敵なもの、が
このオペラには全部入っているのだ。

セリアとブッファ、聖と俗、清らかな女と多情な女。これらは本当にひとつのものなのだ。
リヒャルト・シュトラウスが若くして(当時47歳)この境地に辿り着いたのは
悪妻パウリーネのお陰だ。ヒステリックでキンキン声のおしゃべりをやめない妻を相手に、結婚してすぐに、殉教者の顔つきになり、それでも
「かわゆきもの、それは妻」と寛大な愛を失わなかった。
この男は妻をモデルにしたオペラ「影のない女」まで書き上げたのだ。
女はかしましくも、聖なるものと通じている。
それは男の凍えた理想世界を軽々とのりこえるのだ。

ラストで、新しい男=バッカスに望まれ、愛し合おうとするアリアドネを見つめながら
「私たち女って、新しい神が現れるとすぐ愛しちゃうのよね」とおちゃめに言い放つ
ツェルビネッタを見て、リヒャルトの深すぎる懐に涙が出そうになった。

アリアドネ役のピエチョンカ、ツェルビネッタのファリーは好調で
(ファリーについては賛否両論あるみたいですが…よかったと思います)
それにもまして、音楽家役のクートが素晴らしい演技。
36人編成という小ぢんまりとしたオーケストラも機知に富み、表情豊かだった。
メシアンの「トゥーランガリラ」の名盤の記憶があるせいか、
ケント・ナガノは面白い鍵盤楽器が入るとますま生き生きとした音を作るような。
そしてドイツにとっての「劇場」の役割を、あらためて考えた。
オペラは、神聖なものと俗っぽいものをミックスして「今」に向けて放つ
びっくり箱のようなメディアなのだ。






神話と人間のあいだ バイエルン国立歌劇場「ローエングリン」

2011-10-06 00:49:00 | 日記
バイエルンの「ローエングリン」は、演出が素晴らしかった。演出家のリチャード・ジョーンズは男性だが、女性的なバランスのよさを感じる。理念ではなく、心理をとらえる洞察力が鋭い。

ワーグナー35歳の作曲。序曲からして陶酔的で、オーケストラもすばらしく重層的。いたるところに音楽的な見せどころがある。

とはいえ「ローエングリン」は何かがおかしいオペラで、それは世界の半分しか見ようとしていないワーグナーの精神的な偏りからくる。ある種の未熟さといってもいい(こう断じると、ワーグナーのオペラのほとんどがそうなるのだが)。

「白鳥の騎士伝説」をベースに、神話好き・英雄伝説好きのワーグナーが腕を揮った。高貴な血統をもつ者の物語は、繰り返し彼のオペラで描かれる。

ヴェルディも、歴史上の「高貴な」セレブリティを好んで描いた。が、それは「権力とは形骸に過ぎぬ」という成熟した頽廃感をもって描かれていて、最初から視点が洗練されていた。

ワーグナーは、「聖なる者」を本気で、ベタに描く。選ばれし者の聖性とヒロイズムを過剰に煽り立てる音楽は、当然ナチスの選民思想に利用された。

そのような20世紀を体験した人類は、ワーグナーに対して反省的な視点をもつべきなのだろう。もちろんそんなものは要らない、という人もいるだろうが…。

パルコンに並んだ四つのトリスタン・トランペットが輝かしい音を奏でる瞬間、私の中ではアラームが鳴る。

そこで、音楽の良さを救うための「演出」が必要になるのだとも思う。

ジョーンズが舞台の中央にもってきたのは、建築中の家だ。

序曲の間中、エルザはホワイトボードに向かって設計図を書いている。まるで技師のような格好をしていて、姫なのにオールインワン(オーバーオール?)を着ている。

エルザとブラバントの民の手によって、家は基礎から着々と作られていくのだが、三幕で完成したときには言いようのない感興が沸き起こる。

小市民的な「幸せ」を絵に描いたような、平凡な男と女のためのマイホームなのだ。

そこに色っぽい夕日が当たる。(照明デザインのミミ・ジョーダン・シェリンがいい仕事をしている)

その瞬間、エルザは夫となった白鳥の騎士に、禁句である「あなたの素性を知りたい」という問いかけをしてしまうのだ。

テルラムントやオルトルートの呪いのせいで、禁句を発してしまったのではない。とても人間的な本能から問うてしまったのだ。

結婚行進曲がしめやかに流れ、愛する男との「永遠」が見えた瞬間に、相手に秘密があることが耐えられなくなった。

新婚のテーブルや、においたつような木の壁が、そうさせたのだ。

そこで、聖なる騎士であるローエングリンの結婚願望をもあらわになる。彼も小さな幸せを望んでいて

断腸の想いで、家に火をつける。

神々の崇高さとは関係のない、人間的な願望を抱き、それに挫折したのだ。

リチャード・ジョーンズは、迂遠とも思えるほど朴訥なやり方で、神話的な登場人物を「ただの男と女」にしてしまう。

それは、ワーグナーの意図とは逆のことだったと思う。でも、いま必要な解釈のような気がした。

エルザの純真さ、民たちの素直な心が、あの新築の木造一戸建てにはあらわれていた。

白鳥の騎士を歌ったヨハン・ボータは、今年とうとう一度も顔を見せなかったヨナス・カウフマンの代役。ビヤ樽みたいな外見だが、ホールのすみずみまで満たす声は、豊かな海の潮流のようだった。

エルザ役のエミリー・マギーも素晴らしい。トスカなども歌うソプラノだが、ワーグナーでは静謐で芯の強い、清潔な高音を聴かせてくれた。

「オルトルート歌い」として右に出るものなしのワルトラウト・マイヤーは絶品。オペラに緊張感をもたらし、雷光のようなコントラストをもたらした。

ケント・ナガノの棒は、音楽の自然な流れを大切にした、悠久のときに通じるような大きな音楽を作る。オケが生き物のように感じられた。

逸脱的なものも含め、ワーグナーに「解釈」が加わるのは、時代の必然なのだと思う。優しさで四方を囲み、追い詰めて人の心の内奥をえぐりだしたこの演出は、実に納得のいくものだった。











エディタ・グルベローヴァ オペラ・引き返せない旅

2011-10-05 01:09:22 | 日記
ボローニャ熱さめやらぬまま、来日中のバイエルン国立歌劇場に足を運んでいる。
土日も通いづめ。正直、お金がもうない。
こうなったら三食バナナでも冷ごはんでもお湯でも何でもいいのだ。
なんとしても観たいと思うのは、オペラの上演というのが特別な時間だと思うから。
膨大な人間と、膨大な準備のための時間、心と身体のエネルギー、成功させるための情熱と善意が集結している。
三時間ほどの本番のために、ありとあらゆるクリエイティヴィティが集まり
観客とともに燃焼し、消えていく。
考えれば考えるほど、貴重で奇跡的な瞬間だ。

そこに、ソリストという大輪の花がトッピングされる。
ドニゼッティの「ロベルト・デヴェリュー」は、エディタ・グルベローヴァなしには成立しない。御年65歳。堂々たるものだ。昔のグルベローヴァを知らない私にとっては
今の彼女が一番。全盛期はすごかった、という人もいる。高音ももっと楽々出て
一音もかすれたり、弱弱しくなったりはしなかったとも。
しかし、舞台の彼女と向き合っていると、そんな「物理的」なことは、どうでもよくなる。
ドニゼッティが書いた不自然にも感じられる異様な高音のフレーズを
次から次へと歌う。小鳥の声、というより、もっと超越的で触れられない何かだ。
「ロベルト…」は声楽的な危険だらけのオペラなのだ。
(だから滅多に上演されない)
フィギュアスケートで転倒したら、その選手は不運だったと思われるだろう。
声楽家は、それでは済まされない。毎度毎度、リスクを華麗に乗り越えて
輝いていなければならないのだ。不公平なほどの期待の大きさ。

グルベローヴァは、ドニゼッティが仕掛けた断崖絶壁をいくつも乗り越え、決してひるまなかった。
年齢を考えて「引き返す」ことなど論外なのだろう。
そんなことをするくらいなら、最初からこのオペラをレパートリーに入れることもなかった、とでも言いたげだ。
グルベローヴァの夫君であるマエストロ、フリードリッヒ・ハイダーは、歌手のための完璧な「背景」を作り出す。そこで歌が成功しなければ、すべてが崩壊してしまうような緊張感をオケのほうから作り出すので、聴いているほうもかなり神経を使った。
しかし歌手のほうは、ここまでやってくれたほうが歌いやすいのかも知れない。

脇役のサラは、メゾのソニア・ガナッシが見事に歌った。アングルを変えると、サラが主人公にもなる物語だ。もちろんグルベローヴァはそんなことはさせないが、ガナッシの存在感は並外れていた。ロベルトの心はサラに向かっている。相思相愛を引き裂かれ、愛する男の命乞いをする女の、身も世もない心を、これ以上ないというほど生々しく歌った。この歌がまた、主役を裸にする。グルベローヴァとガナッシは、まさにタイガー&ドラゴンという趣だった。

2人の女に執着されるロベルト・デヴェリューは、6月のMETの公演で「ランメルモールのルチア」のエドガルド役(代役)で活躍したアレクセイ・ドルゴフ。
ロシア人の若手だが、あのときよりさらにうまくなっている。
拷問にあいながら服をむしられ、目かくしされて下着姿で歌う最後は、あられもない「人間の真実」を表現しているようだった。

ラスト、グルベローヴァ演じるエリサベッタは、金髪の髪の毛を脱ぎ捨て、薄毛の頭をさらす。ケイト・ブランシェットが映画で演じたエリザベス一世がよみがえる。
女としての幸福を自らに禁じ、国民のアイコンとして処女を貫いたエリザベスの、プライベートな「はげ頭」だ。鋭い演出だと思った。最後の高音もすさまじい。少しフラットしていたが、そんなことはどうでもいい。血が溢れるような声だった。

オペラ、「高いチケット代を払ったからお客がエライ」という世界では、ない。
世にも稀なるシチュエーションで、音楽家たちの勇敢さを「見せていただきに」劇場に行くのだ。舞台での見事な精神力は、誰にも触れられないし、壊すこともできない。
音楽的な満足以上に、私にとって魅力的なのはそのパワーなのである。

(翌日鑑賞した「ローエングリン」についても後ほど書きます)