天動説の時代の天使たち 

2010-10-31 00:26:30 | 日記
◇ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントス・ムジクス@サントリホール(10/30)


つめたい雨の中、出かけてよかった。今夜のサントリーホールは空気がきらきらしていた。

すべてがしかるべきことのためにチューニングされ、心をこめて入念に準備されていた。

黄金いろのオーラに包まれた音楽を浴びて、どきどきするほど幸福な気分になって帰ってきました。

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ハイドンの「天地創造」は、人間の知性がまだイノセントだった頃の音楽。

大天使ガフリエル、ラファエル、ウリエルの三人によって歌われる地球生成のテキストには

ダーウィンの進化論やコペルニクスの地動説は反映されず(当然)、その後やってくる啓蒙時代と自然科学の時代も

ここでは「いまわしきもの」として予感されるにとどまっている。

(知りうる以上のことを知ろうとしてはいけない、というウリエルの一節)。

人間の分を知り、創造主への感謝を忘れず、「限界」を与えられた宿命としてとらえること。

なんとこれは、アーノンクールの歴史観・文明観にぴったりのオラトリオなのだ。

何しろ、外科手術や歯科の治療における麻酔についてまで批判している(ディアパソン誌のインタビュー)お方である。

あらゆる「文明による合理化」に懐疑的な哲学者。その頑固ぶりは、音楽に昇華され、今や伝説になった。

アーノンクールは「かつてあった人間のイノセンス」を追求する。

楽器が容易に爆音を鳴らせなかった時代、コンサートホールが見事な音響をもてなかった時代、

ひいては、作曲家たちが未熟な医学のせいでバタバタ夭折した時代。

その馬鹿正直な不便さの中に、ダイヤモンドのような「人間性」が潜んでいるはずだ。


そして、それは真実だった。

気の遠くなるほどの時間をかけて、哲人ニコラウスが音楽で証明したのは、近代文明の容易さに対する、人間の尊厳からの「No」であった。

それは過激で革新的な思想でもある。

しかし今や、地球規模で彼の思想は肯定される流れの中にある。

紋切り型になるが、「時代が彼に追いついた」のだ。

21世紀は必然的に、どんどん「心」の価値(モノ、合理性ではなく)を認めていく時代になるだろう。


ハイドンが、ヘンデルのオラトリオに陶酔して、60代になってから書いた「天地創造」は

すべてのはじまりには主の「善」の意志があったという、祝祭の音楽だ。

宇宙は善である。神の意志は善意である。生命は善のシンボルである。

そのよろこびの旋律が雨あられと降ってきて、聴き手の全身をしとしとと濡らす。

呆気ないほどの音楽の明るさは、ハイドンが最も単純で楽天的な美徳をもつ、牡羊座生まれだったこととも関係している。

彼は牡羊座のアーティストにふさわしく、東から昇る太陽の音楽を書いた(交響曲も、すべて)

あらゆる頽廃が出尽くした今となっては、こんな時代遅れな音楽もない。が、どうしようもない真実も、ここにはある。

「すべてのはじまりは善である」という考えが、誰にとっても抗いがたい魅力をもっている、という真実だ。

地球のすべては、神の「心」が作ったもの。別の視点から見ると、オカルティックでもある。

アーノンクールは、最初から世界は心で出来ていると、当然のように考えていた、はずだ。

だから彼は、自分で作った音楽を奏でるかのように、自在にこの音楽を奏でていた。



ハイドンの「天地創造」を聴いてから、春の満開の桜もただの自然現象には見えなくなった。

あの無際限な、桃色の花びらの叫びの根っこには、神の優しさがある、と考えて微笑む。

そう考えるイノセンス(馬鹿正直)の中に、何か根源的なものに近づく手がかりがあるように思えるのだ。


◇歌手たち
びっくりするほど覚醒した「物語る声」で、地球生成の物語を記した大天使ガブリエル(ドロテア・レッシュマン)の見事さ。
彼女はオペラでも歌曲でもない、岩に記されたテキストのような歌を歌った。
トランペットのような大天使ウリエルの美声、ミヒャエル・シャーデ(テノール)の底なしの魅力。
鷲とライオンと昆虫の守護神のような大天使ラファエルの低音、フーリアン・ベッシュ(バリトン)も、歌手のプライドを見せてくれた。
緻密に磨き抜かれたアーノルト・シェーンベルク合唱団は、完璧なプロフェッショナル。
彼らの素晴らしい日常、ウィーンという街の洗練された文化と、音楽へのリスペクトが伝わってきた。


※ところで大天使はみなさん、本当にいるのです。

今日のアーノンクールの「天地創造」は、大天使が貧乏な私にチケットをプレゼントしてくれたので、聴くことができました。
大天使の正体は、アーノルト・シェーンベルク合唱団の団員さんでした。
当日チケットに並ぶ十数人から、どうして私を選んでくれたのか、謎は残ります。
おそらく私が大天使のファンで、ガブリエル・ラファエル・ウリエルの存在を信じていることを
見抜いていたのかも。
おそるべし、大天使界のネットワーク!












ヤン・リシエツキ

2010-10-28 04:40:54 | 日記
紀尾井ホールにて行われた15歳のピアニスト、ヤン・リシエツキのオール・ショパン・リサイタル(10/26)に衝撃を受ける。

プロモーション写真の可愛らしい少年の姿からひとまわり背格好が大きくなり、長い手足がピアノの椅子に馴染んでいないような雰囲気。

しかし、この男の子の魂はすさまじかった。肉体と魂の不一致。強烈に悪魔的なピアニズムだ。

特に、前半の最後で弾いたエチュードop.25全曲が最高。

断章としてではなく、それぞれ独立した楽曲として全12曲を弾き

そのどれもこれもが、テンポも強弱もペダルも型破り。

異様にスローに弾き始め、途中から速度を上げていくパターンが多かったが

一曲ずつ集中して「自分流」のスタイルを吹き込んでいくため、弾き手のエネルギーの消費が尋常ではない。

その前に既に、op10の練習曲から3曲、マズルカ2曲、演奏会用ロンド「クラコヴィアク」を弾き終えていた。

前半だけでトータル60分以上で、おまけにラスト二曲が「木枯らし」と「大洋」である。

体力・精神力の限界まで「見せる」のが、彼の表現者としての落とし前だったのかも知れない。

(自分で自分に拷問を仕掛けて喜んでいる)

60分間ぶっ続けで弾き、颯爽とお辞儀をしてスタスタ幕へ引っ込んでいった。



このリシエツキという子、ポーランドの両親を持ち、カナダの音楽大学に飛び級で入ったというが

教授たちはどういうふうに指導を行っているのだろう?

リシエツキの奏法は理知的だが、型破り。解釈は深いが、ときどき行きすぎて破綻する。

マズルカの舞踊感覚の把握は素晴らしい。ワルツは複雑骨折しそう。

演奏がクレイジーになるのを、本人が望んでいる。

ときどきポリーニのような静寂や、ポゴレリチのような涅槃が見えてくる。

オーソドックスに流れることをとことん嫌う演奏は、

「アンダンテ・スピアナートの華麗なる大ポロネーズ」のポロネーズ部分では

見事に崩壊していた(あーあ・・・)。

あれが最後の曲だから、怒って帰った客もいるだろう。

でも、すべての曲が最高だった。


ラファウ・ブレハッチの透明で宗教的なショパンに、酔い心地になった10月だった。

来日中、二回コンサートへ行き「しばらくこれでいこう」と決めていたのに、現実は予測不可能である。

金髪の子鬼さんがひっかいていったスタインウェイの音が、胸のあたりで痛い。


米、カナダ、ヨーロッパではもう人気者らしい。
彼の音楽を「表層的」という人、もう一度聴きにいってみて!