お裁縫に針供養があるように、バレエはチャイコフスキーの供養をしなければならないのである。
「白鳥の湖」も「眠れる森の美女」も「くるみ割り人形」も、あれらの壮麗できらびやかなバレエ音楽は
すべて作曲家の過酷な人生の「現実逃避」として創造されたファンタジーだからだ。
ボリス・エイフマンが93年に発表し、2006年に改訂した「チャイコフスキー」。
ベルリン国立バレエ団の来日公演で、芸術監督のウラジーミル・マラーホフが主役のチャイコフスキーを踊った。
冒頭のシーンからもう、胸が痛くてたまらない。コレラで死んだチャイコフスキーの最期を思わせるベッド。
青白い男が驚いた目で、石のように固まったポーズで寝そべっている。
全身の血が凝固して、悶え苦しみながら息絶えるというコレラの恐ろしさを、硬直したポーズで表現しているのだ。
その哀れな肉体を、うやうやしげに持ち上げて運ぶ人々の様子は、宗教画の「ピエタ」のようだ。
人から敬愛され、芸術家として尊敬されもしたが、心は漠として満たされず、空っぽのままだったチャイコ。
この暗鬱さは、最後までバレエ全体を支配する。
エイフマンの演劇的バレエで特徴的なのは、恐ろしいほど精密に女性心理を描き出すところだと思う。
「アンナ・カレーニナ」も、不義の愛に狂っていくヒロインの執着やら自己崩壊やらを、男の目線からではなく
女の主体として表わしていたが、それは肌寒くなるほど「本当の」姿だった。(だからエイフマンは天才なのだ)
「チャイコフスキー」でも、凄まじいのはチャイコフスキーの妻アントニーナで、
同性愛者の夫から相手にされない彼女のヒステリーは、珍獣キメイラのように爬虫類じみたグロテスクさで表現される。
最初はチャイコフスキーから偶像視されていたパトロネスのフォン・メック夫人も
エイフマンは「芸術家にほのかな性的願望を抱いている貴婦人」として描く。
みんな、チャイコフスキーに愛されたくてたまらないのだ。
これは、女性の性愛をあまりに鋭く描き切っていると思った。
女にとって本当に充実した性愛とは、男性の欲望にからめとられ強引に巻きこまれるようなものではなく
「相手に足りないものを与えて満たしてあげたい」という、母性愛の入り混じった欲望だと私は思う。
ここでは、寄る辺なき孤独を抱えた繊細なチャイコフスキーと愛し合うことで、女たちは幸福になるのだ。
「わたしの愛があなたを完全にする」という妄執にとらわれた哀れなアントニーナが、一度も夫との愛をはたせず
怪物のように狂気にとらわれていく姿は、彼女への同情なしには見ていられない。
最後は坊主頭の幽霊のような姿で出てくる。そこまでやるかエイフマン、とも思う。
そして、ここでチャイコフスキーを演じているのは誰でもない、あのマラーホフなのだ。
つけヒゲをつけても、あの優しくて美しい繊細な身体つきは隠せない。女の情愛のドラマも
マラーホフが相手だからこそ過激に発火する。
ところで、そのマラーホフのダンスが、とてもハードで過酷なのに驚いた。
片腕で逆立ちするようなポーズや、おのれの「分身」である隆々としたむ男性ダンサーとあやとりのような(!)複雑な踊りをする場面、
躁病状態で、大勢のバレリーナを相手に「イッちゃってる」ダンスを繰り広げるシーンなど
最初から最後まで、ほぼ出づっぱりで演じ続けている。
そして、マラーホフの肉体に負荷がかかればかかるほど、彼の顔はチャイコフスキーそっくりになっていく。
途中から、本当にマラーホフがマラーホフではなくなっていた。
マラーホフもまた、チャイコフスキーの人生の強烈さ、孤独の過酷さ、女たちの熾烈さ、すべてに酔わされ焼きつくされ
舞台の上では、完全に現実の肉体を奪われていたように見えた。
こういう作品は、本当に稀だ。
王子役としては完璧なマラーホフは、どのプリマにとっても「一緒に踊っていると夢をみているような」相手役だという。
ジークフリートとして、デジレ王子として、チャイコフスキーの愛の願望のような踊りを踊り続けてきた彼が
今、チャイコフスキーその人の辛苦をすべて引き受けている。
海が二つに引き裂かれてもおかしくない、奇跡の瞬間だと感じた。
失意のチャイコを囲む、野辺の優しい花たちのような白鳥の群舞も、あの世のような美しさであった。
マラーホフ、もう43歳だからそんなに先は長くないのだけど、ここからが凄いと思う。
凝縮された残りの踊りは、地を這ってでもすべて見なければと決意した。
「白鳥の湖」も「眠れる森の美女」も「くるみ割り人形」も、あれらの壮麗できらびやかなバレエ音楽は
すべて作曲家の過酷な人生の「現実逃避」として創造されたファンタジーだからだ。
ボリス・エイフマンが93年に発表し、2006年に改訂した「チャイコフスキー」。
ベルリン国立バレエ団の来日公演で、芸術監督のウラジーミル・マラーホフが主役のチャイコフスキーを踊った。
冒頭のシーンからもう、胸が痛くてたまらない。コレラで死んだチャイコフスキーの最期を思わせるベッド。
青白い男が驚いた目で、石のように固まったポーズで寝そべっている。
全身の血が凝固して、悶え苦しみながら息絶えるというコレラの恐ろしさを、硬直したポーズで表現しているのだ。
その哀れな肉体を、うやうやしげに持ち上げて運ぶ人々の様子は、宗教画の「ピエタ」のようだ。
人から敬愛され、芸術家として尊敬されもしたが、心は漠として満たされず、空っぽのままだったチャイコ。
この暗鬱さは、最後までバレエ全体を支配する。
エイフマンの演劇的バレエで特徴的なのは、恐ろしいほど精密に女性心理を描き出すところだと思う。
「アンナ・カレーニナ」も、不義の愛に狂っていくヒロインの執着やら自己崩壊やらを、男の目線からではなく
女の主体として表わしていたが、それは肌寒くなるほど「本当の」姿だった。(だからエイフマンは天才なのだ)
「チャイコフスキー」でも、凄まじいのはチャイコフスキーの妻アントニーナで、
同性愛者の夫から相手にされない彼女のヒステリーは、珍獣キメイラのように爬虫類じみたグロテスクさで表現される。
最初はチャイコフスキーから偶像視されていたパトロネスのフォン・メック夫人も
エイフマンは「芸術家にほのかな性的願望を抱いている貴婦人」として描く。
みんな、チャイコフスキーに愛されたくてたまらないのだ。
これは、女性の性愛をあまりに鋭く描き切っていると思った。
女にとって本当に充実した性愛とは、男性の欲望にからめとられ強引に巻きこまれるようなものではなく
「相手に足りないものを与えて満たしてあげたい」という、母性愛の入り混じった欲望だと私は思う。
ここでは、寄る辺なき孤独を抱えた繊細なチャイコフスキーと愛し合うことで、女たちは幸福になるのだ。
「わたしの愛があなたを完全にする」という妄執にとらわれた哀れなアントニーナが、一度も夫との愛をはたせず
怪物のように狂気にとらわれていく姿は、彼女への同情なしには見ていられない。
最後は坊主頭の幽霊のような姿で出てくる。そこまでやるかエイフマン、とも思う。
そして、ここでチャイコフスキーを演じているのは誰でもない、あのマラーホフなのだ。
つけヒゲをつけても、あの優しくて美しい繊細な身体つきは隠せない。女の情愛のドラマも
マラーホフが相手だからこそ過激に発火する。
ところで、そのマラーホフのダンスが、とてもハードで過酷なのに驚いた。
片腕で逆立ちするようなポーズや、おのれの「分身」である隆々としたむ男性ダンサーとあやとりのような(!)複雑な踊りをする場面、
躁病状態で、大勢のバレリーナを相手に「イッちゃってる」ダンスを繰り広げるシーンなど
最初から最後まで、ほぼ出づっぱりで演じ続けている。
そして、マラーホフの肉体に負荷がかかればかかるほど、彼の顔はチャイコフスキーそっくりになっていく。
途中から、本当にマラーホフがマラーホフではなくなっていた。
マラーホフもまた、チャイコフスキーの人生の強烈さ、孤独の過酷さ、女たちの熾烈さ、すべてに酔わされ焼きつくされ
舞台の上では、完全に現実の肉体を奪われていたように見えた。
こういう作品は、本当に稀だ。
王子役としては完璧なマラーホフは、どのプリマにとっても「一緒に踊っていると夢をみているような」相手役だという。
ジークフリートとして、デジレ王子として、チャイコフスキーの愛の願望のような踊りを踊り続けてきた彼が
今、チャイコフスキーその人の辛苦をすべて引き受けている。
海が二つに引き裂かれてもおかしくない、奇跡の瞬間だと感じた。
失意のチャイコを囲む、野辺の優しい花たちのような白鳥の群舞も、あの世のような美しさであった。
マラーホフ、もう43歳だからそんなに先は長くないのだけど、ここからが凄いと思う。
凝縮された残りの踊りは、地を這ってでもすべて見なければと決意した。