ウィーン国立歌劇場 「ナクソス島のアリアドネ」

2016-10-26 11:19:09 | 日記
4年ぶりに来日したウィーン国立歌劇場の「ナクソス島のアリアドネ」の初日を上野の東京文化会館で観た。
指揮は、四半世紀ぶりにウィーン国立歌劇場のピットに入るマレク・ヤノフスキ。
頑固マエストロのイメージが強いヤノフスキの「ナクソス島」は、予想を裏切ってチャーミングで優美、そして最高にユーモラスな世界だった。
なんといってもウィーン・フィルの実力に、改めて圧倒された。このオケの馥郁たる音色と精度の高いアンサンブルには卓越したものがある。響きの中に、彼らにしかない語彙があるのだ。
初演版では役者たちによって演じられたプロローグは、オペラと呼ぶには非常にエキセントリックで
オーケストラは伴奏というより、歌手たちとシンクロして同じ言葉を楽器で喋っているようで、その呼吸感と滑舌が神業であった。
オケだけの「カラオケ」でもこのオペラをよく表していたに違いない。
100年前にこの劇場で初演した作品であるという。劇場の専属歌手であるカテファニー・ハウツィールの「作曲家」がいい演技をした。
声量もあり、ズボン役も堂に入っている。
プリマドンナのグン=ブリット・バークミンとツェルビネッタのダニエラ・ファリーも好調で、
後半のオペラではさらに本領発揮の演技を見せた。

このオペラのテーマである「悲劇と喜劇を同時に上演せよ」という無理難題、
荒唐無稽な設定は一体どこから降ってきたのだろう?
ギリシア悲劇とイタリアのコメディア・デラルテの融合を考えていたホフマンスタールが
モリエールの「町人貴族」を見ていよいよ着想の火に油が注がれ、誕生した物語なのだが
「悲劇と喜劇という両者の境目をなくす」という試みは、非常にリヒャルト・シュトラウス的な態度に感じられる。
「影のない女」や「ダナエの愛」で神が人の世界に憧れたように、Rシュトラウス的世界では
従来的な「天と地」「神と人」のヒエラルキーが逆転する…というより、境目が曖昧になる。
オペラにおける男女の役割、ということも大きく変えた。
オペラ・ヒロインが悲劇的であることをやめ、男たちを支配し圧倒し始めたとき
この芸術の意識と無意識もすっかりひっくり返ってしまった。
「ナクソス島」でもRシュトラウスは色々なものの境界を曖昧にするのだが、
この演出は本当に秀逸で、作曲家の意図を深く汲み、愛らしさと綺麗さの中に濃密なメッセージがいくつも込められていた。

後半の「オペラ」では、舞台に客席が設置され、劇中劇の観客がそこに座っているのだが
客席と鏡像になっているような感覚があり、歌手たちの歌う空間を囲んで、役者と聴衆がひとつの円陣を組んでいるような温かい感覚があった。
前日の記者発表では、ジャーナリストはあのセットの客席に座って質疑応答をしたのだが
そのときに見えた客席が、びっくりするほど近かったのが忘れられない。
音楽の質感は、後半ではオペラティックに変化し、「ばらの騎士」や「メタモルフォーゼン」
「四つの最後の歌」「アルプス交響曲」の素敵な断片が宝石のごとく舞台に飛び散る。
アリアドネになったプリマドンナ、バークミンの悲劇的な美声に聞き惚れるが
その合間にも、おちゃらけた男たちがキックボードに乗って漫画のように舞台をわちゃわちゃ動き回る。
コミカルな2人の「おじさんダンサーズ」はウィーン国立バレエ団の団員だろうか。
悲劇の気分を割って、ツェルビネッタの超絶技巧も披露される。
ダニエラ・ファリーのこの役は5年前のバイエルン歌劇場のカーセン演出でも聴いているのだが
驚くほど聡明でハイセンスな歌手で、長尺のアリア「偉大なる王女様」では長い長い喝采が起こった。
コロラトゥーラに課されるアリアの中でも最も難解なもののひとつだろう。
床に置かれたピアノのふたを滑り台にして下降する旋律を歌い、楽しみながら演じているようだった。恐るべきソプラノだ。

バッカス役のステファン・グールドが登場すると、空気が激変した。
オーケストラもワーグナー的な自然界の恩寵に溢れ出し、神々しいオーラがステージを埋め尽くす。
オペラグラスで観ると、グールドの衣装はヒョウ柄の上にヒョウが描かれたパジャマのようなもので、真剣な表情と衣装とのギャップがすごい。
先日の新国の「ワルキューレ」でジークムントを歌ったばかりのグールド、バッカスの歌の中にもジークムント的な、
ジークフリート的な暗示がふんだんに詰め込まれているのは出来過ぎとしか言いようがなかった。
グールドは誠実な歌手で、英雄的な発声で過酷なパートをすべて完璧に歌いきり
ラストの20分にわたるアリアドネとの重唱は、奇跡を見る思いだった。
二人の歌手のあの強烈な歌声には、聴いていて心臓が張り裂けるような衝撃が走った。
生身の人間の肺と声帯に大きな負担をかけながら、音楽は粘り強くなかなか終わらない。
Rシュトラウスはこんなスコアを書いて、歌手たちを苛めているのだろうか…。

グールドが神に見え、アリアドネのバークミンが女神に見えた瞬間、Rシュトラウスの意図が理解できた。
このこの世のものならぬ長丁場の旋律を歌わせることによって、歌手は神になり
神と人間との境界は崩れ、悲劇と喜劇の、舞台と客席との境界も崩れて一つの大きな全体となる。
「ラインの黄金」で黄金ゆえに神々は没落し、「ダナエの愛」でダナエは黄金のばらをユピテルに着き返したが、
「アリアドネ」では、なんともきらびやかに楽観的に、ゴージャスな梨型の巨大シャンデリアが6つ、するすると天井から降りてくる。
「黄金は人の世界にあるのです」という声が聴こえたような気がして、ホフマンスタールがオペラに見た夢が作曲家の魔法で実現されたことを確信した。

歌手たちの健闘は素晴らしく、作曲家のハウツィール、バークミン、ファリー、そしてグールドは渾身の歌唱と演技で奇跡的な時間をもたらしてくれた。
ここ数年、色々な稽古場で歌手たちの姿を見て「自分は心から歌手という人たちが好きで、尊敬している」と思い続けてきたが
命を削るような過酷な舞台で毎回客席を楽しませてくれるあの人たちには、ほんとうに神様が住んでいるとしか思えない。
この夜の東京文化会館は親密で、小さな丸いテントの中でひしめきあって舞台を見ているような感覚があった。
男と女、悲劇と喜劇、舞台と客席、旧世界と新世界、ワーグナーとシュトラウス…。
「和解せよ」という作曲家の巨大な愛のメッセージがじわりじわりと押し寄せて、
オペラの女神に導かれてやってきた幸福な境地に、眩暈を感じてしまった。

(写真は初日の前日に記者会見が行われた舞台上からホール客席を撮影したもの)






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