昔昔、ほら穴に男と女が暮らしておりました。男は毎日狩りへ出かけ、女が獲物を料理していました。二人は幸せに暮らしておりました。
ある日、夜になっても男が帰ってこない。
女は三晩待ちました。七晩待ちました。そのあともえんえんと、男の帰りを待ちました。
時間は過ぎ…ある日ほら穴には、女と、別の男が暮らしておりました。
美味しいお料理とともに、このお話を聞かせてくれたのは、サンタ・マリア・ノヴェッラ代表のエミール山野さんだったが、女は太古からこのようなものであった、という象徴的な逸話である。
しかし、ある種の不寛容な男たちはこのことが許せない。
女は、愛する男を失ったら、男の影を追い続け、悲しみに溺れて死ぬべきだ。
それは単に「自分なきあとに、女が他の男のものになる」という事実が許せないだけなのかも。
「女はみんなそんなふう=男をのりかえる」という事実を、躍起になって証明したかった男は、台本化と悪だくみして偽悪的なオペラまで作った。
すなわちモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」。
ロココ精神は、女の本能と宿命を必死でおちょくり、復讐した。
「ぼくがいなくなったら、君も生きられないよね」
という男の執着心は、時代によって色々に描かれる。
「男」と「女」の関係は、「ロマン主義」と「音楽」の関係にも置き換えられるかもしれない。
ぼく=「ロマン主義」が消えてしまったら、きみ=「音楽」は生きられないよね?
しかし、音楽は生き続ける。女も生き続ける。
リヒャルト・シュトラウスが素晴らしいのは、いかにもそのことを楽しげに、魔術師の手さばきで描き切ってみせたことだ。
「ナクソス島のアリアドネ」」のシュツットガルト版(初版)が書かれたのは1911-1912年。前年には「ばらの騎士」が完成し、1911年にはグスタフ・マーラーが亡くなっている。後期ロマン派の象徴的人物がこの世から去り、ウィーンでは新しい潮流が台頭していた。
マーラーが、調性音楽の最後の偉人だった。
それ以後を生きなければならない音楽家たちは、意識的であればあるほどシリアスな袋小路に迷い込んだことだろう。
そんなときに、リヒャルト・シュトラウスは、実に知的で時代精神に富んだリアクションをした。
彼の音楽を聴いていると、こんな無意識の声を聞こえてくるようだ。
「神話も悲劇も終焉を迎えなければならない」「ロマン派の退廃美にも別れを告げなければならない」「しかし、それでも人間には確かに聖なる部分があるのだ」
劇中劇の体裁をもつ「ナクソス島…」では、女たち=ソプラノ歌手が大活躍をする。
作曲家も、女優も、女神も、主要な語り手は全員女性なのだ。
今回のバイエルンはロパート・カーセンの演出によるプロダクションだったが
実に、実に、実にリヒャルト・シュトラウスがの精神が生き生きと描かれていたと思う。
興行主から、作曲家と歌手たちに課されるお題は
「悲劇(セリア)と喜劇(ブッファ)を同時に(!)上演せよ」というもの。
すったもんだのドタバタの末、それは見事に上演される。
愛する唯一の男を失ったアリアドネは、死に焦がれ、繰り返し嘆き歌うが
まわりを見渡すと、自分そっくりの扮装をしたオッサン・アリアドネ(!)や
忍者ハットリ君のように増殖した分身アリアドネがうろついている。
小間使いデスピーナのように世間知にたけたツェルビネッタが
おっぱいをぷりぷりさせながらハイヒールで闊歩している。
舞台の上で並列されているのは、
「愛する男と殉死したい」というロマン派精神と
「筋肉ムキムキのいい男たちには我慢ができない」という女の本能。
カーセンは、黒ビキニパンツ一丁のイイ男たちまで舞台に登場させる。
「神様はなぜ、男を魅力あるものにおつくりになったの」というツェルビネッタの嘆きは、顔面蒼白なロマン主義をたちまち粉砕するファロス(笑劇)のカタストロフィに溢れている。
ところで、20世紀初頭、音楽からロマン派の危機を迎えた時代には、
さまざまな表現主義、アバンギャルドが台頭した。
劇中、音楽家(ソプラノ)が歌う歌詞に「もはや僕の旋律は世間を駆け抜けることはできない」というのがある。
そうなのだ。旋律が生きられず、口ずさまれることさえ忌々しく扱われたのが、作曲家がこのオペラを書いた時代だった(少なくともウィーンにおいては)。
シェーンベルクは12音音階の神殿を築き、ストラヴィンスキーは古代の旋律を野太く蘇生させ、復調のメロディーを書いていた時代。
そしてリヒャルト・シュトラウスの音楽は、ロマン派を超克していながら、とてもロマンティックなのだ。
カメレオンのように色彩を変えていく旋律には、明らかな陶酔がある。
「聖なるものを破壊せよ」と命じられても、このどうしようもないほど俗な人間たちの世界こそが、既に神聖なのだ、とでも言いたげだ。
「ナクソス島…」には、ジャズを感じさせるシークエンスさえ出てくる。
20世紀の、邪で生命力にあふれ、人懐こい聖性にあふれた素敵なもの、が
このオペラには全部入っているのだ。
セリアとブッファ、聖と俗、清らかな女と多情な女。これらは本当にひとつのものなのだ。
リヒャルト・シュトラウスが若くして(当時47歳)この境地に辿り着いたのは
悪妻パウリーネのお陰だ。ヒステリックでキンキン声のおしゃべりをやめない妻を相手に、結婚してすぐに、殉教者の顔つきになり、それでも
「かわゆきもの、それは妻」と寛大な愛を失わなかった。
この男は妻をモデルにしたオペラ「影のない女」まで書き上げたのだ。
女はかしましくも、聖なるものと通じている。
それは男の凍えた理想世界を軽々とのりこえるのだ。
ラストで、新しい男=バッカスに望まれ、愛し合おうとするアリアドネを見つめながら
「私たち女って、新しい神が現れるとすぐ愛しちゃうのよね」とおちゃめに言い放つ
ツェルビネッタを見て、リヒャルトの深すぎる懐に涙が出そうになった。
アリアドネ役のピエチョンカ、ツェルビネッタのファリーは好調で
(ファリーについては賛否両論あるみたいですが…よかったと思います)
それにもまして、音楽家役のクートが素晴らしい演技。
36人編成という小ぢんまりとしたオーケストラも機知に富み、表情豊かだった。
メシアンの「トゥーランガリラ」の名盤の記憶があるせいか、
ケント・ナガノは面白い鍵盤楽器が入るとますま生き生きとした音を作るような。
そしてドイツにとっての「劇場」の役割を、あらためて考えた。
オペラは、神聖なものと俗っぽいものをミックスして「今」に向けて放つ
びっくり箱のようなメディアなのだ。
ある日、夜になっても男が帰ってこない。
女は三晩待ちました。七晩待ちました。そのあともえんえんと、男の帰りを待ちました。
時間は過ぎ…ある日ほら穴には、女と、別の男が暮らしておりました。
美味しいお料理とともに、このお話を聞かせてくれたのは、サンタ・マリア・ノヴェッラ代表のエミール山野さんだったが、女は太古からこのようなものであった、という象徴的な逸話である。
しかし、ある種の不寛容な男たちはこのことが許せない。
女は、愛する男を失ったら、男の影を追い続け、悲しみに溺れて死ぬべきだ。
それは単に「自分なきあとに、女が他の男のものになる」という事実が許せないだけなのかも。
「女はみんなそんなふう=男をのりかえる」という事実を、躍起になって証明したかった男は、台本化と悪だくみして偽悪的なオペラまで作った。
すなわちモーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」。
ロココ精神は、女の本能と宿命を必死でおちょくり、復讐した。
「ぼくがいなくなったら、君も生きられないよね」
という男の執着心は、時代によって色々に描かれる。
「男」と「女」の関係は、「ロマン主義」と「音楽」の関係にも置き換えられるかもしれない。
ぼく=「ロマン主義」が消えてしまったら、きみ=「音楽」は生きられないよね?
しかし、音楽は生き続ける。女も生き続ける。
リヒャルト・シュトラウスが素晴らしいのは、いかにもそのことを楽しげに、魔術師の手さばきで描き切ってみせたことだ。
「ナクソス島のアリアドネ」」のシュツットガルト版(初版)が書かれたのは1911-1912年。前年には「ばらの騎士」が完成し、1911年にはグスタフ・マーラーが亡くなっている。後期ロマン派の象徴的人物がこの世から去り、ウィーンでは新しい潮流が台頭していた。
マーラーが、調性音楽の最後の偉人だった。
それ以後を生きなければならない音楽家たちは、意識的であればあるほどシリアスな袋小路に迷い込んだことだろう。
そんなときに、リヒャルト・シュトラウスは、実に知的で時代精神に富んだリアクションをした。
彼の音楽を聴いていると、こんな無意識の声を聞こえてくるようだ。
「神話も悲劇も終焉を迎えなければならない」「ロマン派の退廃美にも別れを告げなければならない」「しかし、それでも人間には確かに聖なる部分があるのだ」
劇中劇の体裁をもつ「ナクソス島…」では、女たち=ソプラノ歌手が大活躍をする。
作曲家も、女優も、女神も、主要な語り手は全員女性なのだ。
今回のバイエルンはロパート・カーセンの演出によるプロダクションだったが
実に、実に、実にリヒャルト・シュトラウスがの精神が生き生きと描かれていたと思う。
興行主から、作曲家と歌手たちに課されるお題は
「悲劇(セリア)と喜劇(ブッファ)を同時に(!)上演せよ」というもの。
すったもんだのドタバタの末、それは見事に上演される。
愛する唯一の男を失ったアリアドネは、死に焦がれ、繰り返し嘆き歌うが
まわりを見渡すと、自分そっくりの扮装をしたオッサン・アリアドネ(!)や
忍者ハットリ君のように増殖した分身アリアドネがうろついている。
小間使いデスピーナのように世間知にたけたツェルビネッタが
おっぱいをぷりぷりさせながらハイヒールで闊歩している。
舞台の上で並列されているのは、
「愛する男と殉死したい」というロマン派精神と
「筋肉ムキムキのいい男たちには我慢ができない」という女の本能。
カーセンは、黒ビキニパンツ一丁のイイ男たちまで舞台に登場させる。
「神様はなぜ、男を魅力あるものにおつくりになったの」というツェルビネッタの嘆きは、顔面蒼白なロマン主義をたちまち粉砕するファロス(笑劇)のカタストロフィに溢れている。
ところで、20世紀初頭、音楽からロマン派の危機を迎えた時代には、
さまざまな表現主義、アバンギャルドが台頭した。
劇中、音楽家(ソプラノ)が歌う歌詞に「もはや僕の旋律は世間を駆け抜けることはできない」というのがある。
そうなのだ。旋律が生きられず、口ずさまれることさえ忌々しく扱われたのが、作曲家がこのオペラを書いた時代だった(少なくともウィーンにおいては)。
シェーンベルクは12音音階の神殿を築き、ストラヴィンスキーは古代の旋律を野太く蘇生させ、復調のメロディーを書いていた時代。
そしてリヒャルト・シュトラウスの音楽は、ロマン派を超克していながら、とてもロマンティックなのだ。
カメレオンのように色彩を変えていく旋律には、明らかな陶酔がある。
「聖なるものを破壊せよ」と命じられても、このどうしようもないほど俗な人間たちの世界こそが、既に神聖なのだ、とでも言いたげだ。
「ナクソス島…」には、ジャズを感じさせるシークエンスさえ出てくる。
20世紀の、邪で生命力にあふれ、人懐こい聖性にあふれた素敵なもの、が
このオペラには全部入っているのだ。
セリアとブッファ、聖と俗、清らかな女と多情な女。これらは本当にひとつのものなのだ。
リヒャルト・シュトラウスが若くして(当時47歳)この境地に辿り着いたのは
悪妻パウリーネのお陰だ。ヒステリックでキンキン声のおしゃべりをやめない妻を相手に、結婚してすぐに、殉教者の顔つきになり、それでも
「かわゆきもの、それは妻」と寛大な愛を失わなかった。
この男は妻をモデルにしたオペラ「影のない女」まで書き上げたのだ。
女はかしましくも、聖なるものと通じている。
それは男の凍えた理想世界を軽々とのりこえるのだ。
ラストで、新しい男=バッカスに望まれ、愛し合おうとするアリアドネを見つめながら
「私たち女って、新しい神が現れるとすぐ愛しちゃうのよね」とおちゃめに言い放つ
ツェルビネッタを見て、リヒャルトの深すぎる懐に涙が出そうになった。
アリアドネ役のピエチョンカ、ツェルビネッタのファリーは好調で
(ファリーについては賛否両論あるみたいですが…よかったと思います)
それにもまして、音楽家役のクートが素晴らしい演技。
36人編成という小ぢんまりとしたオーケストラも機知に富み、表情豊かだった。
メシアンの「トゥーランガリラ」の名盤の記憶があるせいか、
ケント・ナガノは面白い鍵盤楽器が入るとますま生き生きとした音を作るような。
そしてドイツにとっての「劇場」の役割を、あらためて考えた。
オペラは、神聖なものと俗っぽいものをミックスして「今」に向けて放つ
びっくり箱のようなメディアなのだ。