はじまりの物語に魅了される。
「まだ何もなかったころ」のお話には「すでにすべてが終わった後のこと」が書き込まれているからだ。
ハイドンの「天地創造」では、夫婦となったアダムとエヴァに、大天使ウリエルが「知りうること以上のことを知ろうとしないように」と警句を与える。
それはまるで、地上と地中にウランやプルトニウムを蔓延させてしまったどこかの国の強欲と過失を予言しているかのようだ。
過失は予想され予言され、はじまりと終わりは輪のようにつながっている。
それではオペラ「古事記」はどうか。8世紀に記された日本最古の歴史書をもとに
日本創世の遥かなときを、黛敏郎氏が壮麗な歌劇にした。
オーストリアのリンツ州立劇場から委嘱を受け、1996年に初演。作曲家の遺作となった。(日本での舞台上演としては今回が初演)
はじまりの一声は、観世銕之丞による日本語の「語り」であった。
「ただときだけが流れゆく」(とこれだけ聞き取れた)
何もない、何もない、まったく何もない空間に、かすかなよじれが生じ
それが宇宙の生成となる。
気の遠くなるほど遥かな始原の状態を表す言葉だ。
風の悲鳴のような、アンドロメダ星雲のような、ダークマターかダークエネルギーを
感じさせる弦楽器の音がすごい。神聖なカオスの木霊。
背筋が凍るようだ。
そして
「始原のすべては空にして荒涼、命の萌芽はいずこに?」というコーラスとともに
ひとつ、ふたつと夜空に星がきらめき、それが瞬く間に満点の星空となる。
時間が飛び、意識が飛ぶ。もうこの演出で、古事記の世界に心奪われた。
星座の配列も見える星々の数も、古代と現代では大きく違っていることだろう。
あの舞台の暗闇に浮かぶ星空の、豊饒な夥しさは、気の遠くなるような眩暈を誘発した。
円形にくりぬかれた舞台中央の回る盤には、大勢の人々が乗っている。
そこから、最初の男神であるイザナギ、女神であるイザナミが立ち現われ
夫婦の作業として、日本の八つの島を創り出す歌を歌う。
イザナギはバリトンの甲斐栄次郎氏、イザナミはメゾの福原寿美枝氏。
なるほど。島と大地を生み出す神には、この声が似合う。
地面に沿ってグラウディングした、静かで熱い声の二人だ。
イザナミの神秘的な声はほとんどコントラルトを感じさせるふしもあり
聖なるものの顕現を音響化しているのだ。
ワーグナーのオペラに熱狂するヨーロッパ人も、これには魅了されたはず。
ドイツ語の響きが、日本の神々にはとても似合う。
古代の鈍色(にびいろ)が青銅器のひんやりとした質感を彷彿させる舞台を見ながら
「古事記」とは幾度でも編集されるのを待っているテキストなのだと思った。
怠け者の私、幾度も手に取ろうと思ったものの、訳注がついた上巻をようやく手に入れたのが、オペラを見るわずか二日前。
有名な次田真幸氏による解説は素晴らしいのだが
本気で読むなら、本居宣長がエディットしたものに触れるべきだし
さらに古事記を読んだ宣長を読んだ小林秀雄のテキストも読むべきだ。
なぜか、日本の始原にはとても強く魅かれる。
一年半前から、皇居に頭を向けて毎晩眠っているせいもある。
そして古事記は、読めばよむほど荒唐無稽で、豊かで、あっけらかんとた
清潔な書物なのだ。
この眩しいほどの清潔さは、聖書の「創世記」の比ではない。
古事記は旧約聖書よりも、オペラに相応しい素材だったと思う。
黛氏は「古事記」を、愛と寛大さの物語として編集した。
オーケストレーションは現代的で、有名な「天岩戸に隠れるアマテラス」
をおびき出すための、祭りのシークエンスなどは、ストラヴィンスキーの春の祭典を
彷彿させる。パーカッシヴで、呪術的で、祝祭的。
放逐されたスサノヲの独白の歌も無調で、抑制された色彩感がある。
しかし、現代的なものが、そのまま古代的でもあるのだ。
調性というものを発見する前の、音楽以前の人の呼吸、血脈の鼓動、祈り、
それらが託されたハーモニーには、「やまと的なるもの」の疼きが感ぜられた。
何といったらよいか。厳しくもあり、凛としていながら、とても寛容な精神が
根底にこんこんと流れているのだ。
無調なのに冷たくない。温かさを感じる音楽である。
ヤマタノオロチを退治し、出雲の国に辿り着いたスサノヲが、
回心してアシナヅチの娘クシナダと夫婦になる三幕、
姉アマテラスが、スサノヲの過去の狼藉を許し、平和を願って
皇孫ニギノミコトを彼の国の支配者として降ろす最終幕のシーンは、とても明るく美しい。
惜しむならば、三幕四幕あわせて30分という尺は、あっさりしすぎているようにも
感じられる。黛先生の絶筆でもあり、大変な中で完成したことはうかがえる。
ワーグナーの、ふてぶてしいまでの長尺に慣れた耳には
「まだまだ、まだまだ古事記を聴きたいのだ」とおかわりをしたい想いもあった。
最後、再び語り部が登場し、
「こうしてわれらの国は始まった…」と述べる。
次いで、この国と宇宙においては「愛」がすべてなのだと、
語り部は述べていた。
そこでまた、はたと色々な想いが脳裏をめぐる。
この宇宙論的なオペラには、ただひとつの大きなエネルギーが流れていたことに
包まれるような安らぎと驚きを感じた。
この古事記の世界観は、実は維新以降も日本の民間では信仰されていた。
ラフカディオ・ハーンの日本を巡る回想録や、「蝶々夫人」を見るとわかるはず。
(お手伝いさんのスズキはいつも猿田彦神を拝んでいる)
近代化と都市文明によって切り離された神話的な世界観は
つい100年前まで、我々とともに親しく生きられていたものなのだ。
神話と古事記を忘れた2011年の日本にとって、このオペラは非常に黙示録的でもあった。
黄泉の国に連れ去られた女神イザナミの無念が、地面を不安定にしているのかも知れない。
かつて荒くれ者として追放されたスサノヲは、水神として海を狂わせていた。
神話の中に半分隠された不可視の動力が、大きく車輪を回している。
(11/23 東京文化会館 指揮・大友直人 東京都交響楽団 演出・岩田達宗)
「まだ何もなかったころ」のお話には「すでにすべてが終わった後のこと」が書き込まれているからだ。
ハイドンの「天地創造」では、夫婦となったアダムとエヴァに、大天使ウリエルが「知りうること以上のことを知ろうとしないように」と警句を与える。
それはまるで、地上と地中にウランやプルトニウムを蔓延させてしまったどこかの国の強欲と過失を予言しているかのようだ。
過失は予想され予言され、はじまりと終わりは輪のようにつながっている。
それではオペラ「古事記」はどうか。8世紀に記された日本最古の歴史書をもとに
日本創世の遥かなときを、黛敏郎氏が壮麗な歌劇にした。
オーストリアのリンツ州立劇場から委嘱を受け、1996年に初演。作曲家の遺作となった。(日本での舞台上演としては今回が初演)
はじまりの一声は、観世銕之丞による日本語の「語り」であった。
「ただときだけが流れゆく」(とこれだけ聞き取れた)
何もない、何もない、まったく何もない空間に、かすかなよじれが生じ
それが宇宙の生成となる。
気の遠くなるほど遥かな始原の状態を表す言葉だ。
風の悲鳴のような、アンドロメダ星雲のような、ダークマターかダークエネルギーを
感じさせる弦楽器の音がすごい。神聖なカオスの木霊。
背筋が凍るようだ。
そして
「始原のすべては空にして荒涼、命の萌芽はいずこに?」というコーラスとともに
ひとつ、ふたつと夜空に星がきらめき、それが瞬く間に満点の星空となる。
時間が飛び、意識が飛ぶ。もうこの演出で、古事記の世界に心奪われた。
星座の配列も見える星々の数も、古代と現代では大きく違っていることだろう。
あの舞台の暗闇に浮かぶ星空の、豊饒な夥しさは、気の遠くなるような眩暈を誘発した。
円形にくりぬかれた舞台中央の回る盤には、大勢の人々が乗っている。
そこから、最初の男神であるイザナギ、女神であるイザナミが立ち現われ
夫婦の作業として、日本の八つの島を創り出す歌を歌う。
イザナギはバリトンの甲斐栄次郎氏、イザナミはメゾの福原寿美枝氏。
なるほど。島と大地を生み出す神には、この声が似合う。
地面に沿ってグラウディングした、静かで熱い声の二人だ。
イザナミの神秘的な声はほとんどコントラルトを感じさせるふしもあり
聖なるものの顕現を音響化しているのだ。
ワーグナーのオペラに熱狂するヨーロッパ人も、これには魅了されたはず。
ドイツ語の響きが、日本の神々にはとても似合う。
古代の鈍色(にびいろ)が青銅器のひんやりとした質感を彷彿させる舞台を見ながら
「古事記」とは幾度でも編集されるのを待っているテキストなのだと思った。
怠け者の私、幾度も手に取ろうと思ったものの、訳注がついた上巻をようやく手に入れたのが、オペラを見るわずか二日前。
有名な次田真幸氏による解説は素晴らしいのだが
本気で読むなら、本居宣長がエディットしたものに触れるべきだし
さらに古事記を読んだ宣長を読んだ小林秀雄のテキストも読むべきだ。
なぜか、日本の始原にはとても強く魅かれる。
一年半前から、皇居に頭を向けて毎晩眠っているせいもある。
そして古事記は、読めばよむほど荒唐無稽で、豊かで、あっけらかんとた
清潔な書物なのだ。
この眩しいほどの清潔さは、聖書の「創世記」の比ではない。
古事記は旧約聖書よりも、オペラに相応しい素材だったと思う。
黛氏は「古事記」を、愛と寛大さの物語として編集した。
オーケストレーションは現代的で、有名な「天岩戸に隠れるアマテラス」
をおびき出すための、祭りのシークエンスなどは、ストラヴィンスキーの春の祭典を
彷彿させる。パーカッシヴで、呪術的で、祝祭的。
放逐されたスサノヲの独白の歌も無調で、抑制された色彩感がある。
しかし、現代的なものが、そのまま古代的でもあるのだ。
調性というものを発見する前の、音楽以前の人の呼吸、血脈の鼓動、祈り、
それらが託されたハーモニーには、「やまと的なるもの」の疼きが感ぜられた。
何といったらよいか。厳しくもあり、凛としていながら、とても寛容な精神が
根底にこんこんと流れているのだ。
無調なのに冷たくない。温かさを感じる音楽である。
ヤマタノオロチを退治し、出雲の国に辿り着いたスサノヲが、
回心してアシナヅチの娘クシナダと夫婦になる三幕、
姉アマテラスが、スサノヲの過去の狼藉を許し、平和を願って
皇孫ニギノミコトを彼の国の支配者として降ろす最終幕のシーンは、とても明るく美しい。
惜しむならば、三幕四幕あわせて30分という尺は、あっさりしすぎているようにも
感じられる。黛先生の絶筆でもあり、大変な中で完成したことはうかがえる。
ワーグナーの、ふてぶてしいまでの長尺に慣れた耳には
「まだまだ、まだまだ古事記を聴きたいのだ」とおかわりをしたい想いもあった。
最後、再び語り部が登場し、
「こうしてわれらの国は始まった…」と述べる。
次いで、この国と宇宙においては「愛」がすべてなのだと、
語り部は述べていた。
そこでまた、はたと色々な想いが脳裏をめぐる。
この宇宙論的なオペラには、ただひとつの大きなエネルギーが流れていたことに
包まれるような安らぎと驚きを感じた。
この古事記の世界観は、実は維新以降も日本の民間では信仰されていた。
ラフカディオ・ハーンの日本を巡る回想録や、「蝶々夫人」を見るとわかるはず。
(お手伝いさんのスズキはいつも猿田彦神を拝んでいる)
近代化と都市文明によって切り離された神話的な世界観は
つい100年前まで、我々とともに親しく生きられていたものなのだ。
神話と古事記を忘れた2011年の日本にとって、このオペラは非常に黙示録的でもあった。
黄泉の国に連れ去られた女神イザナミの無念が、地面を不安定にしているのかも知れない。
かつて荒くれ者として追放されたスサノヲは、水神として海を狂わせていた。
神話の中に半分隠された不可視の動力が、大きく車輪を回している。
(11/23 東京文化会館 指揮・大友直人 東京都交響楽団 演出・岩田達宗)