万有引力とゴルトベルク コンスタンチン・リフシッツ ピアノリサイタル

2010-12-25 02:22:58 | 日記
クリスマス・イブの夜に、上野の文化会館の小ホールで、ウクライナ出身の32歳のピアニスト

コンスタンチン・リフシッツのリサイタルを聴いた。24日のバッハ・プログラムの内容は、

前奏曲とフーガ 変ホ長調BWV552「聖アンのフーガ」と、ゴルトベルク変奏曲BWV988。

前回の来日のときはコケむしたようなヒゲ面だったが、今回はさっぱりスッキリ。

体つきはよい感じに貫禄がついている。

鍵盤にしっかりと体重が乗っていて、地に足がついたいい音を出す。聴いているととてもグラウディングできるのだ。

「聖アンのフーガ」は、みしみしという肉厚の和音が次々と殺到し、素晴らしくポリフォニック(オルガンを感じる瞬間も)。

こんな指で指圧をしてもらったら、さぞ内臓も元気になるだろうな・・・と想像してしまった。

なんといってもフォルテシモが最高なのだ。丸みがあって、あたたかい(ピアノはYAMAHA)。

天才コンスタンチン少年があの立派な体格になって、ようやく完璧に出せるようになったフォルテシモかも知れない。

「21世紀はピアニシモの時代」などとうそぶいたこともある私だが、前言撤回したくなるいい音でした。

メインディッシュの「ゴルトベルク」は、かなりテンポがゆったり。アリアもどっしりとしていて丁寧だ。

そして、なんとも面白い音楽。

独創的ともいえるし、オーソドックスともいえる。

理知的か直観的かといえば、そのどちらでもなく

力強いがデリケートで、冒険的だがニュートラルなのだ。

これまで、ダメなゴルトベルクをたくさん聴いてきたが、一番多いパターンは、30曲もの変奏曲を

一貫したアプローチで演奏することができず、途中で息切れしてしまうというものだ。

「インスピレーション」などという頼りない代物では、この大曲は完成できないのだろう。

リフシッツのは、一瞬の閃光でも詩的なひらめきでもなく、どこか動物的な音楽。というより

朝から昼になり、日が沈んで夜になる、という地球の自転運動のように、とてもニュートラルなのだ。

(この譬えで、わかっていただけるかしら)

ふだん「感動」するような、意志的な演奏でも英雄的な演奏でもなく、ヒューマニズムの彼岸にある「しかるべき音」を

リフシッツは淡々と生産する(生産、という言葉がふさわしい)。

ただひたすらに、次々と放たれる「氣(き)」に圧倒され、その音楽はどこか太極拳のようでもあった。

音はたおやかな「柔(やわら)」にくるまれているが、ピアニストの肉体にはとてつもない「剛」が秘められている。

繊細な文系青年のイメージが強かったリフシッツだけど、この日のゴルトベルクはとても「黒帯」な感じ。

相手の力を利用して勝つ柔道のように、リフシッツのバッハは万有引力と地球の自転を味方にしている。

どうやってこの音を見出したのか、やはり一度話を聞いてみたいピアニストだ。

宇宙的で広大なバッハ・・・数多の器用で小奇麗な音楽を飛び越えて、のっしりとそびえたつ30の変奏曲。

ペライアの録音を神と崇めていた私でしたが、しばらくはこの演奏が決定版ゴルトベルクになりそう。









最高の愛 レオ・ヌッチ バリトン・リサイタル

2010-12-12 16:54:10 | 日記
今年68歳になる名歌手レオ・ヌッチのリサイタルを東京文化会館の最前列で聴いた。

それも舞台の中央寄りの席であったため、ヌッチのさんさんとした笑顔、激しく噴き出される唾液の飛沫、

眉のかすかな動きまで、すべてがリアルに見え、生き生きと聴こえてきた。

歌手がホールの空気を感じ、精神を鎮め、呼吸を準備し、目を見開いて最初の一声ほ発する瞬間、

つまり「歌」が生まれる瞬間を、目の前ですべて見た。偶然ではあるが、すごい幸運だ。

今まで「イタリアオペラはイタリアの歌手が一番」と仰る先輩方の意見に「そう言われたら他の国の歌手の立つ瀬がないではありませんか」と

反論とまでは言わなくても、ちょっとだけ古臭いものを感じていたのだ。が、

こういう「真髄」を聴かされると、納得しないわけにはいかない。

歌の密度が全く違うのだ。いや、イタリアの歌手のすべてがこういう表現が出来るわけではないだろう。

トスティの歌曲やベッリーニ、ロッシーニのアリアで楽しませてくれた一部も素晴らしかったが(特にセビリャの理髪師の「私は町の何でも屋」はブラボー!)

最重量級のヴェルディが立て続けに歌われた後半は、圧巻だった。

「ドン・カルロ」で、身代わりに死ぬロドリーゴが親友カルロに向かって歌う「終わりの日は来た」は、

最初声がかすれ気味ではあったが(ホールの天井を見て空調を気にしているようだった)

起伏のある長い演技を、鋭い緊張感を持続させたまま見事にやり遂げた。

何よりヌッチの歌は、最高の演劇性と深く結びついている。

彼の顔の表情ひとつで、見えない背景や巨大な舞台装置が見えてくる。闇や光や樹木や城があらわれる。

ロドリーゴが苦しみに耐えて歌う箇所では演技がすごすぎるので、本当に本人の具合が悪くて、

このまま倒れて担架で運ばれてしまうのではと、本気で心配した。

ヌッチの18番である「リゴレット」の「悪魔め、鬼め」も実に最高で、これはラストに歌われた。

愛娘がバカ息子侯爵に凌辱された上、敵のもとにいることを知ったリゴレットが

家臣たちをののしる激情的な歌だが、最後は

「この老いぼれに娘を返してくだされ。わたしには娘がすべて。お慈悲を…」と

弱弱しく嘆願する。有名なシーンだ。

熾烈な感情の昂ぶりで始まり、呪詛の言葉で闇を這いずり、やがて涙ながらに慈悲を乞うという

ひとつらなりの感情が、嵐のように表わされる。これが本当に見事だ。

ヴェルディ・バリトンは、精神的な極限状態にまで高まった怒りや憎しみを爆発的に歌う場面が多いが

ヌッチのバリトンは、そのおそろしい表面を支えているものが、どうしようもないほど豊かな情愛であることを伝えてくる。

こんな愛情深い歌を、聴いたことはなかった。

そこで、ヴェルディの偉大さも同時に理解できた。

「イタリアオペラはヴェルディ(プッチーニなんかじゃなて)」と仰る諸先輩方の声も

こういうことだったのか、と理解した。(それでもプッチーニは大好きですが)

愛に溢れた男ヌッチは、素晴らしい笑顔でカーテンコールに答え、なんと四曲もアンコールを歌った。

それもアンコールピースというより、本編に入れてもおかしくないような立派な曲を三曲歌い、最後が「オーソレ・ミオ」だったのだ。

会場はもうとんでもないことになった。みんな興奮して、涙にまみれている。

男に生まれて、こんないい「愛」をバラ撒いて生きているヌッチは、なんという幸福な人だろう。
 
性差別をするわけではないが、男でここまで「愛せる」能力を持っている人は本当に少ない。

コントロールの聴いた何種類もの声と、喜怒哀楽のみっちり詰まった歌に、脳天が真っ赤になりっ放しだったが

余韻に残ったのは、ホール全体を埋め尽くしたヌッチの「愛」だったのだ。




MET『ドン・パスクワーレ』アンナ・ネトレプコの華やぎに酔う

2010-12-09 04:10:27 | 日記
大評判のMET『ドン・パスクワーレ』を松竹のライブ・ビューイングで観る。

多作で早書きだったドニゼッティの、軽快なコメディタッチのオペラ。ヒロインのノリーナをネトレプコが歌った。

ネトレプコが「完璧ではない」ことくらい知っている。音程は甘いし、ときどきもっさりするし、言語によっては聞きとりも大変。

だけど、彼女にはいつも100点満点をあげたくなる。演劇性とセットになった声の迫力、存在感、表情、瞬発力……その場の空気を作りだす天才だ。

このオペラでは、ヒロイン以外の女性は歌わず、彼女が出てくるまで男たちばかりが歌っている。それもまだ姿を見せぬ彼女について。

だから、いよいよノリーナが登場するというシーンで、ネトレプコは観客のじらされた期待を思い切り煽る。

歌って、とびはねて、植木鉢やフライパンを放り投げ、ピンクの靴下をもてあそび、でんぐり返しをしながら

「さて皆さん、ノリーナはこういう女よ! お楽しみに」と積極的にアピールする。トゥマッチぎりぎりの爆発的な可愛らしさだ。

少し太めになっているのも、役柄的にはプラスになっていた。

ここで、ノリーナと共謀してパスクワーレをだますマラテスタ役のマリウシュ・クヴィエチェンも光る。

息がとにかくぴったりで、恋人役のポレンザーニよりも色っぽい掛け合いに聴こえる。「悪」を共謀する男女はつねにセクシーだ。

ネトレプコと共演も多く、来年の『ラ・ボエーム』でも一緒に来日する(マルチェッロかな?)。

そして、見れば見るほど、ネトレプコはすごい。何がって、反射神経が月並みではないのだ。

モノを投げたり受け取ったり、というスポーティな事から、相手との「気」の合わせ方、先取りの仕方、独演、すべてが

「はっ」とする間合いによって作られている。

パスクワーレの前に登場するシーンでは、おぼこ娘を演じているのだが、本当に10代の生娘に見える。

彼女をとりまく周波数が、そうなっているのだ。宝塚の男役が男に見えるのと同じ法則だ。

こういう人がヒロインで入ると、男たちも活気づく。恋人のエルネスト役のポレンザーニは相変わらずトランペットのような美声だし

なんといっても、主役のドン・パスクワーレのジョン・デル・カルロの芸達者なこと!

漫画よりも過激に漫画チックで、抱腹絶倒のエンターテイメントであった。

演出はオットー・シェンク。

ドニゼッティ特有の、冗長な装飾音やアジリタに合わせて、歌いてたちがうにょうにょ痙攣するような動きをするのが面白い。

要はみんな「わざと歌っている」のだ。これが楽しい。

それにしても、ネトレプコは本当に太陽のような歌手だなあ。彼女からは何かが無制限に溢れ出ている!

映像に撮られるのは好きではないらしい、という噂も聴いたが、何の問題もない。

ドニゼッティは「愛の妙薬」のアディーナも歌っているけど、こちらも必見です。

ドレスデン聖十字架合唱団・ドレスデンフィル 金星の音楽としての

2010-12-04 17:49:39 | 日記
NASAが発表した「地球外生命体」が話題だけど・・・残念ながら、リアルな宇宙人が見つかったわけではなかった。

それでも、美しい音楽やバレエ、オペラを観賞した後には、地球のスケールにはおさまらない宇宙的な何かを感じる。

なんというか・・・・「金星人」のパワーを感じるのです。

こんなふうに書くと、笑ってしまわれる方もいるだろう。

宇宙人というより、比喩としての金星人。地球の重力から解き放たれた自由で無限大な美のバイブレーションが

私にとっての「金星的」な感覚だ。

(ちなみにホルストの「金星」はとても金星の本質を表わしていると思う)

ここから先は、音楽を素材にした試論なので、スピリチュアル系が苦手な方は不快に感じるかも知れません。ご容赦ください。

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地上に人類が現れて十万年。おそろしいほどの時間を、ずっと人間は動物同然に「ただ生きて」きた。

それが一万年前に、突如として洞窟に絵を描き、言葉を見出し、種としての独自性を認識する。

いきなり「人間」というものが溢れ出し、そこから宗教、芸術、科学、愛、美、慈愛のような高等なカテゴリーが続々生まれてきた。

動物と「地球人」を分けたのは何だったのか? 特殊なタンパク質の合成パターンなのか。そうは思わない。

異次元への扉へ導いたのは、地球人の先輩である「金星人」と「火星人」であり、彼らからキャッチした霊感によって、人間のさまざまな「知」が生まれた、という説がある。

私はオカルト好きということもあって、この突拍子もない仮設を支持している。アレゴリーとしても面白いからだ。

愛、芸術、美をつかさどる金星と、支配、闘争、暴力をつかさどる火星。

時系列的には、地球人は野蛮な火星意識を超克して、慈愛の意識である金星意識へと成長を遂げなければならない。

地球上に発生する凶悪犯罪の多くが、尾骶骨のように残存した「火星人の悪い記憶」だという説もある。

金星人からのインスピレーションは全く逆で、アートや音楽に宿る特別な力と深く関係している。




ここまで書いて、何か収集がつかなくなりそうだが、先週聴いたドレスデン聖十字架合唱団&ドレスデンフィルの演奏会は

地球の古い重力から脱皮して、異なる美の次元に移行しようとしたマージナルなDNAを強く感じるものだった。

聴いたのは、ヘンデルの「メサイア」と、バッハの「マタイ受難曲」で、同じ演奏家の音楽なのに素晴らしく個性的な二つの芸術が具現化されていた。

誤解を恐れず、飛躍的な表現を使うと・・・ヘンデルは、既に金星意識の中にいる音楽(メサイア)を書き

バッハは、イエスの金星意識と、古いグラヴィティに支配さていれるがゆえに救世主を否定する「火星意識」との相克を描いた(マタイ受難曲)。

なので、燦然たる金星意識の只中にある「メサイア」は、ハイテンションで昂揚感に溢れている。

「マタイ」は火星意識の罪悪感に満ち満ちていて、光の気配を感じながらも始終闇のなかにあり、とても重い。

光(金星)と闇(火星)の意識を媒介する役目を担う、福音史家(エヴァンジェリスト)のテノールが、あんなにも悲痛なのはそのせいだ。


ドレスデンから来た9歳から19歳までの少年たち。まばゆいほどの金髪のグラデーションがステージを神々しく照らしていた。

この年齢域の男性があらわす「聖なるもの」の声は、とても鋭かった。

少年たちが持っている無邪気な聖性は、年を減ると消えていく。ヴィスコンティが「ベニスで死す」で残酷に描いたのと同じように。

マタイもメサイアも、成人の混声合唱で聴くのとは全く意味が違っていた。一気に、たくさんの直観の扉が開き、収拾がつかなくなった。

中世にルーツをもつ合唱団である彼らは、ストイックな音楽教育によってドイツの宗教音楽の伝統を守っている。

三時間半に及ぶマタイを、譜面を持ち直立して歌う子供たちの「克己」と「献身」。

そこには、どうしたって「美」が生じる。

肉体的に辛い思いをしてまで伝えたい芸術があるというのは、精神の勝利である。。

金星の景色のような少年たちの美麗な姿を見て、人類は火星に逆戻りしてはいけない・・・と強く思ったのだ。

ソリストの歌手の方々の素晴らしさは特筆に値する。特にアルトのマルグリート・ファン・ライゼンの陰影のある声に心が震えた。

「メサイア」に出演したソプラノ森麻季さんは華やかだったが、声楽的なアプローチがドイツの歌手たちと違っていたのがやや気になった。

細部はどうであれ、ものすごい光の塊を体験した。太陽と、太陽の影である皆既日食。その二つをドレスデンの音楽家たちは表していった。




すべての感覚を書き残すのは本当に難しいのですが、とても大きなものを得られた演奏会でした。
鋭い霊感を得たときに感じる、恐怖感にも似た感情を味わったのも、貴重な体験です。