クリスマス・イブの夜に、上野の文化会館の小ホールで、ウクライナ出身の32歳のピアニスト
コンスタンチン・リフシッツのリサイタルを聴いた。24日のバッハ・プログラムの内容は、
前奏曲とフーガ 変ホ長調BWV552「聖アンのフーガ」と、ゴルトベルク変奏曲BWV988。
前回の来日のときはコケむしたようなヒゲ面だったが、今回はさっぱりスッキリ。
体つきはよい感じに貫禄がついている。
鍵盤にしっかりと体重が乗っていて、地に足がついたいい音を出す。聴いているととてもグラウディングできるのだ。
「聖アンのフーガ」は、みしみしという肉厚の和音が次々と殺到し、素晴らしくポリフォニック(オルガンを感じる瞬間も)。
こんな指で指圧をしてもらったら、さぞ内臓も元気になるだろうな・・・と想像してしまった。
なんといってもフォルテシモが最高なのだ。丸みがあって、あたたかい(ピアノはYAMAHA)。
天才コンスタンチン少年があの立派な体格になって、ようやく完璧に出せるようになったフォルテシモかも知れない。
「21世紀はピアニシモの時代」などとうそぶいたこともある私だが、前言撤回したくなるいい音でした。
メインディッシュの「ゴルトベルク」は、かなりテンポがゆったり。アリアもどっしりとしていて丁寧だ。
そして、なんとも面白い音楽。
独創的ともいえるし、オーソドックスともいえる。
理知的か直観的かといえば、そのどちらでもなく
力強いがデリケートで、冒険的だがニュートラルなのだ。
これまで、ダメなゴルトベルクをたくさん聴いてきたが、一番多いパターンは、30曲もの変奏曲を
一貫したアプローチで演奏することができず、途中で息切れしてしまうというものだ。
「インスピレーション」などという頼りない代物では、この大曲は完成できないのだろう。
リフシッツのは、一瞬の閃光でも詩的なひらめきでもなく、どこか動物的な音楽。というより
朝から昼になり、日が沈んで夜になる、という地球の自転運動のように、とてもニュートラルなのだ。
(この譬えで、わかっていただけるかしら)
ふだん「感動」するような、意志的な演奏でも英雄的な演奏でもなく、ヒューマニズムの彼岸にある「しかるべき音」を
リフシッツは淡々と生産する(生産、という言葉がふさわしい)。
ただひたすらに、次々と放たれる「氣(き)」に圧倒され、その音楽はどこか太極拳のようでもあった。
音はたおやかな「柔(やわら)」にくるまれているが、ピアニストの肉体にはとてつもない「剛」が秘められている。
繊細な文系青年のイメージが強かったリフシッツだけど、この日のゴルトベルクはとても「黒帯」な感じ。
相手の力を利用して勝つ柔道のように、リフシッツのバッハは万有引力と地球の自転を味方にしている。
どうやってこの音を見出したのか、やはり一度話を聞いてみたいピアニストだ。
宇宙的で広大なバッハ・・・数多の器用で小奇麗な音楽を飛び越えて、のっしりとそびえたつ30の変奏曲。
ペライアの録音を神と崇めていた私でしたが、しばらくはこの演奏が決定版ゴルトベルクになりそう。
コンスタンチン・リフシッツのリサイタルを聴いた。24日のバッハ・プログラムの内容は、
前奏曲とフーガ 変ホ長調BWV552「聖アンのフーガ」と、ゴルトベルク変奏曲BWV988。
前回の来日のときはコケむしたようなヒゲ面だったが、今回はさっぱりスッキリ。
体つきはよい感じに貫禄がついている。
鍵盤にしっかりと体重が乗っていて、地に足がついたいい音を出す。聴いているととてもグラウディングできるのだ。
「聖アンのフーガ」は、みしみしという肉厚の和音が次々と殺到し、素晴らしくポリフォニック(オルガンを感じる瞬間も)。
こんな指で指圧をしてもらったら、さぞ内臓も元気になるだろうな・・・と想像してしまった。
なんといってもフォルテシモが最高なのだ。丸みがあって、あたたかい(ピアノはYAMAHA)。
天才コンスタンチン少年があの立派な体格になって、ようやく完璧に出せるようになったフォルテシモかも知れない。
「21世紀はピアニシモの時代」などとうそぶいたこともある私だが、前言撤回したくなるいい音でした。
メインディッシュの「ゴルトベルク」は、かなりテンポがゆったり。アリアもどっしりとしていて丁寧だ。
そして、なんとも面白い音楽。
独創的ともいえるし、オーソドックスともいえる。
理知的か直観的かといえば、そのどちらでもなく
力強いがデリケートで、冒険的だがニュートラルなのだ。
これまで、ダメなゴルトベルクをたくさん聴いてきたが、一番多いパターンは、30曲もの変奏曲を
一貫したアプローチで演奏することができず、途中で息切れしてしまうというものだ。
「インスピレーション」などという頼りない代物では、この大曲は完成できないのだろう。
リフシッツのは、一瞬の閃光でも詩的なひらめきでもなく、どこか動物的な音楽。というより
朝から昼になり、日が沈んで夜になる、という地球の自転運動のように、とてもニュートラルなのだ。
(この譬えで、わかっていただけるかしら)
ふだん「感動」するような、意志的な演奏でも英雄的な演奏でもなく、ヒューマニズムの彼岸にある「しかるべき音」を
リフシッツは淡々と生産する(生産、という言葉がふさわしい)。
ただひたすらに、次々と放たれる「氣(き)」に圧倒され、その音楽はどこか太極拳のようでもあった。
音はたおやかな「柔(やわら)」にくるまれているが、ピアニストの肉体にはとてつもない「剛」が秘められている。
繊細な文系青年のイメージが強かったリフシッツだけど、この日のゴルトベルクはとても「黒帯」な感じ。
相手の力を利用して勝つ柔道のように、リフシッツのバッハは万有引力と地球の自転を味方にしている。
どうやってこの音を見出したのか、やはり一度話を聞いてみたいピアニストだ。
宇宙的で広大なバッハ・・・数多の器用で小奇麗な音楽を飛び越えて、のっしりとそびえたつ30の変奏曲。
ペライアの録音を神と崇めていた私でしたが、しばらくはこの演奏が決定版ゴルトベルクになりそう。