マーラーの「巨人」は「龍退治の音楽」なのだな、と今日のコンサートを聴いて思った。
マーラーが最初の交響曲を書くにあたって霊感を受けたとも言われるジャン・パウルの「巨人」を私は読んでいない。
それでも、これは大きな龍を前にして戦う、小さな人間のための音楽だと確信した。
モーツァルトの「魔笛」の冒頭で、王子タミーノが怯えながら追い払おうとするあの龍だ。
20代半ばに着想され、33歳で一応完成をみるも、その後も何度も書き換えられ、改訂が加えられた「巨人」には、既に晩年期の第九交響曲の死の影が存在する。
決して明るい未来など見てはいないし、世界はこのまま悪くなるばかりだ、という諦観が分裂症的なオーケストレーションによって吐き出されている。
マーラーが神経症に悩まされたのも、50歳までしか生きられなかったのも、わかるような気がする。
巨大で不可視の暗黒エネルギーのような「見えざる龍」を相手にしていた。文学的にいうと「世界苦」とでも呼びたいようなもの。
まさにマーラーは預言者であった。彼の見ていた禍々しい龍が、2011年の演奏会ではリアルな姿でホールを満たしていた。
コバケン(小林研一郎氏)は、まるで少年のように、龍と闘っていた。マエストロが魔笛の少年王タミーノに見えた。
とても大きな大きな音楽として、「巨人」を描いていたのだ。「長くやってるからといって、わかったつもりになるなよ」という
自らへの厳しい戒めの声が感じられ、またスコアへの敬意と、マーラーへの畏敬の念に溢れた音楽を作り上げていた。
「自分はまだまだ小さい。巨峰のようなこの音楽を遥か下から見上げて、謙虚にのぼっていくしかない」というマエストロの心の声が聞こえたのだ。
コバケンがすごいのは、こういう「虚心」に戻れるところというか、とびきり新鮮な境地を鮮やかに切り開いてみせるところ。手慣れたフレーズはひとつもない。
それにしても大きな音楽、というのは果たしてどのように作られるのだろう。
オケのメンバーの数という次元の問題ではなく、いつものサントリーホールとは別のパースペクティヴを感じた。
すべてのパートの弱音が素晴らしく、ステージの袖で鳴っているように聞こえる音も、ステージの上で奏でられていた。
膨大な工夫が積み重ねられて、あの宇宙的な音だったのだろう。二楽章のスケルツォから、既に神がかり的な雰囲気になってきた。
三楽章は、民謡「マルティン兄さん」のフレーズから素っ頓狂にはじまる葬送行進曲風の楽章だが
この楽章でマーラーは、夢想と現実の境目のない、フェリーニの「8 1/2」のような通俗ぎりぎりのことをやる。
そこが、まさに素晴らしい演奏だった。そこだけ、完璧にカギカッコに入った、異教徒のイージーリスニングになっていたのだ。
交響曲の伝統を尻目にこういうことを平然とやるマーラーと、アイロニカルに作曲の意図をくみ取る指揮者&オケ。
人間の知性というのは、ここまで凄くて素晴らしい。
とにかく、二楽章から最終楽章まで、ほとんど嗚咽しながら聴いていた。
極端な譬えだが、ワーグナーがいなくなっても私はほとんど困らないが、マーラーがいないと困る。
人間が人間を賞揚できない世界、神の死をまざまざと見せつけられる時代を予見したのはマーラーのほうだった。
今日の読響は文句なしに世界一のオーケストラだったし、一楽章ごとにオケに向かってお辞儀をするコバケン氏の姿にも胸を打たれた。
お互いにリスペクトし合う、最高の芸術家の姿を見た。最後のコバケンの愛にあふれた挨拶も最高だった。
すっかり「巨人」にノックアウトされて書き忘れましたが、前半の金子三勇士さんのリストのピアノコンチェルト一番のソロも素晴らしかったです。
こういう感極まったコンサートは、本当に貴重だ。マーラーの霊魂に感謝。
マーラーが最初の交響曲を書くにあたって霊感を受けたとも言われるジャン・パウルの「巨人」を私は読んでいない。
それでも、これは大きな龍を前にして戦う、小さな人間のための音楽だと確信した。
モーツァルトの「魔笛」の冒頭で、王子タミーノが怯えながら追い払おうとするあの龍だ。
20代半ばに着想され、33歳で一応完成をみるも、その後も何度も書き換えられ、改訂が加えられた「巨人」には、既に晩年期の第九交響曲の死の影が存在する。
決して明るい未来など見てはいないし、世界はこのまま悪くなるばかりだ、という諦観が分裂症的なオーケストレーションによって吐き出されている。
マーラーが神経症に悩まされたのも、50歳までしか生きられなかったのも、わかるような気がする。
巨大で不可視の暗黒エネルギーのような「見えざる龍」を相手にしていた。文学的にいうと「世界苦」とでも呼びたいようなもの。
まさにマーラーは預言者であった。彼の見ていた禍々しい龍が、2011年の演奏会ではリアルな姿でホールを満たしていた。
コバケン(小林研一郎氏)は、まるで少年のように、龍と闘っていた。マエストロが魔笛の少年王タミーノに見えた。
とても大きな大きな音楽として、「巨人」を描いていたのだ。「長くやってるからといって、わかったつもりになるなよ」という
自らへの厳しい戒めの声が感じられ、またスコアへの敬意と、マーラーへの畏敬の念に溢れた音楽を作り上げていた。
「自分はまだまだ小さい。巨峰のようなこの音楽を遥か下から見上げて、謙虚にのぼっていくしかない」というマエストロの心の声が聞こえたのだ。
コバケンがすごいのは、こういう「虚心」に戻れるところというか、とびきり新鮮な境地を鮮やかに切り開いてみせるところ。手慣れたフレーズはひとつもない。
それにしても大きな音楽、というのは果たしてどのように作られるのだろう。
オケのメンバーの数という次元の問題ではなく、いつものサントリーホールとは別のパースペクティヴを感じた。
すべてのパートの弱音が素晴らしく、ステージの袖で鳴っているように聞こえる音も、ステージの上で奏でられていた。
膨大な工夫が積み重ねられて、あの宇宙的な音だったのだろう。二楽章のスケルツォから、既に神がかり的な雰囲気になってきた。
三楽章は、民謡「マルティン兄さん」のフレーズから素っ頓狂にはじまる葬送行進曲風の楽章だが
この楽章でマーラーは、夢想と現実の境目のない、フェリーニの「8 1/2」のような通俗ぎりぎりのことをやる。
そこが、まさに素晴らしい演奏だった。そこだけ、完璧にカギカッコに入った、異教徒のイージーリスニングになっていたのだ。
交響曲の伝統を尻目にこういうことを平然とやるマーラーと、アイロニカルに作曲の意図をくみ取る指揮者&オケ。
人間の知性というのは、ここまで凄くて素晴らしい。
とにかく、二楽章から最終楽章まで、ほとんど嗚咽しながら聴いていた。
極端な譬えだが、ワーグナーがいなくなっても私はほとんど困らないが、マーラーがいないと困る。
人間が人間を賞揚できない世界、神の死をまざまざと見せつけられる時代を予見したのはマーラーのほうだった。
今日の読響は文句なしに世界一のオーケストラだったし、一楽章ごとにオケに向かってお辞儀をするコバケン氏の姿にも胸を打たれた。
お互いにリスペクトし合う、最高の芸術家の姿を見た。最後のコバケンの愛にあふれた挨拶も最高だった。
すっかり「巨人」にノックアウトされて書き忘れましたが、前半の金子三勇士さんのリストのピアノコンチェルト一番のソロも素晴らしかったです。
こういう感極まったコンサートは、本当に貴重だ。マーラーの霊魂に感謝。