読響コバケン・スペシャル マーラー「巨人」

2011-08-25 00:46:43 | 日記
マーラーの「巨人」は「龍退治の音楽」なのだな、と今日のコンサートを聴いて思った。

マーラーが最初の交響曲を書くにあたって霊感を受けたとも言われるジャン・パウルの「巨人」を私は読んでいない。

それでも、これは大きな龍を前にして戦う、小さな人間のための音楽だと確信した。

モーツァルトの「魔笛」の冒頭で、王子タミーノが怯えながら追い払おうとするあの龍だ。

20代半ばに着想され、33歳で一応完成をみるも、その後も何度も書き換えられ、改訂が加えられた「巨人」には、既に晩年期の第九交響曲の死の影が存在する。

決して明るい未来など見てはいないし、世界はこのまま悪くなるばかりだ、という諦観が分裂症的なオーケストレーションによって吐き出されている。

マーラーが神経症に悩まされたのも、50歳までしか生きられなかったのも、わかるような気がする。

巨大で不可視の暗黒エネルギーのような「見えざる龍」を相手にしていた。文学的にいうと「世界苦」とでも呼びたいようなもの。

まさにマーラーは預言者であった。彼の見ていた禍々しい龍が、2011年の演奏会ではリアルな姿でホールを満たしていた。

コバケン(小林研一郎氏)は、まるで少年のように、龍と闘っていた。マエストロが魔笛の少年王タミーノに見えた。

とても大きな大きな音楽として、「巨人」を描いていたのだ。「長くやってるからといって、わかったつもりになるなよ」という

自らへの厳しい戒めの声が感じられ、またスコアへの敬意と、マーラーへの畏敬の念に溢れた音楽を作り上げていた。

「自分はまだまだ小さい。巨峰のようなこの音楽を遥か下から見上げて、謙虚にのぼっていくしかない」というマエストロの心の声が聞こえたのだ。

コバケンがすごいのは、こういう「虚心」に戻れるところというか、とびきり新鮮な境地を鮮やかに切り開いてみせるところ。手慣れたフレーズはひとつもない。

それにしても大きな音楽、というのは果たしてどのように作られるのだろう。

オケのメンバーの数という次元の問題ではなく、いつものサントリーホールとは別のパースペクティヴを感じた。

すべてのパートの弱音が素晴らしく、ステージの袖で鳴っているように聞こえる音も、ステージの上で奏でられていた。

膨大な工夫が積み重ねられて、あの宇宙的な音だったのだろう。二楽章のスケルツォから、既に神がかり的な雰囲気になってきた。

三楽章は、民謡「マルティン兄さん」のフレーズから素っ頓狂にはじまる葬送行進曲風の楽章だが

この楽章でマーラーは、夢想と現実の境目のない、フェリーニの「8 1/2」のような通俗ぎりぎりのことをやる。

そこが、まさに素晴らしい演奏だった。そこだけ、完璧にカギカッコに入った、異教徒のイージーリスニングになっていたのだ。

交響曲の伝統を尻目にこういうことを平然とやるマーラーと、アイロニカルに作曲の意図をくみ取る指揮者&オケ。

人間の知性というのは、ここまで凄くて素晴らしい。

とにかく、二楽章から最終楽章まで、ほとんど嗚咽しながら聴いていた。

極端な譬えだが、ワーグナーがいなくなっても私はほとんど困らないが、マーラーがいないと困る。

人間が人間を賞揚できない世界、神の死をまざまざと見せつけられる時代を予見したのはマーラーのほうだった。

今日の読響は文句なしに世界一のオーケストラだったし、一楽章ごとにオケに向かってお辞儀をするコバケン氏の姿にも胸を打たれた。

お互いにリスペクトし合う、最高の芸術家の姿を見た。最後のコバケンの愛にあふれた挨拶も最高だった。

すっかり「巨人」にノックアウトされて書き忘れましたが、前半の金子三勇士さんのリストのピアノコンチェルト一番のソロも素晴らしかったです。

こういう感極まったコンサートは、本当に貴重だ。マーラーの霊魂に感謝。



読響サマーフェスティバル 三大協奏曲

2011-08-20 01:55:39 | 日記
名曲というのは「見れど飽かぬ」景色のようなもので、何度繰り返し聴いても楽しく、そのたびに新しく生まれ出でたような新鮮さで心に迫ってくる。

見れど飽かぬのは「美人」もそうだが…まるで掛詞のように「三大協奏曲」を「三人の美女ソリスト」が演奏した今日の読響のサマーコンサート。

名曲のせいか、美人のせいか、お客さんもかなり入っていた…ゲストはヴァイオリンの川久保賜紀さん、
チェロの遠藤真理さん、ピアノの三浦友理枝さん。トリオで演奏することも多い三人だ。

まず、川久保さんのメンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルト ホ短調にほうっとなる。

以前、チャイコのニ長調を聴いたときも思ったが、川久保さんのユニークな音には最初の一音でノックアウトされてしまう。

クライスラーが持っていた音ってこんなふうだったろうか?極端にクラシカルなのか、それとも未来的なのか。多分その両方だ。

つむじの上のクラウン・チャクラを刺激される神秘的な音で、地上のものとは思えないほど、崇高なのだ。

それがメンデルスゾーンと出会うと、このロマン派の曲がほとんど病的なほどの気高さを帯びる。

一楽章のあの息の長い展開は、作曲者自身が脳内麻薬を出しまくって書いたものとしか思えないし、

モノローグのようになる長いソロ部分も、ぶっ飛びまくっている。聴いていると意識がトリップしそうだ。

これほどメジャーな曲なのに、全然陳腐にならない。ナイフのように危険で、近寄りがたいのだ。

指揮は梅田俊明さん。三楽章が極端に早く感じられる棒で、それに軽々とついていく川久保さんがすごかった。
オケにはもう少したっぷり歌ってほしかったかも…。何しろこの猛暑だし、特に弦楽器は湿気でご機嫌ななめのはず。

夏場の日本でオケを鳴らすというのは、ある意味とんでもない重労働だ。

次の曲は、ドヴォルザークのチェロ協奏曲。温かみのある演奏で、小柄な遠藤真理さんがダイナミックな音を奏でる。

ドヴォルザークには、つねづね「おっさんの中の乙女心」を感じてきたが、このチェロ協奏曲もいたるところで乙女なシークエンスが爆発する。また聴いてみたい曲だ。

意外な発見続きだったのは、休憩をはさんで最後に演じられた三浦友理枝さんのチャイコフスキーのピアノ・コンチェルト。

三浦さんのことは、2000年のショパン・コンクールの頃から意識していたが、とても繊細で控え目な音をもった人だという印象がある。

それが、今日は違った。というか、彼女自身が重い扉を開けて、次の部屋に入っていくのがライブで見られた。

あのモニュメンタルな導入部の和音から、迷いがない。鍵盤への体重の乗せ方が、すごくしっかりしていた。

骨太で輪郭の大きなロシアのロマン派を表そう、という意思が感じられたし、ところどころ、リストに通じる狂騒的なヴィルトゥオジティを

この曲に感じた。改めて聴くと、ディテールがすごくクレイジーなのだ。哄笑のごときメフィスト・ワルツが頭をかすめる。

三浦さんの打鍵は「楷書のチャイコ」と言いたいほど律義で、一音もごまかさず、

重い石を積み上げるように音符を積み上げていく。弱音のコントロールもいい。生真面目な音楽なのだが、とにかく「強さ」がある。

そのまっすぐな力は、終わり近くに吹き荒れるユニゾンのオクターヴで大爆発した。

何かに勝利したかのような、栄えあるユニゾンだった。なんと。愛らしい三浦さんの姿に、黒帯のマスターが二重写しになった。

三楽章は、ピアコンでもやや走っていた感じがしたが、ソリストにとってはどう感じられただろう?

このコンチェルト、オケがのろのろしていてもピアノは苦しそうだし(チャイコフスキー・コンクールの本選でそんな光景が)

一気呵成に走ったほうがやりやすいのかも。ともあれ今日のオケはあくまで主役はソリスト、というポジションに徹していたように

感じられた。春に聴いた「火の鳥」のひらめきを思い出すとやや寂しくないこともなかったが

ソリストの霊感が引き立つ、好感度の高いコンサートでした。