キーシンの魅力はミステリアスだ。
ピアノという楽器は非常にパーソナルな性格を持っているため、演奏家の性格的な強烈さや偏りといったものをダイレクトに映し出す。
ピアニストの魅力とは、しばしば「歪み」であったり「破綻」であったりする。
マシナリーでメカニカルな超越性を湛えたグールドや、極端に遅い演奏で延々と引き伸ばされた時間を創出するポゴレリチ、
音楽とはほぼ無縁かも知れない文学的な境地に出口を見出すヴァレリー・アファナシェフ…
ピアニストは「エキセントリックさ」が、大きな魅力になる。
しかし、キーシンはすべてが自然で、その音楽美は「個性」を超越している。
グールドのバッハやポゴレリチのショパン、アファナシェフのブラームスは
ピアニストの解釈が作曲家をのっとって突き出した、とても先端的なものだが
キーシンのショパンは、あくまでもショパンだ。
すべての和音やスケールは、ショパンに所属し、その宇宙で歓喜の叫びをあげている。
それでも、模範的でも中庸というのでもない。明らかな芸術的興奮を感じる演奏なのだ。
10/10のリサイタルは、当初バースデイ企画として、アルゲリッチも参加予定だったが
彼女が体調を崩して来日できなかったため、後半は丸々キーシンのソロになった。
前半のクニャーゼフとの共演は、シューマンの幻想曲集とラフマニノフのチェロ・ソナタ。
ラフマニノフに、特に心を打たれた。ロシア的な恍惚を炎のように歌い上げるクニャーゼフを
キーシンは的確に支えていた。ちょっとした「行き違い」が破綻に通じてしまうほど
ピアノとチェロが堅密に織り込まれた曲なのだが、キーシンは素晴らしいデリカシーで
弦楽器の「歌」を支え、気品のある世界を完成させていた。
二人の間の、言葉にならない深い信頼のようなものも、感じられた。
後半のショパンでは、たくさんのことを感じた。
ショパンのロ短調のピアノソナタ三番は、誰にも似ていないキーシンだけの音楽で
独特の優雅さに溢れている。
キーシンは、聴き手の期待する昂揚感がおとずれるタイミングより、ほんのわずかだけ「遅く」弾く。
ピアニストが明らかに興奮し、昂揚するようなシークエンスにさしかかると
キーシンはいっそうつつましくなる。ペダルは最小限になり、
絢爛たるスケールや分散和音は、とても「中立的」な音になる。
突出的になりやすい華やかな部分が、キーシンにおいては最も控え目に演奏されるのだ。
その時間感覚は、実に洗練されている。
こちらの先走る感情とシンクロせず、微細にズレることで、より大きな輪郭線を描くのがキーシンの方法だ。
それは巧みに仕組まれたものというより、むしろとても自然な印象をもたらす。
音楽は最初から最後まで、キーシンの手中にあり、大きなひとつの流れの中に組み込まれている。
三楽章のラルゴの美しさは絶品だった。
それだけでひとつの幻想曲のようで、清らかな源泉から溢れ出る川の流れを思わせる。
最後は、幾重にも滲んだ輪郭線が、ここではないどこかへと心を運んでいくかのようだった。
それらすべては魔法か催眠術のようで、とらえがたい精妙な美の法則に従っているのだ。
キーシンはカリスマでも曲芸師でもオカルティストでもない。
あえていえば詩人だが、その詩的言語はあらゆる重力やローカリティから逃れている。
キーシンは「ロシア的」でさえない。
この透明でありながら、確固とした音楽の様式には、毎度驚きを禁じ得ない。
これはもう、ありきたりの芸術家の自我を越えている。
神様からの贈り物としか思えないのだ。
40歳のバースデイ・コンサートはキーシンの初来日から四半世紀のメモリアルとも重なった。
15歳当時、彼は天使のような美少年だった。
聴衆からひたすら愛され続けて大人になった彼。
ミステリアスな演奏の、インスピレーションの源泉になっているものは、
本人にも説明がつかないのではないか?
あらためて、この世界にとってかけがえのない芸術家だと思った。
(10/23のリスト・プログラムも聴きにいく予定です)
ピアノという楽器は非常にパーソナルな性格を持っているため、演奏家の性格的な強烈さや偏りといったものをダイレクトに映し出す。
ピアニストの魅力とは、しばしば「歪み」であったり「破綻」であったりする。
マシナリーでメカニカルな超越性を湛えたグールドや、極端に遅い演奏で延々と引き伸ばされた時間を創出するポゴレリチ、
音楽とはほぼ無縁かも知れない文学的な境地に出口を見出すヴァレリー・アファナシェフ…
ピアニストは「エキセントリックさ」が、大きな魅力になる。
しかし、キーシンはすべてが自然で、その音楽美は「個性」を超越している。
グールドのバッハやポゴレリチのショパン、アファナシェフのブラームスは
ピアニストの解釈が作曲家をのっとって突き出した、とても先端的なものだが
キーシンのショパンは、あくまでもショパンだ。
すべての和音やスケールは、ショパンに所属し、その宇宙で歓喜の叫びをあげている。
それでも、模範的でも中庸というのでもない。明らかな芸術的興奮を感じる演奏なのだ。
10/10のリサイタルは、当初バースデイ企画として、アルゲリッチも参加予定だったが
彼女が体調を崩して来日できなかったため、後半は丸々キーシンのソロになった。
前半のクニャーゼフとの共演は、シューマンの幻想曲集とラフマニノフのチェロ・ソナタ。
ラフマニノフに、特に心を打たれた。ロシア的な恍惚を炎のように歌い上げるクニャーゼフを
キーシンは的確に支えていた。ちょっとした「行き違い」が破綻に通じてしまうほど
ピアノとチェロが堅密に織り込まれた曲なのだが、キーシンは素晴らしいデリカシーで
弦楽器の「歌」を支え、気品のある世界を完成させていた。
二人の間の、言葉にならない深い信頼のようなものも、感じられた。
後半のショパンでは、たくさんのことを感じた。
ショパンのロ短調のピアノソナタ三番は、誰にも似ていないキーシンだけの音楽で
独特の優雅さに溢れている。
キーシンは、聴き手の期待する昂揚感がおとずれるタイミングより、ほんのわずかだけ「遅く」弾く。
ピアニストが明らかに興奮し、昂揚するようなシークエンスにさしかかると
キーシンはいっそうつつましくなる。ペダルは最小限になり、
絢爛たるスケールや分散和音は、とても「中立的」な音になる。
突出的になりやすい華やかな部分が、キーシンにおいては最も控え目に演奏されるのだ。
その時間感覚は、実に洗練されている。
こちらの先走る感情とシンクロせず、微細にズレることで、より大きな輪郭線を描くのがキーシンの方法だ。
それは巧みに仕組まれたものというより、むしろとても自然な印象をもたらす。
音楽は最初から最後まで、キーシンの手中にあり、大きなひとつの流れの中に組み込まれている。
三楽章のラルゴの美しさは絶品だった。
それだけでひとつの幻想曲のようで、清らかな源泉から溢れ出る川の流れを思わせる。
最後は、幾重にも滲んだ輪郭線が、ここではないどこかへと心を運んでいくかのようだった。
それらすべては魔法か催眠術のようで、とらえがたい精妙な美の法則に従っているのだ。
キーシンはカリスマでも曲芸師でもオカルティストでもない。
あえていえば詩人だが、その詩的言語はあらゆる重力やローカリティから逃れている。
キーシンは「ロシア的」でさえない。
この透明でありながら、確固とした音楽の様式には、毎度驚きを禁じ得ない。
これはもう、ありきたりの芸術家の自我を越えている。
神様からの贈り物としか思えないのだ。
40歳のバースデイ・コンサートはキーシンの初来日から四半世紀のメモリアルとも重なった。
15歳当時、彼は天使のような美少年だった。
聴衆からひたすら愛され続けて大人になった彼。
ミステリアスな演奏の、インスピレーションの源泉になっているものは、
本人にも説明がつかないのではないか?
あらためて、この世界にとってかけがえのない芸術家だと思った。
(10/23のリスト・プログラムも聴きにいく予定です)