エディタ・グルベローヴァ オペラ・引き返せない旅

2011-10-05 01:09:22 | 日記
ボローニャ熱さめやらぬまま、来日中のバイエルン国立歌劇場に足を運んでいる。
土日も通いづめ。正直、お金がもうない。
こうなったら三食バナナでも冷ごはんでもお湯でも何でもいいのだ。
なんとしても観たいと思うのは、オペラの上演というのが特別な時間だと思うから。
膨大な人間と、膨大な準備のための時間、心と身体のエネルギー、成功させるための情熱と善意が集結している。
三時間ほどの本番のために、ありとあらゆるクリエイティヴィティが集まり
観客とともに燃焼し、消えていく。
考えれば考えるほど、貴重で奇跡的な瞬間だ。

そこに、ソリストという大輪の花がトッピングされる。
ドニゼッティの「ロベルト・デヴェリュー」は、エディタ・グルベローヴァなしには成立しない。御年65歳。堂々たるものだ。昔のグルベローヴァを知らない私にとっては
今の彼女が一番。全盛期はすごかった、という人もいる。高音ももっと楽々出て
一音もかすれたり、弱弱しくなったりはしなかったとも。
しかし、舞台の彼女と向き合っていると、そんな「物理的」なことは、どうでもよくなる。
ドニゼッティが書いた不自然にも感じられる異様な高音のフレーズを
次から次へと歌う。小鳥の声、というより、もっと超越的で触れられない何かだ。
「ロベルト…」は声楽的な危険だらけのオペラなのだ。
(だから滅多に上演されない)
フィギュアスケートで転倒したら、その選手は不運だったと思われるだろう。
声楽家は、それでは済まされない。毎度毎度、リスクを華麗に乗り越えて
輝いていなければならないのだ。不公平なほどの期待の大きさ。

グルベローヴァは、ドニゼッティが仕掛けた断崖絶壁をいくつも乗り越え、決してひるまなかった。
年齢を考えて「引き返す」ことなど論外なのだろう。
そんなことをするくらいなら、最初からこのオペラをレパートリーに入れることもなかった、とでも言いたげだ。
グルベローヴァの夫君であるマエストロ、フリードリッヒ・ハイダーは、歌手のための完璧な「背景」を作り出す。そこで歌が成功しなければ、すべてが崩壊してしまうような緊張感をオケのほうから作り出すので、聴いているほうもかなり神経を使った。
しかし歌手のほうは、ここまでやってくれたほうが歌いやすいのかも知れない。

脇役のサラは、メゾのソニア・ガナッシが見事に歌った。アングルを変えると、サラが主人公にもなる物語だ。もちろんグルベローヴァはそんなことはさせないが、ガナッシの存在感は並外れていた。ロベルトの心はサラに向かっている。相思相愛を引き裂かれ、愛する男の命乞いをする女の、身も世もない心を、これ以上ないというほど生々しく歌った。この歌がまた、主役を裸にする。グルベローヴァとガナッシは、まさにタイガー&ドラゴンという趣だった。

2人の女に執着されるロベルト・デヴェリューは、6月のMETの公演で「ランメルモールのルチア」のエドガルド役(代役)で活躍したアレクセイ・ドルゴフ。
ロシア人の若手だが、あのときよりさらにうまくなっている。
拷問にあいながら服をむしられ、目かくしされて下着姿で歌う最後は、あられもない「人間の真実」を表現しているようだった。

ラスト、グルベローヴァ演じるエリサベッタは、金髪の髪の毛を脱ぎ捨て、薄毛の頭をさらす。ケイト・ブランシェットが映画で演じたエリザベス一世がよみがえる。
女としての幸福を自らに禁じ、国民のアイコンとして処女を貫いたエリザベスの、プライベートな「はげ頭」だ。鋭い演出だと思った。最後の高音もすさまじい。少しフラットしていたが、そんなことはどうでもいい。血が溢れるような声だった。

オペラ、「高いチケット代を払ったからお客がエライ」という世界では、ない。
世にも稀なるシチュエーションで、音楽家たちの勇敢さを「見せていただきに」劇場に行くのだ。舞台での見事な精神力は、誰にも触れられないし、壊すこともできない。
音楽的な満足以上に、私にとって魅力的なのはそのパワーなのである。

(翌日鑑賞した「ローエングリン」についても後ほど書きます)