愛情という名の知性 バルバラ・フリットリ ソプラノリサイタル

2012-01-27 05:10:11 | 日記
世界で五本の指に入るトップレベルのプリマドンナなのに、とてもフレンドリーでボーイッシュな人。
昨年のメトロポリタン・オペラの『ラ・ボエーム』の楽日に、楽屋口でサイン会に並んだ時
神々しいディーバのイメージとは別の、豪快で快活なユーモアセンスを見せてくれた。
一人一点が原則のサイン会なのに、オペラグラスにも書いて欲しいとワガママを言ったら
「もちろんいいわよ!」とスマイル。さばさばしていて、なんだか肝っ玉母さんみたい。
「あ、すごく頭のいい人だな」と思った。
彼女が被災した日本のために用意してくれたプロマイド(サイン入り)は
フレームに入れて私の寝室に飾ってある。

芸術と人柄は切り離せない。
文学でも、他のアートでも「作品は作品、人は人」とドライなことを言う人もいる。
でも、その人が24時間抱えている性格や気持ちは隠せない。表現には全て反映する。
彼や彼女が、この世界にどんな愛情を抱いているか? というのは私にとって一番重要だ。
舞台人は、孤高の挑戦者でもある。
そのせいか、試練を乗り越えてひとかどの成功者になった人には冷淡なタイプもいて
取材中に縮みあがってしまうほど、厳しいバリアを張るソプラノも知っている。

私がバルバラ・フリットリを好きなのは、彼女の素晴らしさが特別なもので
それが、とても知的で温かいものに支えられているのを感じるから。
彼女を見ていると、これほどまでに自分を磨き、上り詰めてしまった人は
もう、世界を愛するしかないんだな、と思ってしまう。
今回のAプログラムには、R・シュトラウスの「四つの最後の歌」が入っていた。
後半のヴェルディも勿論楽しみだったが、彼女が歌うR・シュトラウスがどうしても聴きたかった。
この曲が大好きなので、演奏される機会があると、歌手やオケを問わず聴いてきた。
CDでは、決定盤のシュワルツコップと、ニーナ・シュテンメの録音が好きだ。
ヘッセとアイヒェンドルフの歌詞も素晴らしい。
魂の復活と永遠を思わせる「春」、現世の終わりと休息を暗示する「九月」
まるで死そのものの「眠りにつこうとして」。
唯一のアイヒェンドルフの詩「夕映えの中で」は、魂が肉体から抜ける瞬間が
射抜くような言葉で描写されている。
エロス・タナトスが混然一体となった境地だ。

以前、一度だけインタビューをしたアンナ・ネトレプコに
この曲を歌いたくないかと質問したことがある。
「大好きな曲よ! でももっと声が成熟してからでないと!」
なるほど。ソプラノ歌手にとって、そういう側面がある曲なのかも知れない。
バルバラも、「今がそのとき」と思ったのか。
一曲目の歌い出しから、全身が震えた。
オペラという演劇的世界とは別次元の、抽象的で霊的な世界を
ほの暗いスピントで発声してみせた。
うねるようなオーケストラの渦の中にいて、どの瞬間も、音楽への愛情が溢れていた。
「眠りにつこうとして」には、とても美しいヴァイオリンのシークエンスがあるのだが
それを聴いているときの彼女の表情が、よかった。見ていて涙が出た。
その瞬間のクオリティのすべて…音楽と空間と時間にたっぷりと注がれたフリットリの
とても豊かな心の力が、ストレートに伝わってきたのだ。

バルバラの「愛情」は、彼女の知性の高さが支えていると思う。
METの『ドン・ジョヴァンニ』では、未練たらしいドンナ・エルヴィラを歌った。
「今、とても演技に興味があるの。エルヴィラは演劇的に興味深い役でしょ?」とコメントしていたが
確かに、古臭いバロック的なフレーズを繰り返し歌うエルヴィラは
ドンナ・アンナほどの歌唱的な見せ場はないが、とても重要な役だ。
悪い男をとことん愛して、騙されて、その滑稽な様子を隠そうともしない。
ここには、女の愛の本質めいたものがある。
バルバラの洞察的な知性は、エルヴィラこそが『ドン・ジョヴァンニ』の
肝であることを見抜いた。
彼女が舞台でもたらす感動も、「役に入り込む」という表現では収まらない。
それ以上の深い分析がある。物語を構成しているさまざまな感情すべてを理解し
そのパーツとして、象徴的に自分の役を演じている。
ボエームのミミを歌うのはあまり好きでない、という発言もうなづける。
音楽は素晴らしくても、ミミの役柄には広い意味で「世界の本質」に触れるものがない。
歴史的に傷ついてきた女の魂は、ドンナ・エルヴィーラにしか表現できないのだ。
彼女は、役柄の固有名詞を越えた「魂の性質」を歌い切る。

その作業はとても愛情に溢れている。寛大さと美意識と知性が一体となった
大きなパワーは、陳腐でも「愛」としか呼びようがない。

R・シュトラウスの「四つの最後の歌」は、
イタリア人の誇りをもってヴェルディのヒロインを歌い込んだバルバラ・フリットリが
次に目指したい世界なのだと確信した。
オペラでは、ヒロインの愛と犠牲と悲劇と転落を完璧に演じ尽くしてきた。
凄まじいクオリティで、本質をつかみ、達成してきた役柄は、これからも歌い続けるだろう。
後半の『トロヴァトーレ』『シモン・ボッカネグラ』『運命の力』も見事だった。
それでも、彼女が究極的に愛しているのは個別の役ではなく
その役柄に象徴される「世界」の歪みや欠落や過剰なのだと感じる。
ある種の歌曲には、オペラを作り上げている感情の「すべて」が含まれていることがある。
シュトラウスの曲がまさにそれだった。

私も、音楽やオペラという「様式」をマニアックに愛しているわけではないと気づいた。
そこに吹きこまれている「すべて」に興味がある。
文学でも絵画でも映画でも。
バルバラが、鮮やかに気づかせてくれた。

1969年生まれの指揮者カルロ・テナンはオーボエ奏者出身のイタリア人で
若々しい大きな振り。活力のあるダイナミックな音を引き出していた。
プッチーニはアンコールのみだったが(『氷のような姫君の心も』)
『トスカ』や『トゥーランドット』を全幕で聴いてみたいと思った。

バルバラが歌うリューは、勿論最高でした。





威厳とフェミニティ 上原彩子ピアノリサイタル

2012-01-16 02:47:47 | 日記
プログラムは、前半がベートーヴェンの悲愴ソナタ、
リストの「詩的で宗教的な調べ」より「孤独のなかの神の祝福」と、「リゴレット・パラフレーズ」
後半が、ラフマニノフの練習曲集「音の絵」だった。
燃焼を抑え、内観で弾かれたベートーヴェンもよかったが
彼女の「いま」が感じられるリストとラフマニノフに、特に感動した。
秘められた炎を感じる演奏だった。
タッチは繊細で、透明感にあふれ
テクニカルなパッセージも内容が濃いので、浮いた「技術」を感じない。
強い想念が伝わってきて、それはゆるぎない彼女の内面の芯だった。
ラフマニノフは、「音の絵」から9曲が演奏されたが、
楽曲の性格に従って多彩なニュアンスで描き分けられ、
うつろいゆくものの儚さ、寂寥感が伝わってきた。
リストに至っては、何かを透視しているような「鏡の向こう側」の音を感じたのだ。
亡霊のような孤独感とともに、かすかなぬくもりも感じられる。
触れないのに、触りたくなる音。
このリストは、女性にしか弾くことのできないリストなのでは? と思った。

ヴィルトゥオーゾ・ピアニストとしてはではなく、
内省的な宗教家としての個性が噴出した時代のリストの作品は
女性ピアニストととても相性がいい。
「女性から選ばれる」男リストを感じるというか。
ジェンダーによる差別はしてはならないが、派手さを抑えて
豊饒さを霧のように拡散していくリストの後期作品には
とてもデリケートなニュアンスがある。
女性が愛すべきものが、たくさん詰まっているのだ。

あるピアニストの音が女性的だとか男性的だとか、断じるのは
おそらく大雑把すぎる。
いわく言い難く精妙なバランスが、その人の個性を作っているのだから。
それでも、リストのある時代の作品だけは「女性にしかそこにはいけない」という
境地を感じることがある。ある種の霊感の共有であり、
リストが女性から愛された理由もそこにあるような気がする。
魂に触れてくる微妙さがあるのだ。
女のほうから、リストに触れたくてたまらなくなる。
それは、(皮肉にも)リストが僧籍に入った後期の作品に集中しているのだ。

上原さんのリストは、彼女の奥深いところにあるフェミニティと
奇跡的なバランスで響き合っていた。リストの宗教性は、女性の本能的な「慈愛」と
シンクロしているのかも知れない。
「詩的で宗教的な調べ」の優しさと謙虚さは、母性的なものともつながっている。

このリサイタルのあと、METのオペラ映画で「ファウスト」を観た。
ファウストに捨てられて正気を失い、みずからの手で嬰児をあやめてしまう
マルグリットの姿を見て「女性は、なんてやられっぱなしなの!」
と憤懣やるかたない想いになった。
女は、こんなふうに長らく弱い性であったために、特殊な強さを身に着けた。
自分が愛したくないものに対しては、徹底して身を閉じるという強さだ。
男性に対しては、特にそうだ。間違った触り方をする相手に対して
女性は拒絶する権利がある。心も身体も。
どんな暴力も強制も、この女の決意の前には無力だ。

リストの音楽の前で「すべてを開く」という感覚を
女性ピアニストは実際に感じているのかどうか、わからない。
もしあるとしたら、それはとても現実的な感覚であろうとも想像する。
男性芸術家ほど、女性芸術家は「現実逃避的」ではいられない。
霊感のために、「山籠もり」はできないのだ。
小さなお子さんのいる上原さんの音楽からは、そんなことも感じた。

アンコールの「愛の夢」は、鍵盤の上を柔軟に踊る指に驚かされた。
摩擦や、でこぼことしたところは少しもない。
愛の歓喜の背後にある、絶対的な安心感に
「女」のあるべき心の姿をみたような気がした。






シューベルトの生き地獄 イアン・ボストリッジ テノール・リサイタル

2012-01-10 23:27:09 | 日記
英国人テノール歌手のイアン・ボストリッジは、相変わらずエンピツのようなスレンダーな身体つきだった。
身長は182,3といったところだろうか? ほっそりとした長身に、いかにも英国人的な上品な顔が乗っている。
「クラシック界のデヴィッド・ボウイ」と呼んだ人がいた。
確かに、あの青白い孤高の存在感は、70年代末のベリルン時代のボウイを彷彿させないこともない。
オックスフォードでは歴史学を学び、魔術の歴史についての博士号も持っているという。
ストイックな美意識と、どこかエキセントリックなスパイスが、どこの国でもない「イギリス風」だ。

震災のために延期されていた待望のリサイタルだった。
二列目の席から彼の姿を見、声を聴いた。
シューベルトの「白鳥の歌」は、パッパーノが伴奏をしたEMIの録音があるが
当然のことながら、ホールに響き渡る生の声は比較にならないほどの迫力で
ドラマティックな陰影に富んでいる。
そして、ボストリッジのステージでの存在感は、年々凄くなってきている。
シューベルトだから、というのもあるのだろう。
格別の愛情をもって、歌いこんでいる。

歌曲のコンサートというよりも、モノオペラのようでもあった。
伴奏者とともにステージに現れたボストリッジの表情は、とても暗い。
この世の終わりのような顔つき。それもそうだ。
一曲目の「水鏡」は、待ち合わせの場所ですっぽかしを食らっている漁師が
水面に恋する女性の幻影をみて、小川に落ちそうになっている曲だ。
「冬の夕べ」では、歌い手のまわりが月の光に満たされた夜の森になった。
寒々とした空気に包まれているようで、本当に寒く感じられ
マフラーを肩に巻いて震えながら聴いてしまった。
歌手の声と表情で、ホールの温度までも変わってしまうのだ。

シューベルトは、恋愛に失望していた。
それだけでなく、人生にも。「白鳥の歌」は彼の晩年の作で
すでに梅毒で余命いくばくもない、死の予感の中で書かれた歌曲集だ。
だから、ボストリッジはどの曲にも「諦観」と「失望」を込める。
かりそめの明るさを装った「春のあこがれ」のような曲も
つかの間の幻影のように、びっくり目をしてあっという間に歌い終える。
この人生に、安息の地はない。岩にねそべって夜を明かす兵士のように
シューベルトの魂もまた、安らぎを求めて得られぬまま肉体から抜けていった。

その「一切皆苦」の心境を、ボストリッジは痩躯を折り曲げたり、伸びをしたりして
全身全霊で歌う。ワンフレーズも、おざなりにされた句はなかった。
二列目で聴いていたので、忙しく動く眉、額のしわ、首筋に浮かび上がる血管が
とても痛々しく見えたほどだった。
こんなことをして、歌手は死んでしまわないのか?
なにしろ、声を支える脂肪がほとんどないのだ。ほぼ骨と皮だけの身体なのに
鬼気迫る精神力が、まるで遥か彼方から何かを呼び寄せるようにして
あの奇跡的な声を響き渡らせるのだ。
なんというか、まさに魔術だ。
実際、ずいぶん危険なことをするなぁ、と思えた箇所もあった。
しかし、一音もかすれず、外れない。どれだけの鍛錬がこの美声を支えているのか。
芸術家は皆クレイジーでマニアックだが、この人は本当に度を越している。

ピアノはベテランのグレアム・ジョンソン。本当に見事だった。
シューベルトの歌曲の天才は、伴奏の多彩さにも負うところが多い。
歌手の邪魔をせず、無駄がなく、墨絵のような幽玄を表現する。
シューペルトの後期ソナタの「彼岸」の感覚を「白鳥の歌」は最も濃厚に共有している。
ボストリッジも、慈しむようにピアノの音を聴いていた。
孤独な魂の旅の、唯一の相棒であるかのような、そんな表情だった。

「白鳥の歌」は、現世の温かさや明るさを、
違う次元から寂しげに眺めている音楽なのだ。
既に肉体は終わりに近づき、魂はこの世にさようならを告げて
霧の中の小舟を進んでいかねばならない。
休憩なしの一時間5分。
無限とも思われた「ボストリッジ時間」は幕を閉じ、
大理石の肌をした歌手は、深々とお辞儀をしてステージを去った。