世界で五本の指に入るトップレベルのプリマドンナなのに、とてもフレンドリーでボーイッシュな人。
昨年のメトロポリタン・オペラの『ラ・ボエーム』の楽日に、楽屋口でサイン会に並んだ時
神々しいディーバのイメージとは別の、豪快で快活なユーモアセンスを見せてくれた。
一人一点が原則のサイン会なのに、オペラグラスにも書いて欲しいとワガママを言ったら
「もちろんいいわよ!」とスマイル。さばさばしていて、なんだか肝っ玉母さんみたい。
「あ、すごく頭のいい人だな」と思った。
彼女が被災した日本のために用意してくれたプロマイド(サイン入り)は
フレームに入れて私の寝室に飾ってある。
芸術と人柄は切り離せない。
文学でも、他のアートでも「作品は作品、人は人」とドライなことを言う人もいる。
でも、その人が24時間抱えている性格や気持ちは隠せない。表現には全て反映する。
彼や彼女が、この世界にどんな愛情を抱いているか? というのは私にとって一番重要だ。
舞台人は、孤高の挑戦者でもある。
そのせいか、試練を乗り越えてひとかどの成功者になった人には冷淡なタイプもいて
取材中に縮みあがってしまうほど、厳しいバリアを張るソプラノも知っている。
私がバルバラ・フリットリを好きなのは、彼女の素晴らしさが特別なもので
それが、とても知的で温かいものに支えられているのを感じるから。
彼女を見ていると、これほどまでに自分を磨き、上り詰めてしまった人は
もう、世界を愛するしかないんだな、と思ってしまう。
今回のAプログラムには、R・シュトラウスの「四つの最後の歌」が入っていた。
後半のヴェルディも勿論楽しみだったが、彼女が歌うR・シュトラウスがどうしても聴きたかった。
この曲が大好きなので、演奏される機会があると、歌手やオケを問わず聴いてきた。
CDでは、決定盤のシュワルツコップと、ニーナ・シュテンメの録音が好きだ。
ヘッセとアイヒェンドルフの歌詞も素晴らしい。
魂の復活と永遠を思わせる「春」、現世の終わりと休息を暗示する「九月」
まるで死そのものの「眠りにつこうとして」。
唯一のアイヒェンドルフの詩「夕映えの中で」は、魂が肉体から抜ける瞬間が
射抜くような言葉で描写されている。
エロス・タナトスが混然一体となった境地だ。
以前、一度だけインタビューをしたアンナ・ネトレプコに
この曲を歌いたくないかと質問したことがある。
「大好きな曲よ! でももっと声が成熟してからでないと!」
なるほど。ソプラノ歌手にとって、そういう側面がある曲なのかも知れない。
バルバラも、「今がそのとき」と思ったのか。
一曲目の歌い出しから、全身が震えた。
オペラという演劇的世界とは別次元の、抽象的で霊的な世界を
ほの暗いスピントで発声してみせた。
うねるようなオーケストラの渦の中にいて、どの瞬間も、音楽への愛情が溢れていた。
「眠りにつこうとして」には、とても美しいヴァイオリンのシークエンスがあるのだが
それを聴いているときの彼女の表情が、よかった。見ていて涙が出た。
その瞬間のクオリティのすべて…音楽と空間と時間にたっぷりと注がれたフリットリの
とても豊かな心の力が、ストレートに伝わってきたのだ。
バルバラの「愛情」は、彼女の知性の高さが支えていると思う。
METの『ドン・ジョヴァンニ』では、未練たらしいドンナ・エルヴィラを歌った。
「今、とても演技に興味があるの。エルヴィラは演劇的に興味深い役でしょ?」とコメントしていたが
確かに、古臭いバロック的なフレーズを繰り返し歌うエルヴィラは
ドンナ・アンナほどの歌唱的な見せ場はないが、とても重要な役だ。
悪い男をとことん愛して、騙されて、その滑稽な様子を隠そうともしない。
ここには、女の愛の本質めいたものがある。
バルバラの洞察的な知性は、エルヴィラこそが『ドン・ジョヴァンニ』の
肝であることを見抜いた。
彼女が舞台でもたらす感動も、「役に入り込む」という表現では収まらない。
それ以上の深い分析がある。物語を構成しているさまざまな感情すべてを理解し
そのパーツとして、象徴的に自分の役を演じている。
ボエームのミミを歌うのはあまり好きでない、という発言もうなづける。
音楽は素晴らしくても、ミミの役柄には広い意味で「世界の本質」に触れるものがない。
歴史的に傷ついてきた女の魂は、ドンナ・エルヴィーラにしか表現できないのだ。
彼女は、役柄の固有名詞を越えた「魂の性質」を歌い切る。
その作業はとても愛情に溢れている。寛大さと美意識と知性が一体となった
大きなパワーは、陳腐でも「愛」としか呼びようがない。
R・シュトラウスの「四つの最後の歌」は、
イタリア人の誇りをもってヴェルディのヒロインを歌い込んだバルバラ・フリットリが
次に目指したい世界なのだと確信した。
オペラでは、ヒロインの愛と犠牲と悲劇と転落を完璧に演じ尽くしてきた。
凄まじいクオリティで、本質をつかみ、達成してきた役柄は、これからも歌い続けるだろう。
後半の『トロヴァトーレ』『シモン・ボッカネグラ』『運命の力』も見事だった。
それでも、彼女が究極的に愛しているのは個別の役ではなく
その役柄に象徴される「世界」の歪みや欠落や過剰なのだと感じる。
ある種の歌曲には、オペラを作り上げている感情の「すべて」が含まれていることがある。
シュトラウスの曲がまさにそれだった。
私も、音楽やオペラという「様式」をマニアックに愛しているわけではないと気づいた。
そこに吹きこまれている「すべて」に興味がある。
文学でも絵画でも映画でも。
バルバラが、鮮やかに気づかせてくれた。
1969年生まれの指揮者カルロ・テナンはオーボエ奏者出身のイタリア人で
若々しい大きな振り。活力のあるダイナミックな音を引き出していた。
プッチーニはアンコールのみだったが(『氷のような姫君の心も』)
『トスカ』や『トゥーランドット』を全幕で聴いてみたいと思った。
バルバラが歌うリューは、勿論最高でした。
昨年のメトロポリタン・オペラの『ラ・ボエーム』の楽日に、楽屋口でサイン会に並んだ時
神々しいディーバのイメージとは別の、豪快で快活なユーモアセンスを見せてくれた。
一人一点が原則のサイン会なのに、オペラグラスにも書いて欲しいとワガママを言ったら
「もちろんいいわよ!」とスマイル。さばさばしていて、なんだか肝っ玉母さんみたい。
「あ、すごく頭のいい人だな」と思った。
彼女が被災した日本のために用意してくれたプロマイド(サイン入り)は
フレームに入れて私の寝室に飾ってある。
芸術と人柄は切り離せない。
文学でも、他のアートでも「作品は作品、人は人」とドライなことを言う人もいる。
でも、その人が24時間抱えている性格や気持ちは隠せない。表現には全て反映する。
彼や彼女が、この世界にどんな愛情を抱いているか? というのは私にとって一番重要だ。
舞台人は、孤高の挑戦者でもある。
そのせいか、試練を乗り越えてひとかどの成功者になった人には冷淡なタイプもいて
取材中に縮みあがってしまうほど、厳しいバリアを張るソプラノも知っている。
私がバルバラ・フリットリを好きなのは、彼女の素晴らしさが特別なもので
それが、とても知的で温かいものに支えられているのを感じるから。
彼女を見ていると、これほどまでに自分を磨き、上り詰めてしまった人は
もう、世界を愛するしかないんだな、と思ってしまう。
今回のAプログラムには、R・シュトラウスの「四つの最後の歌」が入っていた。
後半のヴェルディも勿論楽しみだったが、彼女が歌うR・シュトラウスがどうしても聴きたかった。
この曲が大好きなので、演奏される機会があると、歌手やオケを問わず聴いてきた。
CDでは、決定盤のシュワルツコップと、ニーナ・シュテンメの録音が好きだ。
ヘッセとアイヒェンドルフの歌詞も素晴らしい。
魂の復活と永遠を思わせる「春」、現世の終わりと休息を暗示する「九月」
まるで死そのものの「眠りにつこうとして」。
唯一のアイヒェンドルフの詩「夕映えの中で」は、魂が肉体から抜ける瞬間が
射抜くような言葉で描写されている。
エロス・タナトスが混然一体となった境地だ。
以前、一度だけインタビューをしたアンナ・ネトレプコに
この曲を歌いたくないかと質問したことがある。
「大好きな曲よ! でももっと声が成熟してからでないと!」
なるほど。ソプラノ歌手にとって、そういう側面がある曲なのかも知れない。
バルバラも、「今がそのとき」と思ったのか。
一曲目の歌い出しから、全身が震えた。
オペラという演劇的世界とは別次元の、抽象的で霊的な世界を
ほの暗いスピントで発声してみせた。
うねるようなオーケストラの渦の中にいて、どの瞬間も、音楽への愛情が溢れていた。
「眠りにつこうとして」には、とても美しいヴァイオリンのシークエンスがあるのだが
それを聴いているときの彼女の表情が、よかった。見ていて涙が出た。
その瞬間のクオリティのすべて…音楽と空間と時間にたっぷりと注がれたフリットリの
とても豊かな心の力が、ストレートに伝わってきたのだ。
バルバラの「愛情」は、彼女の知性の高さが支えていると思う。
METの『ドン・ジョヴァンニ』では、未練たらしいドンナ・エルヴィラを歌った。
「今、とても演技に興味があるの。エルヴィラは演劇的に興味深い役でしょ?」とコメントしていたが
確かに、古臭いバロック的なフレーズを繰り返し歌うエルヴィラは
ドンナ・アンナほどの歌唱的な見せ場はないが、とても重要な役だ。
悪い男をとことん愛して、騙されて、その滑稽な様子を隠そうともしない。
ここには、女の愛の本質めいたものがある。
バルバラの洞察的な知性は、エルヴィラこそが『ドン・ジョヴァンニ』の
肝であることを見抜いた。
彼女が舞台でもたらす感動も、「役に入り込む」という表現では収まらない。
それ以上の深い分析がある。物語を構成しているさまざまな感情すべてを理解し
そのパーツとして、象徴的に自分の役を演じている。
ボエームのミミを歌うのはあまり好きでない、という発言もうなづける。
音楽は素晴らしくても、ミミの役柄には広い意味で「世界の本質」に触れるものがない。
歴史的に傷ついてきた女の魂は、ドンナ・エルヴィーラにしか表現できないのだ。
彼女は、役柄の固有名詞を越えた「魂の性質」を歌い切る。
その作業はとても愛情に溢れている。寛大さと美意識と知性が一体となった
大きなパワーは、陳腐でも「愛」としか呼びようがない。
R・シュトラウスの「四つの最後の歌」は、
イタリア人の誇りをもってヴェルディのヒロインを歌い込んだバルバラ・フリットリが
次に目指したい世界なのだと確信した。
オペラでは、ヒロインの愛と犠牲と悲劇と転落を完璧に演じ尽くしてきた。
凄まじいクオリティで、本質をつかみ、達成してきた役柄は、これからも歌い続けるだろう。
後半の『トロヴァトーレ』『シモン・ボッカネグラ』『運命の力』も見事だった。
それでも、彼女が究極的に愛しているのは個別の役ではなく
その役柄に象徴される「世界」の歪みや欠落や過剰なのだと感じる。
ある種の歌曲には、オペラを作り上げている感情の「すべて」が含まれていることがある。
シュトラウスの曲がまさにそれだった。
私も、音楽やオペラという「様式」をマニアックに愛しているわけではないと気づいた。
そこに吹きこまれている「すべて」に興味がある。
文学でも絵画でも映画でも。
バルバラが、鮮やかに気づかせてくれた。
1969年生まれの指揮者カルロ・テナンはオーボエ奏者出身のイタリア人で
若々しい大きな振り。活力のあるダイナミックな音を引き出していた。
プッチーニはアンコールのみだったが(『氷のような姫君の心も』)
『トスカ』や『トゥーランドット』を全幕で聴いてみたいと思った。
バルバラが歌うリューは、勿論最高でした。