異彩のダイヤモンド ネマニャ・ラドゥロヴィチ「悪魔のトリル」

2011-03-08 02:21:30 | 日記
花でも、歌声でも、人の顔でも、その空間から飛びぬけたような美しさを放つものは

どこか、日常から離れた「異」なる要素をもっている。花は、素朴に咲いていても十分に愛らしいが

人の心を射抜き、死の淵まで連れ去るほどの花も、まれに存在する。

トーマス・マンが「ヴェニスに死す」でマーラーに似せた主人公に見せたのは

そういう黄泉への誘いとしての「花」だったし、アートや音楽の『値打ち』も

どれだけ異次元へとつながる輝きを宿していたか、が重要であるように思う。

言葉で色々言うより、脳に落ちてくる「!?」マークのようなもの。

人の声やヴァイオリンの音というのは、花と同じで「ああ、ああいう音なのね」と思ってやり過ごせば

退屈で、わざわざお金を払ってまで聴きたいとは思わないが、「今ここにある」という

現前性---プレザンスの威力が凄まじい。今ここで咲いている花の官能性や清冽さは

「花」という概念を超えて、飛びぬけて狂おしく、生き生きとみずみずしいのだ。

ネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリンも、そういった現前する「殺気」を持っていた。

旧ユーゴ出身で、幼少期を戦火の中ですごし、少年時代のリサイタルでは

痩せすぎのためズボンが演奏中にずりおちて、パンツ一丁になってしまったというエピソードも持つ。

彼の独特の風貌、長身やせ形でカーリーヘア、大きく目をみひらいて表情たっぷりに弾く姿は、スターそのもので

最初にステージでの演奏を聴いたときは「21世紀のパガニーニ」だと思った。

オペラシティ・コンサートホールでのパフォーマンスでは、弦楽クインテットの仲間たちと共演し

ヴィエニャフスキやシューベルト、ヴィターリのシャコンヌやチャイコフスキーを弾いた。

演奏中「なぜこの音にクオリティを感じるのか」について、目をつぶって考えていた。

輝かしく、透明なカットダイヤのような音が、あらゆる瞬間に飛び散る。

東欧的な、フォークロアなものへの愛着を見せつつも、ネマニャの音はすごく非現実的な響きがした。

たとえば、最近のムターのヴァイオリンは、ほとんど彼岸で鳴っているような

オカルティックな幽玄の美にあふれているが、ネマニャは同じ「彼岸の音」でありながら

室町ロココの金箔だらけの屏風画のように豪華絢爛なのだ。

純粋に、中性的な音であり、むしろプリマ・バレリーナのソロのような

抽象化された女性美を感じる瞬間もあった。ヒリヒリするほど「地面」から離れているのに

心ではどこか地球の泥臭さを懐かしんでいる。チャイコフスキーの「なつかしい土地の思い出」などを弾く。

アンサンブルのメンバーは、全員相当うまかったが、ネマニャの音は明らかに主役の音で

彼の音だけが「異」のレベルが桁外れなのだ。

しかも、ただエキセントリックなのではなくて、その異質さの中に、誰をも魅了するものがある。

この音を、すぐに忘れたくない、しばらくは鮮烈に思い出していたい、と思った。

生死をさまよった子供時代、ヴァイオリンがネマニャを現実逃避させてくれる「どこでもドア」

であったことは想像に難くない。

楽しそうに弾いているが、彼の音楽は素晴らしい現実逃避の賜物。

だからこそ、この人は本物の芸術家なのだと思った。

死の危機と現実への絶望が、ダイヤの飛沫を散らす瞬間芸に変化(へんげ)する。

ヴァイオリンって本当に「悪魔の楽器」です。