花でも、歌声でも、人の顔でも、その空間から飛びぬけたような美しさを放つものは
どこか、日常から離れた「異」なる要素をもっている。花は、素朴に咲いていても十分に愛らしいが
人の心を射抜き、死の淵まで連れ去るほどの花も、まれに存在する。
トーマス・マンが「ヴェニスに死す」でマーラーに似せた主人公に見せたのは
そういう黄泉への誘いとしての「花」だったし、アートや音楽の『値打ち』も
どれだけ異次元へとつながる輝きを宿していたか、が重要であるように思う。
言葉で色々言うより、脳に落ちてくる「!?」マークのようなもの。
人の声やヴァイオリンの音というのは、花と同じで「ああ、ああいう音なのね」と思ってやり過ごせば
退屈で、わざわざお金を払ってまで聴きたいとは思わないが、「今ここにある」という
現前性---プレザンスの威力が凄まじい。今ここで咲いている花の官能性や清冽さは
「花」という概念を超えて、飛びぬけて狂おしく、生き生きとみずみずしいのだ。
ネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリンも、そういった現前する「殺気」を持っていた。
旧ユーゴ出身で、幼少期を戦火の中ですごし、少年時代のリサイタルでは
痩せすぎのためズボンが演奏中にずりおちて、パンツ一丁になってしまったというエピソードも持つ。
彼の独特の風貌、長身やせ形でカーリーヘア、大きく目をみひらいて表情たっぷりに弾く姿は、スターそのもので
最初にステージでの演奏を聴いたときは「21世紀のパガニーニ」だと思った。
オペラシティ・コンサートホールでのパフォーマンスでは、弦楽クインテットの仲間たちと共演し
ヴィエニャフスキやシューベルト、ヴィターリのシャコンヌやチャイコフスキーを弾いた。
演奏中「なぜこの音にクオリティを感じるのか」について、目をつぶって考えていた。
輝かしく、透明なカットダイヤのような音が、あらゆる瞬間に飛び散る。
東欧的な、フォークロアなものへの愛着を見せつつも、ネマニャの音はすごく非現実的な響きがした。
たとえば、最近のムターのヴァイオリンは、ほとんど彼岸で鳴っているような
オカルティックな幽玄の美にあふれているが、ネマニャは同じ「彼岸の音」でありながら
室町ロココの金箔だらけの屏風画のように豪華絢爛なのだ。
純粋に、中性的な音であり、むしろプリマ・バレリーナのソロのような
抽象化された女性美を感じる瞬間もあった。ヒリヒリするほど「地面」から離れているのに
心ではどこか地球の泥臭さを懐かしんでいる。チャイコフスキーの「なつかしい土地の思い出」などを弾く。
アンサンブルのメンバーは、全員相当うまかったが、ネマニャの音は明らかに主役の音で
彼の音だけが「異」のレベルが桁外れなのだ。
しかも、ただエキセントリックなのではなくて、その異質さの中に、誰をも魅了するものがある。
この音を、すぐに忘れたくない、しばらくは鮮烈に思い出していたい、と思った。
生死をさまよった子供時代、ヴァイオリンがネマニャを現実逃避させてくれる「どこでもドア」
であったことは想像に難くない。
楽しそうに弾いているが、彼の音楽は素晴らしい現実逃避の賜物。
だからこそ、この人は本物の芸術家なのだと思った。
死の危機と現実への絶望が、ダイヤの飛沫を散らす瞬間芸に変化(へんげ)する。
ヴァイオリンって本当に「悪魔の楽器」です。
どこか、日常から離れた「異」なる要素をもっている。花は、素朴に咲いていても十分に愛らしいが
人の心を射抜き、死の淵まで連れ去るほどの花も、まれに存在する。
トーマス・マンが「ヴェニスに死す」でマーラーに似せた主人公に見せたのは
そういう黄泉への誘いとしての「花」だったし、アートや音楽の『値打ち』も
どれだけ異次元へとつながる輝きを宿していたか、が重要であるように思う。
言葉で色々言うより、脳に落ちてくる「!?」マークのようなもの。
人の声やヴァイオリンの音というのは、花と同じで「ああ、ああいう音なのね」と思ってやり過ごせば
退屈で、わざわざお金を払ってまで聴きたいとは思わないが、「今ここにある」という
現前性---プレザンスの威力が凄まじい。今ここで咲いている花の官能性や清冽さは
「花」という概念を超えて、飛びぬけて狂おしく、生き生きとみずみずしいのだ。
ネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリンも、そういった現前する「殺気」を持っていた。
旧ユーゴ出身で、幼少期を戦火の中ですごし、少年時代のリサイタルでは
痩せすぎのためズボンが演奏中にずりおちて、パンツ一丁になってしまったというエピソードも持つ。
彼の独特の風貌、長身やせ形でカーリーヘア、大きく目をみひらいて表情たっぷりに弾く姿は、スターそのもので
最初にステージでの演奏を聴いたときは「21世紀のパガニーニ」だと思った。
オペラシティ・コンサートホールでのパフォーマンスでは、弦楽クインテットの仲間たちと共演し
ヴィエニャフスキやシューベルト、ヴィターリのシャコンヌやチャイコフスキーを弾いた。
演奏中「なぜこの音にクオリティを感じるのか」について、目をつぶって考えていた。
輝かしく、透明なカットダイヤのような音が、あらゆる瞬間に飛び散る。
東欧的な、フォークロアなものへの愛着を見せつつも、ネマニャの音はすごく非現実的な響きがした。
たとえば、最近のムターのヴァイオリンは、ほとんど彼岸で鳴っているような
オカルティックな幽玄の美にあふれているが、ネマニャは同じ「彼岸の音」でありながら
室町ロココの金箔だらけの屏風画のように豪華絢爛なのだ。
純粋に、中性的な音であり、むしろプリマ・バレリーナのソロのような
抽象化された女性美を感じる瞬間もあった。ヒリヒリするほど「地面」から離れているのに
心ではどこか地球の泥臭さを懐かしんでいる。チャイコフスキーの「なつかしい土地の思い出」などを弾く。
アンサンブルのメンバーは、全員相当うまかったが、ネマニャの音は明らかに主役の音で
彼の音だけが「異」のレベルが桁外れなのだ。
しかも、ただエキセントリックなのではなくて、その異質さの中に、誰をも魅了するものがある。
この音を、すぐに忘れたくない、しばらくは鮮烈に思い出していたい、と思った。
生死をさまよった子供時代、ヴァイオリンがネマニャを現実逃避させてくれる「どこでもドア」
であったことは想像に難くない。
楽しそうに弾いているが、彼の音楽は素晴らしい現実逃避の賜物。
だからこそ、この人は本物の芸術家なのだと思った。
死の危機と現実への絶望が、ダイヤの飛沫を散らす瞬間芸に変化(へんげ)する。
ヴァイオリンって本当に「悪魔の楽器」です。