ヤクブ・フルシャ×東京都交響楽団『第九』

2016-12-27 11:08:14 | 日記
フルシャ×都響の第九は最終日のサントリーホールの公演を聴いた。
超満員のソールドアウトで、なんとかチケットを購入させていただき一階前方で聴いたが、ステージと地続きになっているような聴覚体験で、床から熱い湯気が立っている熱感覚を得た。
フルシャにインタビューをするため、数日前に稽古を見学したのだが、上野の稽古場でも、実は同じ経験をした。音がすごい勢いで床に共鳴し(壁や天井ではなく)、
ティンパニだけでなく弦も管も、椅子から臀部に伝導し、臓器に響いてくるのだった。
オケが乗っている同じ床の上で聴いていたから当然のことかも知れないが、サントリーの本番でも音の重心が下にあり、特に1楽章と2楽章は臍から下に響いた。
とても肉体的なベートーヴェンで、最初から形而上的な世界へ行くのではなく「まず地上の人間ありき」という音楽に感じられた。

稽古を見学したときに思ったのは、やはり都響は「うまい」ということだった。
フルシャはほぼ出来上がっている第九の、細かいアーティキュレーションを修正し
その都度歌って聴かせたり、面白いトークをしたり、不思議な沈黙の後に爆笑をとったりしていたが、
本番では稽古のときに語ったり歌ったりしたことを、より激しくなったジェスチャーで再び伝えていたのが見事だった。
稽古のあとの取材で、フルシャが本当にプレイヤーを尊敬していること、彼が考える指揮者の役割についてなど聞いたが
音楽について「本能」「直観」という言葉が出てきたのにはっとした。
スコアの知的分析と同時に、本能と直観をハーモニーさせることが指揮者としての「美に到達するための作業」だと語ってくれた。

都響の第九にはフルシャの知性とともに本能と直観が貫かれていて
凄い緊張感で完璧な演奏をしたティンパニの久一さんが、フルシャの肉体感覚と一部始終つながっていた。
二楽章は本番であんなに野性的になるとは想像していなかったが、ベートーヴェンの痙攣的なフレーズがダイレクトに強調され、短い休符が完璧に真空になるのが見事だった。オケの集中力が尋常でない。
ベートーヴェンの極端な痙攣性は、古楽的な拍節感で切り込んでいくのがトレンドであるような気もするが、それより大きな編成で演奏することによって、別種の表現力が生まれるのだ。
二楽章でのフルシャは一人芝居の役者のようで、音楽を一秒ももらさず身体で表し、バロック彫刻の塑像のように驚いた表情で完璧に静止したポーズで終わった。

三楽章の美しさはたとえようもない。都響の弦のクオリティの高さを実感するシークエンスで、ここから声楽のソリストが入るのだが、稽古のときソリストの方の一人がこの音楽を聴いて「えっ? この綺麗なオケはどういうふうに鳴ってるの?」という表情をされ、その瞬間目があってしまった。第九を何十回聴いても巡り合えないような美音で、自然や光や神の恩恵といったものに全身が包まれるような心地になる。
ティンパニはさすがにここで休まなければしんどいよな…と思ってチラチラ久一さんを見ていたが三楽章でも実はティンパニは活動していて、とても柔らかな音を出していた。

ここで一気にアタッカで四楽章へ続くのかと思ったら、休止が入った。
最初はそのことが少し意外だった。フルシャは勢いに任せて四楽章に突っ込むのが嫌で
ヤンソンスと同い年になったらアタッカで行くのかも…などと妄想していた。
バリトンの甲斐栄次郎さんが龍神のような歌唱をサントリーの空間に響かせ、そのあとのテノール福井敬さんの輝かしい歌声を聴いたとき、第九の四楽章はそれまでとは違う世界で
未知への冒険であり、様式からはみ出してしまった想像力の膨張であり、ほとんど耳が聞こえなくなっていたベートーヴェンの「にもかかわらず」のサイケデリックな楽観の象徴であることを思った。
シラーの「歓喜に寄す」で描かれる人間賛歌には、原罪のストーリーから脱皮した
宇宙的といっていいほどのオプティミズムを感じる。音楽によってそのようなものになったのだが、これはやはり「人間が神である」ことの宣誓なのだ。
いきなり交響曲に合唱と声楽ソロが「乱入」する斬新さを、再び鮮烈に感じて心震えた。
あらゆるクラシックのモダン表現の胚珠が第九にはあり、様式から中身があふれてくることの驚きと喜びが渦巻いている。
人間が予定調和から踏み出して飛行機が飛び、宇宙ロケットが飛び、そのうちタイムワープも実現していく未来が見えるようだった。
合唱もオケも過熱し、熱狂し、強烈な光のエネルギーに昇華して、音楽は「終わる」というより、人間からのメッセージとして果てしない宇宙空間へ解き放たれていった印象を得た。

演奏会の最初から最後までがあっという間で、少しのストレスも感じなかったのは
ステージの上の都響の楽員さんたちが、真に幸福な気持ちで演奏していたからだと思う。
フルシャもそのことを望んでおり、「全員が幸福である」演奏が第九には相応しく
絶対的支配による、犠牲をともなう達成というものは不要なのだろう。
献身と犠牲とは明らかに違う。そのことをオーケストラからはいつも教わる。
音は解き放たれた物理的事象とともに、無尽蔵の無意識から成る象徴であり
成熟した指揮者は音楽のなかで、顕在意識と潜在意識の健全な交流と、男性性と女性性の幸福な結合を実現するのだ。
「どこが世界の中心か?」という疑問に、どういう答えを出すか。
書かれた歴史の合理性の裏に隠された、無尽蔵の非合理性を思い、
人類の本当の姿を顕すために、芸術表現があることの誇りを実感した。









ヤクブ・フルシャ×東京都交響楽団 定期演奏会A

2016-12-20 02:08:12 | 日記
首席客演指揮者フルシャと都響との2年ぶりの再会。初共演の2008年には26歳の青年だったフルシャは、
ここ数年であっという間に世界を席巻するマエストロとなり、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、ウィーン国立歌劇場、スイスロマンド管、ミラノスカラ座フィルハーモニー管にデビュー、
チェコ・フィルに続いてバンベルク響の首席指揮者のポストも新たに得た。

2年ぶりに聴くフルシャは、どれだけカリスマティックになっているのだろうか…。
あれこれ想像しながらマルティヌー『交響曲第5番』から聴いた。以前からフルシャが同郷の作曲家として頻繁に取り上げてきたマルティヌーだが、この5番のシンフォニーを聴くのは初めて。
第一楽章はバレエ音楽のようで、象徴派的なおごそかな弦の帯によって、たなびく紫雲のような図柄が広がりだす。
ピアノが粋なアクセントを入れてくるので、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」や「結婚」を思い出さずにはいられない。
人の声とやまごひこの対話のような楽器同士のダイアローグがあり、
緊迫感のあるストーリーを彷彿させるサウンドは、童話のような絵を思わせる。
森の中で迷子になり、雨宿りした小屋で面白おかしい動物たちの饗宴に出くわして、奇妙な乾杯を交わし、最後は愉快なダンスパーティになってしまった…といった奇々怪々なストーリーを妄想していた。
うごめいているのは小動物か、人形か、妖精か…。
細かく刻まれた弦と木管の断片、タイミングの良い打楽器、それらすべてが、異次元世界の中で起こる奇妙な出来事のようで、
後半は戦争を彷彿させる爆音の交差と、戦士の休息を思わせるメランコリックな弦のロングトーンが臓腑に染みわたった。

これが果たして名曲か否か…そんなことはもはやどうでもよく、フルシャがこの曲に感じている好奇心が、すみずみまで楽員たちに染みわたっていて、
テクニック的にも各パートのめざましいパフォーマンスの連続となった。
録音によってはずいぶんキッチュでチャカポコとした曲に仕上がっているものもあるが
フルシャと都響の演奏は真にシンフォニックな緊張感とスケール感があり、迫力のあるfffもすべて上品に聴こえた。
明らかに分裂的な性格のある曲だが、どんな楽想の変化もオーガニックな流れの中に取り込んで、自然で身体になじむ音楽にしてしまえるのがフルシャのすごいところだ。
シンフォニーは戦争映画風の打楽器によって締め括られ、客席から大きな喝采が起こった。

休憩時間にフォレスティーユ精養軒でハヤシライスを食べながら(客は二人だけ)「フルシャは果たして変わったのだろうか…」とつらつらと昔の演奏を思い出したりしていた。
記憶は断片的だが、フルシャは立ち姿の貫禄こそ増したものの何も変わっておらず、余計な殻をいくつも脱ぎ捨てて、より彼自身になっているという感触があった。

後半のショスタコーヴィチ交響曲第10番の冒頭は「火の鳥」のような響きではじまった。
前半のマルティヌーで「ペトルーシュカ」を、後半で「火の鳥」を思い出したのは面白い。
サウンドは放物線を描くように飛び、正確な中心線が左右からの音の響きを捉え、シンメトリーで巨大な絵画を描いているようだった。
一楽章では、かなりはっきりと…私の耳にはドヴォルザークのさまざまな音型が聴こえた。
ショスタコーヴィチの10番でドヴォルザークの9番やチェロコンがこんなにたくさん聴こえたのは初めてのことで、
フルシャにとって意図的なのか、無意識なのか、はたまた私の単なる妄想なのかはわからないが、
フルシャなら「ドヴォルザークを愛するようにショスタコーヴィチを愛する」ことも不可能ではないと思われた。
まず、驚くほど透明で大きく、ゆがみのない健全な指揮者の精神がある。
この夜の都響は、どのパートも譜面から綺麗な音譜が飛び出してくるような超絶技巧の連続で、全パートのパフォーマンスが絶好調だった。
それは指揮者の心の状態そのもので、フルシャは自分自身を肯定するのと同じようにオーケストラを肯定する。
「自分を敬うがごとく他人も敬う」という感覚が感じられた。ともすると陳腐な表現だが、
この基本的な人間観が、フルシャの指揮者としての才能を最大化させているのではないか?

指揮者というのは、太陽のようだ。
元気がないと、オケもしぼんだ風船のようになる。指揮者の生命力が、オーケストラの生命を作る。
そして、わずか三日ほどのリハーサルで一回の演奏会を完成してしまえる彼らには
特別な魔法の関係があるような気がしてならないのだ。
「指揮者がそこにいるだけで、音楽は何割がたか出来てしまっている」という話をよく聞く。
指揮者は一人だが、彼の肉親がいて、先祖がいて、友人がいて、通学路の池やポプラの木や夕日やアメンボウがいて、その記憶と時間の集積がいわば「彼」なのだ。
そうしたすべてのものに包まれた指揮者が、自分の故国や故郷を愛し、自分と家族を愛し
同じように目の前のオーケストラを愛したら、素晴らしい音楽が出来るに決まっている。
自己否定や人間否定、愛の否定からオーケストラの名演が生まれる可能性は低い。

フルシャのショスタコーヴィチは激高し、炸裂し、疾走し、グロテスク・ダンスもあらわれたが
コンサートは愛と寛大さと、指揮者を作り上げた温かい時間から作り上げられていた。
それはとても未来的なショスタコーヴィチに感じられたのだ。
怒りや否定性を、役者のように「描写的に演じる」のはオーケストラでやることとは少し違うのかも知れない。
葛藤や退廃を暗示した音楽にあっても、自分の魂が真摯に向きあった結果、幸福な音楽になるのだとしたら、指揮者が祝福された存在だからだ。
フルシャがフルシャ自身であることに揺らぎがなく、音楽はしっかりと地に根を張っていた。
地面に杭打たれたショスタコーヴィチの魂が、勢いよく空中に投げ込まれていく様子は
オーケストラのカラフルな花火のようだった。

自己を肯定する…ということに、何の躊躇もない人は神から祝福されている。
ここ一か月ほど、自己を肯定するたびに傷つくようなことが何度かあり「自分」などというややこしいものを捨てて、そのへんに埋もれてしまおうかと何度も考えた。
自分が好きなものというのは、自分の本質を肯定してくれるもので、逆に嫌いなものは自分を否定してくるものだ。
ブロムシュテット、ハーディング、ヤンソンス、ノット、ポゴレリッチは見事なまでに自分の心に突き刺さってきた。
芸術家である彼らもまた、自己を勇敢に肯定して生きている。
「自己」とは祖先からくるのか、魂からくるのか…それぞれの体に刻印されたスピリットは
それぞれの名前のように宿命的だ。
ヘルベルト、ダニエル、マリス、ジョナサン、イーヴォの魂がユニークであるように、
ヤクブの精神にも守護神が宿り、使命をまっとうするよう背中に張り付いている。
自己を肯定することは、エゴを超えているのだ…フルシャがフルシャらしさを掘り下げて
そのことで、次々と大きなステージへ迎え入れられていることが嬉しかった。
崇高なコンサートのあとに、ひどく庶民的なことを考えてしまったのだ。
この年末は早めに田舎に帰って、両親の顔をしげしげと眺めて、小学校の通学路を散歩しなければ…音楽が背中を押していた。













イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル

2016-12-14 11:53:26 | 日記
ポゴレリッチの弾くショパンの葬送ソナタを初めて聴いたときの驚きは忘れられない。
ピアニスト本人が作曲したような演奏で、感情的な抑揚がすべて抜き取られ、左手の煩瑣なフレーズは驚くほど均質で、フォルテの打鍵はギロチンのようだった。
演奏家は作曲家のもとにあっては、下僕のような存在だという謙虚なピアニストもいる。
ポゴレリッチの演奏は、すべての音符がピアニストの奴隷であった。
20代前半のグラモフォンの録音はショパンコンクールに参加した翌年のもので、この「解釈」でポゴレリッチは
コンクールの落第生となり、アルゲリッチはそのことに怒って審査員を放棄してワルシャワから帰国してしまった。

「これはすごい未来のある演奏だ」と思ったのを覚えている。
当時はロックに夢中で、それほどたくさんのクラシックを聴いていたわけではなかったが
ポゴレリッチは未来的なロック・スターのような存在に思えたのだ。
彼の才能は複合的なもので、肉体的には大きな手と強い指の持ち主で、精神面で強靭なスタミナがあり、その上頭脳明晰で異常なほどの集中力があったが
それを統合しているのは、独特の未来感覚であった。演奏を通じてイコールでつながれているとは思えないものをつなげる魔法を見せてくれる。
「演奏家は作曲家と対等な存在である」という発見をしたのは、彼の演奏によってであった。

2016年のサントリーホールに現れたポゴレリッチは淡々とした表情で
譜めくりの女性をともなってピアノの前に座り、いくつかの楽譜をばさっと床に置いた。
客席から見えるものといえばピアニストだけなのだから、この行為にも意味がある。
楽譜は遺書であり、聖書のようなものであると同時に、単なる印刷物であり
音楽とは紙という偶像によって崇め奉られるものではないのだ。
最初の二曲はショパンであったが、ポゴレリッチの異形性はショパンによって最も先鋭的に表れると確認した。
ショパンの音楽性を貫く声楽的な呼吸感をポゴレリッチは断絶し、意図的にソノリティを崩壊させることによって、全く新しい次元を登場せしめる。
それはショパン演奏にとって逸脱的であると同時に、発見であり、新たな創造であり
「メロディアスに歌うこと」で大方似たり寄ったりになる解釈への警告でもある。
指針となるのは譜面であり、実はポゴレリッチはすべての曲を暗譜しているのだと思う。
『パラード2番』と『スケルツォ3番』は期待以上のポゴレリッチ節で、テンポも彼らしかった。

この次に演奏されたシューマン『ウィーンの謝肉祭の道化』は恐るべき名演だった。
特に最後の二曲~「インテルメッツォ」と「フィナーレ」には圧倒された。
シューマンではそれほどタッチにエキセントリックな歪みが感じられず、ひたすら一途に
強打を重ねていくピアニストのパワー、音楽の喚起力に驚かされた。
ほとんどオーケストラのような世界で、低音部のダイナミズムと、チェレスタやヴァイオリンを思わせる高音部のコントラストが卓越していて、たった一人の人間が奏でているサウンドには思えなかった。
ペダルは抑制され、全体的に乾いた感じのタッチで、ピアニストの緻密な「文体」が全体を構成しているのに驚かされた。
文体とは表現者にとって生命と同じで、強烈な文体とは教育の賜物ではなく、直観によってもたらされるものだと思う。
それゆえに、容易に変更したり、否定したりすることは死に等しいのだ。

休憩の間、ここ一か月ほど自分が実感しているクラシックの強固な保守主義について考えていた。
「ねばならない」という権威的な語調と、予定調和をこれほど好むジャンルはなく、
クラシックを長年愛好してきたと思われる論客ほど、予定調和から外れたことに激しい拒絶反応を示す。
現在58歳のポゴレリッチは、一体どれだけの保守勢力と闘ってきたのだろう?
舞台にいるときピアニストはたった一人なのだ。そこで容易に「処刑」されてしまうような斬新な演奏を続けてきた。
この勇敢さを支えてきたのは、演奏家を貫いている巨大な直観なのではないか。
直観をくだくだ説明しても仕方がない。身体を張って証明するしかないのだ。演奏家は言葉を使わず音楽で示す。
それは闘っているように見えて、愛と平和の意識に満たされた行為であり、
彼がピアノを弾き続けるのは、思いがけない「イコール」の魔法を証明するため
対立しているように見えて、実は双子の兄弟のようである二つのものを繋げてみせるためだと思う。

後半のモーツァルト『幻想曲』とラフマニノフ『ピアノ・ソナタ第2番』は恐るべき密度感で
夥しい音が、その背後にある墨のような静寂とともに立ち現れた。
ポゴレリッチは前半と同様、ひとつの曲が終わっても椅子に座ったまま次の曲をはじめる。
古典派とロマン派のそれぞれの様式が、分断されず溶け合って、巨大な宇宙を作り上げていく感触があり、不安と安心感が同居する、グロテスクで壮麗で美しい時間が立ちあらわれた。
ラフマニノフとポゴレリッチはこんなに相性がよかったとは知らなかった。
サントリーホールにはやはり魔法が存在するのだろうか。聴衆の声なき声が響きわたるのが肌で感じられ、
ピアニストへの感嘆が、リサイタルの全体を「ともに」作り上げていたことに気づいた。
ポゴレリッチはそんなこと、とうの昔から知っていたのだ。
聴衆と演奏家はひとつの存在で、違和や対立の感情が巻き起こったとしても、やはりひとつのものなのだ。
すべての曲を弾き終えると、ポゴレリッチは舞台から東西南北の客席に、大柄な身体をほぼ直角に曲げて深いお辞儀をした。
アンコールはシベリウスの『悲しきワルツ』のピアノ編曲版で、咄嗟に先日のヤンソンスを思い出した(ヤンソンスがアンコールで振ったのはグリーグの『過ぎし春』だったが)。
音楽家の人生は愛のための闘いなのだ…巨大な創造力に押しつぶされず、
芸術家の狂気の神話に回収されることもなく、強い生き方を見せてくれるポゴレリッチが有難くて仕方なかった。
この夜、ホールは二階奥までほぼ埋まっており、そのことも(数年前の閑散とした客席を思い出すにつれ)嬉しい驚きだった。




東京交響楽団/ジョナサン・ノット『コジ・ファン・トゥッテ』(12/9)

2016-12-11 13:15:32 | 日記
ミューザ川崎で上演された東響&ノットの演奏会形式『コジ・ファン・トゥッテ』を観た。
大きな話題は、四半世紀ぶりに日本の地を踏むバリトン歌手、サー・トーマス・アレンがミューザに登板すること。
アレンは舞台監修も担当し、歌手たちには来日してからすべての演技をつけたそうだが
これが本当に自然な演劇で、セミオペラというよりオペラそのものであった。
「演奏会形式と言っておきながら、かなり本物のオペラ…!」という嬉しい驚きは、先日のサントリーホールでの
「ラインの黄金」に続くサプライズだが、ミューザでの歌手たちは登場の瞬間から芝居気たっぷりで(もちろんすべて暗譜)
モーツァルトのこの「恋人交換ごっこ」のドラマ・ジョコーソを、飛び出してくるような演技力で熱烈に演じたのである。

熱気が強いのは、グリエルモ役のバリトン、マルクス・ウェルバが相変わらずの色男キャラで(少しおなかは出てきたが)
時折ヴェリズモばりのダイナミックな声になりながら、好奇心に燃える若者の役を「熱」演したせいだろう。
体調不良のため来日できなかったショーン・マゼイの代わりにフェルランドを演じたアレック・シュレイダーは
スピントというより、ややロブストが入った雄々しいテノールで、若者二人はとにかく声楽的にも熱血系だった。
フィオルディリージは降板したミア・パーションの代わりにリトアニア出身のソプラノ、ヴィクトリヤ・カミンスカイデが歌った。よくこんな人が見つかったなあ、と驚いてしまうほど立派なソプラノで、男の誘惑に抵抗して生真面目になるアリアも完璧な音程で歌い上げた。声量も申し分なく、輝かしい表現だった。
ドラぺッラのメゾ・ソプラノ、マイテ・ボーモンも深みがかった妖艶な声質で、姉妹ふたりの二重唱は双子の歌のようにも感じられる。
やんちゃでたくましい男たちに対して、姉妹は成熟した女たちで、女ならではの憂いにも苛まれながら「本当の女の幸せとは?」と真剣に探しているといった感じだった。

そこへ、ショートカットで昔懐かしいパンタロン(!)姿の可愛いデスピーナが登場。
出てきただけで、客席から歓声が湧いたのが面白かった。「あなたがデスピーナでよかった!」という感謝の溜息で
ルーマニア出身のヴァレンティナ・ファルカスは、ティンカーベルのような妖精のオーラを振りまきながら
目をクリクリさせながら、どこからどこまでもおかしいデスピーナの歌を歌った。
「女も15になれば色々世間や男のことを知っているもの・・・」というのは無邪気な耳年増の歌で、
これが間違ったキャスティングや演出だと台無しになってしまう。
ドン・アルフォンソとデスピーナの関係も、いわば「冗談関係」とでも呼びたい愉快なものだが
これが援助交際に見えたり、上流階級を憎むデスピーナのテロリズムに見えたりする「やりすぎ」の演出もあり
とにかく、デスピーナは妖艶でありすぎたり、世間知に長けていすぎてはいけないのだった。

ドン・アルフォンソは、若者二人に「女の正体」を見せつけるべく、彼らを「うその兵役」へ送り込み
変装した彼らを口説かせ、姉妹の陥落を目論む。このオペラ全体を知り尽くすサー・トーマス・アレンは流石の演技で
歌唱もダイナミックで少しも不安定なところがない。いつも舞台のどこかにいたような気がする。
若い男女の歌手たちが、本気で泣いたり嘆いたりする演技は客席からも見ていて身に染みたが、
「愛の悲しみとは、傍からみればはなはだ滑稽なのだ」という「客観」としてアルフォンソは存在していた。
女の本性とは何か、必死になって自分たちの物差しで測ろうとする若者たちを観察しつつ、アルフォンソは
人間全体の滑稽性を測る巻尺を手にしているのであり、これは彼自身が「もう愛によって滑稽になることなどない」
老いた存在であるからだろう。少なくとも、前後不覚になるような情熱はもうない。
『コジ・ファン・トゥッテ』とは情熱のオペラなのだ…。
女の愛の情熱の正体もこのオペラでは描かれていた。
女の欲望とは男の欲望で、ビリヤードの玉のように棒に突かれてはじけていく受動的なもので
もちろん女にも愛の主体性はあるが(それゆえにフィオルディリージは悲痛なアリアを歌うが)
結局のところ、男の馬鹿力にはかなわない。突き飛ばされて転がっていくビリヤードの玉でいたほうが楽なのだ。
果たして、男たちのやっている「実験」はますます奇々怪々なものになっていく。

東響とノットのアンサンブルは、あの胸騒ぎな序曲からエレガントな快活さをまとい、
モーツァルトがオペラに書きこんだエスプリと哲学を生き生きと展開させていった。
思えば、ノットが「任期を10年延長することに決めた」理由となったのも、このミューザで行われていた
モーツァルト・マチネがきっかけであった。モーツァルトはオケとノットを結び付けた仲人のような作曲家なのであり
この日の「コジ」が格別に嬉しい感じなのは当然だった。
モーツァルト・マチネは残念ながら一度も聴いたことがなかったが、毎回素晴らしいことが起こっていたのだろう。
お気に入りの歌手たちが活躍しているのが嬉しいのか、ノットは頻繁に後ろを向き、すごい笑顔を歌手側に向けていた。
レチタティーボ部分の伴奏はノットがハンマーフリューゲルで演奏し、これも見ていて惚れ惚れするようで
ノットもオペラの中に登場する粋な楽士に見えてしまった(毎回、フォーマルなモーニングを着て指揮台に上がるノットにぴったり)。

ところで『コジ』では、物語が袋小路に追い込まれ、登場人物が崩壊寸前になってしまうシーンが少なくとも二回あるが
最後の「うその結婚式」のくだりは、クレイジーながらもモーツァルトがしっかりと音楽の音楽たるものから逸脱せず
観る者にもひと時たりとも「道徳性とは」ということを忘れさせないのに気付いた。
アンモラル的といわれることの多いコジだが、十分にモラリスティックなのだ。
本当の意味で、人間の感覚から逸脱したサイケデリックな狂気を描いた作曲家は、おそらくロッシーニだ。
ロッシーニのオペラで物語が狂いだすとき、人間だけでなく、草木も虫も鳥も、ありとあらゆる天体も発狂する。
モーツァルトはそこまで世界が崩れることを望まなかった。そのことが、「コジ」を上品にも、常識的にもしている。
カーテンコールのとき、マルクス・ウェルバが恋人役のヴィクトリヤ・カミンスカイデとなかなか手をつながず
「お前なんか嫌いだ!」という仕草をしていたのがおかしかった。グルエルモは浮気をしたフィオルディリージが
本当に許せなかったのだろう。

ノーカット三時間半以上に及ぶ上演は大変なボリュームで、後半ではカットされることの多いアリアや重唱もたくさん聴くことができた。
ノットさんは元気いっぱいで、このあとすぐにもう一度フルオペラを指揮してしまいそうな勢いだった。
11日にも池袋の東京芸術劇場で公演が行われる。















































バイエルン放送交響楽団

2016-11-28 11:25:59 | 日記
マリス・ヤンソンス率いるバイエルン放送交響楽団のコンサートを聴いた(11/26ミューザ川崎・11/27サントリーホール)。
一時期、体調不良が伝えられていたヤンソンスだが、ミューザのステージにはにこやかに登場。
「颯爽」というには足取りはやや重そうだったが、あの笑顔があれば何も言うことはない。
ハイドンの交響曲第100番『軍隊』はスタイリッシュで楽し気で、近代以降に書かれた大規模な「戦闘的」交響曲を
時代を先取りして揶揄していたような、軽やかなユーモアが感じられる。
第4楽章では打楽器隊が客席を行進し、大太鼓には「We💛Japan」のステッカーがお茶目にも貼られていた。
ハイドンの洗練と瀟洒、ヤンソンスの日本への友情がミックスしたイントロダクションだった。

R・シュトラウス『アルプス交響曲』は、先日ティーレマンとシュターツカペレ・ドレスデンによる演奏を聴いたばかり。
ミューザの音響とこの大規模編成のシンフォニーは相性がよく、カウベル、チェレスタ、風音器やカミナリ音などの演劇的なディティールも素晴らしく映えた。
ティーレマンが英雄的なアルプスを描写したのに対し、ヤンソンスは太陽のもとにある人間の素朴な偉大さ、
逆境にあっても挫けない、登山者の克己心を表していたように感じられた。
ヤンソンスは1943年生まれの73歳の巨匠だが、世代的にもクラシック音楽というジャンルが
戦禍によって一度解体され、深刻な傷を負ったものだという歴史観があるのだと思う。
20世紀の大戦では、多くの指揮者、オーケストラがダメージを受け、人間の作り出した最も良質な文化が傷つけられた。
ドイツのオーケストラにも同じことが言えるだろう。欧州の中で「人間性」ということの吟味を、最も逼迫した課題として引き受けていることがオーケストラの音から感じ取れる。
ミューザの一階席で聴くと驚異的なシンフォニーで、巨大な太陽と風雨、干し草の香りや家畜の鳴き声を浴びた心地がした。

サントリーホールでのマーラー『交響曲第9番』は筆舌に尽くしがたい演奏だった。
この曲をある種の文明批評として解釈した演奏に何度も触れてきて、それに納得していたのだが、
ヤンソンスの解釈は「マーラーその人の人生」に惜しみなく接近し、そのシンパシーに染められていたと感じた。
一楽章の冒頭のクラリネットの音が、生まれたばかりの赤ん坊が揺り籠の中で聴く子守歌に聴こえ、
弦とハープと溶け合ってこの上なく優しく優雅なハーモニーを醸し出した。
ヤンソンスは手で何か丸いものを描いて、風船のように飛ばしていく仕草をしていた。
彼の指揮を見ていて、右利きなのか左利きなのか知りたくなったが
基本的に右手に指揮棒を持っているのだが、しょっちゅう左手に指揮棒を持ち替え、素手の右手を動かしているのである。
マーラーのこのデリケートな音楽を作り出すためには、指揮棒という道具は時折邪魔になっていたのかもしれない。
マーラー特有の、急に曲調が変わる場面も、ヤンソンスは子供が夜に見る夢のように
自然なイメージの変化として顕していた。
何かグロテスクなものが乱入してくるような表現ではなかった。
長大な一楽章から感じたのは、ヤンソンスのマーラーに対する、一種「母性的な」愛情で
作曲家の分裂症的な気質と、それゆえに現世において感じていた苦痛をすべて包み込んでいるようだった。

マーラーの音楽には「生まれてはみたけれど、まだ生きると決めたわけではない」といった
胎内回帰願望というか、タナトスの欲動というか、霊的に迷っている感覚がつねにある。
音楽という魑魅魍魎とした世界においては、その混迷の感覚は放蕩的なまでの霊感の宝庫であったはずだが
現実における「生きづらさ」は想像を絶するものがある。
肉体が、精神にとっての居心地のよい居場所ではないのだ。
(そういう人間の挙動不審を、マーラーをモデルにしたヴィスコンティの映画でダーク・ボガードは実にうまく演じていた)
9番は、50歳を間近に迎えたマーラーが、まだ生きようか生きるのを拒否しようか夢うつつの精神にありながら
いよいよ本物の死を受け入れるまでの、詳細なストーリーが記されている。

第2楽章は、1楽章で幼少期を終えたマーラーの意識が、若者の生命を得て
集団的な狂騒へと溶け込んでいくダンスであった。
思春期から青年期へ、木管とホルンの善良な響きが青年マーラーの声に思えた。
バイエルン放送響の合奏は真剣で、変幻自在のリズムを乗りこなし、微かな乱れもなく、膨らんだり縮んだりして、ハーモニーの明度と彩度を変化させていった。
それ以上に狂騒的な3楽章は、指揮者としての地位を上り詰め、山小屋で作品を量産し
ただ生きて、創造するしかなかった壮年期のマーラーで、
引き返したいが、引き返す余裕もなく、直進していく作曲家の悲鳴のような、女々しさをかき消された雄々しい響きだった。
3楽章でのヤンソンスは、指揮棒を奮うことを躊躇せず、恐るべき若々しさでこの反抗的な楽章を振った。
その猪突猛進の先には、既に死の色彩が帯のように見えている。

4楽章のアダージョは、「これが死か…」という溜息とともに聴いた。
ヤンソンスは長めの呼吸をとったあと、決然と、万感を込めて、懐かしい響きを弦セクションから引き出した。
これは呼吸の音楽なのだ。訳も分からず最初の呼吸を得て産声をあげた一人の人間が
生の意味を理解できぬまま、苦闘し悶絶し、最後の息を引き取るまでの一部始終を、目前で見せられている心地がした。
サントリーの一階前方席のありがたみをこの日ほど感じたことはない。
ヴィオラとチェロの、エモーショナルでソロイスティックな音が「矢も楯もなく」あふれだしてくるのを耳がとらえ、
有機的な生命体としてのオーケストラの凄みを体感することが出来た。
木管も金管も、「呼吸の追わり」へ向けて、惜別のサウンドを提供してくる。
そのとき、モノクロ写真のマーラーの肖像が、起こっているすべての出来事に対して
「ありがとう」と微笑を浮かべているのが目に浮かんだ。
冗談みたいな話だが、音楽の脈拍が落ち、息がいよいよ終わりに近づき
天国の光が差し込んできたとき、マーラーがそこに降りてきて、魂の報いに感謝していると「実感」したのだ。
霊魂は不滅なのか…すべてが闇に落ちたあと、雷の拍手を浴びたヤンソンスは、
「作曲家を心から愛さずにいることなどできるだろうか?」という微笑を見せた。
特別なことがたくさん起こった11月の演奏会の中でも、最も特別な日であった。