大地の神から愛されるチベットの人々 ヤン・リーピンの「クラナゾ」

2011-04-09 03:52:54 | 日記

ステージは極彩色。びっくりするような声(空気が破裂するみたいな)、動き、華麗な衣裳、照明・・・

そしてヤン・リーピン自身が踊る「観音ターラ」の神秘的な踊りに魅了された。

中国のいわゆる舞踊ショーを想像していたら、とんでもない。

すごい神聖なスピリチュアリズムの扉が開いたという感じ。

タイトルの「クラナゾ」は「蔵謎」とも書く。ベースになっているのはチベットに伝わる古い巡礼の話で

チベット族の70歳の老婆が、九寨溝からチベット仏教の聖地・ポタラ宮まで長い巡礼の旅をし

人々の温かい心に触れ、厳しい寒さ中で死を迎え、鳥葬され、転生するまでが、生き生きとした民族舞踊と歌唱で描かれる。

とにかく、歌と踊りがすごい! 中国四川省とチベット自治区から集められたチベットの人々

(男女20名くらい?)が、雄々しいラインダンス(コサックダンスにも似ている)をしたり

ヤク(毛の長い高地の野牛)の着ぐるみを着て獰猛な動きを見せたり、

着物の長い袖を炎のように大きくくゆらせて、印象的な踊りを展開する。

春の訪れとともに、活気にあふれた「男」組と「女」組がそれぞれの踊りを見せた後

睦まじく交わりあうシークエンスなど、ベジャールの「春の祭典」を思い出してしまう。

民謡のような発声で歌われる男女のコーラスも圧巻で

不協和音からなる数人の女性による歌唱は、「ブルガリアン・ヴォイス」そっくりだ。

その女声の素晴らしい高音の地声が、いつの間にか男声の高音につながる。すごいソロ歌手がいた。

名前はわからないが、あのフローレスでも出せないようなハイキーを地声で出し、息がとんでもなく長い。

オペラ歌手なみのトレーニングを想像してしまうが、こうしたハードな「民族芸能」は

チベット族が海抜4000メートルの山地で暮らすための、生活の知恵から生まれたという。

高山病になりそうな空気の中で、農作業や放牧、その他の重労働をこなすために

わざと体力を酷使する喉声の歌唱や、トランス状態になるほどハードなダンスを編み出したのだ。

それを実際のチベット自治区のパフォーマーが演じているのだ。日本人との圧倒的な生命力の差を感じる。

ところで、主人公の老婆は、何年もかけて聖地に辿り着こうとするが、途中で息絶えてしまう。

そこに鳥に扮したダンサーたちが現れ、「鳥葬」を暗示する表現をする。

チベットでは鳥葬こそが「生前の善行を祝福する」弔い方なのだという。

そこからがすごい。老婆の来世を議論するトート神のようなダンサーたちが登場し、

巨大な神の六体ものオブジェ(土俗的な表情をしている)が舞台に並ぶ。

二つの顔をもつトナカイたちなども続々と入り乱れ、カオス的な音響が響き渡るのだ。

老婆が宙吊りになって昇天し、転生した少女が五体投地礼(身体を大地に投げ出す祈り)をする

ラストシーンは、言葉を失った。

チベット仏教のすぐれた合理性、精神性を二時間ほどの舞台ですべて見せつけられてしまった。

ヤン・リーピンは劇中、老婆が巡礼の道で出会う蓮の観音、ターラ神として踊る。

「ホワイト・ターラ」とも呼ばれる、浄化と慈愛の観音である。

短いシーンだが、これが作品に異様なほどの求心力をもたらしていた。

細いウエストと長い爪で身をくゆらせて踊る踊りは、エロティックでさえある。

始原のエネルギーとしての女性性、救済としての母性を感じた。


命ある間、賑やかな色彩の衣裳をまとい、自然を賞揚して、歌い踊り祈って生きるチベットの
民は

来世の生を信じて、あらゆる生き物に優しい人々でもある。

彼らの「物質的な有限性」は、先進国的な視点から見たら原始人のような感覚だ。

日々祈りを実践し、目に見えない神を信仰する心も。

でも、大地を愛し、愛されている彼らは、最も賢い民族のひとつだ。

こういう時代にならなければ、ここまで深く心に刺さらなかったと思う。

余震が続く中、来日公演を続ける彼らは、2008年に四川大地震を体験しており

そのときの支援の感謝として、今回の来日公演の収益の一部が日本への寄付に充てられるという。

それにしても、ヤン・リーピンは踊れるだけのダンサーではなく、

これほど深遠な舞踊哲学を持っている点で、ベジャールに匹敵する。

「伝えたいこと」があふれるほどたくさん詰まった、素晴らしい芸術でした。