ABT「ロミオとジュリエット」オーシポワ&ホールバーグ

2011-07-29 12:28:57 | 日記
ジュリエット登場のシーンで、いきなり予想外の号泣をしてしまった。

居眠りをしている乳母のいる部屋にドタドタ走りで入ってきたオーシポワが、本当に元気いっぱいのお転婆な娘だったからだ。

ボリショイからのゲスト、ナターリヤ・オーシポワのジュリエットは、誰よりも表情豊かで、少年っぽい。宮崎アニメのヒロインみたいなのだ。

アルプスの少女みたいなジュリエットが、自分の婚約お披露目舞踏会でロミオと出会うシーンには、ヒロインの声にならない声が聞こえた。

「今まで見たこともないような綺麗なあなたは一体誰ですか?」

相手役は、長身・金髪の典型的な王子のルックスのデイヴィッド・ホールバーグだから、これは最初ジュリエットの一方的な一目ぼれに見えた。

ここが面白いところで、ロミジュリはキャストによって全く違う物語になってしまう。

ロミオを見つける前、婚約者のパリスとジュリエットの踊りがある。パリス役はサッシャ・ラデツキー。

ジュリエットとパリスは同じ黒髪で背格好のバランスもよく、お似合いのカップルだった。

このままロミオが登場しなければ、「いい夫婦」になって子だくさんな大家族になりそうな雰囲気なのだ。

だが、ロミオに一目ぼれしてしまった。相手は絵に描いたような美男子で、どこか宇宙人ぽい。

最も遠い遺伝子と結びつきたい、と思ったとき、恋愛は恋愛以上の爆発的な何かになる。

ロミオの美しさ(この場合ホールバーグの美しさ)は、とても不吉だ。

恐らく、ホールバーグはパリスの役としても理想なのだ。婚約者パリスの存在はジュリエットにとって不吉だからだ。

しかし、この場合はロミオが不吉なのである。ホールバーグの美貌は、大災害の前夜の満月のようだ。

一幕であんなに泣けたロミジュリは初めてだったが、この先の悲劇をこんなにも濃厚に感じさせるキャスティングは稀だったからだろう。

ダンサーとして、ああいう完璧な外見を持って生まれるというのは、幸運であると同時に災難だ。

ホールバーグは情熱的に踊っても、端正すぎる容姿ゆえに、演技が「薄く」見える。

だから、ロミオはジュリエットに一目ぼれしたというより、目の前にいるジュリエットの中で爆発してしまった「愛」の虜になっているように見えた。

先にちょっかいを出していたロザラインは成熟した女性で、「女一族」に特有の勿体ぶった態度をとる。

(本当にロミオが嫌いで眼中にない、という演技をするロザラインもいるが、この日のロザラインは明らかに気があるクセにロミオを弄んでいる感じ)

だから、ロミオにとっては、惜しみなく燃え上がるジュリエットの自分への愛が、とても特殊で例外的なものに思えたはず。

ジュリエットはまだ女ですらないのだ。一気に火がついて「愛」そのものになってしまった。

ロミオを見つけたジュリエットは、そこからどんどん生き生きと大きく燃え上がっていく。

その炎に魅了され、愛に感染し、どんどん彼女への愛情が大きくなっていくロミオなのだ。

というようなことを、舞台を観て初めて思った。

この組み合わせ、最高すぎるでしょう。最後は「薄い」ホールバーグも顔を真っ赤にして熱演していたし。

しかも、最期の墓場のシーンもユニークだった。ジュリエットの死を嘆いているパリスを、ゴメスのロミオは見つけるなり反射的に刺殺したが、

ホールバーグはパリスの逆上を受け止めて、差し違えるという演技だった。

薬からめざめた後、最初にパリスの死体をみつけて、憐れむような表情をするジュリエットも初めて見た(ここも隠れた号泣ポイントでした)

オーシポワのジュリエット、マクミランが見たら何と言っただろう……見せたかった。

古臭いことを言えば、シェイクスピアはオリジナルがお芝居なのだから、ジュリエットは女優として最高でなければいけない。

オーシポワのジュリエットからは、はっきりとした「台詞」が彼女自身の声で聞こえてきた。

アレッサンドラ・フェリのときもそういうことがあったし、これが二度目である。

同じ組み合わせでこのロミジュリ、また観たくて仕方ないのです。




アメリカン・バレエ・シアター『ロミオとジュリエット』

2011-07-27 01:29:28 | 日記
ケネス・マクミラン振付の『ロミオとジュリエット』はABTで観るのが好きだ。

昨年ロイヤル・バレエの同じ版を観たときは、さすが「本家」の格式と気品、と感心したものだが

ABTもある意味マクミランの「本家」であることに変わりない(短期間だが1980年からバリシニコフとともに共同芸術監督のポストに就いていた)。

この偏愛は、最初に生で観たロミジュリの公演が、ABTだったことも大きい。アレッサンドラ・フェリのジュリエットとフリオ・ボッカのロミオ。

それまでもバレエというアートは大好きだったけれど、彼らをみて天と地がひっくり返った。

なんというダンサーたち。なんという演技。そしてあの音楽。群舞。「シェイクスピアの恋物語を舞踊化したもの」なんて代物ではなかった。

それはバレエとは別の何かのようでもあり、宇宙に一瞬放たれた閃光のようなバイブレーションだった。

蜂蜜のように粘り気のある甘美で胸苦しい音楽に囲まれ、ひとつの恋が生まれて、死ぬ…その舞台は、「聖堂」の趣があった。

人間が行う演劇的な行為には、ストレート・プレイがあり、オペラがあり、文楽や能や歌舞伎、映画やテレビドラマなど数多のジャンルがある。

その頂点にあるのが、バレエだと思った。シェイクスピア=プロコフィエフ=マクミラン=フェリ&ボッカ。

今でもこの公演は、私のあらゆる演劇体験の中で頂点に位置している。

ダンサーが本当の意味で「スター」だと感じたのもこのときだった。

アメリカン・バレエ・シアターは、演劇的な感動を与えてくれるカンパニーだ。

ソリストも、エモーショナルな演技がうまい。テクニックもすごいが、テクニックだけでない。ソウルフルな「熱さ」をもっている。

今日の公演では、マルセロ・ゴメスとジュリー・ケントのカップルを観た。

ジュリー・ケントは40代のベテランだが、完全に14歳の少女だった。全細胞がそのようにチューニングされていて

純粋でナイーブな魂が、恋の試練にさらされていく過程は、胸がつぶれるようだった。

ゴメスは、名家の御曹司ロミオの「育ちの良さ」と、16歳の少年らしい若々しさを全身であらわす。

ロミオ、何しろ三幕通して踊りの量が半端ではない。活力とエレガンスのバランスが素晴らしかった。

ロミオとマキューシオ、ヴェンヴォーリオの三人が仮面をつけ、ユーモラスに踊るシーンは最も好きなもののひとつ。

そのマキューシオが思いのほかよかった。陽気でキャラクターがあって、人懐こい。ABTならではのダンサーだ。マイアミ出身のクレイグ・サルステイン。

ヴェンヴォーリオは、贅沢なことに三日前にドンキのバジルを踊ったダニール・シムキンだ。彼はまだプリンシパルではないので、脇役でも楽しませてくれるのだ。

プロコフィエフの音楽は、壮麗でロマンティックで、グロテスクだが、マクミランもまたそのようなバレエを作った。

性的暴行やナチスの迫害をテーマにした初期作品よりは、「ロミジュリ」ははるかに大衆向けだが、それでもところどころに強烈な「陰」の気が満ちる。

ロイヤルだと、その「陰」がたびたび過剰になる。それもまた魅力なのだが、ABTはよりロマンティックを多く残す。

そこが気に入っている理由かも知れない。

やはり今夜も、ステージは「聖堂」になった。最期の墓場のシーンは、言葉を失った。

すみれの花のように可憐なジュリー・ケントのジュリエットは、ABTの宝物である。


ところで、明後日(7/28)にはボリショイ・バレエのプリンシパル、ナターリヤ・オーシポワが一晩だけ登場し、ジュリエットを踊るのだが

相手役は金髪・長身り美男子、デイヴィッド・ホールバーグだ。このふたり、とても意外な組み合わせに感じられるが

ホールバーグいわく「一言も言葉が通じないダンサーなのに、電流が走るほどの愛情を感じる」相性なのだそうだ。

確かに、彼らは北と南、S極とN極、氷と炎を思わせる組み合わせ。この二人の公演も観たくてたまらないのでチケットを手に入れてしまった。

新しいABT伝説が観られるかも知れない。まだじゅうぶんに慰安されているとは思えない、孤独なマクミランの魂に成功を願った。

今から楽しみです。






後藤正孝ピアノリサイタル 人間リストの矛盾と崇高

2011-07-10 03:31:58 | 日記
齢を取るにしたがって、リストの音楽が好きになってきた。リストに対する、無知ゆえの誤解が解けてきたというか。

リストの対岸にはつねにショパンがいて、メロディメーカーとして、詩人として、オカルティストとしてあまりに完璧であったため

生前のショパンが評したように、リストは軽佻浮薄なヴィルトゥオーゾという印象が強かった。

しかし、人間生きれば生きただけ豊かに複雑に芳醇になっていくのは当然のことで、75歳まで生きたリストの音楽は

聴けば聴くほど深くて濃い。思索的で、情熱的で、官能的で、とても「人生」に近いのだ。

2011年のリスト国際音楽コンクールの覇者、後藤正孝さんの凱旋リサイタルを、後藤さんの母校である昭和音大のホール=テアトロ・ドーリオ・ショウワで聴いた。

前日、コンクールのアーカイヴとyoutube映像で彼の演奏をチェックしていたのだが、驚くことがたくさんあった。

他のコンテスタントと全く違うリストを奏でている。手の届かない伝説のリストを追いかけるのではなく

既にピアニストの中に、リストがいた。人間のリストの感情的な豊かさ、信仰への渇望、人生への希望と失望が

後藤さんの演奏にはあった。それは一次審査から明白で、特にバラード二番は、胸掻き毟られる迫真のリストだった。

リストは技術がなければもちろん弾けない。その土俵の上に立って、すごい直観でリストをつかんでみせた。

審査員満場一致での一位だったそうだが、これは演奏家である審査員としても降参したくなる演奏だったのではないか。

昭和音大のホールのリサイタルでは、セミファイナルで選んだ「巡礼の年 第二年 イタリア」を前半で披露。凄かった。

この曲、実は後藤さんの演奏を聴くまで、退屈なイメージしかなかったのです。

しかし、本当に名曲だと思った。

ひとつひとつの旋律が生き物のようにうねってクレシェンドしていく様子は圧巻で、まるで竜の落とし子が巨大な龍に変身していくよう。

変幻自在に変わる音色は絵巻物のようにカラフル。ペトラルカのソネットはルネサンス絵画の青空のような色彩だ。

この人、決して優等生的なピアニストじゃない。とてもスリリングで予測不可能なところがあり、

聴いていると天使か悪魔に魅せられたような気分になってくるのだ。劇薬のようなところがある。

そのような「危険さ」とともに、リストのどうしようもなく人間的な性格も伝わってくる。

正規の義務教育を受けず子供の頃からピアノ漬けの生活をしていたため、後年教養コンプレックスに苛まれ

猛烈な読書家となって、宗教への興味を募らせたこと(やたら小難しいタイトルの表題音楽が多い)。

身分の高い女性と叶わぬ恋を経ながらも、リストマニアと呼ばれる貴族のグルーピーにまみれて

快楽主義者の人気ピアニストとして青年時代を生きたこと。最後は全財産を寄付して無一文で死んでいったこと。

極端から極端へと飛躍するリストの人生は、彼の気質でありハートであり音楽だったはずだ。

ところどころでひらめいたように狂気の片鱗を見せる後藤さんの演奏が、20分あまりの大曲でも矛盾なくまとまるのは、

「リストその人全体」を把握しているからであり、そこにはリストの崇高さだけでなく、どうしようもない矛盾や欠点も含まれている。

リストが本当に大好きになった。ショパンは贅沢品だが、リストは人生そのものなのだ(振付家のバランシンはショパンとシューマンの比較にこの譬えを使った)。

コンクールの賞金2万ユーロと聴衆賞5000ユーロ、そしてこの昭和音大でのリサイタルの収益金はすべて

東日本大震災への寄付として送られるという。

こういう人だから、優勝したのだろう。本当に、彼の中にはリストが入っている。

華麗で放埓なヴィルトゥオーゾは誰よりも熱心な篤志家であったからだ。

ロマン派という時代に生きたリストだが、このような演奏家の解釈を聴くと、リアリズムとしてのロマンティシズム、

といった奇妙な言葉が浮かんでくる。エモーショナルでクレイジーなのに審美的なのだ。

ちなみに後藤正孝さん、留学経験は一度もないという。

楽譜と素晴らしい心があれば、どこまでも音楽は旅できるのだ。

※この日の演奏は9月にクラシカ・ジャパンで放送されます。

芸術家は何を愛するか 二期会『トゥーランドット』 プッチーニの至福

2011-07-08 00:36:53 | 日記
現在公演中(7/10まで)の二期会の『トゥーランドット』の初日を観た。

ダブルキャストのうちの一組(トゥーランドット役の丹藤さん カラフ役の松村さん)を三月に取材させていただいたこともあって、

今回のこのプロダクションは前々からずっと楽しみだった。初日7/6のキャストは、トゥーランドットが横山恵子さん・カラフが福井敬さん。

粟国淳さんの演出は、時間の外にある国の不可思議な物語を、ファンタジックな装置と衣装で視覚化していて、

戦争マシーンか巨大な拷問危惧を思わせる大道具(幕が開いた瞬間ビックリ)が、プッチーニの音楽ととてもよく調和していた。

それにしても、トゥーランドットはあっという間に終わってしまう。ドキドキ・ハラハラの物語と巧みな音楽のおかげで、全く長さを感じない。

何より、今回はオーケストラが極上の響きであった。ジャンルイジ・ジェルメッティは小柄でお腹ぽっこりの大御所マエストロだが、

イタリア人のプライド、といわんばかりに粋で冴えまくった指揮をする。全幕すごかったが、特に3幕は肝をつぶしかけた。薫り高い高級イタリアワインのような味わいだ。

バンダや子供たちの隠れコーラス(?)もたくさん使われ、巧みな立体感を出していた。

オケは読響だが、つくづく私はこのオケが好きだ。柔軟で知的で、チャーミングで機転がきく。

天の川のようなキラキラのオケを背景に、太陽系の惑星のようなソロが光る。

福井さんのカラフは、誠実で生真面目でブレがなく、ゆったりとした輪郭でホールを満たしていた。

一幕の衣裳は、どう見ても孫悟空(!)なのだが、それが不思議と福井さんにとてもよく似合っている。

安定感があり、役への真剣な取り組みを感じた。好きなカラフだ。

トゥーランドットはドラマティック・ソプラノの中でも過酷な役で、去年ペテルブルクで取材したグレギーナも

「毎回スポーツ選手のような調整が必要」と言っていたが、横山恵子さんの姫はとても冴えていた。

処女トゥーランドットの、異次元の霊と交信している「異形」さが、クリスタルのような透明なソプラノでよく表現されていたと思う。

表情もトゥーランドットらしく、とても怖くて、ラストとカーテンコールの笑顔で急に優しげな美人のお顔になったので驚いた。女性にとって、本当に表情は大きい。

何度見てもトゥーランドットはいいなぁ…と感動した。

言うまでもなく、プッチーニの遺作で「リューの死」の場面で絶筆となった作品だが、このオペラにはプッチーニが大好きなものが全部詰まっている。

まずは、誠実で勇敢な若者。愛や誇りを勝ち取るためには死をも厭わないカラフは、プッチーニが愛し、描き続けたテノールの典型だ。

そして、可憐で一途で、これまた犠牲精神の塊のような若い女性。カラフを庇って命を失うリューは、蝶々さんヤミミに通じるキャラクター。

リュウへの愛情は、あの有名な「氷のような姫君の心も」につながるシークエンス(愛とは?/口には出さず、秘められたこのような恋は・・・)で大爆発をする。あの場面では必ず号泣する。

そして、プッチーニの悪妻エルヴィーラがモデルとも言われているトゥーランドットもまた、作曲家が宿命的に愛したもののひとつだ。彼女の激しさは、トスカやマノン、西武の娘のミニーと姉妹のように似ている。

この三つの性格は、プッチーニの中に存在し、彼が肯定したいと思っていた人間的自然なのだ。

芸術家は、自分が愛するものを表現する権利がある。何を愛していたかがはっきりわかる表現は魅力的だ。

ベンジャミン・ブリテンは生涯愛するテノールのために、彼が歌うオペラを書いたし、

ベジャールは男性の精神と肉体美を愛し、振付をし、それは伝説となった。

芸術表現の源泉は、やはり愛なのだと思う。それも熾烈で、豊かで、溢れ出てくるような潤沢な愛。

プッチーニのヒロインは、舞台の上で皆幸せそうだ。作曲家からたくさんの愛情をもらっているから(最終的にほとんどのヒロインは死んでしまうのだが)。

これがヴェルディになると、必ずしもそうではない。ヴェルディの魅力はまた違うところにあるのだ。

さて、この自分が誰かに「あなたは何を愛するの?」と問われたら、プッチーニのようにはっきりと答えることができるだろうか?

愛するものをしっかりと愛し抜き、表現に高めているだろうか? まだまだ中途半端だ。

愛情という緊張のグルオンによってつなぎ合わされた、サファイアのような結晶をもつ「トゥーランドット」を前に、

プッチーニのように濃く生きなければダメだなぁ…と改めて思うのだった。