ケネス・マクミラン振付の『ロミオとジュリエット』はABTで観るのが好きだ。
昨年ロイヤル・バレエの同じ版を観たときは、さすが「本家」の格式と気品、と感心したものだが
ABTもある意味マクミランの「本家」であることに変わりない(短期間だが1980年からバリシニコフとともに共同芸術監督のポストに就いていた)。
この偏愛は、最初に生で観たロミジュリの公演が、ABTだったことも大きい。アレッサンドラ・フェリのジュリエットとフリオ・ボッカのロミオ。
それまでもバレエというアートは大好きだったけれど、彼らをみて天と地がひっくり返った。
なんというダンサーたち。なんという演技。そしてあの音楽。群舞。「シェイクスピアの恋物語を舞踊化したもの」なんて代物ではなかった。
それはバレエとは別の何かのようでもあり、宇宙に一瞬放たれた閃光のようなバイブレーションだった。
蜂蜜のように粘り気のある甘美で胸苦しい音楽に囲まれ、ひとつの恋が生まれて、死ぬ…その舞台は、「聖堂」の趣があった。
人間が行う演劇的な行為には、ストレート・プレイがあり、オペラがあり、文楽や能や歌舞伎、映画やテレビドラマなど数多のジャンルがある。
その頂点にあるのが、バレエだと思った。シェイクスピア=プロコフィエフ=マクミラン=フェリ&ボッカ。
今でもこの公演は、私のあらゆる演劇体験の中で頂点に位置している。
ダンサーが本当の意味で「スター」だと感じたのもこのときだった。
アメリカン・バレエ・シアターは、演劇的な感動を与えてくれるカンパニーだ。
ソリストも、エモーショナルな演技がうまい。テクニックもすごいが、テクニックだけでない。ソウルフルな「熱さ」をもっている。
今日の公演では、マルセロ・ゴメスとジュリー・ケントのカップルを観た。
ジュリー・ケントは40代のベテランだが、完全に14歳の少女だった。全細胞がそのようにチューニングされていて
純粋でナイーブな魂が、恋の試練にさらされていく過程は、胸がつぶれるようだった。
ゴメスは、名家の御曹司ロミオの「育ちの良さ」と、16歳の少年らしい若々しさを全身であらわす。
ロミオ、何しろ三幕通して踊りの量が半端ではない。活力とエレガンスのバランスが素晴らしかった。
ロミオとマキューシオ、ヴェンヴォーリオの三人が仮面をつけ、ユーモラスに踊るシーンは最も好きなもののひとつ。
そのマキューシオが思いのほかよかった。陽気でキャラクターがあって、人懐こい。ABTならではのダンサーだ。マイアミ出身のクレイグ・サルステイン。
ヴェンヴォーリオは、贅沢なことに三日前にドンキのバジルを踊ったダニール・シムキンだ。彼はまだプリンシパルではないので、脇役でも楽しませてくれるのだ。
プロコフィエフの音楽は、壮麗でロマンティックで、グロテスクだが、マクミランもまたそのようなバレエを作った。
性的暴行やナチスの迫害をテーマにした初期作品よりは、「ロミジュリ」ははるかに大衆向けだが、それでもところどころに強烈な「陰」の気が満ちる。
ロイヤルだと、その「陰」がたびたび過剰になる。それもまた魅力なのだが、ABTはよりロマンティックを多く残す。
そこが気に入っている理由かも知れない。
やはり今夜も、ステージは「聖堂」になった。最期の墓場のシーンは、言葉を失った。
すみれの花のように可憐なジュリー・ケントのジュリエットは、ABTの宝物である。
ところで、明後日(7/28)にはボリショイ・バレエのプリンシパル、ナターリヤ・オーシポワが一晩だけ登場し、ジュリエットを踊るのだが
相手役は金髪・長身り美男子、デイヴィッド・ホールバーグだ。このふたり、とても意外な組み合わせに感じられるが
ホールバーグいわく「一言も言葉が通じないダンサーなのに、電流が走るほどの愛情を感じる」相性なのだそうだ。
確かに、彼らは北と南、S極とN極、氷と炎を思わせる組み合わせ。この二人の公演も観たくてたまらないのでチケットを手に入れてしまった。
新しいABT伝説が観られるかも知れない。まだじゅうぶんに慰安されているとは思えない、孤独なマクミランの魂に成功を願った。
今から楽しみです。
昨年ロイヤル・バレエの同じ版を観たときは、さすが「本家」の格式と気品、と感心したものだが
ABTもある意味マクミランの「本家」であることに変わりない(短期間だが1980年からバリシニコフとともに共同芸術監督のポストに就いていた)。
この偏愛は、最初に生で観たロミジュリの公演が、ABTだったことも大きい。アレッサンドラ・フェリのジュリエットとフリオ・ボッカのロミオ。
それまでもバレエというアートは大好きだったけれど、彼らをみて天と地がひっくり返った。
なんというダンサーたち。なんという演技。そしてあの音楽。群舞。「シェイクスピアの恋物語を舞踊化したもの」なんて代物ではなかった。
それはバレエとは別の何かのようでもあり、宇宙に一瞬放たれた閃光のようなバイブレーションだった。
蜂蜜のように粘り気のある甘美で胸苦しい音楽に囲まれ、ひとつの恋が生まれて、死ぬ…その舞台は、「聖堂」の趣があった。
人間が行う演劇的な行為には、ストレート・プレイがあり、オペラがあり、文楽や能や歌舞伎、映画やテレビドラマなど数多のジャンルがある。
その頂点にあるのが、バレエだと思った。シェイクスピア=プロコフィエフ=マクミラン=フェリ&ボッカ。
今でもこの公演は、私のあらゆる演劇体験の中で頂点に位置している。
ダンサーが本当の意味で「スター」だと感じたのもこのときだった。
アメリカン・バレエ・シアターは、演劇的な感動を与えてくれるカンパニーだ。
ソリストも、エモーショナルな演技がうまい。テクニックもすごいが、テクニックだけでない。ソウルフルな「熱さ」をもっている。
今日の公演では、マルセロ・ゴメスとジュリー・ケントのカップルを観た。
ジュリー・ケントは40代のベテランだが、完全に14歳の少女だった。全細胞がそのようにチューニングされていて
純粋でナイーブな魂が、恋の試練にさらされていく過程は、胸がつぶれるようだった。
ゴメスは、名家の御曹司ロミオの「育ちの良さ」と、16歳の少年らしい若々しさを全身であらわす。
ロミオ、何しろ三幕通して踊りの量が半端ではない。活力とエレガンスのバランスが素晴らしかった。
ロミオとマキューシオ、ヴェンヴォーリオの三人が仮面をつけ、ユーモラスに踊るシーンは最も好きなもののひとつ。
そのマキューシオが思いのほかよかった。陽気でキャラクターがあって、人懐こい。ABTならではのダンサーだ。マイアミ出身のクレイグ・サルステイン。
ヴェンヴォーリオは、贅沢なことに三日前にドンキのバジルを踊ったダニール・シムキンだ。彼はまだプリンシパルではないので、脇役でも楽しませてくれるのだ。
プロコフィエフの音楽は、壮麗でロマンティックで、グロテスクだが、マクミランもまたそのようなバレエを作った。
性的暴行やナチスの迫害をテーマにした初期作品よりは、「ロミジュリ」ははるかに大衆向けだが、それでもところどころに強烈な「陰」の気が満ちる。
ロイヤルだと、その「陰」がたびたび過剰になる。それもまた魅力なのだが、ABTはよりロマンティックを多く残す。
そこが気に入っている理由かも知れない。
やはり今夜も、ステージは「聖堂」になった。最期の墓場のシーンは、言葉を失った。
すみれの花のように可憐なジュリー・ケントのジュリエットは、ABTの宝物である。
ところで、明後日(7/28)にはボリショイ・バレエのプリンシパル、ナターリヤ・オーシポワが一晩だけ登場し、ジュリエットを踊るのだが
相手役は金髪・長身り美男子、デイヴィッド・ホールバーグだ。このふたり、とても意外な組み合わせに感じられるが
ホールバーグいわく「一言も言葉が通じないダンサーなのに、電流が走るほどの愛情を感じる」相性なのだそうだ。
確かに、彼らは北と南、S極とN極、氷と炎を思わせる組み合わせ。この二人の公演も観たくてたまらないのでチケットを手に入れてしまった。
新しいABT伝説が観られるかも知れない。まだじゅうぶんに慰安されているとは思えない、孤独なマクミランの魂に成功を願った。
今から楽しみです。
素敵ですね。読んでいて心が震えました。
そして去年の夏、ゆうぽうとにシムキンを観に行った時の感想が縁で久恵さんにTwitterフォローしていただいた事を懐かしく思い出しました。
シムキンが脇役なんて、なんて豪華な舞台なんでしょう。
バレエは、過酷なまでの肉体の鍛錬と精神のコントロールが必要な厳しい世界。
その中でも選び抜かれた人達が見せてくれる舞台は観る人を別世界へと導いてくれますね。
彼らと同じ時代に生きていて良かったとさえ思えます。
私はなぜかマルセロ・ゴメスと縁がなくて、なかなか彼を観る事が出来ないのです。
いつか彼のロミオを観られる事を願って・・・
いつも素敵な記事をありがとうございます。
そのあとホールバーグのロミオも観たのですが、またまた違うキャラで興味深かったです。
明日はBSプレミアムでシムキンのドンキが放映されますね…楽しみでなりません。
ギエムのようにバレエを越えて社会現象になってほしいダンサーです^^
twitterの件、ぜひお名前教えていただけますか?(失礼ですみません)アカウントのお名前をいただければ、すぐに思い出すはず・・・。
また遊びにきてくださいね!
なぜか見過ごしておりました。
いつもリツイートありがとうございます…いいことあるよ!笑