齢を取るにしたがって、リストの音楽が好きになってきた。リストに対する、無知ゆえの誤解が解けてきたというか。
リストの対岸にはつねにショパンがいて、メロディメーカーとして、詩人として、オカルティストとしてあまりに完璧であったため
生前のショパンが評したように、リストは軽佻浮薄なヴィルトゥオーゾという印象が強かった。
しかし、人間生きれば生きただけ豊かに複雑に芳醇になっていくのは当然のことで、75歳まで生きたリストの音楽は
聴けば聴くほど深くて濃い。思索的で、情熱的で、官能的で、とても「人生」に近いのだ。
2011年のリスト国際音楽コンクールの覇者、後藤正孝さんの凱旋リサイタルを、後藤さんの母校である昭和音大のホール=テアトロ・ドーリオ・ショウワで聴いた。
前日、コンクールのアーカイヴとyoutube映像で彼の演奏をチェックしていたのだが、驚くことがたくさんあった。
他のコンテスタントと全く違うリストを奏でている。手の届かない伝説のリストを追いかけるのではなく
既にピアニストの中に、リストがいた。人間のリストの感情的な豊かさ、信仰への渇望、人生への希望と失望が
後藤さんの演奏にはあった。それは一次審査から明白で、特にバラード二番は、胸掻き毟られる迫真のリストだった。
リストは技術がなければもちろん弾けない。その土俵の上に立って、すごい直観でリストをつかんでみせた。
審査員満場一致での一位だったそうだが、これは演奏家である審査員としても降参したくなる演奏だったのではないか。
昭和音大のホールのリサイタルでは、セミファイナルで選んだ「巡礼の年 第二年 イタリア」を前半で披露。凄かった。
この曲、実は後藤さんの演奏を聴くまで、退屈なイメージしかなかったのです。
しかし、本当に名曲だと思った。
ひとつひとつの旋律が生き物のようにうねってクレシェンドしていく様子は圧巻で、まるで竜の落とし子が巨大な龍に変身していくよう。
変幻自在に変わる音色は絵巻物のようにカラフル。ペトラルカのソネットはルネサンス絵画の青空のような色彩だ。
この人、決して優等生的なピアニストじゃない。とてもスリリングで予測不可能なところがあり、
聴いていると天使か悪魔に魅せられたような気分になってくるのだ。劇薬のようなところがある。
そのような「危険さ」とともに、リストのどうしようもなく人間的な性格も伝わってくる。
正規の義務教育を受けず子供の頃からピアノ漬けの生活をしていたため、後年教養コンプレックスに苛まれ
猛烈な読書家となって、宗教への興味を募らせたこと(やたら小難しいタイトルの表題音楽が多い)。
身分の高い女性と叶わぬ恋を経ながらも、リストマニアと呼ばれる貴族のグルーピーにまみれて
快楽主義者の人気ピアニストとして青年時代を生きたこと。最後は全財産を寄付して無一文で死んでいったこと。
極端から極端へと飛躍するリストの人生は、彼の気質でありハートであり音楽だったはずだ。
ところどころでひらめいたように狂気の片鱗を見せる後藤さんの演奏が、20分あまりの大曲でも矛盾なくまとまるのは、
「リストその人全体」を把握しているからであり、そこにはリストの崇高さだけでなく、どうしようもない矛盾や欠点も含まれている。
リストが本当に大好きになった。ショパンは贅沢品だが、リストは人生そのものなのだ(振付家のバランシンはショパンとシューマンの比較にこの譬えを使った)。
コンクールの賞金2万ユーロと聴衆賞5000ユーロ、そしてこの昭和音大でのリサイタルの収益金はすべて
東日本大震災への寄付として送られるという。
こういう人だから、優勝したのだろう。本当に、彼の中にはリストが入っている。
華麗で放埓なヴィルトゥオーゾは誰よりも熱心な篤志家であったからだ。
ロマン派という時代に生きたリストだが、このような演奏家の解釈を聴くと、リアリズムとしてのロマンティシズム、
といった奇妙な言葉が浮かんでくる。エモーショナルでクレイジーなのに審美的なのだ。
ちなみに後藤正孝さん、留学経験は一度もないという。
楽譜と素晴らしい心があれば、どこまでも音楽は旅できるのだ。
※この日の演奏は9月にクラシカ・ジャパンで放送されます。
リストの対岸にはつねにショパンがいて、メロディメーカーとして、詩人として、オカルティストとしてあまりに完璧であったため
生前のショパンが評したように、リストは軽佻浮薄なヴィルトゥオーゾという印象が強かった。
しかし、人間生きれば生きただけ豊かに複雑に芳醇になっていくのは当然のことで、75歳まで生きたリストの音楽は
聴けば聴くほど深くて濃い。思索的で、情熱的で、官能的で、とても「人生」に近いのだ。
2011年のリスト国際音楽コンクールの覇者、後藤正孝さんの凱旋リサイタルを、後藤さんの母校である昭和音大のホール=テアトロ・ドーリオ・ショウワで聴いた。
前日、コンクールのアーカイヴとyoutube映像で彼の演奏をチェックしていたのだが、驚くことがたくさんあった。
他のコンテスタントと全く違うリストを奏でている。手の届かない伝説のリストを追いかけるのではなく
既にピアニストの中に、リストがいた。人間のリストの感情的な豊かさ、信仰への渇望、人生への希望と失望が
後藤さんの演奏にはあった。それは一次審査から明白で、特にバラード二番は、胸掻き毟られる迫真のリストだった。
リストは技術がなければもちろん弾けない。その土俵の上に立って、すごい直観でリストをつかんでみせた。
審査員満場一致での一位だったそうだが、これは演奏家である審査員としても降参したくなる演奏だったのではないか。
昭和音大のホールのリサイタルでは、セミファイナルで選んだ「巡礼の年 第二年 イタリア」を前半で披露。凄かった。
この曲、実は後藤さんの演奏を聴くまで、退屈なイメージしかなかったのです。
しかし、本当に名曲だと思った。
ひとつひとつの旋律が生き物のようにうねってクレシェンドしていく様子は圧巻で、まるで竜の落とし子が巨大な龍に変身していくよう。
変幻自在に変わる音色は絵巻物のようにカラフル。ペトラルカのソネットはルネサンス絵画の青空のような色彩だ。
この人、決して優等生的なピアニストじゃない。とてもスリリングで予測不可能なところがあり、
聴いていると天使か悪魔に魅せられたような気分になってくるのだ。劇薬のようなところがある。
そのような「危険さ」とともに、リストのどうしようもなく人間的な性格も伝わってくる。
正規の義務教育を受けず子供の頃からピアノ漬けの生活をしていたため、後年教養コンプレックスに苛まれ
猛烈な読書家となって、宗教への興味を募らせたこと(やたら小難しいタイトルの表題音楽が多い)。
身分の高い女性と叶わぬ恋を経ながらも、リストマニアと呼ばれる貴族のグルーピーにまみれて
快楽主義者の人気ピアニストとして青年時代を生きたこと。最後は全財産を寄付して無一文で死んでいったこと。
極端から極端へと飛躍するリストの人生は、彼の気質でありハートであり音楽だったはずだ。
ところどころでひらめいたように狂気の片鱗を見せる後藤さんの演奏が、20分あまりの大曲でも矛盾なくまとまるのは、
「リストその人全体」を把握しているからであり、そこにはリストの崇高さだけでなく、どうしようもない矛盾や欠点も含まれている。
リストが本当に大好きになった。ショパンは贅沢品だが、リストは人生そのものなのだ(振付家のバランシンはショパンとシューマンの比較にこの譬えを使った)。
コンクールの賞金2万ユーロと聴衆賞5000ユーロ、そしてこの昭和音大でのリサイタルの収益金はすべて
東日本大震災への寄付として送られるという。
こういう人だから、優勝したのだろう。本当に、彼の中にはリストが入っている。
華麗で放埓なヴィルトゥオーゾは誰よりも熱心な篤志家であったからだ。
ロマン派という時代に生きたリストだが、このような演奏家の解釈を聴くと、リアリズムとしてのロマンティシズム、
といった奇妙な言葉が浮かんでくる。エモーショナルでクレイジーなのに審美的なのだ。
ちなみに後藤正孝さん、留学経験は一度もないという。
楽譜と素晴らしい心があれば、どこまでも音楽は旅できるのだ。
※この日の演奏は9月にクラシカ・ジャパンで放送されます。