現在公演中(7/10まで)の二期会の『トゥーランドット』の初日を観た。
ダブルキャストのうちの一組(トゥーランドット役の丹藤さん カラフ役の松村さん)を三月に取材させていただいたこともあって、
今回のこのプロダクションは前々からずっと楽しみだった。初日7/6のキャストは、トゥーランドットが横山恵子さん・カラフが福井敬さん。
粟国淳さんの演出は、時間の外にある国の不可思議な物語を、ファンタジックな装置と衣装で視覚化していて、
戦争マシーンか巨大な拷問危惧を思わせる大道具(幕が開いた瞬間ビックリ)が、プッチーニの音楽ととてもよく調和していた。
それにしても、トゥーランドットはあっという間に終わってしまう。ドキドキ・ハラハラの物語と巧みな音楽のおかげで、全く長さを感じない。
何より、今回はオーケストラが極上の響きであった。ジャンルイジ・ジェルメッティは小柄でお腹ぽっこりの大御所マエストロだが、
イタリア人のプライド、といわんばかりに粋で冴えまくった指揮をする。全幕すごかったが、特に3幕は肝をつぶしかけた。薫り高い高級イタリアワインのような味わいだ。
バンダや子供たちの隠れコーラス(?)もたくさん使われ、巧みな立体感を出していた。
オケは読響だが、つくづく私はこのオケが好きだ。柔軟で知的で、チャーミングで機転がきく。
天の川のようなキラキラのオケを背景に、太陽系の惑星のようなソロが光る。
福井さんのカラフは、誠実で生真面目でブレがなく、ゆったりとした輪郭でホールを満たしていた。
一幕の衣裳は、どう見ても孫悟空(!)なのだが、それが不思議と福井さんにとてもよく似合っている。
安定感があり、役への真剣な取り組みを感じた。好きなカラフだ。
トゥーランドットはドラマティック・ソプラノの中でも過酷な役で、去年ペテルブルクで取材したグレギーナも
「毎回スポーツ選手のような調整が必要」と言っていたが、横山恵子さんの姫はとても冴えていた。
処女トゥーランドットの、異次元の霊と交信している「異形」さが、クリスタルのような透明なソプラノでよく表現されていたと思う。
表情もトゥーランドットらしく、とても怖くて、ラストとカーテンコールの笑顔で急に優しげな美人のお顔になったので驚いた。女性にとって、本当に表情は大きい。
何度見てもトゥーランドットはいいなぁ…と感動した。
言うまでもなく、プッチーニの遺作で「リューの死」の場面で絶筆となった作品だが、このオペラにはプッチーニが大好きなものが全部詰まっている。
まずは、誠実で勇敢な若者。愛や誇りを勝ち取るためには死をも厭わないカラフは、プッチーニが愛し、描き続けたテノールの典型だ。
そして、可憐で一途で、これまた犠牲精神の塊のような若い女性。カラフを庇って命を失うリューは、蝶々さんヤミミに通じるキャラクター。
リュウへの愛情は、あの有名な「氷のような姫君の心も」につながるシークエンス(愛とは?/口には出さず、秘められたこのような恋は・・・)で大爆発をする。あの場面では必ず号泣する。
そして、プッチーニの悪妻エルヴィーラがモデルとも言われているトゥーランドットもまた、作曲家が宿命的に愛したもののひとつだ。彼女の激しさは、トスカやマノン、西武の娘のミニーと姉妹のように似ている。
この三つの性格は、プッチーニの中に存在し、彼が肯定したいと思っていた人間的自然なのだ。
芸術家は、自分が愛するものを表現する権利がある。何を愛していたかがはっきりわかる表現は魅力的だ。
ベンジャミン・ブリテンは生涯愛するテノールのために、彼が歌うオペラを書いたし、
ベジャールは男性の精神と肉体美を愛し、振付をし、それは伝説となった。
芸術表現の源泉は、やはり愛なのだと思う。それも熾烈で、豊かで、溢れ出てくるような潤沢な愛。
プッチーニのヒロインは、舞台の上で皆幸せそうだ。作曲家からたくさんの愛情をもらっているから(最終的にほとんどのヒロインは死んでしまうのだが)。
これがヴェルディになると、必ずしもそうではない。ヴェルディの魅力はまた違うところにあるのだ。
さて、この自分が誰かに「あなたは何を愛するの?」と問われたら、プッチーニのようにはっきりと答えることができるだろうか?
愛するものをしっかりと愛し抜き、表現に高めているだろうか? まだまだ中途半端だ。
愛情という緊張のグルオンによってつなぎ合わされた、サファイアのような結晶をもつ「トゥーランドット」を前に、
プッチーニのように濃く生きなければダメだなぁ…と改めて思うのだった。
ダブルキャストのうちの一組(トゥーランドット役の丹藤さん カラフ役の松村さん)を三月に取材させていただいたこともあって、
今回のこのプロダクションは前々からずっと楽しみだった。初日7/6のキャストは、トゥーランドットが横山恵子さん・カラフが福井敬さん。
粟国淳さんの演出は、時間の外にある国の不可思議な物語を、ファンタジックな装置と衣装で視覚化していて、
戦争マシーンか巨大な拷問危惧を思わせる大道具(幕が開いた瞬間ビックリ)が、プッチーニの音楽ととてもよく調和していた。
それにしても、トゥーランドットはあっという間に終わってしまう。ドキドキ・ハラハラの物語と巧みな音楽のおかげで、全く長さを感じない。
何より、今回はオーケストラが極上の響きであった。ジャンルイジ・ジェルメッティは小柄でお腹ぽっこりの大御所マエストロだが、
イタリア人のプライド、といわんばかりに粋で冴えまくった指揮をする。全幕すごかったが、特に3幕は肝をつぶしかけた。薫り高い高級イタリアワインのような味わいだ。
バンダや子供たちの隠れコーラス(?)もたくさん使われ、巧みな立体感を出していた。
オケは読響だが、つくづく私はこのオケが好きだ。柔軟で知的で、チャーミングで機転がきく。
天の川のようなキラキラのオケを背景に、太陽系の惑星のようなソロが光る。
福井さんのカラフは、誠実で生真面目でブレがなく、ゆったりとした輪郭でホールを満たしていた。
一幕の衣裳は、どう見ても孫悟空(!)なのだが、それが不思議と福井さんにとてもよく似合っている。
安定感があり、役への真剣な取り組みを感じた。好きなカラフだ。
トゥーランドットはドラマティック・ソプラノの中でも過酷な役で、去年ペテルブルクで取材したグレギーナも
「毎回スポーツ選手のような調整が必要」と言っていたが、横山恵子さんの姫はとても冴えていた。
処女トゥーランドットの、異次元の霊と交信している「異形」さが、クリスタルのような透明なソプラノでよく表現されていたと思う。
表情もトゥーランドットらしく、とても怖くて、ラストとカーテンコールの笑顔で急に優しげな美人のお顔になったので驚いた。女性にとって、本当に表情は大きい。
何度見てもトゥーランドットはいいなぁ…と感動した。
言うまでもなく、プッチーニの遺作で「リューの死」の場面で絶筆となった作品だが、このオペラにはプッチーニが大好きなものが全部詰まっている。
まずは、誠実で勇敢な若者。愛や誇りを勝ち取るためには死をも厭わないカラフは、プッチーニが愛し、描き続けたテノールの典型だ。
そして、可憐で一途で、これまた犠牲精神の塊のような若い女性。カラフを庇って命を失うリューは、蝶々さんヤミミに通じるキャラクター。
リュウへの愛情は、あの有名な「氷のような姫君の心も」につながるシークエンス(愛とは?/口には出さず、秘められたこのような恋は・・・)で大爆発をする。あの場面では必ず号泣する。
そして、プッチーニの悪妻エルヴィーラがモデルとも言われているトゥーランドットもまた、作曲家が宿命的に愛したもののひとつだ。彼女の激しさは、トスカやマノン、西武の娘のミニーと姉妹のように似ている。
この三つの性格は、プッチーニの中に存在し、彼が肯定したいと思っていた人間的自然なのだ。
芸術家は、自分が愛するものを表現する権利がある。何を愛していたかがはっきりわかる表現は魅力的だ。
ベンジャミン・ブリテンは生涯愛するテノールのために、彼が歌うオペラを書いたし、
ベジャールは男性の精神と肉体美を愛し、振付をし、それは伝説となった。
芸術表現の源泉は、やはり愛なのだと思う。それも熾烈で、豊かで、溢れ出てくるような潤沢な愛。
プッチーニのヒロインは、舞台の上で皆幸せそうだ。作曲家からたくさんの愛情をもらっているから(最終的にほとんどのヒロインは死んでしまうのだが)。
これがヴェルディになると、必ずしもそうではない。ヴェルディの魅力はまた違うところにあるのだ。
さて、この自分が誰かに「あなたは何を愛するの?」と問われたら、プッチーニのようにはっきりと答えることができるだろうか?
愛するものをしっかりと愛し抜き、表現に高めているだろうか? まだまだ中途半端だ。
愛情という緊張のグルオンによってつなぎ合わされた、サファイアのような結晶をもつ「トゥーランドット」を前に、
プッチーニのように濃く生きなければダメだなぁ…と改めて思うのだった。