新国立劇場『ラ・ボエーム』

2016-11-18 09:58:54 | 日記
初台はクリスマスのイメージが強い。オペラシティの広場の巨大な名物ツリーだけではなく
新国でもエントランスとホワイエに大きなツリーが早くも登場した。
まだ11月半ばだが、クリスマスが舞台の『ラ・ボエーム』の初日に合わせたのだろうか?
ホワイエであんな大きなツリーを飾るのは初めてのような気がする。
訪れたお客さんが、記念の写真を撮っていた。ガラスの壁から見える夜の景色とツリーは相性がいい。

初日の『ラ・ボエーム』(再演)は、ほとんど知らない歌手ばかりで、ミミ、ロドルフォ、マルチェッロの外国人歌手たちは全員新国初登場。
ミミのアウレリア・フローリアンは来日するのも初めてだという。
このルーマニアから来たソプラノが本当に良かった。
声質があまりソプラノっぽくなく、ヴァイオリンというよりヴィオラかチェロを思わせる深みがあり
ミミ登場のシーンから、内側に秘めた情熱を思わせる気品ある美声を聴かせた。
姿もとても美しい。清楚で哀しげで、本物のミミがいるようだった。
それにしても「私の名はミミ…」はなんという歌なのか。
若い女性が「いつもひとりぼっちで、いつも部屋の中で食事をとっています。ミサにはあまりいきません」
と自分の日常を歌うのだが、そこには微塵の虚栄も、相手に好かれるための媚もないのだ。

ミミという役は、色々なふうに曲解されてきた。
演出で駆け引き上手の娼婦みたいに描かれることもあるし、ミミを歌うソプラノが「嫌い」ということさえある。
フローリアンのミミは、非の打ちどころがなかった。
ミミが蝋燭の灯をもらいにロドルフォたちの部屋を訪れたのは、「生きるため」ですらなく
ミミとはほんの少しだけ開いていた窓から、ふっと飛び込んできた小さな蝶のような存在で
それはまさに「詩」であり、詩の心をもつ者だけが見るインスピレーションであった。

ロドルフォのジャンルーカ・テッラノーヴァは立派な声で、「冷たい手を…」では
勇敢でブレない歌唱を聴かせ、輝かしいCでは大きな拍手が起こった。
登場した瞬間、小柄で地味な歌手だなと思ったが、どんどん観客を魅了していく。
歌手の誠実な生き方が伝わってくる演技で、直球勝負の発声が潔い。
これを聴いているときのミミの表情を見るのも好きなのだが
フローリアンは、何か遠い目でロドルフォを見つめていて
「私を好きになってくれて嬉しいわ…でも、もうこの世には長くいないのです」という表情だ。

プッチーニの天才というものを考えずにはいられなかった。
オーケストラの質感がユニークで、エモーショナルで描写的で夢想的で
この美の本質には卓越した知性と、その時代のオペラを超えていこうとする冒険精神があった。
「当時は新奇でも、時代がたてば古びてしまう」という新しさではなく、永遠の若々しさが
オーケストレーションには書き込まれていて、人々の耳には親しく響くが、
驚くような実験や、厳しいチームプレイを求めるアンサンブルが仔細に指定されている。
東京フィルの演奏が、神懸っていた。
2010年に聴いたトリノのテアトロ・レージョ(ノセダ指揮)の引っ越し公演に匹敵する…というか
私の中では、ボエームを初演したトリノのオケよりも、この夜の東フィルのほうが強烈だった。
マエストロのパオロ・アリヴァベーニとの相性もよかったのだろうか。
指揮者も新国初登場だが、プッチーニの語彙を知り尽くしたオーケストラが日本に存在していることに驚いたのではないかと思う。

粟國淳さんの作り出すパリの瀟洒、二幕のカフェ・モミュスの喧騒は見事だった。
新国立劇場合唱団と、TOKYO FM少年合唱団が舞台いっぱいの華やかさを見せ
ムゼッタの石橋栄実もコケティッシュな美声を聴かせた。
本当にボエームは、クリスマスのオペラなのだ。
二幕は演出家にとっての腕の見せ所だが、セットも群衆も再演ながら新鮮だった。
休憩時間にお話したライターさんは「色彩が地味すぎるのではないか」と仰っていたが
私はあのセピア色の配色が好きなのだ。

ところで、賑やかな二幕も一幕の余韻で涙が止まらず、結局三幕、四幕でも泣き通しで
休憩時間は水分補給が大変だった…というとまるで笑い話だが
果たしてメロドラマでこんなに泣けるものだろうかと自問自答せずにはいられなかった。
プッチーニが女性の中にみた理想が、あの儚いミミで(プッチーニにはもうひとつ、お転婆な女性への愛着もあるのだが)
他では「修道女アンジェリカ」や「トゥーランドット」のリューに通じる不幸で報われない「祈る女」として描かれる。
それは生身の女性であることを超えて、想像界の中のひとつの存在、生命の象徴のことでもあった。

フローリアンの役作りは卓越しており、4幕の屋根裏部屋のシーンでは
ロドルフォがもう、演技なのか真実なのかわからないほどにミミを憐れんで
泣きそうになっている様子が見えて、もらい泣きしてしまった。
ミミというインスピレーションは、女の短い一生であり、彼女は最後に
「あなたに伝えなくてはならないことがある。海よりも深く果てしないことよ」
と歌ったのちに「本当に愛したのはあなただけです」と告白する。
いつもなんとなく聴き流していたが、すごい歌詞だ。
ちっぽけな命を要約するただひとつの言葉であり、そこに脳髄を討たれるような衝撃を感じた。

オペラや芝居は、一歩下がってみると奇妙な世界で、死んだ人間がカーテンコールで生き返り
結末もわかっているのに、そんな話を何度も見に行くのである。
宇宙人から見たら、地球人のこの思考と振舞いは奇々怪々この上なきものだろう。
しかし人間は、愛について何か知りたいと思って生まれてくるのであり、
現実の愛に失望したり、悲しみを感じつつも、愛というものに何か真実があるという
予感から逃れられないのである。
それゆえに、ボエームは不滅のオペラであり、ブッチーニは忘れ去られることがないのだ。

それにしても東フィルのこの演奏、何かを贈呈したいほどの出来栄えなのだが
オペラ上演に対するオケへの表彰というものはないのだろうか。
何か尋常なるざる「想い」のようなものがピットから溢れていたように思えてならなかったのである。
オケの音を思い出すと、再び涙腺が緩んでしまうのだ。


















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