東京交響楽団/ジョナサン・ノット『コジ・ファン・トゥッテ』(12/9)

2016-12-11 13:15:32 | 日記
ミューザ川崎で上演された東響&ノットの演奏会形式『コジ・ファン・トゥッテ』を観た。
大きな話題は、四半世紀ぶりに日本の地を踏むバリトン歌手、サー・トーマス・アレンがミューザに登板すること。
アレンは舞台監修も担当し、歌手たちには来日してからすべての演技をつけたそうだが
これが本当に自然な演劇で、セミオペラというよりオペラそのものであった。
「演奏会形式と言っておきながら、かなり本物のオペラ…!」という嬉しい驚きは、先日のサントリーホールでの
「ラインの黄金」に続くサプライズだが、ミューザでの歌手たちは登場の瞬間から芝居気たっぷりで(もちろんすべて暗譜)
モーツァルトのこの「恋人交換ごっこ」のドラマ・ジョコーソを、飛び出してくるような演技力で熱烈に演じたのである。

熱気が強いのは、グリエルモ役のバリトン、マルクス・ウェルバが相変わらずの色男キャラで(少しおなかは出てきたが)
時折ヴェリズモばりのダイナミックな声になりながら、好奇心に燃える若者の役を「熱」演したせいだろう。
体調不良のため来日できなかったショーン・マゼイの代わりにフェルランドを演じたアレック・シュレイダーは
スピントというより、ややロブストが入った雄々しいテノールで、若者二人はとにかく声楽的にも熱血系だった。
フィオルディリージは降板したミア・パーションの代わりにリトアニア出身のソプラノ、ヴィクトリヤ・カミンスカイデが歌った。よくこんな人が見つかったなあ、と驚いてしまうほど立派なソプラノで、男の誘惑に抵抗して生真面目になるアリアも完璧な音程で歌い上げた。声量も申し分なく、輝かしい表現だった。
ドラぺッラのメゾ・ソプラノ、マイテ・ボーモンも深みがかった妖艶な声質で、姉妹ふたりの二重唱は双子の歌のようにも感じられる。
やんちゃでたくましい男たちに対して、姉妹は成熟した女たちで、女ならではの憂いにも苛まれながら「本当の女の幸せとは?」と真剣に探しているといった感じだった。

そこへ、ショートカットで昔懐かしいパンタロン(!)姿の可愛いデスピーナが登場。
出てきただけで、客席から歓声が湧いたのが面白かった。「あなたがデスピーナでよかった!」という感謝の溜息で
ルーマニア出身のヴァレンティナ・ファルカスは、ティンカーベルのような妖精のオーラを振りまきながら
目をクリクリさせながら、どこからどこまでもおかしいデスピーナの歌を歌った。
「女も15になれば色々世間や男のことを知っているもの・・・」というのは無邪気な耳年増の歌で、
これが間違ったキャスティングや演出だと台無しになってしまう。
ドン・アルフォンソとデスピーナの関係も、いわば「冗談関係」とでも呼びたい愉快なものだが
これが援助交際に見えたり、上流階級を憎むデスピーナのテロリズムに見えたりする「やりすぎ」の演出もあり
とにかく、デスピーナは妖艶でありすぎたり、世間知に長けていすぎてはいけないのだった。

ドン・アルフォンソは、若者二人に「女の正体」を見せつけるべく、彼らを「うその兵役」へ送り込み
変装した彼らを口説かせ、姉妹の陥落を目論む。このオペラ全体を知り尽くすサー・トーマス・アレンは流石の演技で
歌唱もダイナミックで少しも不安定なところがない。いつも舞台のどこかにいたような気がする。
若い男女の歌手たちが、本気で泣いたり嘆いたりする演技は客席からも見ていて身に染みたが、
「愛の悲しみとは、傍からみればはなはだ滑稽なのだ」という「客観」としてアルフォンソは存在していた。
女の本性とは何か、必死になって自分たちの物差しで測ろうとする若者たちを観察しつつ、アルフォンソは
人間全体の滑稽性を測る巻尺を手にしているのであり、これは彼自身が「もう愛によって滑稽になることなどない」
老いた存在であるからだろう。少なくとも、前後不覚になるような情熱はもうない。
『コジ・ファン・トゥッテ』とは情熱のオペラなのだ…。
女の愛の情熱の正体もこのオペラでは描かれていた。
女の欲望とは男の欲望で、ビリヤードの玉のように棒に突かれてはじけていく受動的なもので
もちろん女にも愛の主体性はあるが(それゆえにフィオルディリージは悲痛なアリアを歌うが)
結局のところ、男の馬鹿力にはかなわない。突き飛ばされて転がっていくビリヤードの玉でいたほうが楽なのだ。
果たして、男たちのやっている「実験」はますます奇々怪々なものになっていく。

東響とノットのアンサンブルは、あの胸騒ぎな序曲からエレガントな快活さをまとい、
モーツァルトがオペラに書きこんだエスプリと哲学を生き生きと展開させていった。
思えば、ノットが「任期を10年延長することに決めた」理由となったのも、このミューザで行われていた
モーツァルト・マチネがきっかけであった。モーツァルトはオケとノットを結び付けた仲人のような作曲家なのであり
この日の「コジ」が格別に嬉しい感じなのは当然だった。
モーツァルト・マチネは残念ながら一度も聴いたことがなかったが、毎回素晴らしいことが起こっていたのだろう。
お気に入りの歌手たちが活躍しているのが嬉しいのか、ノットは頻繁に後ろを向き、すごい笑顔を歌手側に向けていた。
レチタティーボ部分の伴奏はノットがハンマーフリューゲルで演奏し、これも見ていて惚れ惚れするようで
ノットもオペラの中に登場する粋な楽士に見えてしまった(毎回、フォーマルなモーニングを着て指揮台に上がるノットにぴったり)。

ところで『コジ』では、物語が袋小路に追い込まれ、登場人物が崩壊寸前になってしまうシーンが少なくとも二回あるが
最後の「うその結婚式」のくだりは、クレイジーながらもモーツァルトがしっかりと音楽の音楽たるものから逸脱せず
観る者にもひと時たりとも「道徳性とは」ということを忘れさせないのに気付いた。
アンモラル的といわれることの多いコジだが、十分にモラリスティックなのだ。
本当の意味で、人間の感覚から逸脱したサイケデリックな狂気を描いた作曲家は、おそらくロッシーニだ。
ロッシーニのオペラで物語が狂いだすとき、人間だけでなく、草木も虫も鳥も、ありとあらゆる天体も発狂する。
モーツァルトはそこまで世界が崩れることを望まなかった。そのことが、「コジ」を上品にも、常識的にもしている。
カーテンコールのとき、マルクス・ウェルバが恋人役のヴィクトリヤ・カミンスカイデとなかなか手をつながず
「お前なんか嫌いだ!」という仕草をしていたのがおかしかった。グルエルモは浮気をしたフィオルディリージが
本当に許せなかったのだろう。

ノーカット三時間半以上に及ぶ上演は大変なボリュームで、後半ではカットされることの多いアリアや重唱もたくさん聴くことができた。
ノットさんは元気いっぱいで、このあとすぐにもう一度フルオペラを指揮してしまいそうな勢いだった。
11日にも池袋の東京芸術劇場で公演が行われる。















































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