第2次世界大戦終戦直後の混乱期、日本は衣食住すべてに不自由していた。こうした中、全米の各宗教団体を中心とする海外事業運営篤志団アメリカ協議会は、特に日本をはじめアジア諸国の救済事業を行うために『アジア救援公認団体』を設置し、ミルク類、穀物、缶詰類、油類等の食料をはじめ、衣類、医薬品、靴、石鹸、裁縫材料などの消費物質のほか、乳牛や山羊などを送り、多くの日本人を救った。
この物資の送り出しにあたっては、当時の在米邦人組織の方々の多大なご尽力もあったと伝えられる。
この救援物資は、『アジア救援公認団体』の英語名”Licensed Agencies for Relief of Asia”の頭文字から「ララ」物資と呼ばれ、昭和21年11月30日に「ララ」物資を積んだ第1船ハワード・スタンズペリー号が、ここ横浜新港埠頭に接岸し、以後昭和27年6月までの6年間送られ続けた。
記念碑の香淳皇后御歌は、昭和24年10月19日に昭和天皇と香淳皇后が横浜の「ララ」倉庫に行幸啓になられた時に詠まれたものである。
「ララ」物資を送って頂いた方々への深い感謝と、当時ご尽力された方々のご功績を後世に永く残すため、多くの方々からの募金によりこの記念碑を建立する。